決裂

 三人が砦に滞在したのは一週間ほどで、桃修苑が起き上がれるようになるとすぐに劉子尽は弟子二人を連れて浄蓮世境じょうれんせんきょうに戻った。桃修苑は車椅子で浄蓮世境の中を自力で移動できるまでには回復していたが、楊蓮鋒は相変わらず眠ったままで、誰が話しかけても何の反応も示さない。一度だけ、桃修苑は、自室に寝かされている楊蓮鋒を見舞ったことがあった。不気味なまでの静寂に包まれた部屋で、楊蓮鋒は規則正しい寝息を立てていた。車椅子を枕元につけてその顔を覗き込むと、今にも目を開いて柔らかく微笑みそうな安らかな寝顔をしている。だが、あの変化を目の当たりにした今では、楊蓮鋒が再び起きれば何が起こるか分かったものではないと警鐘を鳴らす自分もいた。桃修苑は、布団の上に置かれた右手に目をやった。そっと握ると、手のひらに穏やかな体温が伝わってくる。まるで彼の体には何の異常もないと言っているような平穏な体温だ。

 だが——桃修苑はふと思い立って、楊蓮鋒の着物の袖をまくって右腕を露わにした。力なく垂れる手首を持って内にかえすと、つるりとした色白の肌が目に飛び込んできた。

「なっ……これは……?」

 桃修苑は、驚きのあまり腕を取り落としそうになった。腕の内側を走っていた傷跡がすっかり消えているばかりか、つるりとした色白の肌には過去に受けた傷の跡も何も残っていない。まるで肌がそっくり入れ替わったかのような腕に、桃修苑は周囲がぐらつくような衝撃を覚えた。桃修苑は急いで袖を元どおりにすると、腕を体の上にそっと置いた。その瞬間、楊蓮鋒が小さな呻き声を上げて身じろいだ——桃修苑はぎくりと身を引くと、そそくさと車椅子の向きを変えて部屋を出た。


 その日の夜、桃修苑はなかなか寝付けずに、寝台の天蓋を見つめていた。脳裏を回るのは、午後に劉子尽が聞かせてくれた楊蓮鋒の来歴だ。霊力がいくらか戻って会話ができるようになるとすぐに、桃修苑は何があったかを全て劉子尽に話して聞かせていた。そして今日、劉子尽は、ひときわ強烈な邪気を操ってみせた楊蓮鋒について洗いざらい話したのだ。

『まさか、師兄がくだんの妖魔で、邪気と剣術を操って他の仙士から霊気を吸い取っていたと?』

『しかし、なぜ……あれほどの邪気を宿し、使いこなしていながら、なぜ我々の羅盤は何の反応も示さなかったのですか?それどころか、仙士の術を使っても何の害もないようでしたし……』

 自身の困惑しきった問いが、今でもありありと思い出せる。そしてあの時、桃修苑ははたと思い至ったのだ——隴河の砦にて、楊蓮鋒が突然の反噬に襲われたとき。ただの怪我ではないとはいえ、何の異常も見つからないのに反噬が起きたというのは不自然だ。


「まさか、あの右腕の傷にかかわりがあるのですか?」

「さよう。」

 劉子尽は静かに頷くと、一冊の書物を桃修苑に見せた。『換骨奪胎之法かんこつだたいのほう』と書かれたその本は見るからに年季が入っていて、何人もの仙士がこの本で術を修練してきたことがすぐに分かる。

「今から三十年ほど前、わしはある強力な妖魔を捕らえた。そして、この換骨奪胎之法を使って全ての邪気を取り除き、空になった魂を練り直して肉体ごと転生させたのじゃ。そして、記憶も技も失って五つほどの少年に生まれ変わったそやつを育てながら、新たに陽の気を修練させて仙士として教育した。ちょうどお前を弟子に取る数年前のことじゃ」

 換骨奪胎之法——最高峰の実力を持つ仙士のみに修練が許された最高峰の法術の一つ。劉子尽がしたように、本来は肉体を徹底的に空にして、邪を聖に、陰を陽に転換させるという術だ。他にも身に受けた邪気や毒気を無効化するという使い方もあり、仙士たちの間ではこちらの方がよく使われている。そして劉子尽の見たところでは、桃修苑が妖魔によって重傷を負った際、楊蓮鋒は彼の受けた邪気や毒気を傷ごと自身に移していたという。

