羇旅歌

崇期

あなたの知らない旅の歌

 そのお寺のことを思い出したのは、叔父の一周忌が近づいていたからかもしれない。

 昨年五月末に、五十三歳の若さで突如ってしまった叔父。彼は生前、自分の宗派とはまったく関係のないお寺によく通っていた。おもしろいお坊さんがいる、と話していたと思う。


 私がそこを訪ねた理由は、暇な休日によくおこなっていた神社・仏閣巡りとしてだ。行きたいと思っていたところへはたいてい行ってしまい、ストックが尽きる。県外などの遠出は計画を立ててからではないと急には無理であったし、近隣で未知の魅惑的なスポットが沸いて出てくることはもうないだろうという判断で、日曜の朝、思いついたと同時に車で向かっていた。急に訪ねて、そのお坊さんに会えるものなのかわからなかったけれど、私の目的は歴史的建造物ではなかった気がする。「おもしろい」という出来事がどこにでも転がっているものではないことは、これを読んでいるあなたにもわかってもらえるのではないかと思う。私は期待に染まっていて、まるで運が良い人、というように、さっそく不可思議なものに遭遇した。


 お寺の砂利敷きの駐車場で足を止められた。山へと続く幅の狭い石の階段があって、そのすぐそばに岩で固められたトンネルの入口のようなものがあり、そこが淡い金色に発光していたのだ。朝に、太陽とは別物の光。このずっと奥に車が停まっていて、ヘッドライトが届いているようだった。しかし車などあるはずがない。子どもでも屈まなければ入れないくらいのトンネルなのだ。一体なにを見ているのか、頭が混乱しそうだった。


「お嬢さん、あなたもしかして、えるんですか?」

 振り向くと、黒い法衣を着たお坊さんが立っていた。叔父が言っていた人だろうか。

「あの……」

 どう言ったものかとよどむ私の脇をすり抜け、お坊さんはトンネルの入口に近づき、「ここはずっとこんな調子です」と言った。「この光はなにも悪いものではありません。視える人と視えない人がいます。ほとんどの方はお視えにならないので、パワースポットと騒がれることもない」

 

 心霊的な話ならばそういう類のことに出くわしたことはないし、霊感があるないで言うなら「ない」と思うのですが、と私は話す。

 するとお坊さんが言う。「私もこういう仕事をしていて縁がありそうなのに、幽霊は今まで一度も見たことがありません。でもね、以前ここへ来て、この光が視えた人がいたのですが、その人がある神社で『おもしろいもの』を見たと言って、話してくれたのですよ。私もそれが見られるだろうかと行ってみたらね、視えました──」

 ずっとトンネルに面を合わせていたお坊さんが私の顔を捉える。「なぜ私たちにだけ視えたのかは私にもわかりません。あなたにもそれが視えるかもしれませんね」

「なんですか、それ。怖いんですけど」

 正直な感想をもらしたので、お坊さんが笑いだした。よくよく見ると、お坊さんの顔は皺だらけで、かなり高齢な人のようだ。

「教えてあげますから、行ってごらんなさい」


 以前に光が視えた人って、まさか叔父のことじゃないだろうなと心配し、私が期待していたおもしろ話はそういうものではないのだが、と思ったものの、話を聞いて、神社の名前と住所を記したメモまでいただいて帰った。結局叔父の話は出来ずじまい。お坊さんも神社へ行くのか、と思った。隣の市にあるさほど有名でない神社だった。未知のスポット、現れたな。女性がたった一人で早朝に気軽に寄れる場所なのだろうか。

 お坊さんに情報を提供した男性はかなり細かい調査をしたらしい。

 

「それ」が拝めるのは、毎月第三土曜日の朝、五時半から六時半までと決まっている。田負手たおいて神社の境内けいだいにて。


 なにを見に行こうとしているのだろう。もし本当に幽霊を目撃したとして、さすがに恐怖で卒倒そっとうすることはないだろうけれど、気持ちのいい体験ではないはず。私はそういうものをおもしろがって人に話したがる人間でもない。でも、お寺の金色の光のことも大分気になっていたし、多くの人が視えないというものが視えている状況について、きちんと確認しておきたかったことがある。 

