日永

日永ひなが ~夜長後日談~ 


 雪解けの春。村には子らの笑い声がこだまする。


 未だ長い戦乱の渦中に居ながら、太平の世がすぐそこに迫っている予感があった。


 兵農分離が謳われ、侍と平民は一層身分の隔たりを大きくし、刀やら槍、弓、鉄砲は皆取り上げられてしまった。村民は脇差までも取られると聞き、反発を強めた。


 が、高橋だけはその方が良い、これでもう人を殺めずに済む、と胸を撫で下ろしたものだった。




 ひるに農具を磨きに妻の待つ家に戻った丁度、突然の客人があった。


 高橋の隣に新妻が踵を立てて客人へすすす、と白湯を差し出す。

 高橋は気もそぞろに胡坐の足を組み換えた。


「……それで、あなた様はどちらのお嬢様なんでしょう……」


屋代やしろのたきと申します」


 妻はすまし顔を崩さぬまま。高橋は妻の内心を慮って冷や汗を垂らす。


「そんなお方が、どうしてまた……。俺は百姓です、あなた様とお顔を合わせて良い身分では到底ございませんで」


「ええ、それはもう、存じておりますとも。……高橋様はあの日を覚えておいででしょうか……」


 まだ瑞々みずみずしさを漂わせる娘が顔を近づけると、忽ちある晩のことが鮮明に思い出され、高橋は「あっ」と叫んだ。




 六年と少し前のこと。

 一山向こうの村で戦があったらしいと伝え聞いた。


 村の皆が村長の家の周りにごっそり集まり、頭を突き合わせて不安に駆られた。

 その頃は母も生きていたため母だけは村長の家に残し、高橋はその雑踏を一人抜け出して山に分け入った。


 山の中で娘を二人見つけた。近付いてみればまだ幼子と呼べる年の頃ではないか。


 娘のうち一方の召し物がうんと豪奢ごうしゃだったため、そちらは武家の娘、もう一方は奉公人の娘だろうと勝手な当たりを付ける。

 武家の娘は漆を塗ったように艶めく黒髪を背に垂らしていた。


 これは面白いと云えようか、武家の娘の方がよよよと泣くだけの奉公人の娘を励ましていたのだ。


 高橋は声を潜めて呼び掛けた。


「おい……、おい、そこの娘っ子」


 ぱっと顔を上げた子らが、高橋に気付くと怯えの目を向けた。

 それでも果敢に応じたのは武家の娘だ。


「……このようなところまで追ってきても、お生憎、私は無一文でございます! それともあなた様、私の命を所望されますか! 父上の土地を踏み荒らすだけでは飽き足らぬのですか!」


