救済

 クレーターに辿り着いたのは、家を出発してから2日目の夕方だった。昔の記憶通り、南西の方からくる涸れ川ワジのすぐ横に、というよりもクレーターを避ける形で川床があり、そこが目的地だとすぐに分かった。ただ遺跡があると思われる内部に行くには、クレーターの斜面を登らなければいけないため、その日は麓で一晩を過ごすことになった。

 以前に来た時は遠くから眺めるだけだったせいで感じなかったが、実際にクレーターを目の前にするととても大きく見える。実際、クレーターの縁の標高は高原地帯の平均的な標高よりも倍以上はあり、しかも勾配は周りの丘陵よりも遥かに急だ。

 まるで崖を前にしてるかのようで、気分は乗らなかったが、登るしかなかった。日の出とともに歩き疲れていた身体に鞭を打ち、砂と岩しかない山肌を少しずつ登っていく。連れてきた荷役羊も辛そうな様子だったので、俺とオポは少しばかり載せていた荷物を自分で持って登ることにした。

 昼を過ぎた頃に、俺達はやっと頂上に辿り着いた。最後の傾斜を登り切り、ずっと視界を遮っていた山肌が目の前からなくなる。だがその瞬間、クレーターの内部に広がっていたのは、俺が想像していたものとは全く違う景色だった。


「さて……オアシスしかないが、どうするんだ?」


 とオポに言う。そこには、クレーターの中心に広がる小さな湖と、それを取り囲む緑地があるだけだった。人間が作り出した構造物はどこにも見当たらない。おそらく遺跡は、とっくの昔に風化して完全に消失してしまったのだろう。あるいはそもそも誤情報だった可能性もあるが、どちらにしろ求めていたものはそこにはなかった。

 残念ではあるが、砂嵐が吹き荒ぶこの地域では仕方ない。そう思って、オポに慰めの言葉を掛けようと彼の顔を見る。

 ――予想に反して、オポは輝いた目でオアシスを見渡し、俺の問い掛けに答えた。


「どうするも何も、これこそが探していた遺跡ですよ」


「おいおい、疲れておかしくなったのか? ここはただのオアシスだ。砂の下にはまだ残骸が埋もれてるかもしれないが、遺跡はもう――」


「私が探していたのは巨大なモニュメントや立派な構造物ではありません。惑星改造に使われていた緑地を求めていたんです」


「じゃあこれがそれだっていうのか?」


「そうです。学院ではこれをテラ・ガーデンと呼んでいます」


 嬉しそうにそう語るオポから視線を移し、再び眼下のオアシスを見る。もちろん、この荒野でたくさんの水と緑を抱えるオアシスはそれだけで価値のあるものではあるが、世界の改造という途方もない話に繋がる場所には見えなかった。

 だが、それは俺だけだろう。オポや改造派テラフォーマーは、この場所の価値を知っている。とにかく今は、久々に新鮮な水源に辿り着いたことを喜ぶべきだと思い、すっかり元気になったオポと荷役羊の後を追ってクレーターを降りていった。

 クレーターの内部は、見渡す限りの赤錆びた平原だった周囲がまるで嘘であったかのように、全く違う環境になっている。山を降りていくにつれて、涸れ川ワジ沿いに辛うじて生えていた枯れたような見た目の草が姿を見せ始め、次第に密度を増していく。そして水源に近づくにつれ、より緑色が鮮やかな、たくさんの葉を持つ草が優勢となり、ついには点々と木々が現れ始める。見かけるほぼすべての植物は、初めて見る種類だった。

 やがて、ほぼ中心に位置している湖までやってきた。オポが言うには、地下水が地表に湧き上がって維持されている湖らしく、冬ということもあって水温は低かったが、酷い濁りはなく、羊達は怒涛の勢いでその水を飲んでいる。俺も手ですくって一口飲んでみたが、普通に飲めるような味の水だった。


「良い場所だな。引っ越したいくらいだよ」


「確かに。局所的とは言えこれほどまでに肥沃な土地は、この地域ではここだけかもしれません」


 過酷な登山後ということもあって、ひとまず俺達は辿り着いた湖の畔で一休みすることにした。ここに移り住んで農地を作ったら、毎年どれだけの収穫があるのかを考えながら、ライムギパンを頬張り、湖の水で喉を潤す。

