【出張】社会学カフェへようこそ! 「信仰」は経済システムをも創造する?! 後編

前編

https://kakuyomu.jp/works/16816452220315386446/episodes/16816452220502553523

 

 近代資本主義の成立には宗教…つまり、プロテスタントの信仰が不可欠だった?!

 一見するとまったく結びつかない「経済システム(≒資本主義)」と「宗教」がどのように関連しているのか――


 後編では、禁欲的プロテスタンティズムの宗教倫理が、なぜ近代的な資本主義の精神へと至ったのかについて、マックス・ヴェーバーの議論から明らかにしていきます。


――――――――――


巫「ヴェーバーによると、近代的な資本主義が成立するには、ある特有のエートス…生活態度が必要になるんだ」


愛「生活態度って…ふつうに頑張って働けばいいんじゃないの?」


蓮「僕も久野さんと同じく、ちゃんと真面目に働く態度が求められると思うんだけど…」


愛「ね! 一生懸命真面目に働くって、すごくいいことだもんね」


巫「愛、どうして働くことが“すごくいいこと”なんだ?」


愛「えっ…えーと、そうね、お金が手に入るし、すごい充実感も得られそうだし…。それに、仕事ができる人ってなんていうか人間的にも尊敬されそうじゃない?」


蓮「(仕事が生きがいとか趣味みたいな人ってたくさんいそうだな…)」


巫「今の一連の答えは、それこそ近代的な資本主義の精神に特徴的なものなんだよ」


愛「え? なにそれ?!」


巫「つまり、熱心に働くことに価値が置かれたり、働くことが手段ではなく「目的」になっているのは、まさに資本主義社会に典型的な生活態度…まぁこの場合は「勤労意識」と言ったほうがしっくりくるかな」


蓮「働くことが手段ではなく「目的」になる…?」


巫「そう。仕事自体が趣味になったり、仕事の評価がその人の人間的な評価にまで及ぶっていうのは、働くことが自己目的化してるってこと」


愛「資本主義社会に典型的な生活態度って、じゃあ資本主義に合わない生活態度があったってこと?」


巫「うんうん。伝統主義っていう思考様式があってね。伝統主義的な生活態度のもとでは、仕事は単なる生活のための手段に過ぎなかったんだよ」


蓮「…つまり、働くことが手段に過ぎず、目的にならない伝統主義の生活態度、いわば精神(エートス)では、資本主義は成立しなかったということなのかな。伝統主義的な生活態度の人たちって、どういう勤労意識だったの?」


巫「そうだな…。たとえば、仕事先で次の日から賃金が倍になるって言われたら二人はどうする?」


蓮「それは有難いなぁ。頑張って働くよ」


愛「嬉しい! やる気が出るし、私も頑張って働くわ!」


巫「僕も嬉しい。次の日は意気揚々として仕事場に向かうだろうね。……ところが、だ。伝統主義的な勤労意識をもつ人たちは、一日働いて二日分の賃金を得られるなら、それ以上は働かずに次の日休んでしまうんだよ」


愛「はぁぁ?! もったいない! どうしてっ?!」


巫「それこそ、倫理観や価値観が違うからだよ。伝統主義においては、まじめな人ほど欲張らない。必要以上のものを欲しがらないのがいいこと、っていう考え方だ。だから、賃金が倍になるからどんどん働く! っていう人は、欲深いダメなやつだっていう見方になるんだな」


蓮「伝統主義は今の僕たちがふつうにする発想や考え方とは随分違うんだね」


巫「だろ? 伝統主義っていうのは、簡単に言うと、人間の行動の基準が、“今までこういうやり方だったから、過去に行われてきたから”っていう理由だけで決まるんだ」


愛「えー! それだと何かするにも全然考えなくて済むじゃない。伝統主義って、私はてっきり何かしらの伝統を重んじる主義のことかと思ってたわ」


蓮「そうだよね。伝統を大事にするにしても、自分で考えて、判断して何かを受け入れたり、決めたりするなら良さそうだけど、なんとうか…ただ何も考えずそのまま受け継いじゃうのはなんとなく抵抗があるかな」


巫「そうそう。伝統主義に価値判断はないんだよ。昔からそうだったから自分たちもそのようにする。それだけ」


愛「…そんな感じだと、資本主義みたいな経済システムは生まれそうにないわね」


巫「だろ? 伝統主義のもとだと、資本主義経済を支える合理的な経営はおろか、資本の蓄積だってできやしない。でも、近代の西洋では資本主義は成立した。なぜかって…」


蓮「「資本主義の精神」があったから、だよね。その「精神」の成立に、禁欲的プロテスタンティズムの生活態度が関わっている、と」


巫「お、もうすっかり定着したみたいだな。あ!せっかくだからこの話もしておこう。ヴェーバーは、「資本主義の精神」の典型例として、ベンジャミン・フランクリンの教えを挙げているんだ」