 娘の剣幕に怯むことはせず、高橋はくさむらから娘の前に出た。


「……俺は追手じゃあねぇ。あそこの村の者だ。あんたらを逃がしてやる。生きる気があるんなら、ついてこい」


 娘らはいまだ訝しげだ。


「……何故私らを逃がすのです」


「それは、その……不憫になった」


 高橋が顔を顰めて突っ立った。


 武家の娘は先程までの様子が偽りのように大人しくなって、「ふびん……」と反復した。言葉を覚え立ての赤子のような純朴な響きだった。


 パチパチと火の粉の爆ぜる音がふもとの辺りから聞こえてきた。娘らの追手が山に火を放ったと見える。


 火の手と反対の方向に迷いなく降りていく高橋に、懸命に娘らがついていく。


 下山し暫くすると高橋と娘らの位置は入れ替わり、娘らの先導で歩みを進めていた。


「この辺り……もう暫し先に親族の家がございます」


 武家の娘の呟いた言葉に被さるように奉公人の娘が「あっ!」と喜びの声を上げた。

 奉公の娘が屋敷に消えて又出てくると今度は大人もぞろぞろと引き連れてきた。


 武家の娘はその隙に、高橋に金箔で桜の柄をかたどった櫛を握らせた。


「これをお持ち下さいまし。きっと高橋様をお探ししお礼を」


「……こりゃあ中々の値打ちもんじゃあないのか? お前さん無一文じゃなかったんだな?」


 娘がくふっと含み笑いを一つ。


「懐にへそくりを潜ませるは女の嗜みでございます」


 ああ、これは参った、と示すのに肩をがくりと落としてみせた。

 物怖じもせぬこの娘は目を細めて、肩を揺らした。




 さて、この出来事には短い続きがある。


 高橋は己の村に帰り着く手前で、ふと首を傾げることになった。二人の娘のかんばせがどうやっても思い浮かばなくなっていたのだ。

 たった数刻前の娘らの顔を、だ。


 一足ひとあし一足ひとあし娘らから遠ざかる度に忘れていったようなのだが、如何せん大雑把な高橋のことであったため今の今まで気が付かなかった。


 その時に娘から貰った櫛もいつのまにやら忽然と消えてしまっていた。


 以来、村に着いてからの冬支度の忙しさでその不思議な一夜のことは思い出そうともしなくなっておったのだった。




「……あなた様があの晩のお嬢様ですか」


 こくりと娘……たきが神妙に頷く。


「それで、もしや、俺に礼をしにこんな村まで来られたのですか……」


「如何にもそうでございます。大変にお礼が遅くなりまして」


 高橋はうーん、と喉奥で唸った。

 たきは勇んで高橋に迫る。


「して、如何しましょうか、こちらからのお礼の方は」


「いや……参ったな。俺は今の暮らしで充分でして、これ以上のものをと云われましても……」


 高橋はたきを苦労して説き伏せて礼を受け取らず帰らせた。

 娘は後ろ髪を引かれるような顔をして、それでも引き下がった。




 客人が居なくなると、妻のいよはするりと立ち上がり、今し方金持ちのお嬢様が口をつけていた湯呑を洗いにいった。


 高橋はそれを追いかけていく。そうしながら余計な考えが巡る。


 あの娘の様子はこうであったか。今より年は幼かったあの晩の方が麗しさやしたかさを持ち合わせておったような。

 何とも言えぬ呆気なさを持て余した。


 いつもの通りに湯呑を洗う妻の背に眼を注ぎ、ふと思い至ったことは、


「あのお嬢様は何故あの櫛を持って居ったのだろう……。俺は返した覚えもないのに……」


 櫛というのはあの晩、高橋にお嬢様が握らせたものだ。これを目印にして高橋を探すとのことだったはず。


 しかし帰り際、たきはカランと袖から櫛を落とした。

「あら、嫌だわ……」と恥じるように呟いて、それ以上のことは何も云わず頭を下げて帰っていったのだった。


 いよが洗い物を終え前掛けで手を拭ったのち、頬に四つ指を当てて首をちょこんと傾げた。


「さぁ……、狐にでも化かされたんではないんでしょうか」


 高橋はぽかん、と口を開けた。

 次にはもう、何もかもに合点がいって、大仰に己の眉間を指で揉んだ。


「……全く、早う云え。お前があのお嬢さんを化かしたわけか」


 呆れは、いよにあからさまにとぼけられなければ気が付かなかった己に向いてもいる。


 妻は口元を覆って、可笑しそうに真っ赤になって笑い声を堪えている。


「いいえ、いいえ、私ではございませんのよ。だってあの頃はまだ人に化けるには幼かったのですもの」


「ならば、お前の兄貴だな」


「いいえ、いいえ、六年も前ならば兄もまだ幼かったのですよ」


 高橋は首を捻る。


「とすれば、……お前と兄貴の親かい?」


 当たりだと褒めるようにいよは狐のふさふさの尻尾だけを出して、くるりと回してみせた。


 平時は人に化けているこの狐を、高橋はそうと分かりながら妻にめとったのはついこの間のことだった。当然にいよの兄もまた狐だ。


 この狐らの親狐が屋代の娘を化かしたのだと云う。

 高橋は、狐が武家の娘の方に成りすましていたと見た。そうして、本来は身分の高い娘、たきの方を奉公人の子に見せかけた。


 たきは見事かされ、その時だけは自分は奉公人の娘であると思い込んだのだ。術が解けてもなお覚えは有耶無耶になったままだったのだろう。


「……はて、とするとお前はその時何処かに居ったのか」


 いよは高橋の着物の襟をちょっと直して、


「櫛に化けておりました。兄の方は櫛の金箔の桜模様に化けておりました。あの時、あなた様が口では要らんと素気無く仰っても、帰り道で大切そうに幾度も櫛を撫でて下さるので、私ら兄妹は何とも心地良く……」


