きみと食べるご飯がおいしい
ことり
第1話 悲しいときに食べてもうまいもんこそ人生を救う
青春時代をかがやかしく思う人間は敵だ。
━━…いや、さすがにそれは言いすぎか。卑屈になると存在しない悪意まで上乗せしてしまう。もしも目の前で誰かが「高校時代に戻りたーい!」なんて無邪気に言ったものなら実際の俺は何の憎しみもなく、ただシンプルに羨ましいと思うだろう。後悔とは違う。十代を謳歌出来なかったことは自分の中でひたすらに失敗経験として蓄積されていた。ただの自信喪失である。
昔から人間関係は得意な方ではなかったが、やはり高校時代の挫折が大きかった。長距離走のコツは下を向かないこと。前を向いて走り続ければ必ず先にある背中に追いつくし、追い越すことだって出来る。あの気持ちよさといったらない。県大会で優勝して、スポーツ推薦による都内の高校への入学も決まっていた。多少コミュニケーションが苦手だとしても周りは「すごい」と明るい眼差しを向けてくれていたし、何より走ることが楽しくて仕方なかったのだ。
蔑まれないこと。自由に走れること。
これは俺が平和な生活を送るのにとても重要な条件だった。
ところが、高校に上がると平和の二大条件はあっけなく崩れ去った。スポーツ推薦を実施するほどの学校だ。学内は予想以上の体育会系、否、狂信的な教育のつたが張り巡らされていた。横浜の市立中学校では誰よりも速かった俺も全国からの精鋭で完成された城の中では凡人でしかなかったし、「すごい」と言われなくなるとそこにはただの孤立した出来損ないというレッテルしか残らなかった。
眼差しには温度がある。あれには言葉以上に感情が込められているものだ。━━…当時、先輩や同級生からの視線を感じると冷たい汗が背を垂れた。
「お前らは根性なしだ。お前らの親は教育に失敗した。だから自分たちが叩き直してやる」
二大条件を失って脆くなっていた精神に、顧問のその言葉は嫌な意味で響いた。親を蔑まれてまでこの場所にいる意味はない。たとえ自分の能力が買われていたとしても、それが入学資格だったとしても、才能を活かす貴重なチャンスだったとしても。
退学届けを出したとき、やはり背に汗をかいた。ひどく冷たい汗だった。
その後は資格を取って大学には行けたけれど友達は作れなかった。自分のような出来損ないに向けられる視線が恐ろしくて、人と上手く関われなくなった。心の開き方も分からない。そういう日々が続いたし、この先もきっと変われないんだろうなあとぼんやり思った。寂しくないとは思わない。ただ不思議と、他人と関わらないことに対する恐怖は皆無だった。
◇
人生はまさかの連続。
そうは言うけれど俺の人生にまさかはそうそう出現しない。少なくとも過去の統計ではそうだった。スポーツ推薦もコミュ障も挫折も、言ってしまえば実力の結果か不安の的中でしかない。
「キヨ!」
━━しかし、この状況はたしかに「まさか」だった。
スマホから視線を上げると、俺の名前を呼ぶその人が転びそうな勢いで階段を駆け降りてくる。唐沢清彦という名前を「キヨ」と呼ぶのはそいつしかいない。植え込みの外側にかけていた尻を俺は慌てて上げた。いい、いい、走るな。両手で制したけれど彼には伝わらず、今にも飛びつきそうな体勢で俺の眼前に迫ってくる。思わず後ずさりしてしまうが彼はそんなのお構いなしのようだ。自分の息が整うのも待たず、遅刻の理由を語りだそうとする。
「ごめっ、ごめん、っ、早川さん明日休みだから、はっ、引き継ぎで…ッ、遅れた!」
「全然待ってない。…ていうか、そんなに急がなくても良かったのに」
「いや、急ぐよ。だって超腹減ってるし!」
そう言って目の前の男は唇をふんにゃりと緩めた。こめかみを滑る汗もどういうわけか爽やかだ。同じ男なのに俺の汗とは全然違う。変な奴だな、と俺は思った。
「早くなんかおいしいもん食べたい。何食べよっか、キヨ」
