第3話
◇
昨晩、彼の血の味を知った。
それは予想通り、私に最高の多幸感をもたらしてくれた。
やっぱり、私の見立ては間違ってはいなかった。
これから彼をどうするか。想像するだけで、たまらない。
◆
目が覚めた。
とても頭が痛い。吐き気もする。どうやら二日酔いのようだ。
ベッドから身を起こす。しかしそこは僕の知っている自分の部屋ではなかった。
「どこだ、ここ」
周囲を見渡してみる。大きな窓から朝日が差しており、とても豪華なカーテンが左右に留まっている。その傍には年季の入っていそうな衣装タンス。レトロなダイヤル式の黒電話、万年筆とインクが置かれている机。そして極めつけはこのベッドだ。キングサイズとでも言うのだろうか、僕が三人以上余裕で寝られるほどの大きさがある。何処かの高級ホテルだろうか?そんな事を考えているとくしゃみが出た。
「さ、寒い…」
目線を下に落として、自分の姿をよく見る。なんと全裸だった。まだ5月の朝だ、流石にこんな姿のままじゃ肌寒い。
僕が着ていた服は何処に行ったのかと、ふと横を見ると、男性の部屋着と思しきものが置いていった。
「やっぱりここ、ホテルなのか?」
そう思った時、部屋のドアが開いた。そこに居たのは黒いメイド服を身に纏った年若い女性だった。
「築嶋浩太様、おはようございます。ご気分は如何ですか?」
「気分?えっと、たぶん二日良いかも。吐き気は少し収まったけど、頭がまだ痛い」
「左様で御座いますか。それでは此方に二日酔いに効くお薬を置いておきます。お着替えがお済になりましたら、教えてください。私は部屋の外で待っておりますので」
そう言うとメイドはぺこりと頭を下げて、部屋を後にした。
「最近の高級ホテルのモーニングコールって、こんな感じなのかな?」
その後、傍に置いてあった服を着て、先程置いて行ってもらった薬を飲んだ。
それにしても、僕はどうやってここに来たんだろうか?未だに寝ぼけている頭をフル回転させ、昨晩の事を思い出そうとする。
たしか、博則達と別れた後に小夜子さんに会って、そのままBARに行って二人で飲んでいて…。ダメだ、そこから先がどうにも思い出せない。
まるでその記憶の部分だけ、
部屋から出ると、廊下に先程のメイドが立っていた。
「お食事の用意が整いました。ご案内いたします」
メイドは廊下を歩きだした。僕はメイドの後に、とりあえず付いていくことにした。
「あの、ここは何処なんですか?見た感じ、相当立派なホテルみたいですけど」
僕はメイドに問いかける。メイドはこちらに振り向かず、艶やかな長い黒髪を揺らし歩きながら答えた。
「ホテルでは御座いません。ここは芦原家のお屋敷です。貴方は小夜子様に介抱されてここにやって来たのですよ」
「芦原…小夜子。小夜子さん?それに屋敷って…」
介抱。小夜子さん。屋敷。ばらばらになっていた記憶が繋がる感覚がした。
そこで僕は今までに起こった事を全て思い出した。
◇
私は浩太さんとプライベートで良く訪れるBARに入っていった。
木製の玄関の扉を開ける。煌びやかな鈴の音色が店内に鳴り響いた。
「いらっしゃいませ。おや?今日は1人ではないのですね」
顔馴染みのマスターが少々驚いた様子で話しかけてきた。それもそうだ、ここは普段私が1人でしか来ない秘密の場所。同伴者を連れてくることなんて滅多にない。
「ふふっ、はい。今日は2人です」
私は浩太さんの手を取り、カウンターへ腰かけた。
隣を見ると、彼はやけに緊張している様子だった。カウンターの下でずっと手を揉んでいて、落ち着きがない。
「緊張していますか?」
私は優しく問いかける。
「え、えっと。こういう場所は初めてで。何が正解か分からないんだ」
浩太さんは照れくさそうに頭を掻いた。
