第5話


 なぜ、井上は妻の不倫を疑ったのか。


「自分がしてるからじゃない?あと、私がもう彼を愛していないって気がついたからじゃないかしら?」

「愛してない、んですか?」

「まあ、愛とか、正直よくわからないけど、なんだろう、嫌いではないの。でも、毎日少しづつイライラして、このままこの人の傍で生きていくのかな、と思うと、なんだかね、先が見えないのよね。」

「………」

「私、人間に生まれない方がよかったのかもしれない。…正しい生き方が、わからないから。人の信用が、わからないから。」


 不倫をしてもいないのに不倫を疑われた瑠璃子は、それを事実とするために見ず知らずの男と体を重ねた。それが瑠璃子にとっての二人目の『男』。


「………っ」


 八反田は自分を責めることしかできなかった。

 項垂れるその背を、瑠璃子は優しく何度も撫でた。


「本当に気にしないで。」


 瑠璃子の愛は海のように深い。

 ゆえに、この世を生きるには優しすぎて純粋すぎるのかもしれない。

 


 八反田はゆっくりと瑠璃子を抱き寄せて、再び二人は慰め合うように肌を重ね合った。


     ※ ※ ※


 車で送ると申し出ると、瑠璃子は海が見たいと言った。


 車で一時間ほど走り、海岸沿いで車を停める。

 すると瑠璃子は嬉しそうにドアを開けて飛び出していった。


「瑠璃子さん!」


 そのまま海へと入っていくのではないかと、八反田は焦り、気がつけば叫んでいた。


 しかし瑠璃子は楽しそうに振り返り、


「スゴいね!海に来たかったの!」


 八反田に手を振った。


 胸が熱く締め付けられる。

 この人に関わるべきではないと、改めて思う。


 だが、抗えない熱に突き動かされるように、八反田は駆け出した。


「瑠璃子さん、待って!」


 すると瑠璃子はピタリと止まり、夕日に照らされたオレンジ色の海を背に八反田を見た。


 逆光で、彼女がどんな顔をしているのか、八反田にはわからない。わからないからこそ、若い八反田は勢いに任せて心の熱を吐き出した。


「共に逃げましょう!俺なら、あなたを迷わせたりはしない!男のために、他の男と寝させたりはしない!」


 しかし瑠璃子は、首をかしげて朧気に笑う。


「何をもって人は、真に救われたというのかしら。何をもって人は、信用たらしめたといえるのかしら。それすら教えてくれないのに、貴方は、何故そんなに簡単に愛を口にするの?」


 八反田は、冷や水を浴びせられたように立ち尽くし、言葉を失った。


 たった一度、肌を重ねただけなのに、この人の何を理解したつもりでいたのか。


 瑠璃子はゆっくりと八反田に背を向けた。


「貴方でも、結局駄目なのね。」


 そして真っ直ぐ海の方へと向かって行く。


「待って!瑠璃子さん!」


 八反田は叫びながらも、一歩も前に進むことができなかった。


 彼女にとって、この世界はあまりにも毒に満ちている。息を吸う度に肺が腐り、少しずつ生に蝕まれていく中で、何者にも救われることのない毎日を過ごしていたのかもしれない。


 救って欲しかったのだろう。

 だが、何から救ってやればよかったのか。


 若い八反田には何もわからなかった。


「……う、う、うわあああ、」


 八反田の視界は涙で歪み、もう何一つ見ることができない。


 崩れるように踞り、ただ小さく震えて泣くより他に術がなかった。



              了


 

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真昼の月に満ちる毒 みーなつむたり @mutari

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