━━…猛ダッシュでよれよれなのに嬉しそうに笑うなんて、変な奴。目を細めたのもつかの間、俺たちは新宿・代々木方面に足を進めていく。腹が空いているのは俺も同じだった。
空野乳業は千駄ヶ谷にある乳製品メーカーだ。夏木旬はそこに入社した俺の同期である。
実を言うと、俺はこの会社つながりで三つのまさかに出会った。まさかのない人生で、まさかの連続。それは走る才能で賞を獲り推薦の資格を得るよりもよほど奇跡めいた現象に感じられた。
一つ目のまさかはまず空野乳業に入社できたこと。就活市場において食品メーカーは超激戦区だ。中堅大学レベルの学力で圧倒的コミュニケーション能力の低さを誇る自分では書類はともかく、本来なら一次面接落ちが妥当なところだった。しかし足切り覚悟の一次面接で俺をとても気に入ってくれた先輩がいた。山梨純太さん。広報部のWebエンジニア兼副部長で、俺がエンジニア志望だと知ってかやけに贔屓にしてくれた。現在も俺の教育係を担当してくれている。曰く、俺みたいなタイプはエンジニアに向いているのだとか。何がともあれおかげさまで一次は通ったし、二次三次も山梨さん直々に事前アドバイスを貰える幸運に恵まれ、なんだかんだと就職までこぎつけた。後で聞いた話だが、裏では山梨さんが上層部に猛プッシュしてくれていたらしい。山梨さん自身、いつもにこにこしていて物腰が柔らかなせいか、こんな俺でも「この人になら」と心を開けた。おそらく世話になったことを差し引いても俺は彼に懐いただろう。眼鏡の奥で弧を描く眼の形はとても優しい。
こんないい先輩に恵まれただけで俺には十分すぎた。けれど心を開ける人間にもう一人出会えたのだ。これが二つめのまさかで、前述した夏木旬である。
「……ごめん、これ食べてくれない?」
旬と初めて話したのは新入社員歓迎会のときだった。宴会場と化した地下にある広めの居酒屋でたまたま席が隣だった。内定式や入社式で見かけたときの第一印象は明るくてはきはきと喋る、俺とは別世界に住むタイプの男。髪を染めていたり目立つパーツがあるわけでもないが、全体的に色素が薄いのか一般的な男より淡くて軽やかな印象に映る。彼は俺と全く同時期に入社したはずなのに先輩や同期ともう五年の付き合いですと言わんばかりの馴染みっぷりだった。製品のこともよく研究しているようで、うちのものを食べ比べたり飲み比べたりしている話をしていた。ときどき混ぜる冗談で真面目さを隠すが、それが逆に隙のなさを感じさせる。そう思ってしまったのは俺だけだろうか。
その夏木旬はトークの輪を外れると置物のごとく座っているだけの俺に気まずそうに耳打ちした。ちょうど上司が手洗いに行って、流れ作業のごとく席替えが行われる瞬間だった。これ、食べてくれない?こそばゆい吐息の振動は今でも忘れられない。彼が机の下で箸に挟んでいたのは固形のチーズだった。
「……え、と。なんで?」
「………苦手なんだ、チーズが」
先ほど話していた饒舌さを忘れるほどの細い声とぎこちなさ。俺は思わず目を丸くしてしまった。あれほど流暢に話す男がやましいことを隠す幼な子のように見えて現実味がない。拙い手品を見せられている気分だった。
「別に構わないけど……商品の食べ比べしたって、さっき。あの話、チーズも入ってたよね」
聞き間違いだったか?いやたしかにカロリーハーフチーズとスタンダードチーズと、それから他にもベリーが入ってるのやら色々。そういった内容を話していたはずだった。
胸の中に気持ち悪さを残しながらもテーブルの下で小皿を差し出す。スライスされていたりキューブ状だったり。さくさくと置かれていく黄色や白は皿の上にちょっとした抽象アートを作り出した。
「うん。あれ嘘だから」
悪びれもなくさらっとそんなことを言うものだから俺はあんぐりと口を開けた。というか、ちょっと引いた。
そんな俺の態度をよそに旬は大丈夫、どうせみんな酔っぱらえて聞こえてないからとやけに無関心な笑みを浮かべる。そんなことは心配していないしそういう意味じゃない。