蓮「「時は金なり」って言葉を残した人だよね」


愛「アメリカの100ドル紙幣の人でしょ? 従姉妹が留学先から帰ってきたとき、記念に向こうのお金をもらったから見たことあるわよ」


巫「二人とも知ってるなら話が早いな。ヴェーバーは、フランクリンの著作における記述…「時間は貨幣だ」「信用は貨幣だ」といった教えから、資本主義の精神の典型を見出した」


愛「ん? フランクリンは資本主義の精神を意識して書いてないわよね?」


巫「もちろん。「資本主義の精神」を提起したのはヴェーバーだからね。ヴェーバーは、フランクリンが示した処世術から自身がまさに論じようとしている資本主義の「精神(エートス)」が表明されている、と指摘している。ここで僕が面白いなって感じたのは、自分の議論や主張に関連しているものを見つけだすヴェーバーの力量というか…「なるほど、この話をこんな風に読み取るのか」っていう新鮮な驚きと説得力っていうのかな。蓮と愛が実際にどう感じるかはわからないけど、よかったら原著で読んでみてよ!」


蓮「うん。どんなかたちで引用されているかも気になるし、あとで『プロ倫』を注文してみようかな」


愛「えーと、私には…まだ早いっていうか…あ!興味がないってわけじゃないんだけどハードルが高いっていうか…」


巫「ははっ! 愛、そんな申し訳なさそうにしなくても。自分が本当に読みたいって思ったときが一番いいからね。…で、ちょっと寄り道しちゃったけど、ヴェーバーがとりわけプロテスタンティズムの何に注目したかっていうと、プロテスタントの宗派のひとつ「カルヴァン主義」の教えにある「予定説」だ。資本主義がのちに発展していく国々で伝播したのはプロテスタントのなかでも、カルヴァン主義なんだよ」


愛「カルヴァン主義の予定説?」


巫「うん。神学者カルヴァンによって提唱されたのが予定説。その教えによると、死後に救われる人っていうのはあらかじめ運命で決まっている」


蓮・愛「「ええ?!」」


巫「神は天地創造の際に、ある人々には永遠の命を、また別の人々には永遠の死を予定したんだ。つまり、救済される人間は既に決まっている。人間には神のご意向をうかがい知ることなんかできないし、どんな手段をもってしても神の予定を覆すことはできない。プロテスタントは聖書中心主義なんだけど、その聖書にも教会が免罪符を発行できるなんて書いてないし」


愛「なにその無理ゲー……」


蓮「教会も聖書も人を救済することはできないのか…それは…救いがないというかなんというか…」


巫「だよなぁ。神を絶対化するために、神と人間の間は絶たれているんだ。仮に良いことをしても絶対に救われない。だってもう絶対的な存在たる神の決定は覆らないから。そうなると、プロテスタントはなす術もなくなって、内面的な孤独感に襲われてしまう。おまけに自分が救われる側の人間かどうかもわからないっていうんだから、恐怖心もすごかっただろうね」


愛「ええ…どうにか手立てはなかったの?それじゃあ救いがなさすぎるわよ」


蓮「うん、あまりにも気の毒すぎるな。どうやって孤独感や恐怖心から抜け出そうとしたんだろう?…というより、こんな絶望的な教えのもとだと、かえって好き放題やってやろう、みたいに考えなかったのかな」


巫「たしかに、神による決定が覆らないならいっそ好き勝手してやる!って発想は理解できるし、そう考える人がいてもおかしくないよな。でも、当時の人々にとっては、神による救済が人生におけるすごーく大切な事柄だったんだよ。だから、彼ら…カルヴァン主義の人たちは不安や孤独感、恐怖を克服するために、なんとか自分が救われている側の人間であることの確信を得ようとしたんだ」


蓮「なるほど…。「救い」そのものじゃなく「確信」を得ようとするってところが面白いなぁ」


巫「でしょ? 彼らは「救いの確信」を得るため、労働に励んだんだ。禁欲的な生活とともにね」


愛「質問! どうして労働なの? 私のイメージだけど、救いの確信を得るなら、ボランティア活動みたいに人助けを頑張る方が良さそうじゃない?それこそ神様のご意向に沿っているような気がするんだけど…」


