第3話 学び舎の内「わたしの真名、わすれて」
当今の帝は、ことのほか子どもへの教育に情熱を注いでいた。後世において『
手始めとして、帝は御学問所を貴族子弟の学堂として解放した。そこでは、裳着を迎える前までという期限付きで、
貴族の姫君は女性の家庭教師に習うことが当たり前で、卑しい行為だと眉を顰める者もいる。しかし、お役女官を目指す少女達は下位や中流の出身が多く、その懐具合は厳しい。
将軍家のお膝元たる
こと下位貴族の娘は、家庭教師を雇う金もなく、貴族だからと世間を憚って手習い所にも行けない者が多かった。『一』という漢字も知らぬまま嫁ぐことが美徳とされた。
一の院の御代において、その識字力は市井の手習所に通う庶民の娘にも劣るとされた。
当今の帝はそんな状況を憂い、まずは女官職出仕の教育に手をつけたのである。
沙良も隔日で学堂に通うようになり、すぐに勉強が好きになった。加茂の社で祖母から手習いをうけたものの、彼女が読める本には限りがあった。
なにより筆のはこびを基礎から教えて貰えることが嬉しかった。稚秋のように美しい字が書きたいと思った。
いろはに始まり、詩歌や管弦。この国の歴史。外つ国の様子。知らない世界がどんどん広がっていくようで、夜更けまで教本を読み込んだ。
灯りをしぼって勉強しようとしたら、橘は「目を悪くするから」と起きている時間を決めて油をつぎ足すことを許してくれた。
その日も、沙良はいつもより早く起きて学堂の図書室へ向かった。
御学問所の御殿は四つの区画に分かれており、南面を男子、北面を女子の教室としてあてている。
市井の寺子屋では男女が席を同じくすることもあるが、宮中では両者を明確に分けていた。
とはいえ、授業が終わってしまえば、その隔てはなくなる。正午になり授業が終わると、子ども達はひろい南庭で駆け回る。
男女関係なく外遊びに興じている光景を、女官や
沙良は庭で遊ぶよりも、東面の図書室で過ごすのが好きだった。帝は勉学に集中できるようにと、三日に一度の学習日を御所で働く子どもたちに与えていた。
その日は一日中、学堂に居ても良いのである。正午の鐘が鳴るやいなや、后妃御殿へ戻ってあたふたと雑事を片付けなくていい。勉学ではなく、外遊びやあやとりに興じる子もいるが、それもまたよしとされた。
それは男子も同じだった。表御殿で侍従職・侍従武官職などの出仕として働く彼らも、三日に一度の学習日を心待ちにしていた。
学習日とは名ばかり。男の子にとって、外でおもいきり遊んでも怒られない一日は特別なのだ。
窓際の文机の上に、書架で選んだ教書を積み上げる。
砂地が水を吸うように、沙良はかな文字で書かれた書物はあらかた読んでしまった。今広げているのは平易な漢学書である。
女が漢詩を読むなんて、はしたないこと。だから、后妃御殿ではその類の本を持ち込めない。だから沙良は、学習日は好きなだけ漢詩を読むために図書室に引きこもっている。
「……薫風、いずこよりか、きたる。吹く……我が庭前の樹を……」
あれ。なんだかおかしい。最後の「飛来不飛去」もちょっと難しい。
漉き返し紙に分からないところを書き出していると、ふっと手元に影が落ちる。
乾いた風とともに、ぱらりと頁がめくれる。顔を上げると、窓枠に稚秋が肘をついてこちらをみていた。
ぎょっとするより早く、稚秋が口を開く。
「
「えっ」
「薫風何処よりかきたる。我が庭前の樹を吹く。
その声はよどみがなくて聞き取りやすい。目線で促され、沙良は口を開いた。つっかえても、稚秋は茶化したりせずに速度を調整してもう一度言ってくれる。
郭公のように繰り返す内に、すんなり沙良の頭に読み方が入り込んだ。
「口に出した方が覚えやすいぞ」
「……うん」
「まあ、奥御殿じゃできないよな。沙良は実家で漢詩を読んでたのか?」