「でもね、別に全部が全部嘘じゃないよ。むしろ嘘の方が少ない。嘘が一だとしたら本当は九十九くらい」
「はあ…?」
「チーズが苦手なのは本当だけどモッツァレラとかピザチーズは食べられる。ていうか、むしろ好き。チーズケーキだって食えるしね。まあでも固形のは無理かな。後はブルーチーズだっけ、匂いきついやつ。これも無理。だけど後の乳製品はちゃんと好きだもん。こんなんで嘘つき呼ばわりされないでしょ」
「でもうちの社長めっちゃチーズ好きだし推してるじゃん。しかもクセがあるほどあればワインに合うとかよく言ってるし…五十回くらい聞いたけど。最終でチーズのこと突っ込まれなかった?」
「聞かれたよ。だからそこはほら…まあ。さっきみたいに上手いこと言って、ぺらぺらっと」
「……そういう局面での嘘って、ばれるの怖くない?」
俺がそう聞くと、旬は心底分からないというふうに首をかしげた。それから目の前にあったハイボールを一口あおる。
「俺、食べるの好きなんだ。家で作るご飯も外食もどっちも好きだよ。でも食べることが好きだからってこの世にある食品全部が好きってわけじゃない。仮に理想が好き嫌いゼロだとしても、本当にありとあらゆる食べ物を好きである必要はないんじゃないかなあって、俺は思う」
「……そうだね。そりゃあそうだ、その通りだ」
旬は静かに微笑む。
「俺はさあ、楽しむこと、楽しませることが一番大事だと思うんだよねえ。何事も」
「楽しむ?」
「ほとんどが真実なのにそんなちょっぴりの不正で迷って人生棒に振る方がもったいないよ。だって俺、本当に食べることも食べ物も好きだからさ。それを仕事に出来たら幸せだなあって思ってる」
「………」
「だけど楽しいことをしたいなら、楽しい自分でいなきゃいけないんだよね。そうじゃなきゃ周りも楽しませられない」
「なるほど。つまり面接とかさっきのあれは……嘘だけど嘘じゃないってことか。好きなものに正直でいるための努力だったんだな」
「はは、それはちょっと大げさかな。まあでも…そうかもね。それに俺の語ることなんてそんな重要でもないんだよ」
ね?と各々でアルコールと話に盛り上がる周囲を見回して、旬は苦笑いした。みんなもう俺の話したこと忘れてるよ、覚えてるのはきみくらい、と。
俺はなんだかそのとき、とても爽快な気分になったのを覚えている。初夏の風が胸の中を通り抜けるようなそんな感覚。嗚呼、この人は俺にないものを持っていると思った。この人は好きを仕事に出来る人だ。この人は賢い人だ。この人は嘘をつけるのに正直な人だ。
本来なら出会うことのないタイプの人間なのだろうが、俺はなんだか彼のまっすぐさにとても好感を抱いた。心を開きたいと思う人間がこれから人生をかけて働く場所でもう二人も見つかった。それはまさか以外の何ものでもない。
「━━…すごい」
「え?」
「俺、面接のとき緊張もしちゃったし、後先考えず馬鹿正直に話しちゃって。その正直さが安心するしそういう人も必要だからって山梨さん━━今お世話になってる先輩がプッシュしてくれたんだけど。でもそれって本当に運任せじゃん。だけど夏木は違うんだよね。夏木は実力だよ。夏木は……すごい」
そう言うと旬は引きつったにやけ顔で硬直した。俺が見る限り既にハイボール八杯は飲んでいるはずだ。それでも変わらなかった顔色がほんのりと色づいている。
「な、なんなの……きみって天然たらし?俺今口説かれてる感じ?」
「何それ、初めて言われた」
「嘘でしょ、これで!?どういうキャラなの!?ちょっと待って顔熱い、もう、え〜……?」
旬は両手で顔を覆い、ごしごしと擦り始めた。肌が白いから他の人より柔そうに見える。わざわざ口にはしないが肌荒れするんじゃないかと勝手に心配した。
「……まあ、なんだ」
「ん?」
「━━…ありがとう」
