危機

 隴河は昔から焔獄界えんごくかいからの侵略を何度も受けており、数ある「凶」の地の中でも特に危険な土地だ。それゆえに、隴河の砦には選りすぐりの仙士が派遣されていた——その仙士たちが束になってかかっても、くだんの妖魔にはまるで歯が立たなかったらしい。遺体を安置している部屋に通され、ずらりと並べられた亡骸を見た楊蓮鋒と桃修苑の頭に真っ先に浮かんだのはそのことだった。

「砦のあちこちに戦闘の跡があるが、通路が新しく開かれた痕跡はない。当然邪気の痕跡も残されていない……青陵の砦とまるで同じだ」

 楊蓮鋒が呟くと、遺体を調べていた桃修苑があっと声を上げた。

「師兄!彼らにも、剣で斬られたような傷があります!」

 急いで駆けつけて上から覗きこむと、しなびた胸元に刺されたような跡が残されているのが見える。これも青陵の仙士の死体と全く同じだ——楊蓮鋒は桃修苑の傍らにかがみこむと、遺体の胸元を横から覗きこんだ。じっと傷を見つめたのち、傷の真上で印を結ぶ。すると小さな陣が現れ、傷口に内力を注いでいく。傷の付けられたときと霊気を吸われたときの関連を探っているのだろう、桃修苑も案内役の仙士も一歩引いたところで静かに楊蓮鋒の手元を注視していた。ところが、途端に楊蓮鋒が顔をしかめたと思うと陣が消え去り、楊蓮鋒は呻き声とともに後ずさるとふらりと座り込んでしまった。

「師兄!どうされたのですか!?」

 桃修苑は慌てて駆け寄った。楊蓮鋒は腕をぎゅっと押さえ、荒い息をついてじっと痛みに耐えている。桃修苑が何度か呼びかけると、楊蓮鋒はようやく震える息をついて、血の気の引いた顔を上げた。

「傷が少し痛んだだけだ。どうということはない」

「ですが……」

 反論しようとした桃修苑を無視して楊蓮鋒はふらりと立ち上がった。それまで成り行きを見守っていた仙士は桃修苑以上に驚いたらしく、壁に貼りついて目を見開いたまま二人を交互に見ている。

「申し訳ないが、少し休ませて欲しい……どこかの部屋を使わせてはもらえないだろうか?」

 楊蓮鋒に聞かれて初めて、仙士はようやく緊張が解けたように目をしばたいた。

「ああ、でしたら、逗留用の寝室にご案内いたします」

 あたふたと動き出した仙士に礼を言うと、楊蓮鋒は桃修苑の方を振り返った。

「修苑、すまないが、この場はお前に任せるよ。あとで話を聞かせてくれ」

 こちらへ、と促されるまま、楊蓮鋒は仙士について部屋を出ていってしまった。一人残された桃修苑は、楊蓮鋒の気がまだ残っている遺体に目をやった。

 桃修苑とうしゅうえんは、楊蓮鋒と同じ手順で傷口の上に陣を張り、自身の功力を少し加えてさらに気を循環させてみた。傷の深さ、幅、付けられたのはいつかなど、気の巡り方からそうしたことが読み取れるのだ。どの遺体にも鋭利な刃物で一突きにされた傷があり、場所はどれも急所からは外れている。傷の様子から察するに細身の長剣が使われたらしく、さらには砦の壁中に残る斬り傷と同じ剣、同じ剣法が使われたらしいことはすでに分かっている。果たして下手人は、仙士たちを一人で襲い、急所を外して重傷を負わせて動きを封じてから霊気を吸い取ったらしかった。それも、戦闘の最中から徐々に霊気を吸い取り始め、胸を刺されて抵抗が弱まったところを一気に霊気を吸い上げて殺してしまうという、見たこともない手法だ。そして、この凶行に使われた剣と剣法は仙士たちの使うものと同じであるらしかった。

「なんと……では、下手人は妖魔で仙士だというのか?だが、仙士が妖魔に憑りつかれたという話はさらに聞いたことがないぞ」

 桃修苑は腕組みをして天井を仰いだ。人間界に長らく潜み、剣の扱いに長け、何人もの仙士と渡り合い、その全員の霊気を喰らっておきながら邪気を一切残さない謎だらけの妖魔。使われた武器は仙士の使うものと同じ細身の長剣で、剣法も仙士のものと同じ。傷跡のほかに残されているのは見たことのない妖魔の紋章——