「では、右腕の傷が生来の魔性を呼び起こしたということですか?」

 桃修苑が尋ねると、

「厳密にはそうではない」

 と、劉子尽は答えた。

「蓮鋒はおそらく、お前の受けた邪気と毒気を傷ごと右腕に封印しようとしたのじゃろう。だが、あれは元々が陰と邪の生き物じゃ。器となる肉体からは陰の気は消し去られていたが、それでも、楊蓮鋒の体は陰の気に反応しやすい性質じゃった。万が一にも異変が起これば、大事になる前にこの手で屠るためにも手元に置いていたのじゃが、まったくの杞憂に過ぎないのではないかと思えたほどに奴は人間の体と生活、そして仙士の術になじんでおった。だからこそ邪気に侵され、毒気を受けてかつての状態に戻っても何事もなく仙士の中に紛れていたのじゃろう」


 桃修苑はため息をつくと、ゆっくりと寝返りを打った。以前の彼にとっては信じられない話だが、あの光景を見た今では、楊蓮鋒ようれんほうの前身が妖魔だというのも納得できる話だ。そして、捕らえた妖魔を徹底的に浄化して市井に捨て置いた、といういつか劉子尽の口から聞いた話は世間に向けた作り話だったのだ。幼い頃から共に修行してきた弟弟子を救おうと体を張ったばかりに本性を隠すことになってしまった兄弟子をどうしたものか——考えごとにふけっていた桃修苑は、いつしかうつらうつらと船をこぎだした。そして桃修苑がすっかり眠ってしまった頃、彼の寝台のわきに突如として人影が現れた。

 桃修苑は突然現れた気配にぎょっとして目を覚ました。そして、目の前にいる白い着物——暗闇の中でもはっきりそれと分かる、仙士の装束だ——を着た男に叫び声を上げそうになった。

「静かに。修苑、私だ」

 楊蓮鋒の声に言われ、桃修苑は反射的に悲鳴を飲み込んだ。だが、この男は果たして本当に楊蓮鋒なのか——?

「……こんな夜中にどうされたのです、師兄?いつ目を覚まされたのですか?」

 桃修苑は叫ぶ代わりに、小さな声で尋ねた。楊蓮鋒は答えずに、無言のままじっと桃修苑を見下ろしている。桃修苑がもう一度尋ねようと口を開いたとき、楊蓮鋒は突然右手で桃修苑の胸を押さえつけた。今度こそ桃修苑は大声で叫んだ。

「師兄!!」

「静かにと言っただろう。私は何をするつもりもないのだ、ことを大きくしないでくれ」

 楊蓮鋒がそう言った途端、桃修苑は口が利けなくなった。助けを求めようと必死に声を上げても、ぴったり閉じられた口からはくぐもった悲鳴が聞こえるばかりだ。桃修苑はとっさに手を出すと、楊蓮鋒の右腕を取って退けさせようとした。が、あっさりと払われて逆に手首をひねり上げられ、桃修苑はくぐもった呻き声を上げた。今の体力ではこれ以上の反撃もできず、桃修苑はもごもごと叫びながら身をよじってなけなしの抵抗を示すことしかできなかった。楊蓮鋒はその胸に右手を置き直すと、ぐっと力を込めた。すぐさま白い光が漏れだすとともに大量の気が桃修苑の体に注ぎ込まれ、胸から全身の経絡へと流れていく——桃修苑はついに頭が真っ白になり、万事休すとばかりに抵抗をやめた。だが、体は流れ込む気を受け入れ、気の流れが到達したあたりは不思議と軽く感じられる。桃修苑はぼんやりと照らし出された楊蓮鋒の顔を見た。その顔は以前と変わらず穏やかで、自身の手元にだけ集中しているさまは以前の彼と同じだ。やがて光が収まって気の流入が終わると、楊蓮鋒は手を退けて言った。

「あの日お前から吸い取ってしまった霊気を返しておいた。数日もすれば任務に復帰できるだろう……私の分まで、しっかり務めてくれたまえ」

 何かを待ちわびるような声音に、桃修苑は目を見開いた。

「そんな……では師父の話は本当に……?」

「ああ。お前には信じがたいかもしれないが、あれが真実だ。お前を助けたことで、かつての魔性を取り戻すことになろうとは思ってもみなかったがな。あの時は、砦にお前を預けて受けた邪気を全て取り除こうと思っていた——だが、邪気も毒気も一向に抜けないどころか、経脈に入り込んで逆に私と一体化していく。その時、私は感じたのだ。今まで白だと信じて疑わなかった我が身が、何か別の黒いものに変わっていくのを……そしてそれこそが、私の本来の姿なのだと。