「どういたしまして。ていうか、本当のことだし」
旬に押し付けられたチーズをぽいと口に入れる。食べてないくせにリクルートスーツで味の感想を語る旬。ありありと想像出来てしまって思わず笑みが溢れた。
「……よくそんなクセのある食べ物美味しそうに食べられるよねぇ」
「え、そんな顔してた?」
「口がちょっと笑ってた」
「ああ……それはちょっと違うこと考えてて」
「え、何。なんかバカにされてる気がするんですけど」
「そういうんじゃないけど。ふふ。まあ、チーズもうまいよ。うん、うまい」
旬は頬杖をついて、軽く唇を尖らせた。同級生という存在とこんなふうに会話のキャッチボールを楽しめたのは数年ぶりな気がする。もっとも、彼も楽しんでくれているかどうかは分からないが。ただ旬が気持ちのあたたかいものを持つ人間であることは分かる。対人関係拗らせ歴が長い分、初対面の人間の本質みたいなものはなんとなく感覚で掴めるのだ。
「……あのさ、」
「なんでしょう」
「旬って呼んでもいい?」
「いいけど。……ごめん、俺きみの名前知らないや。なんて言うの?」
「唐沢清彦。あ、広報部Web推進室に入った」
「ふーん、じゃあキヨだ」
ずいっと旬は俺に顔を近づける。思えば旬はこの頃からパーソナルスペースが狭かった。キヨ、という慣れない呼び名に若干の気恥ずかしさを覚えている俺に気づいたのか楽しげにもう一度呼んだ。キヨ。なんだかペットの名前呼んでるみたい。さらっとそんな失礼なことを言って旬はけらけらと笑った。だけどそんな軽口も不快じゃない。気がつけば俺も笑ってしまって、なんだかとても楽しかったっけ。
それが夏木旬との出会い。二つ目の、まさか。
◇
杉野愛子はとても目を惹く容姿の持ち主だ。焦香色の長い髪をいつも軽やかに巻いて、繊細なデザインの髪留めでハーフアップにまとめている。大きな垂れ目につんと細い鼻、美しく彩られた唇。分かりやすく言えば朝のニュースに出ている女性アナウンサーのような見た目だった。動作もゆっくりしていて声もそこまで大きくない。それがまた彼女の儚さ、優美さを強調させる。
三つ目のまさかこそ、この杉野愛子だった。営業事務をしており、歳は俺や旬よりも五つ上の二十七。
何を隠そう、俺は杉野愛子に恋をしていた。話したことはあまりない。数少ないやりとりも全部事務的な内容だ。それでも惹かれたのは完全なる一目惚れだったからとしか言いようがない。あんなに綺麗な人を現実で目にしたのは初めてだった。
「うわ、また杉野さんのこと考えてたでしょ」
今朝見かけた彼女の姿をぼんやり思い浮かべていると隣で旬が茶々を入れてくる。旬は目ざとい。彼曰く、俺が彼女のことを考えているときの顔は分かりやすいらしい。そんなに分かりやすいかと前に聞いたら「『しのぶれど色に出でにけりわが恋は〜』という和歌があってだね」と返された。旬は文学部日本文学科出身だ。その和歌の意味は後でちゃんと調べようと思いつつ、結局まだ調べられずにいる。
「……今朝、杉野さん見かけたんだけどさあ」
「うん」
「いつもよりお洒落な格好してた。紺のレースのワンピース」
「……それがとても可愛かったと」
「……うん」
「うわ、むっつりキモ」
うるさいと軽く旬の肩を小突く。
「さっさと連絡先聞きなよ。キヨ、暗いだけで顔は悪くないんだから杉野さんもガード緩くなると思うけど」
「そんなわけないだろ、杉野さんだぞ。きっといろんな格好いい人に言い寄られてる」
「そうかもしれないけどさ〜……そうやって日和ってる男には杉野さんが他の誰かの恋人になったとき落ち込む資格もないですよぉ?」
「う」
旬の正論に言葉が詰まった。本人から聞いたわけじゃないがおそらくモテてきただろう旬が言うとなおさら重みのある言葉に聞こえる。そういえば前飲んだとき今まで付き合った人は五人とか言っていたな。俺からすると恋愛、いや対人関係のプロだ。