「うーむ、これは一体どうしたものか……」

 楊蓮鋒であれば何らかの仮説を立てているところだが、自分は彼ほど頭が回らない。部屋を歩き回り、うんうん唸る間にも、謎ばかりが頭の中でぐるぐる回って一向に繋がる気配を見せてくれない。桃修苑はお手上げとばかりにため息をつくと、部屋を後にした。


 桃修苑が向かった先は、楊蓮鋒の休んでいる部屋だった。廊下ですれ違った仙士に場所を聞き、言われた部屋の扉を叩くと、中から彼の穏やかな声が聞こえてきた。

「師兄、具合はいかがですか?」

 中に入りながら尋ねると、大丈夫だ、と楊蓮鋒は笑顔を見せた。上半身を起こした彼は、たしかに顔色が良くなっている。

「まだ少し痛いが、だいぶましになってきたよ」

「それは良かった。ですが、念のために傷を見せていただけますか?悪化しているかもしれませんし」

 桃修苑は寝台の脇に椅子を引いて腰を下ろし、布団の上に置かれている楊蓮鋒の右腕に視線をやった。楊蓮鋒は言われるままに上半身を起こすと、包帯をほどいて桃修苑に差し出した。

「先の反噬はんせいが気になるのだね?」

 手首の内側に指を添えて脈を見ている桃修苑に、楊蓮鋒は話しかけた。桃修苑は診察の手を止めずに答えた。

「ええ。妖魔から受けた邪気が体内に残っていて我々の使う陽の気とぶつかり合っているのかもしれませんし、奴らの毒気のせいで化膿や壊死が起こっているとしたらそれこそ大事です。今見ておくに越したことはないかと」

 経脈に異変がないことを確かめ、傷口を観察し、腕を軽く揉んで筋肉に異常がないか確認する。幸いなことに経脈にも筋肉にも異常はなく、傷口も順調に塞がってきているようだった——桃修苑は安堵のため息をつくと、包帯を取って楊蓮鋒の腕に巻いていった。

「特に異常はないようですね。私のつたない見立てでは、ですが……」

 それを聞いて、楊蓮鋒も胸をなで下ろしたらしい。

「それで十分だよ、修苑。ありがとう」

 包帯を巻かれた腕を袖に仕舞うと、楊蓮鋒は桃修苑をもう一度見据えた。

「それで、お前の方はどうだった?何か分かったか?」

「遺体の傷を引き続き調べたのですが、あの傷は仙士の剣と剣法によって付けられたものでした。奴は戦闘の間に徐々に霊気を吸い取りはじめ、剣で一突きして重傷を負わせてから一息に吸い上げたのかと」

 桃修苑の答えに、楊蓮鋒はなるほどと頷いた。

「だからどの傷も急所を外れていたのだな。生きている者からしか霊気は吸い取れないから、剣で殺してしまっては目的が果たせないわけだ」

「はい。ですが、下手人の妖魔は我ら仙士の中に潜んでいるということになりますが、そのようなことが果たしてあり得るのでしょうか?」

 桃修苑が言うと、楊蓮鋒は右手をあごに当ててふむ、と呟いた。

「仙士であろうとなかろうと、人間が妖魔に成り果てて他の人間の霊気を喰らうようになれば、必ず我らの羅盤に引っかかる。人間の見た目を保っていても魔化していることが絶対にばれる上に、羅盤にかかるようになれば浄化も不可能だ。その者のためにも殺してしまうのが決まりだから、生き延びることも難しい」

