頭上で回るは観覧車
夢月七海
頭上で回るは観覧車
「にいちゃん、にいちゃん。起きてよ」
ぼんやりと輪郭のない夢を見ていると、いきなり弟のテリィが体を揺すってきた。
まだ、起きる時間ではない。僕はテリィから逃れようと体をよじって、シーツを頭まで被った。
「にいちゃん、空に変なのがあるよ」
「飛行船だよ……」
半分眠っている頭でそう返答したが、納屋の外から、何か聞いたことのないオルゴールの音が流れ込んできた。
がばっと体を起こす。隣のテリィが、飛びのいて、目を丸くしていた。僕が立ち上がって、窓の外をのぞくのを、テリィも真似した。
緑色に波打つ小麦畑の上、木々や飛んでいる鳥よりも高い位置に、機械で出来た雲のようなものが浮かんでいた。遠くから見ると平べったいようだが、厚みはきっと、この納屋よりもあるのだろう。金属の覆いの隙間から、歯車がぐるぐると回転し、二つの辺から伸びたパイプから蒸気が絶えず吹き出している。
村よりも巨大なその浮遊物の上には、城を模したような入り口、たくさんの木馬が並んだ丸い舞台、そして、それらすら見下ろす回り続ける巨大な車輪。たくさんの蓄音機から流れる明るい曲調の音楽は、微妙にずれているけれど、それを聞いているだけで胸が高鳴ってきた。
「遊園地だ……」
「ゆうえんち?」
必死に背伸びをして、それを見上げていたテリィが、そう尋ねた。きょとんとした顔をしているけれど、その目の輝きは、朝の光にも負けていない。
「移動遊園地が来たんだよ!」
昔、母さんが読んでくれた絵本にあった名前を叫ぶ。あれを見られる日が来るなんて。僕はそれだけで、どうしようもなく浮かれていた。
◎
カーザルト家の前、正装をしたおじさん一家はすでに勢ぞろいしていた。彼ら一家は、みんなふっくらしているので、近所の牧場で飼っている豚たちを連想させる。
ケラーとミズンの兄妹が興奮して走り回っているのを、おばさんが必死に捕まえようとしている。それをよそに、僕たちの前に立ちはだかったおじさんは、口髭のカールを撫でつけながら鋭い視線を投げた。
「ジエル、テリィ、今日も水やりと草むしりを頼むよ。それから、新しい畑を耕してくれ」
「分かりました、おじさん」
いつものように、僕はおじさんに頷く。テリィは僕の腰にしがみついて、じっと縮こまっていた。
今日は安休日だったが、僕らには関係がない。もちろん、村に遊園地が来たことも。ぼろぼろのシャツを着て、麦わら帽子を被って、畑に向かうだけだ。
「しっかりやっといてくれよ」
「やっとけよ!」
「とけよ!」
おじさんが釘を刺すように言って、庭から出ていく。その後を、おばさんに押されながら、ケラーとミズンもおじさんの口調を真似して言った。
おじさんは僕たち兄弟を養っているのだから、そう言ってくるのは普通だ。でも、その子供であるケラーとミズンの兄妹も偉そうにするのは腑に落ちない。だが、その事を顔に出したらひどく叱られるので、頭を下げてやり過ごす。
納屋から農具を出して、僕たちは畑へ出発した。その道中、視界の中にはずっと移動遊園地が入ってきていた。
最初の驚きも落ち着いてくると、こんなにも近くにあるのに、手が届かない遊園地が、だんだん憎らしくなってくる。黙々と歩いていても、調子はずれの音楽が、ずっと聞こえている。
「さあさあ! 遊園地に行きたい子は、こっちにおいで!」
「ちゃんと並んでね。列を横入りしたら駄目だよ」
低い石垣の向こうに、村人たちが並んでいた。みんな笑顔だ。その一番前にはピエロが踊っていて、一番後ろには銀髪のおさげの女の子が、村人たちを列に案内している。
二人乗り用のエレベーターに乗って、村人たちは移動遊園地に向かう。太いケーブルに引っ張られて、白い蒸気を噴き出しているそのエレベーターを、テリィは羨ましそうに眺めていた。
「見てたって、行けるわけじゃないよ」
「うん……」
列の横を通り過ぎても、テリィは首を後ろに回して、それを見続けていた。僕の言葉は、聞いていないので生返事だ。
僕はため息をついた。欲しいものは見ないのが一番いいのに、テリィはまだ小さいから、それが分かっていない。毎朝、学校へ行く子供たちも、同じような顔で見ていた。
しばらくして、カーザルト家の麦畑に辿り着いた。青い苗が、南からの風にそよいでいる。