「……来週の水曜日までに聞く。聞けなかったら旬にラーメン奢る」
「本当に!?よっしゃ聞くな聞くな聞くな」
「俺みたいなヘタレはただでさえ聞けないんだから変な呪いかけるな」
両手を合わせて念仏もどきを唱える旬の額をチョップする。恋バナ、じゃれあい。普通の人にとっては当たり前のやり取りが俺にはどれも新鮮で、なんだか今でもふわふわとする。
「……あれ、杉野さんじゃない?」
南新宿にそびえる縦長のホテル。地下から地上二階は飲食店が立ち並び、それ以外はオフィスと客室で構成されている。
旬の言う通り、十五メートルほど先に見覚えのある紺のワンピースが見えた。彼女が向かおうとしてるのは宿泊者専用ロビーに通じるエスカレーターだ。ああ、今日は金曜日だもんな。お泊まりするには持ってこいだ。
「……え?」
じゃなくて。そうじゃなくて。
杉野さんの隣には誰かがいた。その誰かが男であることは背格好からすぐに分かったし、あの杉野さんだ、ハイスペックな男がいたって不思議じゃない。
だけど杉野さんの隣にいる男は俺たちの父親と同世代、あるいは少し上くらいの初老の男だった。それはなんだか若く美しい杉野さんと歩くにはとてもアンバランスに見えて。あれってもしかして。いや杉野さんに限ってそんな馬鹿な。……お前杉野さんのこと何も知らないじゃん。彼女のプライベートなんて一ミリも触れられていないくせに。自問自答を繰り返して、息が詰まった。嫌な想像ばかりが膨らんでいく。
━━…人生はまさかの連続。俺は今まさかのバブル期にいるわけだからこういうまさかがあってもおかしくない。そりゃあちょっと予想外ではあるけど。
「……キヨ、息してる?」
「……ギリギリ」
「……大丈夫?」
「……大丈夫、じゃないかも」
上手く形容出来ないけれど目の前がぐらぐらする感覚だけははっきりと分かった。俺の視線には気づかない、気づいても俺のことなど気にも留めないだろう彼女はその初老の男の腕に自分の腕を絡める。男と彼女の間は隙間などなく、むしろ彼女から凭れかかっているように見えた。豊満な胸を押しつけるものだから二人を包む空気はもはや可愛らしいものではなく、濁ったきらびやかさを纏っている。
「えー、と……」
ざわつく背景とやけに大きい自分の心音が鼓膜を震わせる中、旬の困惑する声がゆっくりと現実に引き戻していく。あ、俺今旬に気を遣わせている。分かっているのに元気に振る舞えない。こういう経験ですら初めてだからどうしていいか分からなかった。そんな自分が不甲斐なかった。
「お、お父さんかな。仲良いってか……杉野さん、親孝行なんだなぁ!」
「……そうかな」
「てかあれ、本当に杉野さん?いや見つけたの俺だけど……俺あんま視力良くないしキヨほど杉野さんのこと知らないからさ。人違いだったかも、」
「杉野さんだったよ」
「……あ、そっかぁ」
父親?父親なら別におかしくはないけれど、それにしては距離が近かったような。三周ほど年上の恋人だろうか。いやどうであっても俺には関係ないじゃないか。杉野さんに言及する資格はない。話したことだって片手で収まる程度だし。落ち込む方がおかしいのだ。
そうやって自分を宥めても一番妥当で不穏な可能性を探ってしまう。父親でも、恋人でも。なんだっていい。俺には関係ない。だけどそうじゃなくて、もっとも嫌な展開。巷で言う援交だとかパパ活だとか。杉野さんがもしもそういうことをしていたとしたら。だってこんなホテルに父親と来るだろうか。趣味嗜好は人それぞれだが杉野さんが父親世代の男性と誠実に付き合う可能性はどれほど高いのだろう。勝手に片想いをしているだけのくせにどういうわけかショックだった。ただの失恋とは違う。そんな気がした。むしろただの失恋だったら泣いて終われたのに。なんだろう、この泥を飲みこんだような気持ち悪さ。
「キヨ、来週連絡先聞くの?」
「……多分、聞かないかなあ。いや、聞けないな」
「あっそ。じゃあ賭けは俺の負けだな」