 時折クレーターの縁を越えて風が吹き降りてくると、湖面が複雑に波打って輝き、それがとても綺麗だった。周囲の草木も揺れて、砂嵐とは違う独特の心地良い音が聞こえてくる。

 ここからずっと西の方、アキダリアの海を越えた場所にあるアラビア大陸は、世界で一番緑が豊かな地域だと聞いたことがあるが、そこもこんな素晴らしい風景が広がっているのだろうか。もしそうなら、アスクリスの乾燥した平原に住んでいる身としては、アラビアの人々を羨ましく思う。大地を覆う草木のおかげで、きっと彼らは砂嵐とも無縁だろう。


「惑星改造の時代、こういう場所が生物圏の成長点として使われていたそうです」


 オポはそう言って、羊の背中から荷物を降ろし、その中から小さい筒状の容器を5本ほど取り出した。大布の中にはまだ同じような容器が多くある。それぞれの容器には色の違う糸や蓋となる布が巻かれていて、各容器を区別できるような工夫が施されていた。


「どのテラ・ガーデンも水と栄養に富んだ素晴らしい環境で、そこには様々な植物が根付いています。道端にも生えているようなよく見掛ける植物もあれば、ガーデン固有の植物もあります。惑星改造の時代には、このガーデンから適応力の強い植物が周囲の荒れ地へ繁殖し、土壌を改良して、より豊かな植物相に発展するという過程が各地で進んでいたことでしょう」


 そうオポは語りながら、その場の土を小さいスコップで掘り出し、手首が隠れるほどの深さまで掘ると、その土を1つの容器の中に入れて、ノートに何かを書き込んだ。


「しかし今は違います。〈失踪〉後、テラ・ガーデンの拡大能力は失われ、そのほとんどはこのクレーターのように乾燥した荒れ地で孤立する小さな生物圏にまで縮小してしまいました。特にガーデン固有種は、テラ・ガーデンという立地から離れるとなぜか育たないのです」


「水が足りないんだろうさ。ここは乾燥地帯だ」


「学院も昔はそう考えましたよ。ですが、テラ・ガーデンから持ち帰った固有種を用意した理想的な環境で栽培しようとした結果、全て育ちませんでした。どんなに水と肥料があってもです。だから学院は長い年月を掛けてこの謎の解明に取り組みました。テラ・ガーデンを再び成長可能な生物圏に変えることが出来れば、惑星改造が叶いますからね」


「ってことは、あんたが掘ったその土が、謎の解明に役立つものなんだな?」


 オポが手に持つ、土を入れた筒状の容器を俺は指さした。オポは笑った。


「えぇ、学院はそう考えています。おそらくはテラ・ガーデンの土壌に何らかの技術的遺物が混じっていると。この謎を解明すれば、私達は荒野を草木の茂る大地に塗り替えることが出来るでしょう」


 実現すれば、非情な赤い大地が姿を消し、砂嵐に襲われることもなくなるはずだ。なんて素晴らしい世界だろうか。地球による救いの手を待たずに、改造派テラフォーマーの手によってここに安住の地が築かれることになる。

 気持ちが高まるのを感じた。頭に思い浮かぶ未来の景色は、俺にとっての新たな希望の灯火になろうとしている。


「手伝わせてくれ」


 オポは了承して、それからは2人でオアシスの他の場所で同じように土を採取することにした。彼の指示を受けながらオアシスの各所を周り、残った最後の容器に入れる土は、オアシスの西側で採取することになった。


「こっち側は砂が多いぞ」


 目の前にせり上がっているクレーターの西側斜面と、俺達が降りた東側斜面を見比べると、違いは顕著だった。西から砂が風で運ばれ続けて、ゆっくりと緑地を侵食したらしく、斜面には何も生えていない。まるでクレーターの縁から赤い砂が漏れ出てきたかのようだ。


「テラ・ガーデンと言えど、永遠に維持されるものではないということです」


 オポがそれを見て言った。砂嵐が通り過ぎた後のように、いずれは砂が全てを覆い尽くすことになる。海や湖が干上がり、生命は消えて、ただ赤錆びた大地が残る未来。目の前の景色は、その過程が今ここでも起きていることの証拠であった。

 オポが最後の容器を大布にしまい、羊の背中に乗せた。目的であった土の採取はこれで全て終わったらしい。


「ありがとうございました。日も傾いてきましたし、今日はここで休みましょう」


 時間は既に日没前だった。明日はすぐに出発できるよう再びクレーターの東側に移動し、そこで野宿の準備を進める。焚き火用の枯れ枝は豊富で、自然の風よけも十分。この旅で一番快適な野宿になるだろう。

