第五話「憂う」
――あれから。
気が付けば見知らぬ地に立ち、それどころか直前までの記憶もなく、途方に暮れているところで
そんな彼女への慰労も兼ね、ロックが諭すように口にした言葉を端的にまとめるのならば、それは「お湯に浸かって疲れを癒しなさい」というものだった。
「着替えはこっちで用意するから。遠慮せず、ゆっくりお風呂で疲れを癒してね」
「は、はいっ」
「じゃあ、またあとでね」ひらひらと手を振り、ロックは脱衣所の扉を閉めた。ふう、と一つ息を整えれば足先を自室へと向け、ぺたぺたと音を鳴らしながら廊下を進む。
「着替えって、やっぱり女性物の方がいいよね? 病衣は流石に嫌だろうし……ゼクス、貸してくれるかな……」
うーんと頭を悩ませつつ歩みを進めていると、やがて自室の前へと辿り着く。何気ない動作でドアノブに手を掛け、がちゃりと扉を開いてみせる。そうすれば、途端にロックの視界に入るのはいつも通りの本棚と、薬棚と、ソファとデスクとベッドと。
「――よう、クソ兄貴」
腕を組み、仁王立ちで佇む自身の妹――ゼクスの姿だった。
第五話「憂う」
どうして彼女がここにいるのか。その理由の推測について、ロックには
それは誰もがお察しであろう、今は湯船にその身を落としているあの少女のことに違いない。
「……いらっしゃい、ゼクス。ほら、立ってないでソファに座りなよ」
となれば、話が長くなることは自明だろう。
にこやかな笑みを浮かべ、ひとまずソファへと座るように促してみせる。そんな兄の誘導にため息を漏らしながらも、ゼクスは不承不承、ソファへと腰を下ろした。
フェエルと話していた時に座っていたチェアを引き寄せ、ロックもそれに腰掛ける。にこにこと貼り付けた笑みは崩さずに、改めてゼクスへと向き合えば。
彼女はロックの笑顔になど目もくれず、慈悲もなく口を開いた。
「アタシ、兄貴が出かける前になんて言ったか覚えてるか?」
そう話す彼女の声色は低く、明らかに穏やかではなかった。静かな怒りを孕んだそれに、思わず笑みが苦笑へと変貌を遂げる。
しかし、だからといってこちらも怯むわけにはいかないのだ。今回、ロックがフェエルをここまで連れてきたことには正当な理由がある。それを説明しないことには、弁解の余地すら許されないだろう。
引き攣った口角を正すために、一つわざとらしく咳をしてみせる。それから、懲りもせず柔和な笑みを見せて、
「ちゃんと説明するから、お兄ちゃん怒るのは待ってほしいな」
首を傾げてそう言えば、ゼクスは心底うざそうに一つ舌打ちをした。
説明したのは、とりあえず二つ。
フェエルが記憶喪失であることと、あてもないので
「記憶喪失?」
素っ頓狂な声で尋ね返すゼクスに、ロックは「そう」と深く頷き「そんな子を、街中に一人で放ってなんかおけないでしょ?」と続けた。
数秒口を閉ざすゼクス。顎に手を当て、考えているような素振りを見せたあと、「まあ、それについては同感する」と口にすれば、それを聞いたロックが「でしょでしょ」と得意げに反応してみせた。
「……兄貴のお人好しは、今に始まった話じゃないしな」
「お人好しっていうか、当然のことじゃない? それに僕、曲がりなりにも医者だし」
ため息交じりにこぼすゼクスに、口を尖らせて反論する。それを「へーへー」と軽くあしらってから、ゼクスはまた数秒沈黙を携えた。
ちらりと見やる兄の顔、にこにこと無垢な笑みでこちらを見つめる彼の姿。色々と思うことはあれど、そんな兄の姿を見ていると、何故か怒り飛ばす気分にもなれない。
「……あーもう、わかったわかった! 兄貴の好きにしろよ」
やがて観念したかのように、口早に告げられた言葉。瞬く間にロックの笑みは輝きが増し、「ありがとう、ゼクス!」という謝辞とともに、躊躇うことなく身を乗り出してゼクスに抱き付いた。
「ばっ、く、クソ兄貴、離れろっつの!」
そう声を荒げる彼女もまた、満更でもなさそうなのだが。
「そういえば、葵くんは?」
「帰った。なんせ、『最近の鍛錬の内容がハード』だからな」