「え?」
「きみが俺にラーメンを奢ってくれることはなくなった。代わりに俺が奢っちゃる。高田馬場へいざ行かん」
旬はそう言うなり俺の腕を掴んだ。早足で俺を新宿駅の方面に引っ張っていく。俺は連れて行かれるまま足を進めた。
「俺が杉野さんの連絡先聞けなかったら旬に奢るんだろ。なのになんで旬が奢るんだよ」
「ばか、賭け自体がなくなったから恩情をやってんでしょ」
「なんだよ、それ」
「いいからついて来いってば」
十五メートルほど先にあったはずのどろどろエスカレーターはあっという間に通り過ぎた。通り過ぎる瞬間、思わず紺色のワンピースを探してしまったけれど彼女はもう足首さえ見えなくて。夜に浮かぶ白いピンヒールの踵もそこにはない。初夏のぬるい夜風が熱くなりかけた目頭をわずかに冷ます。
気にするな、大したことじゃない。
言い聞かせて、ちょっと死にたくなった。
◇
高田馬場「蔭磐(かげいわ)」
旬が連れてきたラーメン屋の外観は白を基調としており、中もウッドテイストで、なんというか俺の知っているラーメン屋よりもお洒落な店構えだった。駅から十分弱歩くけれどランチどきはまあまあ並ぶらしい。立地上、学生が集まりやすいのもあるかもしれない。男二人で行くならもう少しがっつり食べられそうな店を選びそうな気がするが、旬は最初からここしか考えていなかったようだ。食通の旬のお気に入りならまず間違いないだろう。
「ここの鶏白湯が絶品なんだよなぁ。俺的にはね、やっぱり塩がおすすめ」
「…じゃあ、塩で」
「へへ、俺も塩にしよ。いつもトマトに挑戦したいと思ってるのに塩の美味しさに負けてしまう〜何回食べてもこの味が恋しいのよ」
食券を買い、カウンターに座る。仕事終わりと言うには中途半端に遅い時間帯のせいか店内は俺たち以外に二組ほどしか居なかった。一人で食べている女性と大学生に見えるカップル。みんなラーメンの丼の横に大きめのレンゲのようなものを置いている。あれは何だろうか。
「なんか強引に連れてきちゃったけど食欲ある?」
「……どうだろう、食べてみないと分からないな。腹は減ってるけどきちんと味わえる気がしない」
「まあ、そうよね」
「片想いというより憧れみたいなもんだったし。傷はそんな深くないと思うんだけど」
「うん」
「……でも、こういうショックの受け方は辛いな」
「あれやっぱりパパ活ってやつなのかなぁ」
俺がむっと見やると旬は「きみも気になってる部分でしょ」と言い放った。何も言い返せないのが悔しい。憧れとはいえ好きな女性がそういうことをしている(かもしれない)現実は俺にはかなりキツい。同時に、上から目線だなと自分に嫌気もさす。彼女をよく知るわけでもなく、何か彼女の力になれるわけでもないくせに彼女のプライベートに勝手にショックを受けている。彼女には彼女の人生があるのに。彼女がどう生きようと俺には何の損も得も回ってこないのに。それくらい、彼女と俺の縁は希薄なのに。
「……うん。でも、まだちょっと好きだな。多分来週会社で見かけたらやっぱ綺麗な人だなって思っちゃう」
「いいんじゃない?てか、そこであんな女には幻滅した!とか言わないキヨで俺は安心してるよ」
「……いや、勝手に好きになってそんな逆ギレみたいなことはしないよ。ショックは受けたけど」
「キヨが思ってるよりそういうこと平気でやる人間ってたくさんいるよぉ?キヨは優しいね。そんでまともだ」
「何それ、経験談?」
「……さあ?」
「鶏白湯そば二つー、お待たせいたしました」
店員さんが丼を二つ持ってくる。湯気とともに鶏の出汁と柚子の香りがふわっと香って、俺は思わず唾を呑んだ。
白くとろみのついたスープの上にはレタスをはじめとした色とりどりの生野菜が乗っている。なるほど、これを汁に潜らせると火が通ってしゃぶしゃぶ風になるのか。ただ彩りがいいだけじゃないことは一見で確定だ。丼自体はそれほど大きく見えないが、結構底が深い。案外ボリュームのあるラーメンかもしれない。
