二葉の結び ~うっかり身分違いの恋に落ちてしまいました~

俤やえの

第一章 八歳と十歳

第1話 出逢い「おいていかれてしまったのね」


 緑がいっそう鮮やかに彩り、夏の匂いが間近にせまる。

 五月の節会も無事終わり、主上の衣更ころもがえには今少し。そんな時季なので、奥御殿にはゆったりとした刻が流れている。

 そんな折、女御御殿から更衣舎へ舟遊びのお声がかかった。禁苑──神泉苑への行啓に女官達は色めきだった。

 なんでも、名高き匠がしつらえていた釣殿がやっと完成したのだとか。今日は、そこから舟を出すのだという。

 清らかなせせらぎを聞きながら、歌を詠んだり、楽を奏でたり。なんと、帝のご意向で氷室が開かれ、削り氷のおすべりもあるとのこと。

 キサキの侍女は、ああでもないこうでもないと衣の色目に悩み、念入りな化粧を施し。そして女官達は生き生きと舟遊びに相応しい宴について采配を振るう。けれどあまり時間はかけられないと、どちらも慌ただしく牛車にのりこむ。

 そうして后妃御殿に残されたのは新米の女房や、女官職出仕の少女たちだった。彼女達は、留守番という外れくじをひかされてしまったのである。

 更衣舎──柊の局にて。

 十かそこらの少女たちは、命じられた床磨きもそこそこに、木陰の下で不満をつのらせる。

「あたしたちも、水あそびをしたいのに」

「うちのあねさまったらひどいのよ。お前にはまだ早いですって。ひどいわ」

 さんざんお室親へやおやへの恨みつらみを吐き出しきった少女たちのひとりが、ふと首を傾げる。

「ねえ、あの子」

 その視線の先。七つか八つか、彼女達よりもうんと小さな少女が丁寧に床を磨いていた。

 彼女達は顔を合わせる。

「お母君に連れてってもらったとばっかり」

「おいてかれてしまったのね」

 言葉の端々には、困惑と哀れみが入交じっている。

 可哀想、と言わんばかりの眼差しを注がれ、少女──沙良さらは、唇を噛みしめた。

 純粋な哀れみは八つの少女の胸を錐のように突き刺す。

「あなたたち、何しているの」

 そこへ、女官職出仕の監督を任されている若い内侍が現れる。足を放り投げていた少女達が慌てて雑巾に飛びつくが、もう遅い。

 橘の内侍は、ため息をついた。

 ここにいる少女達は御所に奉職して一年が経つ。女官職出仕とはいえ、遊びたい盛りの子どもから、水遊びの機会を取り上げてしまったのだから。

 がっかりしてしまうのは無理もない。橘でさえ、ちょっと納得がいかないのだから。だから、今日は叱るのをやめた。

「あなたたち、今日はもういいわ。お水を頂いてから、午睡ひるねをなさい」

「はあい」

 元気に返事をして、少女たちは片付けにとりかかる。橘の内侍は俯いている沙良に近づいて膝を折る。

「沙良、あなたもお水をのみなさい。倒れてしまうわよ」

「……ないしさま」

「まだこちらに来てまもないのに、よく頑張ってくれているわね。母君のおっしゃるとおり、しっかりした子だこと」

 そういって、沙良の二つに結わいた髪を整えてくれる。

(……母上、ちっとも会いに来てくれない)

 加茂の社から御所にあがって、半月。その間母と会ったのは御所に上がった日のみだ。母は沙良を橘の内侍の室子へやこにしてしまうと、自分が務める女御御殿へ帰ってしまった。

 沙良にとって幸いだったのは、この橘の内侍がとても優しくおだやかな娘だったことだ。

 女官職出仕は奥御殿のしきたりをおぼえるために、姉女官の局で起き伏しを共にする。箸のあげさげから歩き方までみっちりと仕込まれるのだ。

 それ故に、お室親へやおやさまと室子へやこの相性が悪ければ悲惨だということは、過ごすうちに知った。

 中には機嫌が悪いとお膳を少なくするような姉女官もいるという。橘はそのような意地悪はしない。この一点に関しては母に感謝した。

 十四歳でごん掌侍しょうじとなった彼女にとって、沙良が初めての室子だというのも大きいだろう。沙良しか室子がいないから、母よりもよほど根気強く沙良に関わろうとしてくれる。

 女官職出仕は、髪型で分かるよう、二つに結い分ける。橘は沙良に御所のしきたりを教えながら、嬉しそうに沙良の髪に合う結い紐を選んでくれた。

 その時──十四歳の彼女に失礼かとも思ったが──この人が母親だったら良いのにと思ったことは、秘密だ。

 沙良の母──からももの三位は、数多の男君と浮き名を流したお役女官である。華やかで明るい母は、自分とは対照的に人見知りをする沙良に苛々するようだ。

 顔を合わせても、沙良を持て余すような態度しかとらない。そんな母に懐けるはずもない。どこかぎこちない親子関係は、加茂の社にいたころよりずっとひどくなったように思う。

