第4話
「とりあえず、もう少し不貞の証拠を増やす?」
瑠璃子は珈琲を半分飲んだあたりで不意に聞いてきた。八反田は突然のことに驚き、珈琲を吹き出してしまった。
瑠璃子は笑いながら自身のハンカチで躊躇なく八反田の前の机を拭いた。
「すみませんっ、ハンカチ、汚れますよっ」
慌てた八反田は思わず瑠璃子の手に触れる。瑠璃子は驚いた様子でその手を引っ込めた。
八反田は顔を上げ、瑠璃子を見た。
「………」
瑠璃子は顔を赤らめ、八反田の触れた手を急いで机の下に隠す。そして照れたように笑って八反田を見つめ返した。
「こんなオバサンの手なんて触らないでよ。手が汚れるよ。」
おどけた口調で笑う瑠璃子は、少女のようだった。
「…そんなこと、ありませんよ。」
八反田は目を反らし、珈琲に視線を落とした。
瑠璃子という人が、八反田には理解できない。
これ以上、関わるべきではないことは、本能が知らしめていた。
心を殺さないといけない。
(…血迷うな。馬鹿馬鹿しい。)
「最近は便利になったから、マッチングアプリで相手はすぐに見つかるのよ。だから、」
「あなたは、」
八反田は真っ直ぐ瑠璃子を見据え、冷めた目で問った。
「あなたはそんなに何人もの男と不貞を重ねておいでなのですか?」
瑠璃子は一瞬目を丸め、しかしすぐに楽しそうに微笑んだ。
「まさか。私、初めて付き合った人が旦那だったし、不貞が疑われてるんなら事実にしないといけないなと思って、今回初めてマッチングアプリ使ったから、男性経験は実質二人よ。」
「………嘘だろ」
酷い告白だった。
ゆえに八反田は自分を繕うことを忘れた。
「嘘じゃないわ。私、嘘がつけないの。普通じゃないよね。」
八反田は、今、自分がどんな顔をしているのか想像することさえできなかった。
しかし、自分の顔を見て、瑠璃子が自虐的に微笑む姿があまりに痛々しく、八反田の胸は鋭く抉られた。
「…すみません。…なら、俺のせい、ですね。」
「別に貴方のせいじゃないわ。私が自分でやったことなら、全部私のせいじゃない。キッカケはあくまでキッカケにすぎない。貴方のせいじゃないわ。」
凛とした声だった。
八反田を見据える瞳に偽りはなかった。
「だから、貴方が泣きそうな顔しなくていいのよ。何も、気負わないで。」
そして瑠璃子は穏やかに微笑んだ。
※ ※ ※
血迷っていた。
そう自分に言い聞かせるのは簡単だった。
しかし、八反田は自身の行動にそんな言い訳を付随させたくはなかった。
瑠璃子の腕を掴む手に力が籠る。
「痛いんだけど。…離して。」
「嫌です。」
「…どうして?」
「今から、誰と会うんですか?」
「だから、さっき見せたマッチングアプリの人と会うのよ。不貞の事実を増やした方が、貴方も仕事が早く片付いて楽でしょ?」
「行かせません。」
「なんで?今のままじゃ、何も証拠なんて出ないわよ。こんなオバサン追っても、不倫の事実なんてないもの。無理にでも作らないと。」
「…そんなに、自分を卑下するの、やめてください。」
「どうして?私なんて、なんの価値もないもの。」
「そんなこと、言わないでください。」
八反田の声は、懇願に近い。
それがわかったのか、瑠璃子は自身を掴む八反田の手にそっと触れた。
「冷たそうな人かと思ったけど、温かくて優しい人だったんだね。…モテるでしょ」
この期に及んでおどけたように笑う瑠璃子が痛々しかった。
八反田は理性のリミッターが外れる音を確かに聞いた。
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