 桃修苑は、つらつらと考えをまとめていく楊蓮鋒をじっと見つめていた。ずり落ちた袖からは包帯を巻いた腕が見えている。桃修苑はふと、あることに思い至った。

「……そういえば、南方からの帰途で妖魔に遭遇し、私が大怪我を負ったのはいつだったか?」

 誰にともなく呟いた一言だが、楊蓮鋒の耳にはきっちり届いていたらしい。楊蓮鋒は桃修苑を見ると、

「一ヶ月ほど前ではなかったかな?あの時は本当に肝が冷えた……あらゆる手を使って邪気と毒気を抜きとって近場の砦に連れていったのだ、忘れるはずがない」

 と言った。

「それから私が目覚めるまでの三日間、師兄はどちらにおられたのです?看病に当たっていた仙士があなたを呼べと言っていたのを聞いた覚えがあります」

「言わなかったか?私は逃げた妖魔を追っていた。無傷でというわけにはいかなかったが成敗もしたし、お前が目覚めたときには砦に戻っていたよ」

 楊蓮鋒は、腕組みをしてうつむいた桃修苑の顔を覗きこんだ。

「どうしたのだ、修苑。何が引っかかっているのだ?」

 桃修苑は、うつむいたまま答えた。

「この件と関係があるかは分かりませんが、やはりその時のことが気になるのです。あの時私は毒気を蓄えた妖魔に胸をひと掻きされたと聞きましたが、そのような怪我から一ヶ月でここまで回復できたことがまず信じられません。痛みもないし傷が疼くこともないし、法術も剣術も不自由なく使えます。傷跡もほとんど消えています。もちろん師兄が全力を尽くしてくださったことは承知しておりますが、それでもやはり……」

 楊蓮鋒は、何も言わずに布団に目線を落とした。あの時の処置について彼に言えば、純粋で正直な彼は血相を変えて自分を責めるだろう。だが、自身に起きた異変がその代償である可能性も見過ごすことはできない。楊蓮鋒は深呼吸をすると、修苑、と呼びかけた。

「怒らないで聞いてほしいのだが、実は——」

 その時、低く唸るような地鳴りがあたりに響いた。桃修苑がはじかれたように廊下に出ると同時に甲高い警鐘が鼓膜を打つ。大慌てで駆けてきた仙士に何事かと尋ねると、仙士は息を切らしながら震える声で答えた。

「つい先程、羅盤に反応がありました。焔獄界との境目が破られようとしています!」

「何だと!?よりにもよってこんなときに……」

 桃修苑はギリリと歯ぎしりした。砦は壊滅状態、楊蓮鋒も本調子でないとなると、勝機は目に見えて低くなる。すると、楊蓮鋒が落ち着き払った声で尋ねた

「犠牲者の後任はいつ来るのかね?」

「夕刻には到着すると、劉子尽様からは聞いています。ですが、このままでは……!」

 そう訴える仙士の手はガタガタと震え、二人を見るまなざしには絶望の色がありありと浮かんでいる。桃修苑はすがるように楊蓮鋒を見た。楊蓮鋒は右手を口元に添えて、何やら考え込んでいる。

「修苑、たいしんとうぐうの用意は持ってきているか?」

 突然の問いに、桃修苑は一瞬目をしばたいた。が、すぐに思い至って懐に手を当てる。

「はい。万が一に備えて、陣が張れるだけの数は持ってきました」

「よし、ならばどうにかできそうだ」

 楊蓮鋒はそう言うと、布団から出て長靴を履きだした。

「替身桃偶を使って陣を張り、私と修苑でできるだけの時間を稼ぐ。君はその間に応援を呼ぶのだ。修苑、先に行って場所の確認を頼む!」

 楊蓮鋒の指示に応じると、仙士は挨拶も忘れて慌ただしく去っていった。桃修苑も部屋を飛び出して、外壁へと続く階段を駆け上がる。辺りに広がる荒涼とした景色には、まだこれといった変化は現れていない——桃修苑は羅盤を取り出して、針の止まった方向を見た。濃い邪気に包まれていると示されたそこには、裸の丘がぽつりとあるばかりだ。

 石の階段を駆け上がる足音に、桃修苑は扉を振り返った。長剣を背負った楊蓮鋒が出てくるなり、羅盤と同じ方角を指して言う。

「羅盤が指しているのは砦の北側、あの丘の方です。」

「分かった。では行くぞ!」

 楊蓮鋒はそう言うと護符を取り出し、二本の指で挟み持った。桃修苑も同じように護符を取り出して二本の指で挟み、顔の前で構える。二人の足元に結界が現れ、小さな円の中に内力が充満したかと思うと、パッと光を放って二人は外壁から姿を消した。

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