第3話 結び文「あねさまに文をお預かりしてきたんです」

 紫極殿の左方、絢綺殿けんきでんに内侍所はある。沙良が訪れたのは、ちょうど八つ時であった。

 さるの口に膝をつき、深呼吸をする。そして、この一年で板につき始めた挨拶の口上を述べた。

「ごきげんようあそばしまして、楓の出仕より八つ時をもうしいれます」

 お辞儀はまず右手、次に左手、指の三角に額をいれるように。肘が張ってしまわないよう、頭を垂れる。

花室かむろさん、ご機嫌よう。お入りやす」

 縁座敷に控えていた命婦の許しを得て、背筋を伸ばして立ち上がる。足を開かないよう前に滑り出すように入室すると、中から真菰まこもが顔を出した。

「かえちゃん、ご機嫌よう。ええところにきたわ。はようこっちきてんか」

 と、手を引っぱるので沙良は慌てた。

「ねえさま、楓はいそごうとすると、おいどが上がってしまうんです」

「それはあかんな。かんにんやわ。ほなら、ゆっくり行こか」

 そこは真菰も姉さん女官だ。急かすことなく、お手本のように沙良の一歩前を歩く。そうして辿り着いた内侍所では、女官職出仕たちがあるものを囲んではしゃいでいた。

 楓を連れて戻った真菰も、その囲みの中へと飛び込んでいく。少女達のおいどが上がってしまっているというのに、真鶴まなづるは叱責しない。むしろ誇らしげにしているように見える。

 たちばなはというと、自席で仕事を片付けながら苦笑気味だ。楓に気付くと、手招きをしてくれる。

「あねさま、あれはなんですか?」

「ふふ。あれはね、真鶴ねえさま宛てに届いた恋文よ。ねえさま、楓にも見せてあげて構いませんか?」

「かましまへん。減るもんやあらへんし」

 つんと澄ましたまま真鶴が応える。きゃあっと少女たちがまた色めきだった。楓は彼女たちに手を引かれて、それがよく見える場所に座らせられる。

 それは、州浜すはまを模った島台だった。どこから取り寄せたのか、美しい白砂に大小色とりどりの貝が散りばめられている。

 その小さな浜のうえに、朱い花を咲かせた忘れ草が置いてある。縹色の薄様が結ばれていて、なんともいえぬよい薫りがした。

 ここまで数寄を凝らした文を見るのははじめてで、沙良はときめくより先に圧倒されてしまう。

「真鶴ねえさまのお好きさんからのお文よ」

「あら、真鶴ねえさまはまだお返事をしていないわ。すぐお好きさんと決めつけてはいけないのよ」

 と、少女たちは楓の肩を抱きながらはしゃぐ。お好きさん、とは想い合う相手を指す言葉だ。少女たちの意味深な視線をかわして、真鶴はやんわりと楓に微笑む。

「楓は今日お歌の授業どしたな」

 なんと、後学のために見てもよいらしい。沙良はごくっとつばをのみこんだ。

 橘をみれば、微笑みながら頷いている。妹の様子を見ながらも手元は動いているので、そこに姉の優秀さを垣間見た気がした。

 こわごわと薄様の紙を開いて、中にしたためられた歌を詠む。若干震えてしまったが、周りの花室からところどころ手助けしてもらってなんとか下の句まで詠い上げることができた。

