"彼ら"
そろそろだと思い、西の方角を見る。太陽は既にアスクリス高原の稜線に触れていて、こっちを向いている丘陵の斜面が影となり、地表が急速に暗くなっていくのが分かった。もうすぐ夜になる。
「今日はここで休もう」
そう伝えると、後ろを歩いていた巡礼者が立ち止まり、まるで老人のようにゆっくりとその場に座り込んだ。大きく溜息をつき、動かし続けた足を投げ出す。俺も地面に腰を下ろして、出来る限り全身の力を抜くことに専念する。連れてきた2匹の荷役羊は、ひとまずは人間の後ろをついて歩く必要がなくなったことに気付いたらしく、辺りで枯草を探し始めていた。
今日はただ歩き続けるだけの1日だった。地味な色合いの草がまばらに生える赤錆色の荒野を眺めながら、水が流れていない川沿いをひたすらに歩く。気温は寒く、時折強い風も吹き、砂が舞えば視界も空気も悪くなる。
俺にとっては久々の行軍で、疲れ果ててもう何もしたくない気分だ。しかしこんな場所で、後は何もせず適当に寝るなんてわけにもいかない。気温がさらに低下していき、何も対策をしなければ急速に体力を奪っていくだろう。クレーターへ行くにも、家に引き返すにも、同じくらい歩かないといけないのだから、体力は十分に残しておかないといけなかった。仕方なく立ち上がり、腕を引いてオポも立ち上がらせる。太陽が完全に沈むまでの残された僅かな時間で、俺達は焚き火と風除け用のテントの準備を黙々と進めた。
一通りの野宿の用意が整った頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。フォボスとダイモスも今日は見えない。闇夜の中、小さくも暖かな焚き火だけが俺達を照らし、俺達はそのか弱い炎に頼りながら、持ってきたライムギパンに齧りつく。
俺もオポも黙っていた。疲れていたし、ふと思い付くような話題も歩いている間に全て消費してしまった。俺達は会ってまだ1日で、今は単なる道案内のために同行している。気まずい雰囲気を感じることもなく、ただ手に持っているライムギパンを無心で食べ続ける。
だからこそ、オポが急に話し掛けてきたのには驚いた。しかも突拍子もないことを急に。
「あなたは地球を信じていない」
巡礼者から発せられたその言葉を理解した瞬間、鳥肌が立つ。
"突然なんだ?"という驚き、それから"どうして見透かされた?"という疑問。動揺し、何も言葉が出ない。
「奥様は熱心な方でした。きっと今日も、いつものように祈りの言葉を捧げたことでしょう」
――忘れていた。ここでやっと自分の失敗に気付く。
いつもはサヴィに声を掛けられるから仕方なくで、野宿の準備に集中していた今日はすっかり見逃してしまった。宵の明星に向けた救済の祈り。晴れていたから確実に見えたはずなのに、巡礼者がいる前でそれをしなかった。疑われて当然だった。
「いやその……違うんだ。だって1日中歩いたんだぜ? 疲れていたし、早く準備をしないと……」
やっと口から出た言葉は、自分でも焦りが表に出ているのが分かる様な言い方だった。正直に言って、俺は怖かった。妻のサヴィとはこれまでの長い付き合いがあり、互いの必要性と接し方は分かっている。俺の信仰心が薄いことにも彼女は気付いているはずだが、それをきつく咎めるようなことは今までしてこなかった。だから今もこの辺境の地で暮らせている。
だが、他人はどう思うだろう。俺の信仰心を、妻以外はどう評価するのだろうか。隠していたのもあって、今までその評価に晒される経験をしてこなかった。だが今目の前には、妻よりも遥かに強く"彼ら"を信奉する、祈りに人生を捧げた他人がいる。
地球に対する無関心を見抜いた巡礼者は、じっと俺のことを見ていた。説教、怒り、あるいは軽蔑。一体何を言われるのだろうか。それかもう、口を聞かないつもりかもしれない。
また明日クレーターに向けて歩くのも、オポが俺を拒絶して別れ、仕方なく帰ってきたことをサヴィに報告するのも、どちらも考えるだけでストレスだった。
だが実際にオポの口から出た言葉は、予想とは全く違うものだった。
「いいんです、咎めるつもりはありません。むしろ私は安心しました」
そう言ったオポの焚き火に照らされた表情は、どこか嬉しそうにも見えた。言葉が続く。
「実を言うと、私も巡礼者ではないのです」
「は? あんた一体何を言って――」
