第3話


 八反田は言葉を紡ぐことができずに、ただ呆然と立ち尽くすのみだった。


「主人に頼まれたのでしょう?私の不貞を探って離婚を有利に進められるように。」

「…あ、あの、」

「だから、マッチングアプリで見つけた好みでもない男と寝たわよ。…これで満足?」


 瑠璃子は、とても悲しそうに笑った。


「………あの、」


 八反田は、自分の行動がずっと瑠璃子にバレていた事実を、この時ようやく認識した。


 愕然としたまま、言葉を失った八反田を、瑠璃子はもう見るのを止めた。


「気にしないで。…私の人生なんて、こんなものだから。」


 そして瑠璃子は八反田から離れ、ホームの角に立った。


「………」

 

 電車が駅に入る。

 その風に帽子が飛ばされないように押さえる瑠璃子のワンピースが風に靡いた。


 白い足が露呈して、八反田は思わず唾を飲みこんだ。


     ※ ※ ※


 事務所に戻った八反田は、しかし今日の調査内容をまとめることができなかった。

 開いたパソコンの前で項垂れ、キーボードに置いた手は何も触ることはない。


(この調査は、報告できない。…俺のせいだ。俺の、)


 瑠璃子の不貞は故意だった。

 その事実を導いたのは八反田自身。

 不貞の事実のみを報告すればこの調査が終わるのもまた事実。


「……くそっ」


 八反田はその日、山内に虚偽の報告をしてそのまま帰宅した。


     ※ ※ ※


 休みを挟んだ3日後、八反田は【キチント】の前に立っていた。

 幾人かの客に訝しそうに見られながら、入店できずに固まる足を一歩も踏み出せずにいた。


「まだ何か用なの?若い探偵さん。」


 客足が引いた時、目の前に現れたのは、【キチント】の制服を着た瑠璃子。改めて見る【キチント】の制服は、フリルが多くて瑠璃子には少し似合わない。制服が可愛らしすぎるのだ。瑠璃子には、あのワンピースの方がよく似合う。


 そんなことをぼんやり考えている自分に驚き、八反田は顔を赤らめた。


 すると瑠璃子はクスクス笑いだし、


「話があるの?なら五時に上がれるから、待てそうなら、近くのカフェで待ってて。」


 瑠璃子は柔和に微笑んで、八反田の腕を軽く叩いた。


「………」


 叩かれた腕が少し熱い。

 八反田はその腕をじっと見据えたまま、ゆっくりと歩きだした。



 近くのカフェで何杯目かの珈琲を飲んでいると、目の前に何者かが座った。

 顔をもたげると、瑠璃子が楽しそうに頬杖を付いて八反田を真っ直ぐ見つめていた。


「今日、皆にあのイケメンは誰?って聞かれたわ。彼氏よって言っておいた。私の嫌いなオバチャンには『不倫じゃないのっ』てゴミみたいに蔑まれたけど。」


 コロコロ笑いながら瑠璃子は言う。


「………」


 瑠璃子はこんな明るい人なのかと、八反田は少し面食らった。


「いいんですか?そんな噂、流されても。」

「いいわよ。だって離婚させたいんでしょ?私が酷い女であればあるほど、あの人も安心するし社会的地位も守られるし離婚も有利に進められるし、…貴方たちにはいいことだらけじゃないの。」

「でもあなたは、」

「私はいいの。…どうでもいいの。」


 店員が運んできた珈琲に、瑠璃子は砂糖もミルクもたくさん入れた。


「本当は私、珈琲飲めないの。」


 あはは、と瑠璃子は屈託なく笑う。

 

 この人がどういう人なのか。八反田にはよくわからなくなった。


 ただ、空を見上げる月のように、日々変わる彼女の笑顔が、心の中に毒のようにじわりじわりと広がっていくのを確かに感じた。

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