私はそっと浩太さんの手に触れる。とても暖かい、手の甲の血管が早く脈を打っているのが感じ取れた。
「大丈夫ですよ。ここに居るのは、今は私と浩太さんだけ。普段通りでいいのですよ」
「…そういうものなのか?」
浩太さんは深く深呼吸をした。そして「よし」と呟くと、いつもの落ち着いた雰囲気の浩太さんに戻っていった。
「何を頼みますか?」
「そうだな。ここは小夜子さんに任せる」
「分かりました。では、これにしましょう」
私はマスターに、ロゼワインを注文した。暫くしてワインとチャームが運ばれてきた。
「マスカット・ベーリーA。甘口で飲みやすいロゼワインです」
マスターは2人分のワイングラスに、鮮やかなピンク色のワインを注ぐ。グラスに注がれる度、フレッシュで甘い香りが漂う。
「…では、乾杯しましょうか」
「乾杯」
私と浩太さんは、ワイングラスを軽く当てた。
「そうだ。この間お借りした小説の原稿、お返しします」
私はカバンから原稿用紙入りのファイルを浩太さんに手渡した。
「えっと、どうだった?気になる点とか言ってくれれば、今後の創作にも役立つから、遠慮なく言ってほしい」
「作品はそれは素晴らしい物でした。物語の描写もそうですが、作中の登場人物の心理描写が繊細に書かれていて…」
私は感じた事を全部彼に話した。浩太さんは顔を真っ赤にして照れていたが、とても嬉しそうだった。
「そっか、小夜子さんが気に入ってくれてよかったよ」
「ふふっ、これからの作品も是非読ませてくださいね」
私と浩太さんは笑い合った。
それから暫くは、お互いの身の上話で盛り上がっていた。しかし浩太さんは、一向に私の目を見て話そうとはしない。体はこちらに向いているが、顔はずっとカウンター奥のボトル棚を見ていた。
ここは正直に話を切り出そう。彼のその真意を知ることが出来れば、コントロールはずっとしやすくなる。
「浩太さん。貴方は何故人を避けているんでしょうか?」
「…え?」
ワインを飲む浩太さんの手がピタリと止まった。
「あれから度々、浩太さんを構内で見かける事がありまして。その時の浩太さんは極度に人を避けている様でした。講義の際も端の方で1人ぽつんと座っていたり、学食の際もヒロさん以外とは席を一緒にしない」
私は喋り続ける。彼の口からは何も出てこない。浩太さんはグラスに半分近く残っていたワインを一気に開けた。
「浩太さんは私と出会った時も、そして今も私と目を合わせてくれないですよね。それに、手を繋いだ時も早く離して欲しそうでした。そこまでして人を避けるのは、どうしてなのですか?」
2人の空間に静けさが訪れた。
いけない、聞いてはいけないことを言ってしまったのか?早く自分の物にしたいという焦りが出てしまった。失敗した。
「…過去に人と深く関わったせいで、自殺未遂を起こした。簡単に言うと、僕は人間不信なんだ。だから他人を避けている」
「え?」
空のワイングラスを眺めながら。浩太さんは私に吐露した。
「そういう過去があったって事を知ってさえくれればいい。この事実を知っているのは、僕の家族とヒロだけ。今は小夜子さんにも話したけど」
「…どうして、出会って間もない私に話してくれたんですか?」
浩太さんはロゼワインのボトルを掴み、グラスの八分目まで注ぐとそれを一気に飲み干した。
「相手が小夜子さんだからかな?よくわからない」
「そうだったのですか。すみません、変なことを聞いてしまって…」
「いや、気にしてないよ」
気にしていない訳がない。その証拠に、浩太さんはボトルのロゼワインを全部飲んでしまっている。最後の一杯を飲んだ瞬間、彼は嗚咽を漏らしながら泣いていた。
「未だに人間が怖い。普段は笑顔でいても、その仮面の奥はどんな顔をしているのか分からないんだ。本音を言うと、今隣に居る小夜子さんも怖い」
「…」