自動走行の水やり機に、川から汲んだ水を入れて、畑の入り口から動かし始める。ぶぶぶと低い音を立てて車輪が回り、水やり機は四角い渦巻き模様を描くように進み出した。水のかかった苗の根元、その土が、黒っぽく色づいていく。
「にいちゃん、今日は何?」
「今日は、動物の名前にしよう」
水やりの間、僕らは仕事が無い状態なので、テリィに文字を教えている。湿った地面に木の枝を使って、言葉を書いていく。
テリィは、まだ六歳だ。学校に行くことは叶わなくても、僕が知っていることは出来る限り教えてやりたい。とはいっても、それはよく使う単語の綴りと簡単な計算くらいしかないけれど。
「これが、ひつじ」
「ひ……つ……じ……」
「これが、やぎ」
「や……ぎ……」
一言と一文字を確かめるように、ゆっくりとテリィは文字を書いていく。まだ、線を真っ直ぐに引くことも覚束ないが、真剣な眼差しで、一生懸命だ。
その時、麦の向こうで動いていた水やり機の方から、ガタガタと酷い音がした。慌てて、そちらの方に行くと、水やり機が黒い煙を吐きながら、前に進めずに左右に震えていた。
「また壊れちゃったね」
「しょうがない。直そう」
ついてきたテリィにも手伝ってもらい、電源を切った水やり機を道具箱の方へ運んだ。二人で持ち上げるほどの大きさの長方形の箱型の水やり機を、上下にひっくり返して、ネジで開ける。
あちこちを点検すると、以前の故障と同じように、車輪と直接連結する部分が外れていた。そこを直していると、一連の作業を見ていたテリィが呟いた。
「何回も壊れるから、新しいものを買ってもらったら?」
「ケチなおじさんたちが、それを許すわけないよ。下手すると、これを取り上げられて、自分たちの手で水やりすることになるかもしれないよ」
僕らが両親と一緒に住んでいた家よりもずっと大きな家を構えているおじさんは、こっちが嫌になるほど吝嗇家だった。無駄な支出は、僕らを犠牲にしてでも抑えようとする。
だけど、整備士だった父さんから色々教えてもらっていたので、このおんぼろ水やり機でもなんとか使い続けている。手に付いた職が一番の財産だと父さんがはいつも言っていた。
「よし、出来た」
水やり機が治り、再び水を出しながら進み出した。僕が額の汗を拭って顔を上げると、テリィはそれからは背を向けて、遊園地を見上げていた。
テリィはあまり機械いじりには興味を持っていない。いつか、その大切さに気付いてほしいと思いながら、目の前の小さな背中を眺める。
「にいちゃん、あの大きな車輪は何?」
テリィは頭の上でゆっくりと回る、遊園地の上になるすべての中で一番大きな車輪を指さした。車輪の側面には、その鉄骨に嵌められたかのように、四角い小屋みたいなものが設置されている。
あの遊具は、母さんが読んでくれた絵本の中にも描かれていた。記憶を辿って、テリィに名前を教える。
「あれは、観覧車だよ」
「すごく大きいね」
溜息交じりに、テリィはそう言った。いつも一緒にいる弟がこんな暗い声を出すのは珍しく、僕は何と返せばいいのか分からなかった。
「あんなに高い所からだったら、とうちゃんとかあちゃんも見えるかな」
涙のように零れた一言に、僕は息を呑んだ。
◎
カーザルト家の電気が完全に消えたのを見て、僕らは納屋を抜け出した。埃を被っていたランプを左手に、テリィの小さな手を右手で掴んで、真っ暗な村の道を進む。
麦畑の上には、まだ移動遊園地が浮かんでいた。夜のうちに出発してしまうのではないかという懸念はあったが、今のところ大丈夫なようだ。
低い石垣のある道に辿り着いた。遊園地に上がるエレベーターに乗ろうと、夕方まで村人たちが並んでいたが、今は嘘のように静まりかえっている。右側の石垣の向こうには村があり、そこに建つ全ての家も闇の中に沈んでいた。
エレベーターは、まだ道の真ん中にあった。それをぐるりと一周して、側面にハッチがあることを見つけた。テリィに持ってもらった作業箱からドライバーを取り出し、ネジを開け、ハッチの中を見る。
「……できそう?」
「……回線をいじれば、何とか」
テリィの囁きにそう答えると、ほっとした空気が漂ってきた。このエレベーターを動かせるようにすることは確かに出来る。ただ、誰かに見つかる前に手早く出来るかどうかが不安だ。
ここまで来たら仕方ない、考えるよりも腕を動かせと、回線を組み替える。カチャカチャという音がうるさいはずなのに、自分の心臓の音に掻き消されていた。