「ううん。ここに来てから」
「ここに来てから、……って、いつ」
「ひと月まえ」
卯月に来たのだと教えると、教書をめくっていた稚秋の動きが止まる。彼があんぐりと口を開けているので、沙良はきょとんとした。
「そんだけで、この本読めるように? すげえな」
「ほとんど読めないわ」
「これ読んでみ」
一番始めの頁に書かれた「ゆく春を惜しむ詩」を指され、沙良はどきどきしながら答える。最後の一文は特に緊張した。
「──花落ちること知る多少」
「できるじゃん。沙良、男子の方でもやってけるぞ」
「ほんと?」
「マジ。十を過ぎてもそこを『花落ちること、多少を知る』って読む奴いるんだぜ」
相変わらず稚秋の口調は荒っぽい。でも、不思議と怖くはない。
教書を胸に抱いて、じわじわ温かい気持ちを噛みしめた。そして、ふと思い当たる。
「ちあき」
「ん?」
「わたしの真名、わすれて」
「やっと教わったか。だが断る」
稚秋はにやっと笑ってそう言った。沙良は慌てた。辺りを見回して、人が居ないことを確認する。
「いけないことなの。おねがい」
「他の奴の前では呼ばないって。おれだってお前に真名渡したんだぞ」
「う、でも。男の子と女の子はちがうのっ。わたしは『楓』なのっ」
「ふーん。春に来たのに? 沙良の姉さん女官って、紅葉が好きなのか?」
「あねさまが、青もみじを見てきめてくださったの。あねさまの橘と、ちょっぴりおそろいなの」
沙良は青もみじを押し花にして栞に使っていた。稚秋はそれに気付いて、まばたきをする。
「それで、楓か。かえで、かえで。うーん、いやわるかないけど、沙良って覚えちゃってるからなあ」
指と指で栞を挟んでくるくる弄ぶので、沙良は返してと手を伸ばすが稚秋はさっと腕を高く掲げてしまう。
「知ってるか? 御所では本当の名前を忘れちゃうと、鬼に食われるんだぞ」
鬼。女こどもを好んで食う、異形のもの。
そういえば、命婦から「御所には鬼が棲みついていて、悪い子は鬼にさらわれる」と言われたことがある。
女官職出仕たちは震え上がって、その日はお手水に行くのも御文庫に行くのもそれぞれの姉女官にひっついて離れられなくなった。
面倒見の良い姉女官は夜になって添い寝することも厭わないが、中には仕事で疲れているのだからいい加減にしなさいと叱る姉女官もいた。結局、橘の寮室に何人もの女官職出仕が枕を持って逃げ込んできてしまう有様だった。
やはり似たような経験がある橘は追い返すことはせず、一番小さな沙良を抱いて眠った。姉に抱きしめられても、沙良はこわくてなかなか寝付けなかった。
またあの怖い気持ちを思いだして沙良は目を潤ませる。
「……わ、わすれないもん」
「沙良は頭良いから大丈夫だろうけど、一人ぐらい教えておいた方がいいって。鬼にさらわれても、食われる前におれが助けてやれるし」
「助けてくれるの?」
「うん。沙良が呼んでくれれば」
と稚秋が言うと、彼の真下から威勢の良い鳴き声が聞こえた。黒丸だ。
稚秋は飛び跳ねる仔犬を抱え上げて窓枠に前足をのせてやった。沙良と目が合うと「僕だよ!」といわんばかりに愛嬌をふりまいてくる。
「そんときは黒丸も一緒にな」
「……分かったわ。鬼にたべられるのはいやだもの。……でも、約束して」
「うん?」
「どちらかに妹背の君ができたら、わすれるのよ」
と、沙良が真剣な顔をして言うと、稚秋が吹き出した。
「沙良はおませだなあ。いつの間にそんなの覚えたんだ?」
「約束してっ! じゃないと怒るんだから」
「はいはい。じゃあ、指切りげんまん」
ゆびきりげんまん。
うそついたらはりせんぼんのーます。
ゆびきった!
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