夜長

夜長

夜長よなが                 


 寒さが身に染みてくる秋口、高橋は川辺で一匹の子狐を見つけた。村の集まりの帰りのことだ。


 世は戦国時代末。百姓は命が下れば武器を手に取り、足軽として戦地に駆り出される。老人も鉄砲を持ち、女も戦のために働く。


 高橋は小さな村落の農民の身分であるが、もうこれまでに何人も人を斬っていた。

 その腕は村の皆に散々「農民に生まれたのが勿体無もったいない」と羨望と厭味いやみの混じった言葉を掛けられるほどだ。


 今宵の集会でも村長の一人息子がれ見よがしにおのれの――高橋から見れば身の丈に合わない――鎧を怒らせ、「次の戦も高橋に任せておけばよい」とやっかんだ。


 高橋はじぃと俯いて時をやり過ごした。




 さて只今ただいま、高橋は弱り果てた子狐を前にしている。

 子狐が切なく「くぅん……」と鳴いた。

 高橋は何か考える前に温かい塊を着物に包み抱きかかえていた。


 家に帰り着くと、囲炉裏でかゆを温めそろそろと子狐に飲ませてやった。

 粥と云ってもあわひえきびと質が悪く年貢に収めることもできない雑穀の交ざりものだが。


 端が擦り切れた着物で子狐の体を包んで、胡坐あぐらを掻いた高橋の膝に乗せる。子狐はケプッと一つげっぷをして満足そうに眠り始めた。


 高橋はその小さな背に独り云つ。


「何をしておるのだろうな、俺は……。俺は百姓の生活がどれだけ苦しいか知っておるのに、他の領主の土地というだけで田畑を焼き、そこの農民の貯えを奪わねばならん……。隣村に今年の冬を越えられん子がどれ程おるか……」


