俤
白河夜船
俤
どうも、先生、ご苦労様です。
外は随分暑かったでしょう。………体調は、悪いのでしょうね。少なくとも良くはありません。でも、前よりは苦しくないのですよ。
心が軽くなったからかもしれません。寂しい、辛い、そういう訳も定かでないのに重々しい、厭な気持ちが最近はちっとも湧かないのです。
具合が悪くて、意識が朦朧とするような時には、そこにいつも弟が居ます。
そんな顔をなさらないでも、分かってますよ。弟は死んでいます。死んでいるから、そこに居るんです。いつでもこの離れに、僕の近くに居てくれる。
なぜ―――という顔をしてらっしゃる。
なぜ、弟は死んだのか。
先生はお優しいんで聞かないけれど、気になってはいるのですよね。お答えしたいのですけれど、実のところ、僕にも本当の事情は分かりません。
僕は物心ついた頃からずっとここに押し込められていて、外のことは弟や先生、お手伝いさんや、本を通してしか知りませんから。あの子が語らなかった以上………いえ、僕が語れなくしたのかもしれません………推し量ることも難しい。
両親、ですか? 彼らはここへ来ないんです。話す機会もありません。あの時だって、来なかったでしょう。どうも、そういう人達のようで。
………………
………………
…………先生。
僕は、もう、それほど長くないのですよね。気を遣わなくても結構ですよ。承知していた方が、身の振り方を考えられるので、むしろ都合が良いくらいです。
ええ。はい。
それならやっぱり、今の内に話しておくべきなんでしょう。御時間大丈夫なら、聞いていって下さいませんか。
ああ。
ありがとうございます。
僕、どうやら、弟を殺してしまったようなんです。
怪訝な顔をしてますね。
弟は確かに自殺で、加えてその日、僕は病気が悪化してまるで動けない状態でした。
責任を感じている、とお思いですか。その通りです。でも、先生が思っているのとは、おそらく違った理由でなんですよ。
床に就いていたので、葬式にも出られませんでしたけど、お手伝いさんから聞きました。弟は、首を切って死んだのですよね。検案は先生が行った―――その時、不審な点がありませんでしたか。例えば、首に
去年の春頃でしたっけ。幼い時分から家族の中で弟だけは、よくここを訪れてくれていたんですけど、それで僕も嬉しくて可愛がっていたんですけど、その頃は少し、白状するとだいぶ、あの子が疎ましくなっていました。
いえ、もちろん可愛いのに変わりはなかったんです。でも、小学生、中学生、と大きくなるにつれて段々と、弟はここで外の愚痴を零すようになりました。あれが辛い、これが苦しい。死にたい。そういうことを云うんです。
僕はいつ何があるかも分からない、病苦の深く根付いた体で、外を自由に出歩くことすら叶わない。健康な、何でも出来る体を持っている弟が、そんな弱音を吐くのを黙って聞いているのは、苦痛でした。
それで、ある日、ついかっとなってしまって、「そんなに苦しいならいっそ殺してあげようか」って弟の首を絞めたんです。本気じゃありませんでした。弟が怯えた顔をしたら、すぐやめて「死にたいなんて気軽に云うものじゃない」って、そう諭すつもりでした。
でも、畳に押さえつけられて、首を絞められながら、弟は
手を離すと弟は、戸惑いがちに目を瞬いて、しばらくぼんやりしていました。自分でも自分が本当に死にたがっているとは、思っていなかったのかもしれません。いざとなれば、きっと恐ろしくなるだろうと、そう―――でも、そうじゃなかった。
僕の行為は、弟の内に漠然と在った渇望に、確固たる輪郭を与えてしまったようでした。
その日から、弟はここで愚痴を零さなくなりました。
代わりに僕以外人が居ない時、首を絞めてくれ、と
そうすると、幾らか晴れ晴れとした表情になって、昔のように何も聞くのが苦しくない、他愛のない話をしたり、無邪気に遊んだりし始めるんです。
弟がそうしてくれることは僕にとって確かに気楽でしたけど、でも、その穏やかな表層の下では、弟が本心から死を求めるような何かが燻り続けていたんです。
平穏な時間に甘えながらも、僕はずっとそれが恐ろしかった。
弟はやがて、もっと強く絞めてくれ、と強請るようになりました。僕の方でも慣れて、次第に加減がなくなって………それで、一度、弟を気絶させてしまったことがありました。
絞め方が悪かったのか、力加減が悪かったのか、よく分かりません。錯乱していましたから、前後の記憶は曖昧で―――――ただ、弟が急にぐったりしたのに気がついて、体を巡る血がさっと冷たくなったのだけは明瞭に覚えています。
恐る恐る確かめると、ちゃんと息もしてますし、顔色も悪くはないようでした。一先ず安心すると同時に、僕は何をしてるんだ、と今更のように罪悪感が湧いてきました。
弟に、こんな、死ぬかもしれないことをするなんて。