一つの回線を組み替えると、ポーンと聞こえた。テリィと正面へ回って、ドアを開けると、中の電灯が煌々と輝いていた。
歓声が爆発しそうになっているので、テリィは両手で口を押さえていた。ハッチの元に戻り、すぐにそこを閉め直してから、テリィと共にエレベーターへ乗り込む。ドアを閉めてから上へあがるボタンを押すと、エレベーターはゆっくりと地面を離れた。
「にいちゃん、すごいや!」
「まだ、先は長いよ。落ち着いて」
テリィは随分興奮していて、この場で飛び上がりそうなので、僕は慌てて制する。目的は半分も達成されていないからだった。
とはいっても、僕もだいぶ舞い上がっていた。それは、これから遊園地に向かうことよりも、このエレベーターを自分一人の手で動かせたということに対する嬉しさからだった。
両親と一緒に暮らしていた頃、テリィは普通の子供のように、わがままを言って家族を困らせることがたまにあった。しかし、おじさんの家に引き取られて、テリィが両親に会いたいと泣いている時に、おじさんに叩かれてから、どんなも望みも願いも言わなくなった。
そんなテリィが、朝、観覧車を眺めていて零れた切なる想いを聞いて、どうしてもそれを叶えてあげたいと思った。だから僕らは、これから夜の遊園地に忍び込んで、観覧車に乗り込む。
移動遊園地に辿り着き、エレベーターのドアを開ける。所々に点在している小さな明かりによって、ぼんやりと遊具や建物が浮かび上がっている。ランプを使わずとも進めそうなので、エレベーター内に置いていく。
そのどれもが止まっているけれど、その中の一つ、あの観覧車だけが回っていた。あれほど大きなものを起動させるよりも、ずっと動かし続ける方がエネルギーの節約になるのではないかという予想は当たっていた。
辺りを警戒しながら、エレベーターから降りる。守衛の姿は見えなかった。もう一度ハッチを開けて、回線をいじり、電源を切った。
物陰に隠れながら、テリィと共に数メートル先の観覧車を目指す。近付くと、あまりの大きさに圧倒されてしまった。昔住んでいた町のどの建物よりも高い。
「にいちゃん、もうすぐだね」
「ちょっと待って」
テーブルの下から飛び出そうとするテリィの襟を引っ張って止めた。僕らのことが見えるか見えないかの位置に、小型電灯を持った守衛らしき影が見えたからだった。
息を潜めている間に、守衛は立ち去っていった。だけど、またすぐに戻ってくるのかもしれない。テリィに合図を出して、一気に観覧車の真下まで走り抜けた。
観覧車に乗り込む所は、ゴンドラという。すぐそばにある看板にそう書いてあった。僕らが立つここは、ゴンドラに乗り込む場所らしい。
こうしてみると、観覧車は二つの輪っかを重ねている。その真ん中で挟まるように、ゴンドラがあった。ゴンドラの一部はドアになっていて、ノブを開けて中に入るようだ。
真正面にゴンドラが来るように待ち、ドアを開けた。後ろ向きに歩きながら、最初に、テリィを抱き上げて、中に入れる。
僕も乗り込もうとした時、眩しい光の帯が目に当たった。そちらへ目を向けると、守衛がこちらに小型電灯を構えていた。僕より五、六歳ほど年が上の、金髪で頬に横向きの切り傷のある少年だった。
「おい! 何をしている!」
彼が、こちらへ走ってくる。同時に、テリィの乗ったゴンドラも上がっていって、僕の腰ほどの高さになっていた。
「にいちゃん! はやく!」
テリィに急かされて、僕はゴンドラに腕の力だけで乗り込もうとする。足が宙にぶらぶらと浮いて、背筋が冷たくなるが、テリィに引っ張ってもらって中に入れた。
風が入ってくるドアを閉める。ゴンドラの中は、側面がベンチを付けられたような構造になっていて、そこ以外は壁の代わりにガラスが嵌め込まれていた。
観覧車は、静かに回る。すぐに、遊園地のどの建物よりも高い位置まで行った。
テリィがじっと見つめる方向を辿ると、あの守衛が観覧車から離れていく様子が、電灯の明かりが点となって動いていた。
「……大丈夫だよ、テリィ。今は、ここでしか見えない景色を楽しもうよ」
不安そうな弟にそう言って、肩を叩く。テリィは、こちらを見て微笑んだ。
しかし、実際は、下に降りたら掴まってしまうだろう。牢屋に入れられるかもしれない。それも、仕方ないと覚悟していた。