 だが、楊蓮鋒は劉子尽の加護のもとに置かれすぎていた。移した傷に邪気を封印し、上から呪詛を縫い込んだ包帯を巻いて悟られないようにしてから砦に戻るなどという愚かしい真似をしたのはそういうことだ。まあ、邪気が強まるまで見事に誰も気が付かなったがな。楊蓮鋒自身、青陵で私がことを起こすまで、自分の身に起きたことを理解していなかったのだから」

「楊蓮鋒」の顔に、月の光が斜に差した。穏やかな雰囲気はすっかり消え去り、冷たい双眸が桃修苑をじっと見つめている。その目つきは、桃修苑が慕っていた兄弟子が消え去ってしまったことを物語っているかのようだ。

「劉子尽が来る前に、これだけ言っておこう。我が名はぼう、焔獄界の術師にして戦士、往時にはとりわけ凶暴で冷酷だと言われていた。私の所業は、お前自身これから幾度も目にすることになるだろう」

 枯雨亡がそう言う間にも、廊下を足音も荒く走ってくる気配を桃修苑も感じ取っていた。次の瞬間には破られんばかりの勢いで扉が開き、提灯を掲げた仙士たちの先頭に立って抜き身の剣を持った劉子尽りゅうしじんが飛び込んできた。

「ついに現れたか、枯雨亡!」

 劉子尽が声を荒げる。途端に枯雨亡の右手から漆黒の邪気が漂いはじめた——枯雨亡は平然と劉子尽たちに向き直ると、右手を床に向けて振り下ろした。白い閃光とともに現れたのは、清廉潔白たる仙士の長剣だ。居並ぶ仙士たちが騒然とする中、枯雨亡の剣がギラリと不穏な光を放った。次の瞬間、一陣の風が桃修苑の頬を撫でた。金属のぶつかり合う音にそちらを向けば、劉子尽が枯雨亡の剣を受け、彼とにらみ合う形で対峙している。二人は互いに剣を跳ね上げると瞬く間に数手を交わし、幾筋かの閃光が部屋の空気を切り裂いた。枯雨亡は攻めの姿勢を変えないまま、狭い室内をものともしない動きで劉子尽の形勢を崩しにかかった。耳をつんざく剣戟の音の中、二人は目にも留まらぬ速さでさらに数手を交わし、電光石火の勢いで繰り出された突きがついに劉子尽の体を貫いた。

「師父——!!」

 桃修苑は一声叫んで布団を跳ねのけた。寝台から降りて劉子尽に駆け寄ろうとしたが、足に力が入らずにそのままつんのめって転んでしまう。慌てて二人の方を見上げれば、劉子尽の体がドサリと床に落ちるところだった。

「お前……!!」

 桃修苑は枯雨亡を思い切り睨みつけた。だが、枯雨亡は一向に意に介さないばかりか、剣にべっとり付いた血を見せつけるように払った。桃修苑はどうにか床に座り込んだが、それ以上のことはできない。枯雨亡は座ったままの桃修苑に悠々と近付くと、自らしゃがんで視線を合わせてきた。。

「心配するな。私が手負いのお前に手出しをすると思ったか?」

「では、何をするつもりだ」

 ギリリと食いしばった歯の間から唸るように問う桃修苑。枯雨亡は笑い声を上げると、耳元で囁くように告げた。

「楊蓮鋒が言っただろう。『妖魔は桃木には寄り付かない』と。そういうことだよ、修苑、ずば抜けて強い陽の気を持つお前には、陰の気の塊のような私たちは一方的に手出しができないのだ。その上『桃』の一字を持つとなれば妖魔退治においては虎に翼、たいがいの妖魔はお前に適うまい。だが、お前が私を殺す気とあらば、いつでも私は受けて立つ。私に対抗し得る仙士は、今のところお前しかいないのだからな……今夜はその手始めだ、よく覚えておきたまえ」

 枯雨亡がそう言い終えた瞬間、窓がガタンと開いて部屋の中に突風が吹きこんだ。とっさに顔を覆った桃修苑は、枯雨亡の声が「さらばだ」と言うのを聞いたような気がした——


 風が止んだ時には、枯雨亡の姿は消えていた。廊下で一部始終を見ていた仙士たちが目が覚めたようにしゃべりだし、にわかに騒がしくなったのを、桃修苑は確かな殺意を胸に聞いていた。

 

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偽りの蓮花 故水小辰 @kotako

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