 情報提供者の男性もお坊さんも私も、そしてついでに言うなら急ぎ足でこの世を去った叔父も、日常を生きるのになんの不自由もない(なかった)のだ、と。今までも取り立ててなかったのだから、ここに来て突然妙な扉が開いたということではないようにと、祈るばかりであった。



     * * *



 お坊さんから話を聞いた翌週が第三週だった。この数日、頭にずっとこびりついていたある意味怪談話だった。私は肝試ししようと言うのか。土曜日の朝、四時半に目が覚めて、心臓は高鳴っていた。どうか、どうか、変なものではありませんように。

 それでも行くのをやめようということにはならなかった。あの後、何度「どういうものですか?」と訊いても答えてはくれなかったお坊さん。でも表情はずっとにこにこしていた。お坊さんのことを気に入っていたらしい叔父。叔父は生前「変わり者」で有名だったが、それは小学生のころ焼き芋屋さんの車の後を自転車でつけて迷子になったとか、彼女とのデートに簡易裁判所に傍聴に行ったとか、かなり平和な雰囲気を指すものだった。きっと、本当に「おもしろい」ものなんだ。物騒なことではないはず……。


 神社は想像以上に小規模で、過去の参拝経験からいくと、こういうところはだいたい無人だ。盗難防止のためか賽銭箱さえないところも多い。もう少しインターネットで調べてきていたらよかっただろうか。鳥居の前を車で通り過ぎ、もう一周してから近くのコンビニエンスストアに車を停める。多くの会社は休みのはずだが、まだ六時前なのに車が結構並んでいる。長居するとは思えないし少しくらい許してもらおうと、店でプラスティックボトルのお茶を購入し、それを車のドリンクホルダーに立てバッグだけを持って向かった。


 辺りはいわゆる住宅街で道路も狭く窮屈なイメージだった。神社の一角だけ喬木きょうぼくに覆われ薄暗い。鳥居をくぐると細長い参道、石の太鼓橋と池が現れた。短い橋なのに、欄干についている宝珠がやけに大きい。今までに見た宝珠は皆、形も大きさも「桃」という感じであったが、ここのは西瓜すいかくらいあった。渡りつつ池を覗き込む。水辺はぐるりと黄菖蒲きしょうぶが取り囲んでいた。季節の花はどんなものでも心に響く気がする。じっとり暗い空間に光をともすような黄色い花。池は睡蓮の絨毯という感じに丸い葉で埋め尽くされていた。


 渡り終えて、長い階段を見上げ、もうここで帰ってしまおうかという気持ちがもたげた。その瞬間に黄菖蒲がくれた安らぎが消え、頭上に垂れ込めているこずえからかすかな音が聴こえてきた。体が拾わない小雨を受けているのだ。天気予報では午前中のうちに青空が戻ると言っていた。だから傘も持ってきていない。

 

 私は結局、階段をのぼった。帰る理由が恐怖ではなく躊躇ちゅうちょでは弱かった。薄汚れたねずみ色の蹴上けあげがやがて目の前から消え、開けた境内に取って代わると、はっと息を飲むことになる。

 土の上に人が座っていた。本殿ほんでんまでの参道を避けるように開けて、左右に分かれて男女数名が向かい合い、並んで正座している。ほとんどが着物姿で、髪型や装飾品などから現代人では到底ないだろうと検討づける。「やっぱり幽霊じゃないか」と私は思った。体がすっかり固まって、進むことも引き返すこともできなくなってしまった。


 私の左側、本殿の方から数えて三番目に座っている男が、声を発した。

「私の番で。グゥホ!(咳)……河原に冷蔵庫が立っております。この冷蔵庫は人に棄てられたのです。なんとも不憫ふびんな、冷蔵庫よ。冷蔵庫は、絶対に寝かせてはいけないと申します。棄てられてさえ、直立しているのです。ここへ現れたやくざ崩れ。人生の腹立ち回復をはかろうとこの冷蔵庫に蹴りを入れる。でや、どりゃー、と幾度いくたびも幾度も。倒れるまでやるつもりでした。そして、やくざ崩れが先に倒れた。河原にやくざ崩れが倒れておりました。このやくざ崩れは人生に棄てられたのです。なんとも不憫な、やくざ崩れよ。やくざ崩れは、絶対に怒らせてはいけないと申します──」


