第2話


 井上の妻、瑠璃子は小さなケーキ屋【キチント】のパート従業員だった。


 接客をするさまは至って普通の中年女性だ。

 どこにでもいる平凡な容姿で、特段美しいわけでもない。細くもなく太くもなく、全てにおいて平々凡々な主婦。


(依頼人は、…もっと他にいい女と結婚できたんじゃねぇのか?)


 八反田は【キチント】のケーキが並ぶショーケースの前で瑠璃子を盗み見ながら苦笑を漏らす。


「……!」


 その時、不意に瑠璃子が振り向き、八反田を見た。


「………っ」


 目が合い、思わず八反田はその目を反らしてしまった。額に汗が滲む。


(なんて目で見やがるっ)


 瑠璃子は、その平凡な姿からは想像できないほどの強い目力があった。キツいわけではない。だが、内なる情の熱が、その瞳からは溢れているようだった。それは、何かに興味を抱いた子供のようでもあり、獲物を見つけた猛禽類のようでもあった。


(見ているのが、バレたのか?)


 八反田は踵を返し、その場から逃げるように立ち去ろうとした。だが、


「何か、お探しですか?」


 その八反田の背に向けて、耳障りのよい声が響く。咄嗟に振り返り、刹那八反田は曖昧に笑った。


 瑠璃子が、射抜くような赤い瞳のまま、八反田を見据えて微笑んでいたのだ。


「…欲しいケーキがなかったので、…また来ます。」

「そうですか。それは申し訳ありません。またのお越しをお待ちしています。」


 頭を下げる瑠璃子から逃げるように店をあとにした。


     ※ ※ ※


 瑠璃子は【チキント】での勤務を終えると、近くのスーパーでその日分と思われる少量の買い物を済ませ、帰宅する。


 尾行を始めて4日、行動に不審な点は見当たらなかった。


 しかし5日目。

 瑠璃子はいつもの平凡なパンツスタイルではなく、淡い白の丈の長いワンピース姿で家から現れた。


 いつも被っている帽子とは違い、黒のリボンがあしらわれた麦わら帽子を目深に被り、颯爽と足早に歩いて自宅から遠退いていく。


 八反田はその後ろ姿を追った。


(どこまでいくんだ。)


 電車を乗り継ぎ、約二時間。

 たどり着いたの隣県。

 そこで瑠璃子は駅近くのレトロな喫茶店に入り、一人珈琲を注文した。

 

 八反田は離れた位置のカウンターに座る。


 こちらに背を向けている瑠璃子は、徐に麦わら帽子を取って傍らへと置いた。そして髪をかき上げ、うなじを垂れる汗をハンカチで拭う。


 その日は5月にしてはとても暑く、八反田もスーツの下はじんわり汗で濡れていた。レトロな喫茶店の冷房は効きが悪く、いつまで経っても汗は引かない。


 八反田も額の汗を拭おうと内ポケットからハンカチを取り出しかけたとき、喫茶店のドアがカランと鳴って、白髪交じりの男が入店してきた。


 その男は迷うことなく瑠璃子の席の前に座り、店員を呼ぶと、瑠璃子と同じ珈琲を注文した。


(…やはり不倫をしてたんだな。)


 証拠の写真をペンに仕込んだカメラでこっそり盗み撮りながら、八反田はほくそ笑んだ。

 証拠を掴めば、交渉も有利に進められる。


 これでこんな面倒な調査からも解放される。


 一頻り写真を撮り終えると、満足したようにアイスコーヒーの氷をストローでかき回した。



 瑠璃子と男は小一時間ほどで退店した。

 そのあとを尾行すると、案の定、二人は駅近くのホテルへと向かう。


 その姿も写真に納め、八反田は調査を終了した。


     ※ ※ ※


 夕方。帰りの電車を駅で待つ八反田がぼんやりスマホを眺めていると、不意に隣に人の気配を感じて顔を上げた。


「……なっ」


 視線を流した先にいたのは、瑠璃子だった。

 八反田は思わず息を飲む。


「こんにちは。いつかのお客さん。…貴方、探偵さんだったの?」


 瑠璃子はいつぞやの熱い情をその瞳に宿したまま、ゆるゆると笑って頭一つ分背の高い八反田を見上げていた。


 

 



 

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