第20話 葉子(悠太)
昨晩のうちにミシェルに電話しておいてよかった。
今朝方から降り始めた雨は、だんだんと勢いを増している。
フロントガラスのワイパーは休む間も無く動き続けている。
朝8時のパリ発ソウル行きの便に間に合うように朝6時に迎えにくるようにミシェルに頼んだ。
朝方の彼は、とても不機嫌だった。無理な願いを聞いてくれた彼に感謝を述べたが、彼の表情は、今日の天気のように沈んでいる。
空港までは由井も一緒に行くという。それからは、ミシェルの機嫌は超回復した。彼曰く、バンザイだ。
空港までの道は空いていた。ミシェルは由井としきりに会話を交わしている。互いにフランス語も日本語も喋れるのだから楽しいのだろう。由井はそんな中でも、僕に注意を払っていた。僕はそんな彼女の視線を感じながらも、車の窓から、雨の降るパリの街を眺めていた。
僕は雨が好きだった。雨に打たれていることが、雨が身体に落ちる感触、羽田から水分を吸収していく感じ、プールや水中とは違った、湿気を含んだ空気、雨に濡れた緑、雨の滴る音。それらは僕を静寂と沈黙に導き、五感をフルに刺激し、自らの生命を実感させられる。国が違おうが、酸性雨が降ろうが、僕は雨に打たれたいと思っていた。
空港に着き、目的の便の出発時間を電光掲示板で確認する。僕はフランス語が読めない。英語の表記も怪しい。由井がいてくれてよかった。彼女は目的の便の搭乗口を僕に教えてくれたし、一緒に葉子の姿を探してくれた。男性が立ち入れない、女性の化粧室まで。
考えてみれば、葉子は僕から逃げているのだ。このまま見つからないことだってありえる。
もしかしたら、この便には乗らないかもしれない。
彼女は僕のフランス入りを知っているのだ。電車で国境越えを果たして、別の国から空路でということだって考えられる。
由井の話によれば、葉子は由井に負けず劣らず、語学が堪能だそうだ。語学ができて、お金があれば、外国の移動では、いくらでも選択肢がある。
僕は、由井が葉子のチケットを見つけたことを、葉子が想定していない事態であったことを願うしかない。
なぜか、僕はここにきて、葉子を追う気持ちが急速に薄れて行くことを実感していた。彼女に以前抱いていた怒りや、会いたいという気持ちも半減していた。
それがきっと血の繋がりということなのだろう。この世界に自分と同じ血を分けた兄弟がいる。自分の分身がいる。そう思っただけで、十分心は満たされる。
僕は葉子を。葉子は僕を。心の中で、繋がりを信じている以上、どこにいようが、何をしていようが、僕らは常にそばにいるも同然なのだ。彼女に会えたら、それはそれでいい。心が冷めて行く。
由井は一向に葉子を探そうとしない僕を非難することもなく、献身的なほど、僕たちのために空港内を探し回ってくれた。
いよいよ目的の便が出発する時間が間近に迫って、葉子は搭乗手続きに現れた。彼女は桜色のワンピースに、白いカーディガン、それに桜色のバックに、白いサンダルを身につけている。遠くから見ても、爽やかで美しい。
フランスであろうが、日本であろうが、彼女の美しさは決して色あせることがない。
彼女は僕らに気がつくと、彼女は急いでゲートの向こうへと消えてしまった。由井は言う。
「悠太。これを持って追いかけて!」
由井から渡されたチケットは、葉子が乗るはずの便名だった。僕は由井の方を見る。
「これ?」
「いいから、早く行きなさい!」
「由井!ありがとう!」
「礼なんかいいから、さっさと行って!」
僕は葉子めがけて走り出した。
ゲートをくぐり、周囲を注視しながら、出発口の番号の乗り場まで急いだ。
早足で出発口まで行き、飛行機に乗り込む。機内は意外にもだいぶ空きがあり、空席が目立った。僕は前の席から丹念に葉子の姿を探して行った。
もし、彼女が、ビジネスや、ファーストクラスに登場していた場合は機内では会うことが叶わないだろう。客のほとんどはアジア系だ。皆、フランスから韓国に帰る人たちなのだろう。いっそ欧米人だけの方が彼女を探しやすい。
葉子はエコノミーの一番後ろの席にいた。僕と目が合うと彼女は観念したのか、落ち着き払った態度で迎えた。僕は彼女の席に隣が空いていたので、隣の席に腰掛けた。
「もう。こんなところまで付いてきて、しょうがない人ね。」
彼女の視線はまっすぐ前を向いている。
「ああ。」
「由井ね。」
まるで独り言のように言う。
「ああ。」
「まあ。あなた一人の力ではここまでたどり着けなかったでしょうね。いろんな人のサポートに感謝するべきよ。」
やっと、僕の方を見て喋った。
「ああ。きっとそれも全部運命だったんだよ。由井が助けてくれたことも、葉子と再会できたことも。」
「男はいつまでたっても、ロマンチストなのよね。困っちゃうわ。あなた、これからどうするつもりなの?もう、私があなたに見つかってしまったのだから、鬼ごっこも終わり。ゲームオーバーよ。これから先は、ただただ現実よ。」
彼女は自嘲気味に笑う。
「とりあえず、帰ろう。」
「帰る?どこに?私にもあなたにも帰る場所なんてないでしょう。」
彼女の口調はやや強まる。
「あるよ。」
「どこよ。」
「僕たちの街。」
「私たちの街?」
「そう、僕たちの街、新宿へ。」
「…。馬鹿ね。」
彼女はそれきり何も口にせず、ただ僕の肩に頭を持たれかけていた。
僕たちは瞳を閉じる。きっとお互いに熟睡できるはずだ。
飛行機は轟音を放ちながら日本へと徐々に近づいて行った。
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます