恋のキューピッド
ロク
第1話 恋のキューピッド
ちょっとしたきっかけと少しの勇気があれば人は変わることができる。
確かにそうだろう。しかしながらそのきっかけというものが滅多にないのだ。
今年で36歳になる僕は生まれてこの方、一度も彼女ができたことがない。彼女いない歴=年齢である。常に彼女が欲しいと願いながら生きてきたが、一度も恋愛をするきっかけはなかった。誰かを好きになるということ自体が既に立派なきっかけになっているのかもしれないが、臆病な僕にはそれではまだまだ足りない。
例えば、図書館で同じ本を取ろうとして手が触れる、曲がり角でぶつかった女の子が転校生だった、不良に絡まれている女の子をたまたま通りかかった僕が助ける。
こんな劇的なきっかけがないと僕には恋愛なんてできないのである。
そして今、僕は密かに想いを寄せている女性がいる。いつも仕事帰りに立ち寄る駅前のコンビニで働いている女性、
彼女は1ヶ月程前からそのコンビニで働き始め、毎日のように働いている。
僕もまた毎日そのコンビニに通っている。決して彼女に会いたいからではない。以前から通っている。と言うのも、仕事を終えるまでに19本の煙草を吸い、帰りにコンビニに立ち寄り、1箱煙草を購入して残りの1本を店前の喫煙所で吸って帰る。というのがここ数年の僕のルーティーンなのである。そして、1ヶ月前からこのルーティーンに彼女の接客中の笑顔を見ることが追加されたのだが……。
それもまた結局はルーティーンなのであって、同じことを繰り返すだけ。彼女との会話や恋愛に発展することはないのである。
しかし、新たなルーティーンになってから3ヶ月程経った頃。僕はいつものようにコンビニに立ち寄り、レジで待つ彼女に煙草の番号を伝えようと口を開いた。
「えぇ、きゅうじゅう……」
「あ、ハイライトですよね! 98番の」
僕が話すのを遮り、彼女は煙草を手に取り、小さなえくぼを見せた。
そう。彼女は僕が買う煙草の銘柄をもう覚えていた。覚えてくれていたのだ。
「そうです! 覚えてくれたんですね」
「はい、実は少し前から覚えていたのですが、その日の気分で違う銘柄を吸うこともあるかもしれないし、勝手に決めつけてしまったら失礼かと思って……」
「いえいえ、とんでもないです! ありがとうございます」
「よかったです! ありがとうございました〜」
軽くお辞儀をして顔をあげた彼女は優しく微笑んでくれていた。
いつも、煙草を買うだけで会話をすることもなかったのに、僕の顔と煙草の銘柄を覚えてくれていたことが嬉しくて、口元が緩み、顔が溶けてしまったのかと思うほど変な顔になっているのが自分でもわかった。そして陽気に小走りしながら帰った。
そして次の日は僕が入店するのと同時に彼女はハイライトをレジ横に置いて、和やかな表情で軽くお辞儀をした。僕はまっすぐレジに向かい煙草を購入した。
「ありがとうございました〜」
店を出ていつものように最後の1本に火をつけ、煙をゆっくりと吐き出す。ぼぉーっと何も考えることなく吸って吐いてを繰り返し、灰皿へ煙草を放り込み、歩き始めると同時に店の中を見ると彼女と目があった。
可愛い……。
まだあどけなさが残る笑顔、それに反して豊満な体つき、自然と癒やされてしまう柔らかい声、僕はもう彼女の虜になっていた。
しかし僕は臆病だ。なんのきっかけもなしにデートや食事に誘うことはできないし、話しかけることすらできない。なにかきっかけはないものだろうか。
そんなことを考えながら過ごすうちにもう半年が経っていた。相変わらず進展はない。
この世に恋のキューピッドなんて実在しない。なにが愛の神だ! まぁ実在したとしても、36年間なんの仕事もしていなかった自堕落な神だ。なんのアテにもならない。
しかしだ! もしも……もしもそんな奴が本当に実在するのならば、今すぐ僕に彼女と親しくなるきっかけと少しの勇気を与えろ!
