変化
凶の地形にふさわしく、木の一本も生えていない裸の丘に、一筋の光とともに二人は降り立った。楊蓮鋒が羅盤を出してより正確な境界の位置を探る間、桃修苑は懐に入れた袋から木でできた人形をいくつか取り出し、護符を貼り付けた。
「ここを中心に結界を張れ!」
楊蓮鋒の指示が飛ぶ。桃修苑が人形に内力を注ぐと、人形がひとりでに立ち上がり、それぞれの場所へと歩いていった——
二人は中心部から数歩退き、剣を構えて妖魔の来襲を待った。この中で決着をつけることができれば、あとは応援に来た仙士たちに通路の破壊と土地の修復を頼むだけだ。砦の手勢が大きく削がれている今、隴河の陥落は二人がどれだけ持ちこたえられるかにかかっていると言っても過言ではない。だが、いくら指折りの仙士といっても、たった二人でどれだけ持ちこたえられるかは全く分からなかった。
地鳴りはますます大きくなり、時折ぐらりと地面が大きく揺れる。楊蓮鋒も、今回ばかりは包帯の上から手甲をつけてきていた。地面が割れて魑魅魍魎が顔を出せば、怪我がどうのと言ってはいられない。
「師兄、傷の方は」
それでも桃修苑は、楊蓮鋒の方を向いて尋ねずにはいられなかった。楊蓮鋒も桃修苑を見ると、
「大丈夫だ。」
と言った。
「剣を振るう分には問題ない。それよりも修苑、一つ頼みを聞いてくれるか」
「何でしょう?」
桃修苑が首をかしげると、楊蓮鋒は例の穏やかな笑みとともに言った。
「私に何かあったら、迷わず結界から脱出しなさい。あとは術の効力が切れるまで、決して手を出してはいけない。約束してくれるか?」
「師兄……?」
桃修苑は思わず聞き返した。ぽかんと口を開けて自身を見つめる弟弟子がよほど可笑しかったのか、楊蓮鋒がハ、と笑い声を上げる。
「頼んだぞ、修苑。お前なら大丈夫だ、妖魔は桃木に寄り付かないから」
「師兄、それはどういう……」
桃修苑が言い終える前に、ドォン——とひときわ大きな地響きがした。結界の中心に黒いヒビが現れ、地面が揺れるごとに大きくなっていく。そして、何かが暴発したような轟音が響いたと思うと、地面にぱっくり開いた穴から巨大な妖魔が這い出してきた。
「出たぞ」
楊蓮鋒が低く呟く。三対の腕を持つ女のような姿をしたその妖魔は見上げるほど大きく、爛々と光る眼は三つ、そしてニヤリと持ち上げられた口は顔全体を横切るかのようだ。真ん中の目玉がぎょろりと回って正面に立つ楊蓮鋒と桃修苑を見据えると、妖魔はスルスルと小さくなり、二人とそう変わらない身長になった。その背後から続々と妖魔が姿を現す——先陣を切って飛び出したのは、最初に姿を見せた三本腕の妖魔だった。穴からはどんどん魑魅魍魎が、我先にと飛び出してくる。楊蓮鋒は剣を背中に構えると、顔の前で剣指を作って気を集中させ、
「
と声高に言い放った。青白く輝く閃光が地面を這って複雑な模様を描き出し、妖魔たちを足元からすくうようになぎ倒す。続けて桃修苑が飛び出すと、気合いとともに起き上がりつつある妖魔たちに斬りかかった。低級の妖魔なら、誅魔清聖陣を使えば簡単に消滅させられる。戦力を温存するためにも、まずは陣を敷いて数を減らすのが多くの場合では有効だ。今回も例外ではなく、陣の力に逆らって桃修苑に襲いかかったのは全体の半分だった。数が減ったのを確かめて、楊蓮鋒も陣の中に飛び込んで桃修苑の隣に降り立った。目があった妖魔に片っ端から斬りかかり、その体に護符を貼りつけて呪文を発動させる。呪文によって動きが鈍ったところに斬りかかり、次々に致命傷を負わせると、妖魔の体はどんどん霧散していった。桃修苑も果敢に剣を振るい、その鋭い剣さばきによって妖魔をどんどんなぎ倒している。二人分の閃光が陣の中を目まぐるしく動き回るうちに、一面妖魔に囲まれていた視界が開けて周囲が見渡せるまでになっていた。
「入り口を閉じるぞ!」
ところが、陣が完成しようとしたその時、穴の中から飛んできた邪気が楊蓮鋒の体を直撃した。楊蓮鋒は技を中断して防御を取ろうとしたが間に合わず、そのまま後方に飛ばされてしまった。
「師兄!!」