 一同から「ああっ」「おおー」という悲嘆の声がもれる。

 向かいに座っていた被衣かづき姿(頭に衣を被っている)の女が「結構なお手前でした」と言う。

 場が静まり返る。


 踏み出す勇気など体中どこを探してもない。私は階段の一番上の段に足を乗せたまま棒立ち状態だった。

 烏帽子えぼしを被った男が言った。「今日はめずらしくうつの方が来られましたな」

「数か月ぶりでは? たまにはいいものです。我々だけで歌を披露するばかりでは張り合いもなく」

「ええ。若い女性の方ですよ。殿方様はすずろくことでござりましょう」

「はっ、古い。『ワクワクする』でいいではありませんか」

「はははっ」

きょうだよ、興……」


 私のことを言われているのだと理解した。全員が全員、向かい合ったままでこちらを見ることはないが。

「皆さん、もしかして、平安時代の方ですか?」こちらの声が届くものなのかとか、熟考することなく私は質問していた。でも「幽霊ですか?」はさすがに呑み込んだのだ。

 一人の男がやっと私の方へ顔を送る。「はて。平安時代とな」

「この前来た人間は『地獄』とかしたのにな」

「私たちがどこから来たのかと尋ねておられるのです」

「あそこに名がありましょうか? 少なくとも私は聞いたことがありませんね」

「興である……」


 しばらくざわざわしていたが、先ほどの被衣が「さあさ、歌の続きを。おしゃべりよりは歌を詠みたいわ。もうすぐ六時に届きますよ」と言った。「この女性にも加わってもらって」

 私に一番近いところに座っていた頭巾ずきんをかぶった男が「私の向かいへどうぞ」とてのひらを、右側の列の琵琶を持った坊主の隣の空間へ向けて差しだした。「一緒に歌を編みましょう」

「歌?」と私は驚きの声をあげた。

「大丈夫ですよ」高貴な身分でありそうな女が口元に手を添えて言う。「“テーマ”があります。それを守ってさえいただければ、どのような歌でも自由に編んでくださって結構です」

 テーマ?

「私は歌なんて作れません」と私は言った。

「へーきへーき」と烏帽子。「わからぬなら我々のまねをされ」 

 

 地面はしっとり濡れていたが、雨が落ちてくる様子はない。空の暗みが淡く変化してきていた。私は言われたとおり、琵琶法師の隣に座った。そういうことに抵抗を感じないほど、彼らの姿・態度は人間っぽく、足がないとか向こう側が透けているとかもなく、最初の恐怖心はどこかへ消えてしまった。琵琶法師が「テーマは『羇旅きりょ』だからね」と私に教えた。

 キリョカ? 聞いたことがない。私はバッグから携帯端末を取りだすと、文字を打って検索した。旅の歌ってことか。

 それでも彼らは幽霊に違いなさそうだと私は確信していた。なんにもないところから手品のように扇子せんすを取りだしてあおいだり、宙に掲げた手にふっと茶碗が現れ、それを飲んだりしている。隣の坊主の琵琶もいつの間にか消えてなくなっている。試しに彼らに触れられるか、やってみたかったが、やめておいた。理由もなく触っていいものじゃないだろう。

「和歌でなくていいんですね?」私は小声で確認した。

「人間のあなたにわかるように言えば、『詩』といったところか」と琵琶法師。「詩というものは、金色の時間・心をつむぎだしますよ」

 詩? 金色の時間? やはりあの光となにか関係が? 人間のあなたって、じゃあ、あなたは人間じゃないってこと? 幽霊も元は人間と思うけど。


 歌を作る順番は本殿の方から、右列、左列、右列と交互に移っていっているようだった。幽霊たちは全部で九人いた。今日は三周目、行けるかな? と誰かがつぶやいていたので、時間までこうしてずっと回して遊んでいるのだろう。携帯端末の時計を見ると、五時五十分だった。六時半までしか拝むことができない(彼らに会うことができない)──あと四十分あるということか。残り四十分、彼らに付き合う? 私は座ったことを後悔しはじめていた。順番が回ってきたら、なにか詠まないといけないということだよな。どうしよう、旅の歌なんて……いや、なんの歌でも作れないぞ。作れなかったらどうなるのだろう。パスはできるのだろうか。