 呼吸する毎に上下する子狐のまんまるの背。

 高橋はいつの間にやら、うつらうつらと舟を漕ぎ、やがて眠っていた。




 翌朝。よちよちと歩く子狐。

 人肌に温めた昨晩の粥を平たい器に入れておいてやる。


 村を出ればすぐ裏山がある。

 そこは村が雑兵に襲われた時に女子供が避難する場でもあるため高橋はよく承知していた。

 この子狐はその山の狐であろうから放っておいても本能で山に帰るだろう。


 高橋に一切警戒を示さぬ子狐の尖がった耳の裏をくすぐってやる。

 子狐は「くしゅんっ」とくしゃみをして前足で鼻を掻いた。


 愛らしい姿に思わず久方振ひさからぶりの笑みが漏れる。


「ちゃんと母狐の元に帰るのだぞ」


 高橋は低く声を掛ける。盗人が入ろうが特に盗るものも無いと、戸の隙間を開けて家を出た。




 村からずうっと歩けば市場に出る。

 高橋は本格的に冬に入る前に新しい着物を買っておこうと考えていたのだ。

 今着ている着物はあちこちにぎをしていて大分だいぶ草臥くたびれている。


 そもそも百姓の身分では呉服屋で新品の着物を買うことなど到底出来ない。それが出来るのは一部の富裕層や武家の生まれの者だけだ。

 そういった金持ちから買い取ったお古を市場で売っている。


 当然、高橋も裕福なわけはない。

 父は生まれてすぐに起こった戦で死に、母にも一昨年の暮れに先立たれた。今は独り身だ。


 例え一番安い着物であっても贅沢品。慎重に選ぶ。


 高橋が手拭いの売り場から顔を上げた時、ドンと誰かとぶつかった。


「あぁすまん……」


 謝ろうとして、相手の腰に下げている刀が目に入った。着物が上等であることに気付く。

 どう見ても武家の身分だ。


 慌てて云い直す。


「……申し訳ございません。何卒お許しを」


 武士の男は高橋より随分若く見える。二十歳を超していないかもしれない。


 男は興味を引かれたようにひょいと高橋の手元を覗き込んできた。


「手拭いか。お前買うのか?」


「……いえ、見ておるだけでして……」


 男が冷たそうに整った眉を僅かに上げて、


「ほう。高橋、暇があるなら俺と話さんか?」


 云うなり男は背を向けると簡素な茶屋に入っていった。

 高橋の名乗ってもおらぬ名を呼ばれた気がしたが、今は男を追うしかない。


 男はさっさと食堂の席に着いた。


「何か頼め。俺がおごる」


 高橋はやはり恐縮しながら従うほかない。


「俺はこの辺りに来たばかりで詳しくないのだ。お前、色々と俺に教えられるか?」


「……しかし、俺はただの農民です。お侍様に何か教えるなんぞおこがましく……」


 男はつまらなそうにふんと鼻を鳴らすと、


「お役所の連中は御為倒おためごかしか云わん。この戦乱の最中さなかに飢えの無い村などあるものか……。俺はまことのところが知りたいのだ」


 高橋には男の言葉が切実なものに思えた。

 男に村の現状を話すことにした。


 村の近くで戦が起こる度に雑兵が民家を襲い、作物を奪う。子供や妻が攫われた話も珍しくない。

 それで貯えが少なくなり、女子供を養えなくなると他の村を襲い食料を奪いに行く。

 ともかく兵の頭数を揃えたいだけの大名たちはそれをはなから黙認している。

 その繰り返し。


 一度ひとたび飢饉が襲えばそれは周囲の村を巻き込み、冬に近付くにつれ日々餓死者が増していく。


 毎朝、埋葬場の前に遺骸が並ぶ。

 骨と皮だけになって餓死した孤児の姉弟、疫病に肌が青紫色に腫れ上がった嫁入り前の娘、山向こうの村を襲い千切ちぎれ掛けた脚を引きりながら帰ってきて力尽きた老兵……。


 冷夏、干ばつ、大雨による洪水、イナゴの虫害。近年はまともに米が育った試しがない。


 だが大名は小さな村落の農民の窮愁きゅうしゅうなぞはそっちのけで年貢を課す。

 これが自治権を残す大きな惣村であれば云い分もいくらか通ったろう。

 弱き者はかえりみられぬ世。


 若い男は不快そうな素振りも見せず聞いていた。高橋が話を終えると男が頭を下げた。


「……かたじけなく思う。この余所者よそものにもまことのことを話してくれた」


 高橋が驚いていると、男はさっと高橋の分も支払いをして茶屋を出ていってしまった。

 慌てて追いかけたが、き消えたように姿が見当たらなかった。




 不思議なことがあったと思い返しながら家の戸を開ける。


 昨晩拾った子狐がむしろにちょこんと座っていた。この筵は高橋がせっせとわらを編んで作った寝床だ。


「……お前、山に帰ってしまって良かったのに」


 子狐は幼気いたいけな鼻をひくつかせて「くぅん」と答えた。


「よぉし、分かった分かった。お前が好きなだけ家におれば良い」