「聞いてください。これまでいくつも遺跡を巡っているのは事実ですし、今も目的地が遺跡なのは本当ですが、あなたや奥様が想像したような、信仰の旅をする巡礼者ではないのです」
風が通り抜け、焚き火の炎が揺れる。突然のカミングアウトに対し、俺はどこから質問すればいいのか迷っていた。そして考え抜き、頭を整理して、1つ1つ慎重に確認するつもりで、オポに質問を投げかけた。
「巡礼者じゃないなら、あんたは一体何者なんだ?」
「強いて言うなら、巡礼学者というべきでしょうか」
「そんな奴は聞いたことない……何を調べてる?」
「もちろん遺跡ですよ」
「遺跡と関わるってことは、教会の聖職者なのか?」
「いいえ。むしろ教会は私達を嫌っています。彼らが管理する遺跡には近づけてもくれないでしょう」
「……どうして?」
「私達が見つけた真実を冒涜的だと考えているからです。教会は私達の思想を排斥し、未来の可能性を閉ざしている」
その言葉で、俺はふとあることを思い出す。そう言えば異端の信者が近頃街で増えていると聞いたことがある。救済を求める信心を冒涜し、世界に混沌をもたらそうとしている集団がいるらしい。
オポは教会に排斥されていると言った。普通はそんなことあり得ない。ということは――
「まさかあんた、異端者なのか……!?」
そう考えて、つい口に出してしまった。
「異端ではありません!
オポの声がとっさに大きくなった。その顔には不満の感情が明確に表れている。だが、困惑したような俺の表情を見て、我に返ったようだ。
「……すいません、突然大きな声を出して。でも信じてほしい。私達は決して危険な集団なんかじゃない。学院の目的は、ただ地球にすがるのではなく、自らの手で未来を切り開きたいだけなのです」
そう訴えるオポの目は、まっすぐこちらを向いていた。彼の瞳に映りこむ焚き火がはっきりと見える。
少しの沈黙の後、先に俺が口を開いた。
「どうして俺に本当のことを言ったんだ」
「同志だと感じたからです。昨日から違和感は感じていましたよ。奥様は熱心な信徒のようでしたから、尚更あなたが地球に対して無関心なように思えた。そして実際そうだった」
「ちょっと待ってくれ。俺はあんたが言う"
「あなたが思っていることは、私達の思想にとって根源的な要素です。地球に対する不信――それが未来的思考に飛躍するための出発点となるのです」
きっとここで拒絶するべきなんだろう。教会の敬虔な信者なら、サヴィなら、絶対にそうする。異端の教えで惑わし堕落させるような偽物の巡礼者の言葉など、一切耳に入れるべきではない。それが正しい行動のはず。
……だが、俺は何もしなかった。何も言わなかった。オポの言葉を素直に聞き入れようとは思わない。それなのに、彼が話すことに興味を惹かれてしまう。
「あなたは地球を信じていない。そうでしょう?」
最初と同じ質問。俺の沈黙を、オポは肯定と捉えた。
「地球を崇めてすがったところで、何かが返ってくるわけではない。あなたはそう思っている。実のところ、それは正しい考えなのです」
「……どうしてそう言える」
地球への祈りを空虚に感じている自分の口から出る質問としては、何ともおかしく聞こえたかもしれない。
「地球の文明が偉大であったのは事実です。この惑星を改造し、人が暮らせる世界にした。奥様の祈りの言葉にもあった教会が伝える"彼ら"の力は、今ではずいぶんと神秘性を帯びた言い方になってしまいましたが、本質的には事実であったと
サヴィが言う、いつもの祈り文句を思い出す。
"
教会やサヴィが崇める"彼ら"がいかに全能であるのかは、飽きるほど聞いた話だ。
「だから教会は、地球がいつか助けにくると信じている。取り残されたこの星の人類に、地球の"彼ら"が手を差し伸べると。しかしそれが間違いなのです。"彼ら"は決して助けに来ない」
「なぜだ? なぜ"彼ら"は助けに来ない?」
「単純なことですよ。"彼ら"は、もういない」
俺の反応を見るためか、そこでオポが黙った。言葉が頭の中で繰り返される。
彼らはいない、彼らはいない、彼らはいない……
その一言をどう解釈するべきか、俺は迷った。解釈の余地なんてないはずなのに。だがこの一言を素直に受け入れることは、あまりにも恐ろしいことのように思えた。
「いないって言うのは、どういう――」
「そのままの意味です。あなたが"彼ら"と呼ぶ地球の人類は、既に存在しません」
俺の心配をぶち壊し、オポは淡々と答える。