大柄な体躯に、全身から漂う邪気。他の者にはないその威厳と強者の風格から、この妖魔が今回の襲撃を指揮していることが見て取れた。楊蓮鋒は腰をぐっと落として剣を構えると、地面を蹴って敵に斬りかかった。
「はっ!」
気合いとともに剣を突き出し、体を開いて一手目を避けた敵にさらにもう一太刀を浴びせる。ガン、と硬い手ごたえとともに楊蓮鋒は後ろに飛びのいた。妖魔の手には頭蓋骨のようなものが乗っており、ひときわ濃い邪気がそこから放たれている——楊蓮鋒は頭蓋骨に狙いを定め、刃を剣指でなぞっていく筋もの剣気を作り出し、一斉に放つと同時に自身も妖魔の手に斬りかかった。妖魔が片手で印を結び、頭蓋骨から放たれた邪気が剣気を跳ね返す中、わずかに生まれた隙に楊蓮鋒は一撃を食らわせた。今度は肉が裂ける感覚があり、妖魔が吼えるような声を上げた。勢いを得た楊蓮鋒は次の一太刀を繰り出し、残っていた雑魚をあらかた片付けた桃修苑も加勢した。繰り出された邪気を楊蓮鋒が剣で受け、その間に桃修苑が前に出て攻撃する。桃修苑が邪気を撃ち返すと同時に攻撃を食らわせ、避けたところを楊蓮鋒が斬りつける。息のぴったり合った二人の動きは妖魔を圧倒し、ついに結界の壁ぎりぎりにまで追い詰めた。
「封印の護符を!」
楊蓮鋒が叫ぶと同時に、桃修苑の手を離れた護符が妖魔の体に貼りつく。二人で剣指を作り、呪文を唱えていると、突如として楊蓮鋒の声が乱れた。桃修苑が見ると、剣指を作っている右腕が小刻みに震えている。必死の形相で呪文を唱える楊蓮鋒に、桃修苑は眉をひそめながらも呪文を唱え続けたが、楊蓮鋒がついに呻き声を上げてよろめくと、呪文を中断して楊蓮鋒の体を抱き留めた。
「師兄!」
楊蓮鋒は額に玉のような汗をにじませ、右腕を左手でがっしり掴んでいる。また傷が痛んだことは明らかだ。
「師兄、しっかりしてください、師兄!」
「修、苑……気を、つけろ……ッ!」
きつく食いしばられた歯の間から、楊蓮鋒が絞り出すように声を出した。だが、桃修苑が気付いた時には殺気がすぐ目の前にまで迫っていた。楊蓮鋒を放り出そうにも間に合わず、桃修苑は篭手で攻撃を受けるとそのまま何歩か後ずさった。篭手の呪詛が邪気に反応し、白地に焼け焦げたような跡が残る。相手を確かめる前に、桃修苑は背後から掌で打たれてつんのめり、胸に痛みを感じると同時に口の中に鉄の味が広がった。顔を背けて口いっぱいの血を吐き捨てた桃修苑は、改めて周囲を見回して愕然とした。
封印を中断した妖魔が、勝ち誇ったような笑みを浮かべてこちらを見つめている。その手に乗った頭蓋骨からは真っ黒い邪気が結界中に放たれ、完全に消滅させずに斬り捨てるにとどめていた妖魔が皆立ち上がっていた。突然の形勢の逆転に、桃修苑は顔から血の気が引いていくのを感じた。だが、ここで逃げ出すことは不可能だ。楊蓮鋒を背後にかばうと、桃修苑は一人、剣を構えて妖魔の一軍に対峙した。
先頭にいるのは、つい先ほど腕を全て切り落とし、心臓を一突きにしたあの六本腕の妖魔だ。桃修苑は剣指を作ると剣を離し、目の横に浮かせて相手の出方を伺った。その時、背後の楊蓮鋒が足首をがっしり握りしめて言った。
「修苑、言っただろう……私を置いて、今すぐ結界を出なさい……!」
「できません、師兄。あなたを置いて逃げるなど、私には無理です!」
妖魔の一軍が、二人めがけて襲いかかる。修苑は気を込めた剣を妖魔の輪の中に放った。白い閃光が妖魔の間を駆け巡り、何体かが倒れ伏すのが見える。剣を手元に戻すと、桃修苑は剣を構えなおして振りかぶり、先頭の妖魔に飛びかかった——
その瞬間、体がふっと軽くなったかと思うと、固い地面が足に触れた。つんのめった桃修苑はとっさに地面に手をついて勢いに乗って一回転し、衝撃に顔をしかめながらも立ち上がった。先ほどまで自身を覆っていた重苦しい邪気とは違う、清々しい外の空気が頬を撫でる——慌ててあたりを見回すと、そこは結界の外だった。楊蓮鋒に掴まれた足首を見ると、転送術に使う護符が貼りつけてある。
「そんな……師兄……!!」
桃修苑は全身の痛みをこらえて立ち上がると、結界に向かって走り出した。だが、必死で結界の縁にたどり着いた桃修苑足は、中で繰り広げられている光景を一目見るなり己の目を疑った。
結界の中は、完全なる邪気と混沌の世界だった。