 猟師から買った鴨肉の欠片を粥に混ぜて食わせる。

 ぬるま湯を平皿に注ぐとぴちゃぴちゃと口の周りを濡らしながら懸命に飲む。


 高橋は薩摩芋さつまいもの欠片を焼いて齧りながら子狐を撫でた。


 高橋が筵を囲炉裏の火の側に引き摺ると、食事に満足したのか、潜り込んでくる。

 温かい子狐をつぶさぬように高橋は横になった。




 翌日のひる、高橋に「村の男たちが役人を襲っている」との知らせがあった。


 先日の村の集まりで云っていた通りだ。高橋も助太刀に行かねばならぬ。

 年貢を減免してくれと要求しに行ったはずだが交渉は決裂したのだ。


 刀を握り立ち上がった高橋を子狐がひたと無垢な眼で見上げた。それを心の内で振り切り、騒動の場に向かった。


 年貢を取り立てに来た村役人に斬りかかる農民たち。

 人が人を斬り、撒き散らされた血が砂と混じり、どす黒く歪な模様を形成しながら地面を染め行く。

 倒れた男たちの中にはもう事切れている者もいる。


 悲鳴や罵声が飛び交う、混乱の場。


「お役人が来たぞーっ!」


 農民の一人が叫んだ。上等な役人が武装してきたらしい。


 場に益々怒号の渦が巻き上がる。逃げ去ろうとする農民、その背に斬りかかる下級役人。それを何とかいさめようとする上級の役人。


 高橋はその中に先日会った若い侍の姿を見つけた。


 向こうも丁度高橋に気付いたらしい。男が僅かに目を見開く。


 その隙を突かれた。男が農民に肩を斬りつけられた。

 男はぐらりとよろめいたが踏みとどまり、逆にその農民を組み伏せた。まだ若い見た目で相当に強い。


 だが、高橋もおちおち眺めてはいられない。襲ってきた侍の刀をキィンと音高く受け止めた。




 暫くはこれ以上年貢を上げないという約定を取り付けたことによって騒動も収まり、村長の家に集まっていた。


 約定を交わしたと云っても要求が通ったのには程遠い。

 ただ無茶な税の掛け方をすれば反乱が起こると印象付けることは出来たと云える。

 おまけにもし逃散でもされれば――百姓が年貢納入を放り出して山に逃げ込んでしまうことだ――大名にも大きな痛手だ。


 夕日が薄暗く照らす。村長の家の前では貯蔵していた玄米を配分していた。

 こんなことは滅多にない。


「俺たちの作った米だぁ。本当なら俺たちの腹に収まるんが当然のこったろう、なぁ高橋」


 唾を飛ばし興奮収まらぬ村の男どもに、高橋は沈んだ顔色で「……ああ」と短く答えた。


 今晩は村の女子供も寄り合い、次々と米を受け取っている。子供らの安堵と歓喜の騒めき。


 乳飲み子を抱えた母親が痩せた肩を震わせて顔を覆った。


「これでどうにか、冬が越せます……。あぁ、ありがたい……」


 高橋は喉が焼け焦げる程に熱くなった。耐え兼ねて村長の家を出た。


 薄暗い民家の通りを抜けて田んぼ道に曲がろうとした時、農具を仕舞う倉の陰にうずくまる人の背がある。盗人か。

 高橋は刀のつかに手を掛け、ゆっくり近寄った。


 あの男だ……。


 午間ひるまの騒動の場にいた年若い侍。傷を負ったままここまで歩いてきたようだ。


 肩の傷は致命傷ではないが、夜の冷え込むこの季節だ。手当てもせず血を流し続ければ朝まで保たぬだろう。


 高橋は男の隣にかがんだ。


「お侍様、俺を覚えておいでですか?」


 男は緩慢な動きで首を起こした。


「……お前は、高橋か……」


「はい。あなた様の傷、すぐに手当てをせねばなりますまい。俺の家にお連れして宜しいですか?」


「うむ……」


 手拭いで簡単な止血をしてから男を背負う。驚くほど軽かった。




 家に帰ると囲炉裏の火が焚かれていた。


 はて、今朝は火を消してきたような。いや、騒動で慌てていたから分からぬ。

 かく火事にならずに済んでほう、とする。


 男を高橋の布団に寝かせた。

 子狐は落ち着かないようで布団の近くを行ったり来たりしている。


「子狐や、この方が心配か? ……そう案ずるな、手当てすれば助かる傷だ」


 高橋がそっと囁くと、子狐は人語が分かったように大人しく丸まった。


 男の傷を見ようと着物をくつろげた時、血の滴が染み付いた書状らしきものが滑り落ちた。

 気になりはしたがまずは傷口の血を拭う。


 手当てを終えてから先程の書状を開けてみた。

 高橋は中身を読み進める程に腹の底から怒りが湧くのを感じた。


 そこには農民から取り上げる米をもっと増やせという旨があった。

 連日連夜、不毛な戦を繰り広げ田畑を戦場にしている大名どもが侍の食いもんが足らんからもっと農民から搾取せよ、などと。


 そして、その命令を伝えに来るのがこの若い男の仕事なのだ。


 ――まことのところが知りたい。