「……確実に微増びぞうしていることはわかるのです。降る雪が小山に対し、ちゃんと高さを加えているからこそ、目の前の山は存在している。でも、その新たな一欠片ひとかけらを含めて描くということの難しさよ。かと言って、その瞬間を描かずに見送るとすれば、その数秒、彼は絵描きでいられなかったという敗北を曝すことになるのです。恋人を愛しているとき、愛していなかった時間はなかったと彼は認めていました。なのに──」


広庭ひろにわの三番、というのがその果物の名前でありました。なあに、ただただ広庭に植えてあったというだけで、その三番目の位置にっていたというだけで、怠け者には特別価値があるようには思えなかったのですが──」


 歌というよりそれは語りだった。即興で作っているとしたら、ここまで澱みなく言えるのはさすがと思うし、彼らはこの遊びにけているのだ。でも、わからないのは、旅の歌ではまったくないということだった。テーマを守れと言ったくせに。ここへ着いて最初に聴いた話(歌?)も冷蔵庫の話だった。そもそも彼らの時代にはそんなものなかったはず。ということは昔の人ではないのか。

 私の斜め前の女が、次々に奇妙な名前をつけられていく果物の話を語り終えた。次は私の番だ。額から汗が噴きだした。

「どうぞ、あなたの番ですよ」憎たらしいほど柔らかな笑みを私へ向ける琵琶法師。


 頭の中で直近の旅をいくつか高速で思い返した。しかし私は、その二、三のありふれた旅を棄てて、十数年前に東京へ行ったときの話を語りはじめていた。


「……そのころ博多に住んでいたのですが、仕事で川崎に行くことになって、お休みの日にせっかくだから東京へ行ったんです。広尾に友達が食べたいって言ってたスイーツのお店があったので買いに行って。ちょうど日本と韓国でサッカーのワールドカップが開催された年で、その日、日本が勝ったんですよね。それで夕方、道に人がどんどん集まりはじめて。あっという間に人だかりができて、前へ一向に進めない、壁に塞がれたような状態になりました。警察の人が『危ないですよ!』って叫んでて。『降りてください!』って言ってたから、誰か、のぼったらいけない場所にのぼっていたんでしょうね。なにが起こっているのか全然見えなくて、すごく怖かったです。なんとか男の人たちの間をくぐって走ってその場を去ったんですけど。

 東京へ行ったのはその一回だけですね。田舎者だと思われたくなかったからきょろきょろしないように気をつけて歩きました。なので景色のことはろくに憶えていません。よくよく考えたら、私、六本木へ行ったんだな、と。多分、あそこは六本木だと思うんですが……」


 驚いて声をあげそうになった。目の前の幽霊たちの姿に無数の横線が入って、そこから像が割れ、バチバチと点滅している。劣化した録画フィルムを見ているようだった。すると、本殿の方から順番に、まさに歌を披露していた順番に幽霊たちが消えていく。頭の先が空に吸い上げられたかと思ったら、そのまま体の方も後を追う。琵琶法師の慌てる横顔。私の向かいの男──頭巾の男が「ああっ、私の番、次だったのに!」と叫んだ。六人が消えた。そして琵琶法師の肌色の頭もグニャリと歪んで空へ伸びていく。まだ時間は十分残っていたはず。

「なにが起こって──」

 つぶやく私に、頭巾が「君が歌のテーマを守らなかったからだよ」と早口で言った。「テーマに添わない歌を詠むと私たちは現し世から締めだされてしまうんだ」

「そんな。だって『羇旅歌』って旅の歌でしょう?」

「もうだめだ。すごくおもしろい歌を思いついてたんだが。無念、詠みたかったな! ああ──」

 