ふと思い出したように尋ねるロックに、腕を組み、脚を組みながらソファに身を預けているゼクスが、目一杯の嫌味を込めて返答する。それは決してロックにではなく、今はここにいない葵に向けて。
「そっか。……ちょっと心配だね」
憂いを帯びながら呟く。
頬に当てられたガーゼ、指先の絆創膏、腕と首に巻かれた包帯――今日見た葵の姿を思い返しては、ロックも眉尻を下げて彼を案じた。
いつも怪我をしては、「鍛錬のせい」だと口にする彼。例えこちらが追及しても、それ以上多く話してくれることはなく。
ごく稀に「転んだ」「木の上から降りられなくなった猫を助けようとして落ちた」「扉に挟まった」などとバラエティ豊かに断りを入れることもあるが、そのどれもが同じように深くは語られず、そもそも真偽すら定かではない。ただ、確かに鍛錬と称して励んでいるところを見たことはあるので、「鍛錬のせい」という言葉が真であることもあるのだろう。
しかし、それにしては――葵は、怪我の理由を聞くたび
「で。その、そいつ」
ロックが葵に想いを馳せる中。ゼクスの歯切れの悪い言葉を受けてぱちくりと瞬きを繰り返し、やがてああと気付いて「フェエルちゃんのこと?」と問い返す。
「そう。フェエル、だな」確かめるように名前を復唱すれば、
「フェエルは今どうしてんだ?」
「お風呂に入ってるよ。疲れてるだろうし、少しでも気持ちを落ち着かせてあげたくて」
「ふーん……あいつの部屋はどうすんだ?」
「それは、前に
「……なるほどな。でも、ただ置いておくってわけじゃないんだろ?」
「うん。一応、診療所の手伝いをしてもらうことになってるよ」
投げ掛ける問いに全て返答してみせるロックを見て、ゼクスも納得したように頷きて身を引いた。その様子を見ながらくすりと笑みをこぼしたあと、一度瞳を閉じ、胸に手を当てて呼吸を整える。
次に開かれたロックの黒い瞳は、真っ直ぐ射抜くようにゼクスを見据え。
「フェエルちゃん、さ」
途端に雰囲気の変わる兄に、ゼクスもぴくりと肩を震わせる。相槌こそ打たないものの、その耳は彼が紡ぐ言の葉に傾けられていた。
「多分だけど……この街の人間じゃない」
声低く語られた、その言葉。
それは、多くの人にとって疑問に思う価値もないものだった。なぜなら、この世界で、この街でただ生きているだけの彼らは、この言葉の意味を正しく理解することができないから。
この街――断片の外に、別の
そもそもこの世界の成り立ちを、彼らには知る由すら与えられないのだから。
けれど、目の前の彼女は違った。
「……つーことは、縫い目を超えてきたってことか?」
刹那の沈黙から這い上がり、静かな驚きで声を震わせながらも彼女は問う。
縫い目――それは、継ぎ接ぎのこの世界において、断片同士の境となる境界線のこと。そんな言葉を、この世界の内情を知らない者が使うわけがない。
だから、つまり。彼女もまた、この世界の内情をよく知る一人なのだ。
ゼクスの反応を見て、まるで唱えるように続けるロック。
「普通の人間には、縫い目を超えることはできない。縫い目を超えることができるのは、特定の条件を満たす者だけ……」
「だとすると」と一拍置けば、
「単純に考えて、フェエルちゃんはその条件を満たしているせいでこの街に来ることができてしまった……ということになるんだけど」
「……だとしたら、かなり厄介じゃねーか」
「でもでも、本当にそうなら流石に僕も気付くと思うんだよね。なんたって、僕はこの世界の創造主だよ?」
とんとん、とアピールするように自身の胸を叩くロックを余所に、ゼクスは考え込んだまま動かない。そのあまりの反応の無さに不安になったロックが、ずいと彼女の顔を覗き込んで手を左右に振り、「うぜえ」と一蹴されるまで、その沈黙は続いた。
はあ、とまた一つ、呆れたようにため息を吐く。
「……なんにせよ、あいつをここに置いておくんだろ?」
「うん。あの子の正体も気になるし、そもそも首を突っ込んだのは僕の方だからね」
「あはは」と笑ってみせるロックに、やれやれとでも言いたげに項垂れながらも、ゼクスはもう彼を咎めることはしない。
「でもよ」
不意に続いた接続詞に、ロックが首を傾げてみせる。