 太陽がクレーターの縁に沈んでいき、そして今日もまた、黄昏時がやってきた。

 吹き抜ける風によって草木が揺れる音を聞きながら、暗くなりつつある西の空を眺める。うっすらと現れ始めた星空に先んじて、宵の明星が一際輝いていた。地球――偉大文明の跡地。しかし今はもう、そこに頼る必要もなくなった。

 

「ガーデンの再生が待ち遠しいよ」


「えぇ、その時には誰もが幸福を享受することでしょう」


 新たな信仰を告白したかったのかもしれない。星を眺めながら、俺は思ったことを口に出し、オポはそれに答えてくれた。


「赤い砂が見えない、緑の大地を見てみたい」


「やがて訪れる未来です」


「サヴィにも〈失踪〉の真実やこの感情を伝えたい」


「最初から素直に言ってしまうと逆効果ですよ。慎重に、少しずつ」


「これから他の改造派テラフォーマーもくるのか?」


「おそらくは。その時は、どうか案内してあげてくださいませ」


 ひとこと話すごとに、学院や改造派テラフォーマーに対する同情や共感、関心が強くなっていく。地球に対する祈りの意味を見失い、空っぽになっていた俺の信仰心が、オポが望んだとおりか、俺の自然な心変わりかで、徐々に満たされていく気がした。




 ――でも、それは幻想だった。タイミングが悪かったんだ。期待に胸を膨らませている最中に聞かなければ。もしかしたら、俺はもっと冷静に受け止めていたかもしれないのに。

 就寝前、俺は冗談交じりでオポに言った。


「ガーデンが再生したら、どこまでが畑か分からなくなりそうだ」


「というと?」


「だってここみたいに一面の草木に覆われるんだろう? 俺はそんな場所で畑をやったことがないから、見分けられるかどうか心配だなぁ」


「その時代の方なら、ガーデンとの共存が可能な畑の作り方を学んでいると思いますよ」


 その会話が微妙にかみ合っていないことを、俺はすぐに気付いた。


「……その時代の方ってなんだ?」


「なにって、そのままの意味ですよ。ガーデンが再生される時代の方々、つまり私達の子孫のことです」


「俺達じゃないのか? ガーデンの再生は、生きているうちに実現するんじゃないのか?」


 オポは大きく目を見開いて俺のことを見ていた。

 決定的な認識の違いが存在していたことを、この瞬間まで俺もオポも気付いていなかったのだ。


「えぇと……惑星改造の時代には数百年かけてテラ・ガーデンを広げたと技術機構に記されています。改造派テラフォーマーも同じく、何世代にも渡ってこの星の改造に取り組むことになるでしょう。私達は時間を超越して、1つの未来のために力を合わせるのです。これはありもしない救済を求める教会には語ることのできない共同体の希望であって、そのためにも学院は――」


 改造派テラフォーマーの行いが、いかに崇高なのかをオポは必死に説明していたが、既に俺はそれをほとんど聞いていなかった。聞く気にもなれなかった。

 期待の感情が消えていく。まるで夢を見ていた気分だ。いや、本当にそうなのかもしれない。無益な地球への祈りとは違い、学院の行動は本当に俺達に希望を与えてくれると思っていた。だが、現実は違った。

 やがて完成するであろう安寧の世界。それを享受するのは、俺やサヴィではない。俺達の日々の生活が変わるわけじゃない。荒野で生き、砂嵐から隠れ、畑を心配して、そのサイクルが何も変わることなくいずれ死ぬ。違う世界を目の当たりにし、赤い砂の大地から救われるのは、いつなのかも分からない未来の誰かだ。

 意味がないじゃないか。助けがくるまで地球に祈り続けるのと何が違う? 俺が望む救済は、未来の誰かの為じゃない。今を生きている俺たち自身が救われなきゃダメなんだ。だが教会も、そして学院も、そんな結末を示してはくれない。

 西の空がさらに暗くなり、宵の明星の輝きも徐々に失われていく。俺の心も同じだった。結局、俺達は全てを覆い尽くさんとする赤錆色の砂を前に、ただ耐えるしかないのだ。

 だって相手は、非情な自然なのだから。

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宵の明星 いとー @ITO_MIRAI

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