言葉は卵の殻である

暮沢深都

言葉は卵の殻である

 言葉は卵の殻である。

 これは隠喩という修辞を用いた表現で、二つに共通するものを抽出している。それによって、まざまざと様子が思い浮かべられるなどして、表現がより豊かになっている。

 普通に考えて、言葉は卵の殻ではない。言葉はそもそも実体を持たないし、食べられるものではないし、そこから生命が誕生するわけでもない。同様に、人間は卵の殻を口から発することもないし、人類が記憶をするために卵の殻を活用してきたわけでもないし、異国に行って卵の殻という概念が全く通じないわけではない。ブラジルに行っても、卵の殻は炭酸カルシウムでできているだろう。

 したがって、「言葉は卵の殻である。」という文章は論理的に正しくない。だが、言葉と卵の殻には共通項があり(少なくとも私はそう考えている)、それ以外を捨象して言うのであれば、先の文章は正しい。

 なぜ正しいと言えるのか? それは、言葉と卵の殻のあいだに共通する部分があるからだ。

 卵の殻と言えば、それを割ることで中身の卵白や卵黄を取り出すもの。多くの場合、卵を店で買ってきたとき、人は卵の殻ではなく卵の中身を求めているのだ。やけに軽い卵を買ってきて、卵焼きでも作ろうと割ってみれば、中には何も入っていないのである。そんなことがあれば、すぐさま店に文句を言いに行くだろう、あなたは。

しかし、どんな気の利いた店でも、予め割られた卵を売っていることはない。卵の中身がとろりと垂れている状態では、持ち帰るのに不便だし、鮮度にも不安がある。

つまり、卵の殻は、本来の目的を保護するために硬くなっていて、それにより持ち運びも容易である。その中身は、指先でつつけば容易に形を変えたり壊れてしまうほどに脆い。しばらく文章は続くが、これを覚えていてほしい。


 言葉と言えば——きっと、多くの人は「言葉」という言葉の意味を調べたことがないだろう。現に、今の私も、辞書に何と書いてあるかは想像がつかない。この次の文章を書くまでに調べておこう。

 手元の角川辞典で「言葉」を引いてみると、①言語。とあった。以降も似たような、語句、言葉遣い、といった定義が続く。

 では、「言語」を引いてみることにする。

【音声または文字により人の思想・感情を表わし、伝達するもの】

 なるほど、確かにそんな気もする。しかし、ここに私はひとこと加えたい。

「意味」を引いてみると、

【①ことばで表わされる内容。わけ。意義。】

 とあるのだ。「言語」という言葉を定義するのに「意味」は必要ないのかもしれないが、「意味」という言葉を定義するのに「ことば」は必要らしい。意味を有しない言語——すなわち、無意味な文字列は言語ではないのだろう。しかし、言語化されない印象や感覚に意味は与えられないのだろうか……? また今度、考えてみよう。

 とにかく、意味と言葉はあまり切り離して考えるべきではないのだ。というわけで、私がひとこと加えた結果がこちらになる。

【音声または文字により人の思想・感情を表わし、「それらを意味として内包し」伝達するもの】


 意味は卵の中身である。

 例えば、「夢」という言葉は、どういった意味があるだろうか。

ある人は、睡眠しているときに見るものだと考える。ある人は、将来のやりたいことだと考える。

 どちらも一般的に認められている定義であるが、あなたが先に思いついたのは、どちらだろうか?

 あるいは、私の下の名前は「夢」で、親はこういう意味で名付けて……と考える人もいるかもしれない。人によって、言葉の定義は、多かれ少なかれ違いがあるのだ。

卵の中身にも、多かれ少なかれ違いがある。平均より高価な卵は卵黄が朱色がかっていたり、張り裂けそうなほどに膨らんでいたりする。味もよいだろう。だが、卵の中身——「夢」という言葉を説明するために、いちいち「寝ているときに見るやつで、突拍子もないことが多くて、自分の願望が現れているとか言われている、あとは将来の自分の理想像とかだったりもする、あれについてのことなんだけどね……」などと意味を説明していては不便だ。そういった価値観を人間で共有するためにあるのが、言葉である。言葉は非常に簡略化された記号である。

 ひとりひとりが持つ言葉の意味を正答として、この言葉はどういった意味か。と聞かれて辞書を引けば、おおむね八割の部分点が貰える程度だ。二割の意味を犠牲にしても、価値観を共有し意思疎通が格段にスムーズになるというメリットが生まれる。その折り合いをつけた位置にあるのが、言葉である。

 例えば、法解釈についての論争がある。憲法9条に則って自衛隊は違憲なのか合憲なのか、といったものは代表的だ。

 なぜそのような事態になっているのかと言えば、それは意味を言葉にする際に、便宜上、二割を削ぎ落してしまったからではないだろうか。人によって、憲法によればここまでは認められる、という線引きが違ってしまう。しかし、少なくとも「国際平和を求める」「国際紛争を解決する手段として武力行使はしない」点については、合憲派も違憲派も認めているであろう。それが八割だと私は考える。そのために、「自衛隊の所有」が「武力」にあたるのかなどが争点になっている。

 ただ、言葉というものを人間で共有していることによって、八割だけの合意は得られているのだ。十割の合意を希求するのは、すべての個人の解釈を満たす言葉を目指すことだ。しかし、その存在が可能なのは数学世界に限られるのではないだろうか。専門外なので細部は分からないが、数学世界は緻密な論理が要求され、「この事例ではどうなるのだ」と文句をつけられるような、場合分けの漏れ、などが生まれない証明を書かなければならない。

 言語はそうではない。各人が持つ言葉の意味は違うのに、その言葉は人間で共有されている。数学記号としては同じなのに、プラスの意味が人によって違ったりするようなことが生まれているのだ。辞書によって言葉の定義に差があるのは周知のことだろう。だいたい合っているからOK、が容認されるために、言葉を共有することで世界は秩序を保っている。

 また、個人の持つ言葉の意味は変容する。

 勉強が嫌いだった人が大学に入ったのを境に、好きなことについてであれば勉強が好きになる、といったことは大いに考えられる。その人の考える、勉強という言葉の意味は、大学に入る前後で違うはずだ。卵の中身も容易に形を変える。

 多くの場合、変容するのは二割の部分である。勉強が好きか嫌いか、などは個人によって変わる。だが、勉めて強い、という訓読から分かるように、努力を要することである、というのは広く認められるだろう。ここで「努力」の意味が個人によって違うこともあろうが、ここでは八割の共有に委ねることとする。


 したがって、卵の殻は言葉であり、卵の中身は意味である。私はそう考えている。

 一連の思考を言語化したところで何かが変わるわけではないが、これが言葉の面白いところだと思う。十割の思考を、二割を犠牲にしながらも他人と共有することができる。

 以上の文章を読んだあなたに伝えたいことが特にあるわけではない。私は十割の思考を提示したつもりだが、伝わっているのは八割もないだろう。いや、一割でも雰囲気が伝わってくれれば、それで十分だ。それを踏まえてでも、何かを考えてみるきっかけになれば嬉しい。

 思考に終わりはなく、無料かつ最高の娯楽である。

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