私はそっと浩太さんの両手を握りしめ、優しく問いかけた。
「今の浩太さんに、私はどのように映っているのですか?」
浩太さんは、濡れた瞳で私の顔を見つめた。
「ぼやけているよ」
「よく、見てください」
私と浩太さんは暫く見つめ合った。
「分からない。今見えている小夜子さんは、本当に小夜子さんなのか」
「私はわたしですよ」
私は浩太さんの目に溜まった涙を拭ってあげた。眼鏡の奥の栗色の瞳に、私の姿が映っている。
「やっと私と目が合いましたね?」
浩太さんははっとして、軽く後ろに仰け反った。
「あっ、ごめん」
「どうして謝るのですか?浩太さんは何も悪いことしていませんよ?」
「えっと、なんて言うか。その」
浩太さんは顔を真っ赤にしながら、眼鏡の位置を直した。
「ぼ、僕酒臭いかなって」
「酒臭い?」
私はその言葉に思わず吹き出してしまった。こんなに笑ったのは何時以来だったかしら。
「いや、僕結構飲んでるし。大丈夫かなって」
「いいえ。気になりませんわ」
滲み出た涙を拭い、軽くワインを傾ける。あぁ、人と飲むお酒はこんなにも楽しい物なのか。
今、幸せを感じているこの人を食べたら、私はどうなってしまうのだろうか。
◆
目が覚めると、車の中だった。舗装されていない山道を走っているのか、車内が小刻みに揺れている。
完全に飲みすぎた。
普段から酒は飲まない方だし、寄りにもよってワインボトルを半分以上も開けてしまった。博則達と飲んでいた時もそれなりにお酒は入っている。
「気が付きましたか?」
隣には小夜子さんが座っていた。心配そうな顔でこちらを伺っている。
「…うん。大丈夫、大丈夫」
そう呟いた途端、吐き気に襲われた。すかさず小夜子さんがビニール袋を差し出してきた。僕は今までにないくらいに吐いた。
「ごめん、ごめん、ごめん…」
僕は朦朧とする意識の中で、小夜子さんに向かって謝り続けた。
その時の小夜子さんの顔は、まるで聖母像の様な笑顔だった。
次に気が付くと、薄暗い部屋のベッドで寝転がっていた。仄かにアロマオイルの香りがする。
僕は頭に痛みを覚えながら、ゆっくり起き上がった。外は未だ暗い。
「起きましたか?」
部屋の奥に小夜子さんがいた。が、様子がおかしい。
彼女の横のテーブルに目をやると、ワインのボトルとグラスが置いてあった。今の今まで飲んでいたのか?
「さ、小夜子さん?」
彼女は僕の声に応えず、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。薄暗いせいで彼女の姿がよく分からなかったが、徐々に暗闇に目が慣れていくと、とんでもない物が映り込んだ。
彼女は下着姿だった。レースの着いた薄桃色の、ランジェリードレスとかいうものだろうか。
言葉が出なかった。初めてこの目で見る、小夜子さんの、いや女性の下着姿。
何もかもが夢幻の様だ。そうだ、これはきっと夢だ。僕は思いっきり頬を抓ってみた。しかし、目の前の景色は変わらない。
「ふふっ。夢、だと思ってますね?」
「え…」
「これは現実、ですよ」
小夜子さんはベッドの傍の棚の中から、液体の入った小瓶を取り出し、それを口に含んだ。そして、いきなりキスをしてきた。
「!!!」
突然の初めてのキス。舌と舌が絡み合い、甘い味の唾液とほろ苦い液体が僕の中に流れ込んでくる。
暫くして、彼女の唇は細い透明な糸を引きながら、ゆっくりと僕の口から離れた。
「…初めて、なんですよね?」
「……」
僕の頭は完全に固まった。恐らく今の僕は頭の天辺まで真っ赤に染まっている事だろう。
と、次の瞬間。強烈な渇きに襲われた。
だんだん呼吸が荒くなっていくのが分かる。体温が上昇する感覚がある。下半身が今までにないほど女性を求めているのが分かる。彼女もどうやら同じ状態に陥っている様だ。