テリィと、ベンチに隣り合って座る。真正面のガラスの外では、村の麦畑が広がり、その向こうに聳える山をも越えようとしている。
それよりも高い位置に広がるのは、星空だ。チカチカと瞬き、ゴンドラを見守っている。
「……にいちゃん、一番上だよ」
「うん」
ずっと黙っていたテリィがそう言ったのは、このゴンドラが観覧車の頂点に辿り着いた時だった。遊園地も村も、全て見下ろす景色の中で、テリィはそちらを見ずに、きょろきょろと首を巡らせている。
「とうちゃんとかあちゃんはどこ?」
「……暗くて、見えないね」
「そうだね……」
「でも、父さんと母さんから、こちらがよく見えているはずだよ」
「うん」
テリィがこちらを見て、笑い掛ける。しかし、その笑顔とは裏腹に、目からは涙が溢れ出していた。
自分が泣いていると自覚したテリィの目から、涙があとからあとから落ちていく。鼻もすすったテリィを、僕はそっと抱き締めた。
僕の胸に顔をうずめて、観覧車があと半周する間、テリィは泣き続けていた。
◎
ゴンドラから降りると、予想通り、守衛をはじめとした遊園地の従業員たちが待っていた。一際背の高い男性、メイクはしていないものの、朝に見かけたピエロと同じ人と思しき体系の人、年季の入った作業服のおじいさんが並んで、全員こちらを睨んでいる。
覚悟はできていても、逃げ出したいという気持ちはあった。両親がいなくなってから人見知りになってしまったテリィが、腰にしがみついているので、そんなことは出来ないけれど。
「あのエレベーターを動かしたのは、お前か?」
僕が謝るのよりも先に口を開いたのは、おじいさんだった。申し訳なく思いながらも頷くと、そのおじいさんは目を丸くした。
「お前、何歳だ?」
「十一です」
「まだ小僧じゃないか。どこで覚えた?」
「父さんが整備士で、色々教えてもらいました」
おじいさんはこの短いやり取りの間で、何度も驚いていた。そして不意に、優しい笑みを見せる。
「いいおやっさんだったんだな」
「……はい」
自分のことよりも、父さんのことを褒められるのが嬉しかった。気恥ずかしそうに俯いた僕を、不思議そうにテリィが見上げている。
だが、それに対して困ったように、一番背の高い人が言った。
「まあ、技術はともかく、勝手に侵入して、観覧車まで乗ったけじめはつけないと」
「そのことは、本当に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる。だけど、捕まるよりももっと別のことを、僕はやらないといけない気がした。
「けじめとして、僕をここで働かせてください」
従業員たちが息を呑んだ。地面を見つめているため、頭上で観覧車が回っている軋んだ音だけが聞こえている。
次に聞こえてきたのは、呆れたピエロの声だった。
「おい、都合がよすぎないか?」
「わしは賛成だぞ。この坊主は育て甲斐がある」
「園長、どうしますか?」
堂々と言い切るおじいさんと、不安そうに「園長」の指示を窺う守衛の少年の声がした。判決を待つ被告人のような心持ちだが、僕のシャツをぎゅっと握るテリィのお陰で立っていられる。
「君、家族は?」
「弟以外にはいません」
「そうか……」
「園長」と呼ばれた背の高い男性の質問に、正直に答えた。
そっと顔を上げると、彼は何かを懐かしむように遠い眼をして、観覧車を見上げていた。
「……明日、この村を出発する」
「はい」
「日が昇る前に準備するから、早く寝なさい」
「はい!」
僕の返事を聞かずに、園長は踵を貸して、歩き出した。戸惑いながら、ピエロと守衛が続く。
一方、おじいさんだけは、にこにこしながらこちらへ歩み寄ってきた。
「良かったな。わしの寝床に案内しよう」
「ありがとうございます」
おじいさんの後に続く。一緒に歩くテリィはまだよく分かっていない様子で、目をぱちくりさせていた。
「もう、あんな納屋に帰らなくてもいいんだよ」
「にいちゃん、すごいね」
そんなテリィの耳元へそう囁くと、随分久しぶりな満面の笑みを見せてくれた。
どんな建物よりも高い観覧車と、それよりも上にいる両親に見守られて、これから、僕たちの新しい生活が始まる。
頭上で回るは観覧車 夢月七海 @yumetuki-773
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