巫「鋭いな。なぜ救いの確信を得る手段が労働なのか。ごく簡単に答えると、カルヴァン主義においては、労働は神の栄光を増すと考えられているんだ」


愛「神の栄光を増す労働って、善行感がハンパないわね…!」


蓮「…ん? もしかして、働くことはいいことだ、っていう価値観はここから…?」


巫「おお! ご名答だな、蓮。そう。資本主義社会を特徴づける、「働くこと=善」といった特殊ともいえる労働観はカルヴァンの予定説に起因するんだよ」


蓮「やった! 繋がった! 働くことはいいことっていう価値観が予定説と繋がっていたなんて…特殊ともいえる労働観かぁ。そっか、そうだよね。たしか古代ギリシャだと、労働は奴隷がするもので苦役の扱いだったし、アダムとイブが禁断の果実を食べて楽園を追放されたときには「罰として」労働をすることになった例を踏まえたら、「働くこと=善」っていう労働観は特殊にも思えるね」


愛「ふぁー…なるほど、労働観も色々変化してるものね」


巫「まだまだ行くぞ。カルヴァン主義における考え方はさっき言った通りなんだけど、大前提として、そもそものプロテスタントにおいて労働や職業がどのように捉えられていたかも確認する必要があるんだ。ヴェーバーが注目したマルティン・ルターの職業観から説明しようか」


蓮「マルティン・ルターも、プロテスタントを誕生させた宗教改革の中心人物だね」


愛「うん、カトリック教会が免罪符を買えば罪の償いができますよって販売していたのを批判したのよね」


巫「そうそう。プロテスタントは聖書中心主義だってことは先に話したよね。聖書はもともとラテン語で書かれていたから、聖職者や学者といったごく少数の人たちしか読めなかったんだけど、ルターがドイツ語に訳して、より多くの人たち…たとえば一般の信者さんにも読めるようにしたんだよ。「天職」という思想が登場したのルターによる聖書翻訳に由来しているんだ」


愛「てんしょく、って…“やっと見つけたわ…! これこそが私の天職だったのね(キラリーン☆)!”って感じの?」


巫「おお! 愛ってけっこう演技派。――でも、それはどっちかっていうと自分の性質に合ってるとか、本当にやりたい仕事が見つかった、っていう、今現在日常的に使われているニュアンスの「天職」だよな。 漢字は同じだけど、ルターのいう「天職」は、世俗の職業を神から与えられた使命であると示したもので、ヴェーバーの議論においてとても重要な意味を持つ概念なんだ」


愛「うわっ! 全然違った! 恥ずかしい…」


蓮「わー、久野さん! 僕も現在的なニュアンスの方の「天職」を思い浮かべちゃったよ」


愛「(レンレン、優しい…)ほ、ほんと?」


巫「僕だってヴェーバーの議論に触れるまでは愛が言ったような意味合いで捉えていたさ。今、ふつうに日常で使われている言葉も、誰がどの文脈で使ったかによって意外と違った意味だったりする。そういうのを知ることも、この社会学カフェの面白さだから、思ったこととかはどんどん言ってもらえると嬉しいな」


愛「(やっぱり…カンナギっていい奴なのよね…気がついたら私、顔色を窺うこともなくこうしてどんどん発言できるし…)うん、ありがとう」


巫「で、ルターの「天職」という思想におけるポイントを僕なりにまとめたメモがこれね。まずは目を通してみて」


――――――――

【ルターの「天職」思想とは】

「天職」という概念の中に、プロテスタントのあらゆる教派の中心的教義が表出されている

・ルターは、世俗の日常労働は神が人に与えた使命(=天職)である、とした

◾️ ヴェーバーがルターの「天職」という概念に注目した理由

→世俗的日常労働に宗教的意義を認める思想を生んだことから

※ただし、ルターは「伝統主義」を脱していたわけではなかった

(ルターの「天職」概念には伝統的経済主義が内在している)

――――――――


巫「上から説明するね。さっき登場した予定説は「カルヴァン派」だったんだけど、だからといって「ルター派」の「天職」概念が放棄されているってことではないんだよ」


愛「プロテスタントのあらゆる教派の中心的教義が表出されている、っていうくらいだから、天職概念ってプロテスタントにとって重要な意味をもっているのね」


蓮「ルターが、「天職」思想から世俗的日常労働に宗教的意義を認める思想を生んだっていうところをヴェーバーが評価しているのは何故なんだろう?その思想が影響力をもっていたであろうことはなんとなくわかるんだけど…」


巫「うん、ルターが「天職」として重視した世俗の日常労働そのものは、中世でも尊重されていたんだよ。でも、それは道徳的な実践であるとか宗教的に意義のあることとして尊重されていたわけではなかった」


