ゾンビメイド
霧
第1話 聖書
古びた外開きの木戸を開くと、カランコロンと鈴の音が僕を出迎える。
真っ白いテーブルクロスがかけられた、人の目に似た木目が印象的なテーブル。古びたジーパンやのりの効いたスラックスを履いた数人の男性客がスマホを見たり、文庫本を開いていた。
「ご注文は?」
黒を基調としたデザインの制服を着たメイドさんが注文を取りにくる。
僕はいつものやつを頼むと、メイドさんは手元の伝票に銀色のボールペンでさらさらと書き込む。やがてお冷が運ばれてきたので、僕は汗ばんだ手でグラスを取った。
柚子の香りが効いたお冷でのどを潤し、鞄から本を取り出した。
文庫本より二回り大きく、手垢で端が茶色く汚れたページをゆっくりと開く。
『私が来たのは地上に平和をもたらすためではない。むしろ逆だ。私は地上に剣を投じるために来た』
今読んでいるのは、聖書だ。
言わずと知れたキリスト教の聖典。バイブル。
ミッション系の高校に通っていたが、無宗教である僕はろくに読みもしなかった。だが大学生になり時間ができたころに呼んでみると、新たな発見があって意外と面白い。
意外とエロいところとか。
黙示録なんて中二病心くすぐる設定盛りだくさんなところとか。
二次元の下敷きに多く使われていることに気がつくと、意外と楽しく読める。
今日読んでいるのはマタイによる福音。
古文調のカッコいい文体に興味を惹かれて読み進めていると、柚子の香りとは別の酸っぱい香りが鼻につく。
注文していた紅茶が運ばれてきた。ソーサーの上のカップから熱く湯気が立ち上り、野の花の香りを運ぶ春風のような甘さが肺を満たした。
いつものように伝票がカップの隣に置かれないことが気になったが、喉も乾いていたので紅茶に口をつける。
「いつもと香りが違いますね。茶葉を変えたんですか?」
いつものように軽い会話を店員さんとかわす。
普段なら紅茶のこだわりを熱く語る店員さんから、何の返答もなかった。
肩まで下ろした髪の隙間から、二重のつぶらな瞳が僕を映している。
タイトな制服を押し上げるヒップにちらちらと目をやる他のお客も、今日は誰一人として彼女を見ていない。
というか、店内に全く会話がなかった。
何かおかしい。
そう意識した瞬間、背筋が総毛立つ。
僕は千円札を素早くテーブルに置いて、席を立とうとした。
だが片手を掴まれる感触と共に、僕は強引に席に付かされた。さっき感じた柚子の香り以外の酸っぱい香りが、もっと強くなる。
いや、これは酸っぱいなんてものじゃない。
生ごみの臭いと似ている。腐敗臭だ。
それが僕の手を押さえつけた男性の客から、目の前の女性の店員さんから、いやすべての客から漂ってくる。
「もう、遅いですよ」
昨日までよりずっと高い、それでいてエコーがかかったような声で店員さんが唇を開く。
開いた口から腐敗臭が一層強く感じられ、口の奥から欠けた歯と変色した歯肉が見えた。
僕は手を振りほどいてその場を離れようとしたが、客の手の表面がいつの間にか溶けて、白い骨がのぞいていた。
よく見ると。
僕の腕も、同じようになっていた。
「え……」
店員さんが、円らだけど片方しか動いていない瞳で僕の飲んでいた紅茶を見た。
あれを飲んだのは、このお店がお気に入りになってから、何十回だったろう。
テーブルの上に置かれた本の表紙が目に入ると、ぶちまけたくなるような怒りがわきあがる。
聖書なんてやっぱり役に立たない。さっき読んだ通り、平和なんて来ない。
僕はやけくそ気味に聖書のページを引きちぎって、店員さんや客に投げつけてやった。
「あがっ?」
「あがががぁ」
聖書が触れた個所から白い煙が立ち上り、化学の授業で見た塩酸の中に入ったアルミ箔のように音を立てて腐りかけた体が解けていく。
僕はお金も聖書も置いて、入り口に猛ダッシュした。
まだ聖書を投げつけていない他のお客が進路をふさごうとする。それを避けても、閉じられたドアが最後に立ちふさがる。
背後から迫る、数本の腕。さっき捕まえられた記憶が蘇る。
そして捕まったらどうなるのか。
僕は無意識のうちにドアに向かって体当たりしていた。
格闘技なんて経験皆無だけど。ドアが外開きだったのが幸いしたのか、僕は転がるようにして店の外へ出た。
手足の腐りかけた客や店員が、後ろから襲ってくる気配はない。
振り返ると、さっきいたはずの古びた喫茶店は緑色の看板の、有名なチェーン店に置き換わっていた。
僕はそれから、何度もその店の前を通る。だけど、行きつけの喫茶店を見つけることはもう二度となかった。
だけど、ちぎったはずの聖書は傷一つなく、いつの間にか鞄の中に入っていた。僕はそれ以降、聖書を手放したことはない。
でも本からは、時々酸っぱい香りがした。
何の香りかは思い出せないけど、気持ちが安らぐ。
ゾンビメイド 霧 @kirikiri1941
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