弟のまだ幼さの残る顔立ちが、眠った顔のあどけなさが、それらに感じる愛しさが、この子は本来僕が守るべき存在なのだと、まざまざ心に訴えかけてきます。
弟が目を覚ました時、「もうやめよう」と僕は懇願しました。他のことなら、何でもして構わないから、弱音を吐いても、泣いても構わないから、今みたいなことはやめよう、と。
弟は、哀しそうな顔をしましたけれど、存外あっさり承諾しました。僕がいずれそう云い出すと、分かっていたのかもしれません。
それからは、頭を撫でてくれとか、試験の結果を褒めてくれとか、そういう細やかな、子供じみたお願い事をしてくるようになりました。でも、以前のような愚痴は何も云わなくなっていて、その点が何とはなし不安でした。
もうやめよう。その遣り取りをしたのが、紫陽花のぽつぽつ咲き始めた、梅雨時だったと記憶しています。しばらく何事もない日々が過ぎ、首を絞めてくれと強請られていたのが、悪い夢だったように思われてきたある日のことです。
弟の首に、赤黒い痣を見つけました。とっくり襟の服で隠した下にあったのを、たまたま垣間見たんです。そういえば、首を絞めてくれ、と頼んでいたあの頃も、同様の服を好んで着ていた……………それに気づいた時、目眩がしました。
つまり、夏の間何事もない風だったのは、単に都合が悪かったんです。
首を隠せる服を着て構わなくなった途端、弟は今度は僕に頼らず、自分で自分の首を絞めるようになりました。痣の濃さから察するに、相当強い力で絞めていたんじゃないかと思います。自殺念慮のある人間が、自分の裁量で首を絞めるんですから、人にやらせるよりよほど危険です。
また、前のように僕が首を絞めてやろうか。そうすれば少なくとも、知らない内に危ないことになっている………最悪の事態は避けられるんじゃないか。
悩みましたが、どうしても決心がつかないで、弟に悩みがあるなら聞くと再三相談を促すことしか出来ませんでした。
でも、何度訊ねても、困ったようににこにこ笑うばっかりで、弟は何も云わないんです。云って、僕に嫌われるのを、恐れているようでした。
結局、何も問題が解決しないまま、問題が何かも分からないまま、冬になりました。
毎年、冬には体調を崩します。去年の冬は特に悪くて―――先生には、わざわざ云わなくてもいいことでしたね。
ええ。危うく、死にかけました。
何日も意識が朦朧として、傍に弟が居ると分かるのに、何も云ってやれませんでした。何か話していれば、変わったんでしょうか。詮ないことですね。
ようよう体がどうにか落ち着いて、周りのことをはっきり認識できるようになってから、異変に気がつきました。どれだけ待っても、弟が来ない。いつもなら、忙しかろうと三日にあげず顔を見せてくれるのに、いつまで経っても来ないんです。
厭な予感がして、食事を運んできたお手伝いさんに訊きました。そしたら、少し躊躇った後、「亡くなったようで」と云うんです。その後、自分がどういう顔で何を云ったのか、あんまり思い出せません。幾らかの問答の末、弟が首をナイフで掻き切って死んだこと、もう骨になってしまったことを知りました。
遺書はなかったそうですね。
あれから、ずっと考えています。弟がなぜ死んだのか。
あの子がまだ僕に心を開いていた頃話してくれた、家の話、学校の話、折々聞き集めた噂話―――断片的な情報を組み合わせ、色々考えはするのですけど、どれも想像の域を出ません。ただ、確かに云えるのは、僕があの子に、死の優しさを教えてしまったということです。
弟が首を切るなんて、恐ろしい真似を出来たのは、きっと僕のせい……なのでしょう。
後悔しています。でも、どんなに過去を振り返っても、肝心なことを何も知らなかった昔の僕に、正しい選択が出来たとはどうしても思われないのです。僕は弟に寄り添える人間じゃなかった。
……………
弟が、なぜ死んだか考えています。
死んだ理由でなく、死んだ意味を、です。意味を求めなければ、弟はただ誰にも理解されない、哀しい死に方をした、憐れな子ではないですか。
なぜ死んだか、ずっとずっと考えて、近頃ようやく分かったような気がします。体が死に近付いて意識が透明になるほど、弟の存在を強く感じるんです。
そこに居ます。
そこに、居てくれます。
だから今はふと訳もなく、寂しい、辛い、暗澹とした気持ちにならないで済む。
こんな詰まらない兄のために。
優しい子なんですよ。
………―――而実不滅度 常住此説法 我常住於此 以諸神通力 令顚倒衆生 雖近而不見 衆見我滅度 広供養舎利 咸戒懐恋慕 而生渇仰心 衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命………………………
俤 白河夜船 @sirakawayohune
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