蓮・愛「「うんうん」」


巫「世俗、っていうのは、「修道院の外部」ってことを意味するんだけど、神様によって与えられた使命…いわば道徳的な実践および宗教的意義が認められていたのは世俗外、つまり修道院の内部における「祈りや労働」だったんだよ」


蓮「そうか…ということは、プロテスタント…具体的にはルターの「天職」概念があって初めて、世俗の日常労働にも、道徳的な性格が与えられた。そのことをヴェーバーは評価しているってことなのかな」


巫「そうそう! ルターこそが、世俗の日常労働および職業生活に宗教的意義を認めたんだ。ヴェーバーは、このルターの業績を後代への影響がもっとも大きかったもののひとつだと高く評価している」


愛「へぇー。じゃあ、この天職概念こそが、ヴェーバーさんの「資本主義の精神」に直結するようになるってこと?」


巫「いいや、それは違うんだよ。でも、いい質問だ。僕が書いたメモ・・・とくに下の方をよく見て」


愛「……“ただし、ルターは「伝統主義」を脱していたわけではなかった。ルターの「天職」概念には伝統的経済主義が内在している”……あ!伝統主義って、さっき出てきたやつよね?資本主義に合わなそうな考え方の!」


巫「そうそう。たしかに、ルターの言う「天職」そのものは注目すべき概念ではあるんだけど、だからといって、ルターが「資本主義の精神」と親和的な考え方をもっていたということをヴェーバーが言っているわけではないんだよ」


蓮「それこそ、伝統主義を脱していない、っていう指摘に表れていると思うんだけど、それって具体的に何を指しているのかな?」


巫「ヴェーバーによると、ルターが高利貸と利子取得一般を非難していることなどをはじめ、ルターの数々の言葉からは資本主義的営利の本質に対する見方が立ち遅れていることがあらわれている、というわけなんだな。しかも、聖書それ自体は全体として伝統主義に有利なんだよ」


愛「……それってもしかして、“わたしたちに日ごとの食物を今日もお与え下さい”って祈りの言葉に現れてるような・・・?」


蓮「すごい! 久野さん、よく知ってるね」


愛「えへへ、たまたまよ(……神様仏様を主人公にした漫画にどハマりしてるだけなんだけどね)」


巫「おおっ! 愛、大正解だよ。“わたしたちに日ごとの食物を今日もお与え下さい“という言葉のなかに、経済的伝統主義が見出されるんだよ。全ての人は主(キリスト)の再臨の日を待っているから、各自は主の「召し」を受けたときと同じ身分と世俗の営みに止まり、今までと同じように労働すべきだって考えられている。それはつまり、現状維持の職業労働でいいんだってこと」


蓮「うーん、現状維持の労働を推奨しているなら、資本主義にはつながりそうにないね。ルターの「天職」概念だけでは、事足りない理由がわかったよ」


巫「そう。ルターの「天職」概念でまず押さえるべきは、プロテスタントにおいて世俗の日常労働に宗教的な意義が初めて認められた、ってとこだ。ただし、「天職」概念には経済的伝統主義が含まれているから、資本主義にとって重要な営利の追及には繋がらないんだな」


愛「うん、今までと同じように労働するだけなら、営利も期待できそうにないし、何より資本の蓄積もできないしね」


蓮「「天職」の思想だけでは、資本主義の成立に深く関わった禁欲的プロテスタンティズムの生活態度には及ばない…。結果として営利の追及が肯定されるような…何かと結びつかないと…」


巫「その「何か」は今までの話のなかでもう出てきてるぞ」


蓮・愛「「え?!」」


巫「一生懸命働けば働くほど、営利は期待できるだろ? 労働に励んだ人たちが…」


愛「あーっ! カルヴァン主義の予定説!!!」


蓮「そうだ、人々は「救いの確信」を得るために、労働に励んだってカンナギ言ってたよね」


巫「アタリ! これまでの復習も挟みながら説明するぞ。カルヴァン主義の教えの中心には「予定説」の存在があった。その教えによると、神は既に救われる人間とそうでない人間を予定していて、その予定は何をもってしても覆らない。自分が救われる人間かどうかもわからないし、教会や聖書、聖職者も頼りにはならない。あらゆる救済手段を断たれ、人々は強烈な孤独と不安のなかに放り出された。個々人に残ったのはかつてみない「内面的孤独化の感情」だったんだ」


愛「つらい…何回聞いても絶望的だわ」


巫「そこで、人びとは自分が救われている側の人間であることの確信を得ようとしたんだな。自分が選ばれているということ、つまり言い換えると「自己確信」がないことは信仰の不足の結果として捉えられた。じゃあ、「救いの確信」を得るには具体的にどうすればいいのか。その答えは、神から与えられた職業労働(=天職)に励むこと、そして日常生活における徹底した禁欲。カルヴァン派の中心思想は、職業労働と禁欲的日常生活のなかで救いを確証する、というものだったんだ」


愛「ルターの唱えた「天職」の考えを引き継ぎつつも、カルヴァン派では、さらに「救いの確証」を得られる根拠として、労働があったのね」


蓮「それにプラスして、日常生活における徹底した禁欲、っていう点が重要そうだね」


巫「うん、欲望に捉えられた自己を超えようとすること…すなわち「禁欲」ができるっていうことは自分が選ばれた側の、つまり救済される人間であることのしるしでもあるんだよ」


蓮「禁欲は神のご意向に適う行為、というところかな」


巫「そうだな。禁欲は救いの確信の根拠となり、それが職業労働と結びついたんだ。まとめると、神から与えられた職業労働(=天職)に勤しみ、全生活を仕事中心に規律化したムダのない、合理的で禁欲的な生活態度を実践すること、これをヴェーバーは世俗内禁欲と呼んだんだけど、彼らはこの「世俗内禁欲」によって、救いの確信を得ようとしたわけだ」


愛「世俗内禁欲かぁ…あ、なんか結びついてきたかも!修道院の外部でも職業労働や禁欲に宗教的な価値が認められたのは、ルターが「天職」を唱えたおかげなんだよね」


巫「そうそう! さらに続けるぞ。救いの確信を得るべく、人々は労働に勤しんだ。そうすると、労働の結果として富が蓄積される。もともとのキリスト教の考え方だと、富は危険なモノだったんだけど、プロテスタンティズムにおいては財産の形成だったり利潤の追求は、神から与えられた「使命」たる職業活動の一環として宗教的にも正当化されたんだな。信仰に熱心な人ほど労働に精をだし、営利活動に励み、多くの富を獲得することになる。ただし!富の享楽的な消費は厳しく禁止されていたんだよ。だから、獲得された富は新しい生産の資本になる」


蓮「……そうか! こうした禁欲的プロテスタンティズムの生活態度が資本の形成につながって、近代資本主義の成立を促したってことか!」


愛「熱心な信仰が資本主義を生む…そういうことだったのね。はぁ〜なんかすごい話だわ」


巫「金儲けをはじめとする欲望の強さによって営利活動が促進されるってイメージがふつうは強いと思うんだけど、むしろ信仰心が強く禁欲的な人々が、宗教的な動機によって、経済活動に勤しんだっていうのはやっぱりすごく面白い議論だよな」


蓮「プロテスタント…カルヴァン主義の人たちも、よもや資本主義みたいな経済システムを生み出すなんてことは考えてなかったんじゃないかなぁ?」


巫「おっ。蓮、それは良い視点だぞ。ヴェーバーはプロテスタントらが近代資本主義を生み出すことを意図していた、と考えていたわけでは決してなかったんだ。プロテスタントたちのとった行動が、行為の「意図せざる結果」として、富が蓄積されることになり、果ては資本主義に繋がったんだな」


愛「意図せざる結果…意味深ね!」


巫「そこに目をつけるあたり、愛も随分社会学に染まってきた感じがするなぁ(笑)ある意図をもって行われた行為が、予想しなかった結果を生み出すことを「意図せざる結果」っていうんだ」


愛「ふっふっふ、近代資本主義の成立の秘密も完璧に把握したし、これで今度の小テストは楽勝ね!」


蓮「やったね、久野さん!」


巫「よし。じゃあ、資本主義を説明すると?」


愛「資本主義は一見金儲け主義の営利追求によって生み出されたと思われがちだが、実はそうではなく、禁欲的プロテスタンティズムの生活態度が近代資本主義の成立を………あれ?」


巫「……資本家が利潤を目的に労働者を使って生産活動を行う仕組み、だろ」


愛「あーーーーーん!基本的なことがすっかり抜けちゃったぁ」


蓮「大丈夫! 久野さん、社会学のテストならきっと満点だよ!」



(了)


――――――

 ここまでお読みくださりありがとうございました!

 本編の社会学カフェも鋭意執筆中ですので、どうぞよろしくお願いいたします。


参考文献

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1989)マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳 岩波文庫

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小学校で「社会学」が必修科目化すればいいのに!(強めの願望) 紫月 冴星(しづき さら) @mirusociology

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