4、結城 奏太

【結城 奏太】


 何も起こらない平穏こそが、僕の人生だった。僕の周りでは何も起きやしない。起きていない。そう考えた方が楽だからそう考えるようにしている。僕の周りで起きていることを僕がすぐに察知するには、他人の力を借りなければならない。人に迷惑をかけている気がして、それならばそうやって何も起きていないことにしてしまった方が良い。


 だから僕は自分自身が何か事件を起こすようなこともない。例えなにか不満を持つようなことがあっても僕にはそれを意見することができない。だから僕は生まれてから今日まで、喧嘩というものをしたことがない。


 あの日、柏木君と帰るのが嫌で図書室に逃げた僕は、彼の犯行を目の当たりにした。被害者が女生徒であることまではわかったがまさかそれが山本さんであることまではわからず、後から知った。


 僕は柏木君のことを知らなかった。仲良くなれていた気がしたけれど、今に思えば僕は彼のことを何も知らない。だから彼がそうやって暴力を振るうような人間であることさえもあの事件が起きるまではわからなかった。


 ただ、色々と思うことはある。あの日帰り際、下駄箱で僕は床に落ちていた付箋を見つけている。


『裏門のところにいます。良ければ来てください』


 そう書かれていた付箋の文字は僕も良く知っている山本さんの文字だった。あの付箋は一体誰に向けてかかれたものなのだろう。それが柏木君に向けられて書かれたものであるならば、彼はそれに従って裏門に行って、そこで山本さんと裏門で何かあったのではないだろうか。


 でも山本さんの言い分では柏木君は裏門に現れるなり急に暴力を振るってきたとのことだ。山本さんが嘘をついているとも思えないし、謎は深まるばかりだ。やっぱり何もわからない。僕に情報が入ってくることなんてないのだ。だからきっと世間でこの事件が解決に向かったとしても、僕は最後までわからないままなのだろう。


 あれから僕はまた一人で下校している。今までと変わらないから寂しいとかはない。視覚も嗅覚も触覚も味覚も、きちんと機能しているから、一人で下校していても飽きることはない。ふわりと冷たい風が吹いて、思わず身体を縮こませる。もう秋も終わりを迎えようとしている。そんな季節の変わりを肌で感じていると


 見覚えのあるワックス頭が目に飛び込んできた。


 彼は僕の姿を見つけるなりずかずかと近づいてくる。何かを僕に向かって話しているようだったが僕にはその声が届かない。イライラした。そんな方法では僕に伝わらないことを知っているくせに。そんなことをうっかり忘れてしまうくらい、すぐにでも僕に何か伝えたいということなのかもしれないが、そんなの僕にはどうだっていい。


 気づくと僕は彼を殴っていた。右手に作った握りこぶしを彼の頬に向かって振るう。


 なんで彼を殴ったのかと言われたら、こう答えるしか他ない。


『僕の大切な人を傷つけたから』だ。


 頭の中で文字が飛び交う。


 僕の思考はしっかりと機能している。僕だって人間で、周りにいる人たちと同じ人間で。だから僕の脳はいつだって働いている。


 恋愛も青春も、事件もいじめも何もない。実際には何かが起きているのかもしれないけれど、僕には届かない。いつだって僕と僕の周りは何からも無縁だし、何があっても無傷だ。


 僕は大切なことを言葉にできない。だから結果や行動で示さないといけないのだ。


 頭の中に文字はない。

 感情むきだしで僕は彼を殴りつける。


 柏木君も殴られ続けて業を煮やしたのか、僕を殴り返した。


 もう無傷ではいられない。


 僕らはお互いを殴り続けた。

 

 相手を罵倒することだって、弁解することだって、謝ることだって、僕には叶わない。僕に声が届かない限り、柏木君にだってそれらはできやしない。


 柏木辰巳。彼が転校してきてから、何かが変わった。全てが変わった。

 

 これが僕にとっての、初めての喧嘩だった。


 こうして……


 僕の平穏な生活は、僕自身の握りこぶしによって、幕を閉じたのだった。

 

                                   完

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無傷ではいられない 小さい頭巾 @smallhood

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