 男の言葉を思い出す。切実に見えた。

 しかし、その根本は平民がどれ程ひもじさに喘ごうが目を瞑る領主と同じだったのだ。


 外は雨が降り出した。屋根に雨音が反響する。冷たい秋雨だ。


 この男を外に放り出してしまおうか、と高橋は考えた。きっと凍え死ぬだろう。


 いざ、そうしようと男の肩を掴んだ時「ギャンッ……」と子狐が悲痛に鳴いた。


 高橋は引き止められたように固まった。子狐は何かを訴えるように高橋を見つめる。


 やがて、根負けしたのは高橋だった。男の肩から手を放し、一つ大きく溜息を吐いた。


 その時、呻くような声が掛かった。


「……何故俺を追い出さんのだ、高橋。お前は俺が憎いと思わんのか」


 若い男は目を開けていて高橋に問う。湖面のように凪いだ、芯のある眼だ。

 高橋が男に何をしようとしていたか知りながら狸寝入りをしていたと見える。


「……お侍様を殺めたところで何にもなりませんので」


「何にもなる、と俺が云ったらどうするのだ?」


「え……?」


 高橋が訊き返すより、男が上半身を起こし、くるりと前転するのが速かった。


 ストンと布団の上に着地した時には男は一匹の狐に変わっていた。美しい冬毛を蓄えた立派な雄狐。


「見ての通り、俺の正体は人ではない。一匹の狐だ。そこに居る子狐は俺の妹だ」


 高橋が呆気に取られていると狐は少し寂しそうに目を伏せた。


「お前が俺を殺せば何にもなる、と云うた意味が解ったろう」


 皮を剥げば毛皮で見事な襟巻えりまきこさえることが出来るだろう。


 売り付ければどれ程の価値になるか。

 肉も飢えた村の子らの腹の足しになる。骨も目玉もまじないをする道具として価値あるものだ。

 僅かであれど村一つが冬を過ごすのには十分だ。


 高橋は一度固く目を瞑り、苦々しく尋ねた。


「……もし俺があなた様を殺さねば、あなた様はこの書状を役所に届けるのですか?」


 狐はククッと肩を揺らしてから首を横に振った。


「……もうじきこの戦国の世は終わる。いずれ三百年の安泰の世が訪れる。まあそれも一時いっときのことではあるが、それでも人間が今生を終えるよりは長い安泰だ」


「……では?」


 つまり、一体どうと云うのか。


「……俺は大名を説得しに行こうと思うておる。もう俺と妹は世俗に生きるより他の無い身だからな……」


 雄狐はぽつぽつと話し出した。妹であるらしい子狐がそっと兄の毛皮に身を寄せた。


 いく月か前、高橋の住む村の隣の領土で戦があった。

 戦地は山にまで広げられた。山に罠を仕掛け、敵を追い込み起爆する。山々は人間によって散々に荒らされた。


 二匹の狐は山を下りたが、息を潜める場も見つからず、逃げ惑ううちに飢えに苦しんだ。


 飢えた狐の兄妹の前に侍の屍が一つあった。いまがた死んだばかりのようだった。

 兄狐は必死でそれを妹に喰わせ、自らも人肉を喰らった。


「……もう俺たちは山に戻り野生の中で暮らすことは出来まい。体に人間の血の匂いが染み付いてしまった……。人の世で生を終えるほかない、故に少しは世俗を住みやすくしようと尽力するのだ……」


 それで役人に化けて人の世で生きているのか。


 高橋は張り詰めた弓を緩ませるように肩の力を抜いた。


「……お侍様、いえ、立派な雄狐よ。俺はあなた様を殺めませぬ。先程の……争いの世がじき終わるという言葉を信じましょう」


 子狐が高橋に礼を云うように手の甲を舐めた。


 雄狐はくるっと飛び跳ねると元の若い武士の姿に化けた。ずいっと高橋に顔を寄せる。


 何事かと高橋が眉をひそめると、


「うむ。よく見ればなかなか悪くない。お前、うちの妹を嫁に取らんか?」


「……狐の嫁入りか……。いや、お断りする」


「まあ待て。妹はまだ幼いが、すぐに人に化け人語を喋れるようになる。その時にまた考えてくれ」


「いや、しかし……」


 なおも高橋が渋ると、男は揶揄からかうように声音を弾ませた。


「だが、妹はお前に惚れておるようだ」


 男が云った途端「キャンッ」と子狐が吠えて布団に潜った。

 布団の隙間から上目遣いに兄狐と高橋を見る。照れているのか。


 ククッと若い男が笑った。高橋もふっと口の端が緩んでいた。


 戦国の世はきっと今に終わりを迎え、安泰の暮らしが訪れる……。


 橙色に揺らめく囲炉裏の火。ほのかに甘い粥の匂い。しとしとと天井から響く雨音。


 長い秋の夜。

 子狐がスースーと眠り始めた傍らで、高橋と男はぽつりぽつりと穏やかに言葉を交わしながら、朝日が昇るのを待ち続けた。





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