全てが終わったとき、結界の中は楊蓮鋒がただ一人、ぽつんと立ち尽くしていた。静寂の中、糸が切れたように楊蓮鋒は崩れ落ちた。その体が地面にぶつかった瞬間、結界を張っていた人形が一斉に破裂し、結界が解けた。
***
桃修苑が砦で目を覚ましたのは、その日の夕刻のことだった。部屋に控えていた仙士が何やら問いかけてきたが、桃修苑はどの質問にも答えることができなかった。声を出そうにも喉に力が入らず、体は重石を乗せられたかのようにぴくりとも動かず、頭がひどくぼんやりする。仙士は桃修苑がほとんど何の反応も示さないと分かると、廊下に出ていってしまった。何やら相談している声がかすかに聞こえてくるのに、桃修苑はじっと視線を向けていた——やがて再び姿を見せた仙士は、桃修苑にこう告げた。
「
そして翌朝、劉子尽が砦にやって来た。昨日のうちに全ての手筈が整っていたのだろう、桃修苑の部屋の戸がそっと開けられたのは日が昇ってすぐの頃だった。人の気配でぼんやりと覚醒した中で、桃修苑は劉子尽の低い声が仙士と話しているのを聞いた。
「……はい、昨日の夕刻に薬を与えてから、ずっと眠っておられます。まだ目は覚めていないかと思いますが……」
仙士は桃修苑にそっと近づくと、劉子尽に手招きした。だが、桃修苑は、その時には早くも深い眠りに引き込まれようとしていた。たった二人の会話に聞き耳を立てることすら、今の彼にはとてつもない重労働なのだ。そのために、劉子尽が枕元に立った時には、桃修苑は再びゆっくりと寝息を立てていた。一瞬だけ、劉子尽に手首を触られて、桃修苑の意識が浮上した。だが、桃修苑はすぐにまた寝息を立て始め、劉子尽の憂いに満ちたため息を聞くことはなかった。
桃修苑がはっきりと目覚めたのは、太陽が高く昇った頃だった。まず感じたのは、昨日よりはいくらか気力が戻っていて体の重さもいくらか取れている、ということだった。横になったまま部屋を見回す桃修苑の目に、机の上に置かれている読みかけの書物が映った。つい今しがたまで誰かが読んでいたようなその様子に首をかしげていると、扉が音を立てて開いた。
「修苑、起きておるか?」
耳に飛び込んできたのは劉子尽の声だ。桃修苑は胸の内にどっと安堵があふれるのを感じた。
「師、父……」
どうにか声を絞り出して呼びかけると、劉子尽ははじかれたように桃修苑の枕元にやって来た。手に持った盆からは、薬の匂いがぷんぷん漂っている。
「修苑、起きていたか。気分はどうじゃ?」
そう尋ねた劉子尽の声音には、心配の色がありありと現れている。桃修苑は質問に答えようと口を開いたが、すぐに一昨日のことを思い出して
「師兄……ょ、楊、師兄は、」
と言った。
「分かっておる。一蓮鋒なら隣の部屋じゃ、例の件のあとからずっと眠っておる……外傷も内傷もなく、邪気に毒された様子もない」
劉子尽が苦々しげな顔でため息をついた。
「問題はお前の方じゃ。こんなに霊気を失いおって、一体全体何があったのじゃ?今すぐ話せとは言わぬが、中原各地の仙士を集めてもお前たちほどの使い手はそうそうおらんのじゃぞ。そんなお前たちが揃って寝たきりになるなど不可解にもほどがあるわい。それに今すぐ何か腹に入れんと、せっかくの桃木が枯れてしまうぞ」
「桃木……」
桃修苑はぼそりと呟いた。桃木に妖魔は寄り付かない、と告げた楊蓮鋒の顔が脳裏に浮かぶ。
「師兄も、私のことを桃木と呼びました」
劉子尽が眉を上げて桃修苑を見る。
「何かあったら、師兄を置いて結界を出ろと言われて……その時に、続けてこう言われたのです、『妖魔は桃木に寄り付かない』と」
桃修苑はどうにか言葉を繋いだ。劉子尽は眉間にしわを寄せて聞いていたが、やがて深くため息をつくと、
「やはり、分かっておったのか」
と言った。
「師兄の身に何があったか、ご存知なのですか?」
覇気のない声で尋ねた桃修苑に、劉子尽は頭を振った。
「今はこの話をするべきではない。先だってはお前の回復じゃ。まともに話ができる状態でなければ、何を言っても理解できまい」
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