 漢詩と同じで、歌も口に出して詠んでみると理解しやすくなる。

 どうやら、つれない想い人に恋い慕う甲斐がないのでいっそ忘れてしまいたいといった趣旨の歌のようだ。

「ええ声や。その調子でようお励み」

 と褒められながら頭を撫でられて、沙良はほっとした。千彩集を読み込んでいることは無駄にならなかったらしい。

「あねさま、お返事はいつしはるの? それとも、昨日の夏椿のお文が本命?」

「さあ、どないしよかな」

 と、真鶴は妖艶に扇をかざす。そこには同性でもどきっとしてしまうような色気があった。どぎまぎする少女たちの中で、真菰だけがぼやく。

「あねさま、もう今年で二十歳はたちやおへんか。選り好みしとったらき遅れ……」

「……真菰」

「あ」

 流石に失言だったので、真菰を庇う者はいない。女官職出仕たちはそれぞれの持ち場に散っていく。沙良も橘の席に潜り込むようにして逃げた。

 おいどをお出し、おいどはあかんと騒ぐ姉妹を横目に、橘は涼しい顔で仕事を続けている。

 真菰を捕まえた真鶴が外へ出て行き、室内の喧噪が収まったころ、沙良は席の下から這い出る。橘は筆を置いてにっこり笑った。

「あねさま……」

「だいじょうぶ。真鶴ねえさまは最近お外に出ていなかったから、丁度いいわ。陽を浴びるのは大事なことよ」

 休みましょう、と橘は沙良の頭を撫でる。卓の上の奉書や短冊を御座文庫に仕舞うのを、沙良も手伝った。

 休憩用のお茶を煎れながら、沙良はぼんやりと先ほどの文を思い浮かべた。趣向を凝らした飾り、高級な紙、焚きしめられた典雅な香。

 そして、あでやかな恋の歌。

(あれが、恋文……)

 どこか別世界の出来事のようで、いまいちぴんとこない。それはやはり、沙良が恋を知らないからだろうか?

「あら、そういえば。今日は学習日だったのではない?」

 沙良の煎れたお茶を心底美味しそうに飲んでから、橘が問いかける。沙良ははっとして袂をさぐる。

「あねさまに文をお預かりしてきたんです」

 取り出した結び文は、薄様でも料紙でもない。市井ならどこでも手に入る和紙だ。橘はきょとんとしている。

「どなたから?」

 常磐の典侍からの文は、上質な色紙に季節の草花を添えてくるので、彼女からではないということはひと目で分かったらしい。

「兵部の橘という方からです」

 沙良の返答に、橘の瞳がこれ以上ないというほど開かれる。次いで顔を真っ赤に染め上げて袂で口元を覆ってしまった。

「あねさま……?」

 橘はいつだっておっとり構えている。大抵のことは驚かず受け流してしまうような少女だ。そのおいらかな為人ひととなりは年上や年下からも信頼されている。

 その姉が、あの、とかえ、とか要領の得ない言葉を発しながら狼狽えている。これは余程のことだ。

 やがて、震える手が結び文をひらく。その際、端書きに『たちばな右兵衛佐うひょうえのすけ』と記銘されているのが見えた。

(右兵衛の佐さま……とてもえらい武官の方だわ)

 確か、左右さう兵衛佐ひょうえのすけは武門の子息のなかでも文武に秀でた若者が選ばれる。いずれ参議に昇進することが多いという。

(……稚秋って、いったいどれだけつてを持っているんだろう)