「教会は〈失踪〉を、地球による遠大な計画の一部だと解釈していますが、それは大きな誤りです。真実に気付いたのは学院の創始者達でした。彼らが遺跡に残る高度な水準の技術機構を復元したことで、〈失踪〉の真実は明らかとなったのです」
「遺跡を弄ったのか? そんなの教会が許すわけない!」
「えぇ、だから教会は我々に異端の烙印を押す。しかし学院の行動は、結果として真実を明らかにしました。技術機構に残されていた記録によれば、〈失踪〉は遠大な計画ではなく、悲劇的な災禍だったのです。ある時、アメリカという大陸にある山が爆発して火を吹いたそうです。とても巨大な爆発は、大地そのものが吹き飛ばされたかのような有様で、瞬く間に地球全体が灰に覆われました。太陽の光が地表に届かなくなったことで、環境は急激に変わり、混乱が争いになり、文明社会の秩序は次第に崩れていった。そしてついに連絡が途絶えたのです。
惑星改造の作業に従事していた私達の先祖は無力でした。仕方ないでしょう。作業のための技術と道具は地球頼みで、その地球との連絡が途絶えたことで、徐々に全てが失われていったのです。改造途中でしたから、ここも安住の地ではありません。地球文明の遺産を綺麗に残すことも出来ず、人々は必死に生きるだけとなり、そして今の私達がいる」
オポが揺らめく焚き火の炎を眺めながら言う。
「地球はずっと前から不在の神殿なのですよ」
俺は何も言えなかった。
助けを求める言葉。地球へ向けた告白と渇望。これまでサヴィのそれを聞きながら、俺はずっと地球に住まう"彼ら"は非情なんだと考えていた。神の如き偉大な者達が暮らす世界から見れば、この赤い砂にまみれた大地は不毛で醜く、そこに生きる俺達も同様なんだろう。創造主には被造物を自由にする権利がある。俺達がこの世界で過酷な運命を強いられているのは、地球に住まう"彼ら"がただ、俺達を愛さなかったからだと。
だがオポの話は、そういう俺の中の神話を完全に覆すようなことだった。"彼ら"の悲劇。知識の消失。同情されていないとか、祈りが足りないとかではなく、世界の暴力を前にして、"彼ら"と俺達が何も出来なかっただけでしかない。教会が語る歴史よりも遥かに単純で、そして残酷だった。
「信じてすがる意味がないのは、これで分かったでしょう? もともと地球を信用していなかったのですから、あなたなら理解出来るはずです」
オポがそう問いかける。確かに俺の心の中には、この話に対する拒絶感はなかった。
「……俺には分からないけど、そうなのかもしれない。否定しないよ」
「混乱する気持ちは分かります。ですが時間が経てば次第に受け入れることでしょう。それに地球による救済があり得ないからといって、悲観する必要はありません」
「どうしてだ? 神がいないなら、俺達はただただ耐えるしかないだろ?」
「神はいません。しかし神が残したものは、不完全ながらもあります」
「……遺跡か」
オポの巡礼や学院の目的がやっと分かった。遺跡からかつての地球文明が保有していた知識体系を学ぶこと、生き残っている技術機構を復元して利用すること。自らの手で未来を切り開きたいという言葉は、そういう意味なんだろう。
「その通り。
世界の改造――途方もないスケールの話だ。一体どんな知識と技術があれば実現するのかは想像も出来ないが、
「私や学院のこと、分かっていただけましたか?」
俺はしばらく炎を見つめてから言った。
「もう1つ教えてくれ。あんたは昨日地球に祈っていたが、あの時何を考えていたんだ?
「あれは――」
オポが視線を上げて、西の夜空を見た。もちろん今の時間ではもう、宵の明星は輝いていない。
「弔いですよ。死んだ世界に向けたね」
それだけ言って、オポが立ち上がった。
「さて、私はそろそろ寝ます。明日にはクレーターまで行けそうですか?」
「……あぁ。今日と同じくらい歩けば、多分」
オポはそれから何も言わず、さっさと寝る準備を進め、そして先に眠ってしまった。俺を改宗させたかったのか、はたまた仲間に引き入れたかったのかは分からないが、今は拒絶されなかっただけで十分だったのかもしれない。
残っていたライムギパンを食べ終えてから、遅れて俺も寝る準備を進める。横になると、意識はすぐに遠のいていった。
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