「な?うまそうだろ?そんで〆にこの米を入れて雑炊風に食べるのが最高なんだよ〜」
大きなレンゲの正体が分かった。米だ。麺だけでなくおじやも楽しめるらしい。米好きの俺にはありがたい。
「……いただきます」
「うん!いただきます!」
まずはスープから行くべきだろうか。備え付けのレンゲを軽くスープの中に潜らせる。ふぅ、ふぅ、と気休め程度に冷ましてから火傷しないように啜った。
「……!」
うまい。うますぎる。
見た目は濃厚そうだけど案外あっさりしていて、さらさらと飲めるスープだ。健康に気を遣ってラーメンの汁は飲まない主義の人でも完食してしまいそうなくらい濃厚さと淡白さのバランスがいい。食い意地の張っている俺からしたら一滴残すのももったいない。柚子の香りがさっぱり感に拍車をかけているのかもしれない。さっぱりしているのに鶏の旨みは濃縮してあるからもはや後味は甘くさえ感じられる。これはすごい。
次に麺を口に運ぶ。太くもない細くもないちぢれ麺がとろみのあるスープによく絡む。俺はラーメンなら煮干しそばが一番好きなのだが、なんだろう、これは新しい好きを開拓した感じがする。鶏白湯にすっかりハマってしまいそうだ。
「っは〜!やっぱここの鶏白湯が一番美味しい…!俺、ここのが一番好きなんだよねえ、学生の頃から」
「……これはうまいな。ちょっと俺、鶏白湯って初めて食べるんだけどビックリしてる。しゃきしゃきの野菜とかほんのちょっと入ってるガーリックがまたうまい」
「だろぉ?いっつも俺もう一杯いけるなあって思っちゃうんだよね。まあ〆の米があるから、案外後半には満たされちゃうんだけど」
旬は心底おいしそうに麺を啜っていた。俺が知る限り、旬ほどおいしそうにものを食べる奴はいない。旬はメニューを選ぶときから食べている最中、食べ終わった後まで常に嬉しそうだ。旬の連れて行ってくれる店はどこもハズレがないけれど、俺はどちらかというと旬と何かを食べるその時間が好きだった。見ていて気持ちがいい。こちらまで楽しくなる。
「……旬」
「ん?」
「連れてきてくれてありがとう。それから、ご馳走さまです」
「どういたしまして。キヨがちゃんと美味しく食べられてるようで俺も嬉しいよ」
そう言われて、俺ははっとした。
おいしい。どうしてこんなにおいしいんだろう。まだショックなのに。まだちょっと、好きなのに。
箸を止める。今さら堪らなくなってきた。唇が震えて、視界が潤んでいくのが分かる。喉が渇いた。水が飲みたいのに顔を上げられない。
「……え、ちょっとキヨ?あなたまさか泣いてらっしゃる?」
「っ……ごめん、気にしないで」
「いや気にするわ!きみ結構泣き虫なのね……」
「うぅ……」
「まあ、ショックよね。うん。なんかこう、色々考えちゃうよね。直接話したわけでもないし、あの人のこと知ってるわけでもないから、なおさら」
膝の上にぽたぽたと涙が落ちる。旬が優しいから止まらない。優しくされる方が我慢が利かなくなることを、俺はたった今初めて知った。
「……泣いたらいいよ。好きなだけ泣きな。でもちゃんと食べろよ。これラーメンだからぐずぐずしてると伸びちゃう。こんなおいしいもの不味くしたら、キヨでも許さないから」
「……はい」
紙ナプキンで鼻を拭き、ごしごしと涙を拭く。それからゆっくり呼吸を整えてまた食事を再開する。胸が詰まっていてもひたすらに咀嚼した。食え、と背中を押されたから。
「……あは、食ってる食ってる。その調子だ」
口の中も目の奥も熱い。だけど味覚はしっかりと機能している。そうだ、本当は今日味も分からないかもしれないなんて思っていたじゃないか。だけどそんなことはなかった。どんなときだってうまいものはきちんとうまい。その優しい現実に励まされると同時に、どうしようもなく身体の深部が痛い。
「ッ……も、もうやだ、クソ、」