「兄貴ならちょっと調べれば全部わかるんじゃねーの? それこそ、兄貴はこの世界の創造主なんだからよ」
純粋にそう尋ねるゼクスに、きょとんと瞬きを繰り返す。彼の瞳は、瞬きの間に憂いを帯びて。
「まあ、そうなんだけど」ばつが悪そうに返せば、ロックは嫌に悲しげに微笑んで続けた。
「僕は僕自身の管理で、結構手一杯だからさ」
***
ちゃぷん、と水が跳ねる音が響く。
湯船に張られたそれに、肩まで浸かりながら身を預ける。立ち上る湯気の中、時折湯から覗く彼女の腕は白く、細く、陶器のように滑らかだった。
はあ、と一つ息を零す。浴室の真白い天井を見上げていると、扉の向こうから声が聞こえてくる。
「フェエルちゃん。着替えとタオル、置いておくからね」
「ああ、ありがとうございます」
その声の持ち主がロックであることを理解すると、フェエルは顔をそちらに向け、声を弾ませて礼を述べた。そうして、もう一度天井を見上げれば。
「記憶、早く戻るといいなあ」
それは響くことなく、呟きのまま消えた。
「お風呂、ありがとうございました」
「いえいえ」
入浴を終え、ロックの自室に戻ってきたフェエル。
そんな彼女の装いは、男物のワイシャツを着る――というよりは、ワイシャツに着られているような状態で。おそらくロックのものだと思われるが、サイズの大きいそれは、彼女が着ることによってちょっとしたチュニックへと姿を変える。
本当ならばゼクスから寝間着を借りる予定ではあったものの、あのあと不自然に「寝る」と零して部屋に戻ってしまった彼女に、ロックが声を掛けることはできず。
病衣という選択肢もありながら、自身の服を貸すに至った理由なんて、特にはないのだけれど。
ワイシャツから覗く彼女の白い太ももが、風呂上がりのせいか火照って――そんな彼女の姿に、人によっては劣情を煽がれないでもないのかもしれないが。
「……いや、大丈夫」
自分は大丈夫だと、言い聞かせるロックなのであった。
「……それで、フェエルちゃんの部屋なんだけど!」
わずかな煩悩を振り払い、早々しく切り出したロックの勢いに釣られ、フェエルも背筋をしゃんと伸ばして「はい!」と元気よく返事をしてみせる。
そんな彼女の様子を見てなんとなく申し訳なくなりつつも、一つばかり咳払いをして仕切り直しを図る。やがて、にっこりと微笑むと、
「以前、患者さんがわけあって住んでた時の部屋が余ってるから、フェエルちゃんが良ければそこを使ってもらおうと思って」
そのまま「案内するからついてきて」と彼女を招き、自室を出る。言われるがままにとたとたと後ろに続く彼女の姿を確かめつつ、廊下の奥へと進み、そうしてたどり着いた部屋の前で扉へと手をかける。開いてみれば、そこにはベッドとデスクがあるだけの、簡素な空間が広がっていた。
「必要なものはこれから揃えるから、フェエルちゃんも気になったことがあったらなんでも言ってね」
「そんな、住まわせていただけるだけで、ありがたいですから……」
「いいのいいの。せめて、記憶を取り戻すまでは協力させて」
遠慮がちに断りを入れるフェエルを、穏やかに微笑みながら制する。その笑みには敵わないのか、「わ、わかりました」と小さく呟くフェエルに、「わかればよろしい」と悪戯にロックが頷いた。
「それじゃあ、僕は自室に戻ろうかな。フェエルちゃんも、早く休みたいだろうし」
そう言って背を向ける彼。ドアノブに手をかけ、捻る直前に振り返り、優しい笑みをフェエルに向けた。
「……記憶、早く思い出せるといいね。きっとご両親とか、お友達も心配してるよ」
「じゃあ、おやすみ」返事も待たずに部屋から出て行った彼の足音に鼓膜を揺らして、一人残された部屋の中心で、呟く。
「……ありがとうございます、ロックさま」
その声色は、安堵と喜びで満ちていた。胸に手を当てて、彼がくれた優しさに想いを馳せて。彼が見せた笑顔に、心を揺らしながら。
「……私も、お役に立てるよう頑張らなくちゃ」
そうしてようやく、彼女の長い一日が幕を閉じた。
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