そう強く願った翌朝のこと。
いつものようにコンビニを通り過ぎ、改札を抜けたとき、甘く蕩けてしまいそうな匂いがした。僕のすぐそばを駆け抜けた女性の香水の匂いだろう。
その匂いを感じたのと同時にチャリンっという音がした。
足元を見ると鍵が落ちている、さっきの甘い匂いのした女性の鍵だ。それを拾い、彼女を追いかけたがドアが閉まる寸前に彼女は駆け込み乗車に成功したため、この鍵を渡すことはできなかった。
しかし驚いたことに、動き出す電車の中で振り返り、窓の外を向いた女性は彼女だった。僕が想いを寄せているコンビニ店員の塚間さんだったのだ。
こういうことだよ! こういう劇的なきっかけを待っていたのだよ! 恋のキューピッドは実在した。僕の願いを叶えてくれたのだ。
自堕落な神だなんて言ってごめんなさい。そしてありがとう。
本来、駅で鍵を拾ったのだから駅員さんに預けるべきなのだろう。しかしこれは神が僕に与えてくれたきっかけなのであって、無駄にするわけにはいくまい。今日の仕事帰りにコンビニへ寄ったときに渡そう。そして2人の距離は一気に縮まることだろう。
仕事を終え、寄り道してからいつものようにコンビニに立ち寄る。今日の彼女は浮かない表情で接客の声にも張りがない。
「いらっしゃいませぇ〜」
いつものように煙草をレジ横に置いてくれている。
「あ、いつもありがとうございます。もしかしてなんですけど、この鍵……違いますか?」
「えっ! ありがとうございますっ! ずっと探してたんです。鍵屋さん呼ばないといけないと思ってました。無事に家に帰れますぅ。あぁ、本当に嬉しいです」
満面の笑みで細かくジャンプをする彼女に見惚れながらも僕はすぐに口を動かす。
「すみません、今朝拾ったのですが渡しそびれちゃって、たまたま落としたところをお見かけして」
「いやっ、そんな、とんでもないです! ありがとうございます」
「いえいえ」
「ありがとうございました〜」
いつもより深いお辞儀をして、声の張りも戻っていた。
本当によかった。
もう同じことの繰り返しの毎日は終わりだ。
この日以来、僕の仕事が残業で遅くなった日は彼女をバイト先から家まで歩いて送って帰るようになっていた。お互い元々口数は少ない方で、シャイな性格のため、会話をすることはなかったが何度か目が合って、それだけで十分通じ合えている気がした。
そして僕は彼女の家に何度も通うようになっていた。ソファーで寛いだり、テレビを観て笑ったり、お酒を飲んだり、彼女が残したご飯を食べたり、そっと下着をとって暗くした部屋で愛を育んだり、彼女の家で過ごす時間は僕にとって唯一の幸せだった。
恋のキューピッド様にも願ってみるものだな。そのおかげで彼女が鍵を落としたのだから。きっかけをつくってくれた神様に感謝しているし、少しの勇気を出した自分にも大きな拍手を送りたい。そのおかげで僕は変わることができた。いや、本当の自分になることができたのだ。
世界中のみんなに恋のキューピッドは、愛の神様は実在するということを伝えたい。
そして少しの勇気を出して欲しい。それだけでこんなに幸せになることができるのだから。
幸せな日々が1ヶ月過ぎた頃……。
ピンポーン
時刻は午前7時、ちょうど目覚めたときにインターホンが鳴った。
「はいー!」
随分早い宅配便だなと思いながら、扉を開けた。
「おはよう。
「あ、はい」
「
「あ、はい」
「アルバイト帰りの彼女の後をつけていたよね?」
「あ、はい」
「彼女の家に何度も出入りしてたよね?」
「あ、はい」
「下着盗ったよね?」
「あ、はい」
「いこうか。詳しい話は署で」
「あ、はい」
彼女の下の名前はエルだったのか。可愛い名前じゃないか。お巡りさんありがとう。
ストーカー行為、住居侵入、窃盗の罪で僕は逮捕された。
恋のキューピッド ロク @pierou
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