「ん?」
「あ〜もう……失恋したっていうのに、なんでこんなにうまいんだよ、ちくしょう」
麺がなくなってきたから少し乾いた米をスープに混ぜる。泣きながら出汁の染み込んだ米を口に掻き込んだ。うまい。やっぱり、うまい。気持ちは沈んでいるはずなのに身体は確実に回復へ向かっている。感傷に浸りたい気分がどんどん薄れて、嫌になるくらい明日から普通に過ごせる自分を実感した。失われた憧憬は丼一杯のラーメン程度のものだったのか。残念なようでいて、それで十分な気もした。
「失恋したからうまいんだよ。上手くいってるときなんて何食ったってうまいんだから。悲しいときに食べてもうまいもんこそ人生を救うの」
「……何、今日の夏木先生講座?」
「そういう救いを見つけていけばこんなの笑い話になってるよってこと。……まあ、来週の水曜日くらいには?」
「水曜日。来週の水曜かあ……俺絶対まだ引きずってるなぁ……」
「はは。 あ、すみません。コーラ二本ください」
「え、コーラ飲むの?」
「心が疲れてるときのコーラは酒よりうまいよ」
旬は悪戯に笑ってみせる。失恋したときって普通飲んで忘れようぜ!ってなるもんじゃないのか。そう思いつつも半信半疑で飲んでみたら本当においしかった。涙でからからに蒸発した水分が弾ける泡と独特の風味によって生き返っていくのが分かる。そういえば部活の後に飲む炭酸って死ぬほどうまかったっけ。なんとなく遠い記憶を思い出した。
「瓶で飲むコーラ久しぶり」
「ね。なんか瓶から直飲みするのって贅沢な感じする」
「旬はストローで飲んでそうだよね。炭酸ぐいぐいいくとむせちゃいそう」
「キヨってときどき俺のこともやしだと思ってない?」
「そんなことねえけど」
「ばれてるから」
不満げに唇をつんとさせて目を三角にした旬がなんだかおかしくてくつくつと笑う。怒っていたくせに、旬もほどなくして笑いはじめた。
「…じゃあ、そろそろ帰ろっか」
「そうだね」
「すみません、ごちそうさまですー!」
「ごちそうさまでした」
動きの鈍い椅子ががたがたと音を立てると厨房の奥から「ありがとうございましたー」と明るい声が飛んでくる。気がつけば先客の二組はとっくに帰っていて、後からサラリーマンの客が一人飯に入っていた。帰るときに後ろからちらりと見ればその人は坦々麺を食べている。おそらくベースは俺たちが食べたものと同じだろう。それに辛味が加わると……なるほど、それはそれで美味しそうだ。想像しただけで食欲が掻き立てられる。
「ん、いい表情!」
店の外に出ると旬は俺の顔を覗き込んだ。子ども扱いされているようでなんだかばつが悪くなった俺は「なんだよ」と顔をしかめる。旬はにんまりと笑い、小気味よく背を向けた。
「シリアスじゃないってこと!」
━━…シリアスじゃない、か。
それは楽しむこと、楽しませることをモットーにしている旬らしい褒め言葉だった。前を歩く背中は飄々としていて、ちょっと目を離すとどこかまた楽しそうな場所へ迷い込んでしまいそうだ。
地面を蹴る。不思議と心の中にぶら下がる過去の嫌な記憶だとか今日感じた気持ちの悪さはちょっぴり軽くなっていた。ほんのちょっとだけど、それはたしかに俺の大きな荷物だったはずで。久しぶりに走るこの足がその呪縛からの解放を証明している。旬に追いつけば自分も少し彼のようになれる気がした。明るい方へ、行きたい。
「旬!」
横に並ぶとこちらを見た旬が呆れまじりに笑った。呼ばれなくても足音で分かる。そう言って旬が肩をすくめるから俺は頬を掻いた。はしゃぎすぎただろうか。だけどそれくらいでいい。それくらい楽しんでいれば、水曜日まではいかなくても金曜日くらいにはもっとうまい飯が食えているかもしれない。
きみと食べるご飯がおいしい ことり @kotori_oxo
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