「……沙良、お水を飲んだらお使いを頼まれてくれる?」

「はい」

「藤殿に、あたしの従姉妹がいるの。そこへ、文を届けて欲しいのよ。こんな時だから、向こうも暇をしているわ。お返事を頂いて、帰ってきてちょうだいね」

 沙良は頷いた。眠くないし、午睡をしても良い夢を見られそうにはなかった。

 藤殿は女御が住まう御殿で、時に春殿とも呼ばれている。

 主である藤の女御は、左大臣家の姫であり、春宮の生母だ。今もっとも中宮に近いキサキである。

 そして。

 春宮の乳母として、沙良の母が出仕している場所だ。けれど、当の母は行啓に供奉してここにはいない。

 母が留守でなければ、絶対に近づかない場所だ。

 春宮の乳母には、お役女官の誉れ。母の邪魔をしてはいけない。それぐらいは八つの沙良でも心得ていた。



 主の居ない藤殿はひどくしずかだ。

 人が居ないからこそ、今をときめくキサキが住まうにふさわしい室礼のきらびやかさが一層増すように思う。

 格天井に描かれた花鳥もこれまた見事で、沙良を圧倒した。目を休めようと床をみれば、いくつかの木を組み合わせ、それぞれ違う色合いを映し出し、趣深い模様を描いている。

 どうにも落ち着かず、もじもじている沙良に声がかかる。

「大丈夫?」

 橘の内侍の従姉妹──常磐は、広げた文から眼差しを上げ、おっとり微笑んだ。

「ご、ごめん、なさい」

「いいのよ。毎日出仕しているわたしでさえ、時たまぼうっとしてしまうの」

 と、口元をほころばせる。そうすると、橘とおなじところにえくぼがあった。それをみて、沙良は心からほっとした。

 怖い人だったらどうしようとびくびくしていたが、橘とよく似た優しげな人である。

「これからお返事を書くからね。それまで、ゆっくりお庭を見ているといいわ。藤棚の向こうは少し山道になるけれど、竹林が見事よ」

「えっ、でも……」

「いいから、少し涼んでらっしゃい」

 と、送り出される。沙良は女御御殿をうろついていいのかちょっと躊躇った。

 けれど主人がもいない今だから、こうやって散策できる機会を貰えたのだと思いなおした。畳廊下を進み南庭の庇に出て、沓脱にたどりつき。


 言葉を、失った。


 目の前に、大きなおおきな藤棚がある。見渡す限り続く、白、薄青、薄紫の花の群れ。

 まるで果てのみえない、紫のうみへ、沙良は一歩踏み出す。

 晩春の風はなごやかに花をそよがせる。去りゆく春の女神が、沙良の頭を愛おしく撫でているようだ。

 うみの底で、沙良はふいに泣きたくなった。

 花の美しさに胸を打たれ、同時に、自分は独りだと突きつけられる。

 慣れ親しんだ加茂の社から母に呼び出され、けれど母の傍にはいられず。御所にもなじめずにいる、みじめな幼子。

 このままここにいたら、きっと本当の迷子になってしまう。

 藤の花から逃れたい一心で、沙良は走り出す。何度か転んだが、構いやしなかった。

 遠目にみえる緑に近づくまで、まさか藤の檻に閉じ込められたのではと心配になった。いよいよ泣き出しそうになった頃、沙良は藤の花から解放した。

 竹林に飛び入った瞬間、沙良はぜいぜいと必死に息を整えた。苦しいが、藤の花から離れられた安堵の方が大きい。

 立夏が過ぎ、どんどん伸びた竹は沙良の背丈よりもうんと大きい。このときならではの、若い緑のゆらめき。

 さやさや。さやさや。

 初夏の薫風が竹林を吹き抜けて、沙良を奥へと誘う。

 一歩踏み出した時だ。


 ──つん。とん。しゃん。


 竹の葉音のむこうから、その歌は聞こえた。

 懐かしい音色に、沙良は目をかがやかせた。


(……水琴窟すいきんくつだわ)


 やがて辿り着いた離れの茶室には、水琴窟をしこんだ蹲裾つくばいがあった。

 生まれ育った加茂の社では、この歌声が沙良の子守唄だった。祖母の膝に甘えながら、朝も夕も耳を傾けていた。

(おばあさまが生きてらっしゃったら……)

 沙良の母代わりは祖母だった。しかし、今年の春に病であっけなくいってしまった。だから御所に引き取られることになったのである。

 駆け回ったただすもりを思い出し、胸がきゅうっと苦しくなる。

 ゆらりと、水面に映った幼い少女の顔がゆがみ、浅葱色の瞳から涙が伝い落ちる。

 いつしか沙良はうずくまり、声を押し殺して泣いていた。


 淋しい。帰りたい。御所はこわい。でも、祖母の居ないところへは帰りたくない。

 いっそ泣いて泣いて、枯れてしまいたい。


(そうしたら、おばあさまがむかえにきてくださるかもしれない)


 背後で、小枝が折れる音がする。

 紅絹に顔を突っ伏して泣いていた沙良はびくんと身体を震わせた。顔を上げて振り返ると、沙良より一つか二つほど上の男の子が立っていた。


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