 最後の一人だった頭巾の男も消えた。順番どおり、でも歌のお披露目とは違い、私はパスされた。そして、うらぶれた神社の境内にぼっちで正座している女という、奇妙な状態が残された。

 私は、これでやっとお参りができるわ──と喜ぶわけもなく、階段をおりて、コンビニエンスストアの駐車場へと戻った。



 あくる日、例のお寺を訪ねた。トンネルの金色の光は相変わらずそこにあった。本堂まで歩いていくと、お坊さんがいた。

 一部始終を話した。私は生まれてはじめて幽霊と出会った。素敵な出会い、素敵な情報に感謝! そして生まれてはじめての歌で大失敗したのだろう。

「意味がわかりません」私は半ば腹を立てながら言った。「彼らの歌は全然『旅の歌』ではなかったんです」

 お坊さんは今日も法衣姿で、皺をたたえてにこにこして聴いていた。が、やがて口を開く。「私はあなたの振る舞いの方が不思議に感じますが」

「え?」

「だって、そう思いませんか? あなたは彼らの歌が『旅の歌』ではないと気づいてらっしゃった。その法則に気づいていたのに、自分では無視したのはなぜですか?」

「それは……」

「くっくっ。おもしろいですね。霊界の者の方がルールを守っている。この世界では人間はルールなんてクソ喰らえと大きな顔していられますが、彼らは“よそ者”、そうはいかない。六時半までの約束で、テーマに添った歌を披露し合う。テーマを守らなければ即座に強制送還。しかも月にたった一度しか開かれない歌会なのです」

「あれのどこが──」

「彼らはちゃんと旅の歌を詠んでいた。『』という旅の歌をね。彼ら霊人にとってはそういう旅しかできないものなのでしょう。私が神社へ覗きにいったとき、歌のテーマは『挽歌ばんか』でした。そのときも本来の挽歌が表す『死』や『葬儀』の歌は歌われていなかった。彼らは『あり得ない世界』の歌を次々に詠んでいました。つまり、彼らの世界には死は存在しない、ということで。まあ、風流人らしくひねった感じではあるな、と思って、私は木の裏に隠れて観るだけにして参加はしなかったんですがね。

 しかし、改めて自分たちが人間から遠く離れた存在なのだと、思い知らされたことでしょうなあ。また新しい旅の歌ができそうですね。はっはっは」

「笑いごとじゃありませんよ。行く前に教えておいてくださいよ。なんだかとても悪いことをしてしまった気分です」特に頭巾の男に対しては。彼の出番を潰してしまった。




 つづめて言えば、私はその後、田負手神社を訪れることはしなかった。本当は翌月にでも行って、彼らの貴重な歌会の時間を手折たおってしまったこと、謝罪したい気持ちがあった。

 でも、彼らの世界をじゃましないことが礼儀であるような気もした。休日に早起きが億劫であることも足を運べなかった理由の一つではあったし、彼らが本当に幽霊かどうかも判然としていない、あの時間に対する胡散うさんさも気にしてはいた。気の利いた歌が作れないという私の無芸さもあり、これだけ揃っていれば行かないことの方が自然だった。結局、あのトンネルの光と神社の妖しい歌会が視えただけ、という体験だった。


 とはいえ、田負手神社には心惹かれるものを残していた。小さいながらもどこかほっと落ち着ける空間だった。黄菖蒲は特によかった。調べてみると、黄菖蒲は帰化植物で、在来種に危険を及ぼす恐れがあるので「要注意外来生物」と言われているらしい。あんなに美しい姿を見せてくれたのに。しかし、自ら日本に飛んできたということでなければ、人間に罪があるのではないか。

 私はここで、そんな人たちに紛れ、同じ一員として、どんなルールを守りながら過ごしているのだろう。今の生活に不自由は感じていない。どこかへ吹き飛ばされる心配をせずに、無芸でもどっかと座って生きていられるというこの平和な毎日が思い込みでなければいい。いつかはありふれた旅を終えて、どこかへ去るのかもしれないけれど。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

羇旅歌 崇期 @suuki-shu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画