彼女がゆっくりと下着を脱ぎ始める。胸の形から、何もかも露わになった彼女の身体が目の前に現れた。
僕の理性は辛うじて意識を保っていた。しかし、未だアルコールが抜けきっていないのか、油断をしたら飛んでしまいそうだった。
「浩太さん、大丈夫です。私に身を委ねてください…」
彼女はそのまま、再び僕に覆いかぶさる。そこで僕の意識は限界を迎えた。
行為の途中、何度か首筋に痛みを感じその度に意識を取り戻した。
小夜子さんの香り、小夜子さんの感触、小夜子さんの味、小夜子さんの声、小夜子さんの表情、小夜子さんの…。
起きている間の記憶はどれも鮮明に、頭と体に刻み込まれた。とても、幸せな時間だった。
「えっと、貴方は誰ですか?」
「申し遅れました。エマと申します。この屋敷の管理や清掃、小夜子様の身の回りの手伝いをしております」
エマと名乗るメイドは立ち止まりこちらに振り返ると、深々とお辞儀をした。
「小夜子さんは今どこに?」
「小夜子様は食卓にて貴方をお待ちになっております。一緒に食事がしたいとの事でしたので」
「一緒に食事か…」
あの夜の出来事があった後に、一緒に食事をすると思うと不安で仕方がない。まともに彼女と話が出来るのだろうか?
暫くエマについて行くと、「Dining Hall」と刻まれた掛札が見えた。
「こちらでございます」
エマが扉を開けた。その奥には、豪華な装飾が施された長テーブルが置かれていた。その奥に彼女は居た。
「おはようございます。浩太さん」
彼女は笑顔でこちらに挨拶をしてきた。
「…おはよう、小夜子さん」
僕も、彼女に挨拶を返した。
「小夜子さんは、どうして僕にここまでしてくれるんですか?」
ずっと感じていた素朴な疑問を、彼女に投げかけた。
「…それは。浩太さんに一目惚れしたから。という回答でいいでしょうか?」
それって、小夜子さんは僕の事が好きとだ言っている事だよな?
確かに、僕も彼女に一目惚れした。それは認めるけど、どうしても恐怖が勝ってしまう。こうなるんだったら、もっと早くに博則の誘いに乗って、人間に慣れておくんだった。
「えっと、僕も小夜子さんが好きだ。けれど、僕らはまだお互いの事をよく知らない。だから、まず友達から始めたいんだけど、小夜子さんはそれでもいいかな?」
これは僕なりに考えだした解だった。
「もちろんです。私は何時までも待っていますから」
そうこうしていると、エマが料理を運んできてくれた。
「朝はタンパク質を取るといいって、知っていましたか?目玉焼きとソーセージ、それとオニオンコンソメスープです」
「…これは、エマさんが作ったの?」
「いいえ、小夜子様がお作りになられたものです」
目の前に運ばれた食事は、まるで高級レストランのモーニングに出てくるような朝食だった。
僕はソーセージを一口食べてみた。彼女が言うには、ブータンノワールという血液を使ったソーセージらしい。血と聞いて多少驚いたが、血の匂いや味は全く無くとても美味しい。
「うまい。すごいな、小夜子さんは。ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして。素敵な作品に巡り合わせてくれたお礼です」
彼女は微笑んだ。そして、珍しく顔を赤面させながら呟いた。
「それと、昨晩の件も併せて…。ですよ」
小夜子さんのその言葉に、僕は危うくナイフを落としそうになった。
彼女はその様子を見て、また微笑んだ。
その微笑みの裏に、恐ろしい怪物が隠れていたという事を知るのは、まだ先の事である。
序章 完
何時か貴方を食べるその日まで ウィル・レクター @FuzzSheep
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