 咄嗟に沙良が思い浮かべてしまったのは、稚秋のことだった。

 そんなに偉い武官から、ひょいと文を託されるなんて。いくら顔がきくといっても、おかしい気がする。

 考え込みそうになり、沙良は慌てて頭を振った。目の前の橘はというと、落ち着きをいくらか取り戻し、頬をあからめながら文を畳んでいる。

 文の送り主について、尋ねてよいのだろうか。それともそっと知らないふりを? 姉花室たちからその辺りを聞いておけばよかったと沙良が後悔し始めた時だった。

「……幼なじみの方から、ご挨拶のお手紙だったわ」

 と、はにかみながら橘が言う。

「あとでお返事を書くから、楓が寮室まで持って帰ってくれる? 皺を伸ばしてもらえると助かるわ」

 それは、読んでも構わないということだ。沙良はためらった。そんな沙良の様子に、このままでは目をつむったまま女官直曹に帰ろうとしそうなので、橘は苦笑する。

「ほんとうに、ただのご挨拶の手紙なのよ。ここで読んでしまいなさい」

「えっ? でもっ」

「いいから。なんだか、楓が転んで怪我をしてしまいそうなのだもの」

 とまで言われて、真っ赤になるのは沙良の方だ。

 ならば、さっと文面を流し見ればいい。歌を覚えるようなことはすまい、と意気込んで文を両手で受け取る。

 そして、きょとんとした。

「……歌が、ない」

 手蹟は見事だ。流麗さと力強さがみなぎっている。だが内容が簡素すぎて身構えた分拍子抜けしてしまったのだ。

 時候の挨拶と、淡々と今している仕事の話が並んでいるだけ。歌はない。

 常磐や他の内侍からの文には、必ずといっていいほど歌が入っていたので驚いてしまう。

 素直すぎる沙良の言葉に、橘がたまらず吹き出した。そのままころころと笑うので沙良は混乱した。

「ね、挨拶のお手紙でしょう? とはいっても、歌は苦手でいらしたから、今もそうなのかもしれないわね」

「でも、あねさまにとっては、特別なお手紙でしょう?」

 と、返せば橘は頬を染める。そして、困ったように笑った。心なしか瞳が潤んでいるようにもみえた。

「そうね、実の兄妹のように優しくしていただいた方だから……。幼なじみとは言っても、あちらは本家の嫡子でらっしゃるの。畏れ多いけれど、あたしにとってお兄さまのような方よ。お心遣いがありがたいわ」

 文には今度の乞巧奠で皇子方の護衛官の任につくとあった。同じく女官として乞巧奠に出席する橘に、ひとこと挨拶をと思うのは自然なことだ。

「そうですね、あねさま」

 と、沙良は言うしかなかった。でないと、揺れる姉の瞳から涙がこぼれ落ちてしまうのではと怖くなったからだ。

 橘は「お兄さまのような方」と言ったけれど、嘘だろうと思った。けれど、そうでなくてはならない。

 嫡子と分家の姫では、やはり身分に隔たりがある。沙良でさえその分別があるのだから、橘はもっとはっきりと意識しているだろう。

「あらまあ、どうして楓が泣きそうな顔をするの?」

 沙良がぐるぐると考えているうちに、橘は気持ちを立て直したようだ。揺れる瞳はどこにもない。おっとりとした様子に戻っている。

 でも、どうしてだろう。そんな姉の姿を見ていると胸が切なくなる。沙良はつとめて明るく振る舞った。

「楓は、ちょっと目にまつげが入ってしまったみたいです」

「こすってはだめよ。いらっしゃい」

 と、橘は手巾を持って抱き寄せてくれる。果実のような、甘い香りがした。それは、先ほどの豪奢な香から漂っていた人工的な薫りとは違う。橘自身の匂いだ。

 その温もりにすり寄って、背を叩かれると、自然とぽろぽろと涙が出てくる。ひとしきり涙をこぼして、沙良は笑った。

「ん、楽になりました」

「目をよく洗うのよ。今日は念のため、もう本を読んではいけません。夕方、まだ痛いようだったら、典薬寮にいきましょうね」

「はい、あねさま。お先に失礼いたします」

 沙良は文を丁寧にたたみ、懐に入れる。ごきげんよう、と二人で挨拶を交わした後、橘がふっと切なげな表情を浮かべたことに、沙良は気付かなかった。

(もう泣くのはおしまい。お返事をお届けするときには、いつもどおりでいよう)

 そう誓い、文をなくさないよう胸元に抑える。内侍所を退出して軒廊についた頃、沙良はふとあることに思い立った。

(……あの筆運び、見覚えがある)

 いけないことだと思いつつ、ひと目を忍んでもう一度文を開いた。そして、袂に畳んで入れていた手習いの紙をとりだす。

 稚秋が、お手本にと漢詩を一句書いてくれたものだ。

 二つを重ね合わせようとして、手が震えてしまう。ようやくあわさった二枚の紙を見て、沙良は愕然とした。

「……似てる」

 止め、跳ね、払い。書き出しの力強さ。ほんのわずかに未熟さが加われば、稚秋の手蹟になる。


 胸騒ぎがした。


 どうして、右兵衛の佐の手蹟と、稚秋の手蹟が、瓜二つといっていいほど似ているのだろうか?

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