「こ、こらっ!」


 いよはいっぺんに二、三も鈴を落としたかというほどの笑い声をころころ鳴らした。


 しかし、謎はこれで全てではない。コホンコホンと空咳で取り繕った高橋は、妻に訊くことにする。


「何故、親狐は追手に殺される危険を冒してまで娘をたすけたのだ?」


 いよは束ねた髪から一房垂れたのを細い指で掬って撫でつけた。

 それが何とも艶やかで高橋は息を呑む。


「……それは、あの時は、つぐないでございました。私と兄が人肉を喰らった話は覚えておりますか? あの娘はその武士の仕えた方でいらっしゃったようなのです。母はせめてもの思いでこの娘を救おうとしたようです。……母には遠く先の世を見通す予知の力がございました」


 いよは最後に憂いを晴らすように、無理に笑った。

 母狐は起こってもおらぬ先の世のことに関してまで償いをしたのだと云う。


「……律儀なことだなぁ。それで、今度は俺に扶けられて借りが出来たもんで又返しに来たのか」


「私たちは誰も人間ほど薄情じゃあごさいません」


 高橋の言を皮肉と取ったか、ぴしゃりと云ったいよは、変化へんげを解き狐の姿に戻ってしまった。

 毛並みの美しい金色こんじきの狐だ。耳と手足の先は黒いのが愛らしい。


「ああ、すまん。馬鹿にしたのではないぞ。俺はあんまりに貰い過ぎじゃあないかと案じただけだ」


「貰い過ぎ、とは……?」


 耳をぴんと立てて、ちょんと跳ね寄ってきた狐をそぉっと腕に捕まえる。

 狐は胡坐を掻いた高橋の足に大人しく収まった。


「いよという、俺には勿体無いほど気立ての良い妻を貰ってしまった」


 いよは「よして下さい、もう……」と可愛ゆく拗ねてそっぽを向き、しかし尻尾をわさわさと揺らす。

 耳の付け根を擽ってやると、狐は高橋の胸に頭を預けて、心地良さそうに欠伸した。


 そこに義兄が帰ってくる。今日は老侍に化けていたらしい。


「ほうぅ。邪魔したか」


 踵を返そうとする義兄を高橋は引き留める。


「いいや、丁度良いところへ。俺もこいつも晩飯の支度をして居らんのです。あ、そこの魚をさばいて下さると有難い」


「……お前。義兄に晩飯をあつらえさせる気か」


「俺は動けんので」


 高橋にじゃれついている妹狐を眼で指してやると、「まあ、邪魔をするのもなにか」と呟いて、まず大根を切り始めた。とことん妹に甘い兄である。


「日も大分長くなってきたなあ」


 ちょっと呟いてみた、その吐息が己でも面食らうほど腑抜けていた。


 高橋の頭を覗き見たように、膝の上の狐が同じくらい気の抜けた声で囁いた。


「私もあなた様と居られる日々が、もう云い尽くせないほどに、仕合(しあわ)せでございます……」


 嗚呼、こうして戦国の世は過ぎ去っていくのだ。

 この時代を知る皆に云えることであるが、苦渋を、悲嘆を、怨嗟を……その片鱗へんりんが覗く度、過去へ押し込めてきた。


 どうか我らの子は、孫は、平穏な世で幸せを噛み締めて生きてゆけるようにと祈りを紡いで――。


 とはいえ、高橋は嘆息した。こうも呑気に日向ぼっこをしていては流石に畑仕事に支障が出る。


 高橋が押し退けようとして伸ばした手の甲に、狐は前足を引っ掛けて「くぅーん……」と心細そうに鳴いた。


「……ええい、あと少しだけ撫でていてやる」


 狐はしめたりと嬉しそうに擦り寄って、目を細めた。


 春の陽が長閑になってきた。これから日々を重ねるだけきっと暖かくなろう。

 妻を膝に乗せたまま暫くの間微睡まどろんで、胸の内を春の日差しで満たしていった。





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夜長 @kazura1441

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