魔幻の紙縒り (全文)

Kaede.M

魔幻の紙縒り (全文)

以前、その幼稚園の生徒だった子が、奇妙な体験を話し始めた。

それは、現実だったのか?それとも、リアルな夢だったのか?

その子の話によると、不思議なことに、年に5回だけ、毎回、同じ夢を見るそうだ。まるで、過去にそのことを体験したかのような夢を……。


夢を見るのは、決まって五つの節句の日だ。人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)だが、とりわけ、7月7日だけ、それが詳細に表現されるらしい。

どう考えても、それは夢ではなく、過去の記憶としか受け取れない。だが、現実は、その夢の内容とは違う。


なぜ、この話が、ちょっとした話題になったのかと言うと、他にも同じことを言う子がいたからだ。しかも、一人や二人じゃなかった。

その全員が、幼い頃、その幼稚園の生徒だったと言う。

1年を通して、同じ日に、共通の夢を見るなんてことがあるだろうか……。


この子たちの証言では、その幼稚園で殺人事件が起きたのだと言う。加害者は一人で、被害者は生徒二人を含む三人だと言う。では、誰が犯人で、誰が被害者だったのか?と問うと、それについても、同じ答えが返ってきたと言う。被害者については名前までわかると言う。

この話題に食いついたテレビ局が、調査を開始したが、結局、何も解明されなかった。

なぜなら、被害者とされる先生と生徒の情報が、実際と違っていたからだ。

どこの誰かという固有名詞までわかっているのに、実際に、その家を訪ねると「うちには、そんな名前の息子はいない」「そもそも、今まで一度も子供を授かったことはない」という答えが返ってきたという。戸籍を調べても、近所の人の話を聞いても、それは間違いないと言う。

もう一人、生徒の被害者がいるらしいが、その子の家族や近所の人からも、全く同じ答えが返ってきたと言う。

三人目の被害者は先生らしいが、その当時も含め現在、その幼稚園で働いている保育士や関係者の証言では、「そんな名前の人は、過去も現在も働いていない」と言うので、調査は打ち切りになった。

テレビ局側も、都市伝説として扱うには弱いとのことで、放送すらされなかった。


共通の夢を見た……という証言を解明するのは不可能だった。

現在、その子たちは、まだ、未成年なので、結局、この話題は、子供の戯言として片付けられてしまった。


その夢の内容は、いったい何だったのだろう?




大きなリュックサックが見える。

人の後ろ姿を覆い隠している。

歩いているのだろうか……。ゆったりとしたリズムで上下に揺れている。一歩一歩が、とても重たい。相当な重量があるのだろう。

このリュックを背負っているのは、華奢な女性だ。

バランスを欠いたこの光景は、いったい何なのだろう?

灼熱の太陽が全身を照らす。


ここは海に隣接する防波堤の上である。4メートル程の幅があった。

この辺りの海岸沿いは殺風景だが、夏の太陽がその寂しい感覚を消している。

そんな背景に、女性が一人、溶け込んでいた。

砂交じりのコンクリートの上を、一歩、また一歩と、歩を進めている。

見た目の年齢は30歳くらいだろうか……。体型はグラマーで肌は色白、それに、かなりの美人だ。茶色に落としたサラサラの長い髪が、辺りにジャスミンの香りを撒き散らしている。

ただ、全体的に躍動感がない。それに目が死んでいる。

防波堤には、日本海の荒波が容赦なく打ち寄せていた。大きな衝突音とともに白いしぶきが空中に砕け散っていく。波の力強さとは裏腹に、風は穏やかに吹いていた。


「私が見る最後の太陽……。太陽は私よりも早く生まれ、私が死んだあとも生き続ける。私の人生はいったい何だったのだろう。何のために生まれてきたのだろう。何のために存在したのだろう。この世に生まれて、たった一度でも笑ったことがあっただろうか……。笑顔って何だろう。楽しいって何だろう。自由を求めて、愛を求めて、旅立つしかないんだ。」


まるで、登山をしているかのように重い一歩だ。海からの突風によって、バランスを失うこともある。これだけの荷物を背負っているにもかかわらず、壊れた機械のように動きは止まらなかった。一歩一歩に、何か強い信念を感じる。

しばらく歩くと、まるで防波堤に傘をかけるかのように、陸地から海に向かって何かが張り出しているのが見えた。

それは七夕のイベントで使う大きな笹だった。


「ささのは、さあらさら……。」


オルガンの音とともに園児たちの力強い歌声が聞こえてきた。

防波堤に隣接する敷地の中に、開放感あふれる平屋建ての建物があった。

幼稚園だ。

園舎は昔ながらの木造建築ではなく、最新の耐震技術が施されたモダンな造りだった。瓦屋根を使うなど、和の趣を取り入れてはいるが、全体的には未来をイメージした斬新なデザインとなっている。

その園舎から見て北側に園庭があり、さらに、その北側に防波堤がある。防波堤側を除く敷地全体が、高さ2メートルのフェンスによって囲まれていた。

園庭の広さは、テニスコート1個分くらいだろうか?遊具は、園舎の前に鉄棒が設置されているだけだった。

園舎の南側は、狭い道路に面している。その道路の向かい側には、昔ながらの古い民家が軒を連ねていた。東側と西側にも同様の光景が広がっていた。

この質素な光景の中で一番華やかなのが、園庭から防波堤を覆うように伸びる二本の笹の存在だ。この笹は高さ3メートルの防波堤の上を、さらに3メートルも突き出していた。

防波堤の上は、いつも、近くに住む人たちの散歩コースとして利用されていた。

防波堤自体、側面に多少の角度があるため、体力に自信があれば、階段の無い場所からでも上がることができた。

今日はいつもと違い、静けさが漂っていた。

笹には、七夕の短冊がたくさん括り付けられていた。色鮮やかな折り紙たちが、天の川を始めとする物語の情景を映し出している。美しく散りばめられた無数の星たちが印象的だった。


7月7日、今日は七夕……。


夏の訪れを告げるこの風物詩には、毎年、たくさんの人々の想いが揺れる。

短冊にしたためた願い事を、紙縒りを使って笹に結びつけると、その願い事が叶うというのだ。

もちろん、これは、ただの年中行事の一つであり、地域を彩る祭りの根拠に使われているだけだ。実際に願い事が叶うことはなく、それ自体、それほど重要な意味はないのだが、五節句の一つとして、古来より国民的な行事となっている。

七夕の伝説で一番有名なのが、やはり、織姫様と彦星様の話だろう。お互い愛し合う仲だったのだが、神様の言い付けを守らなかったという理由で引き離されてしまい、会うことが許されるのは一年に一度、この七夕の日だけになってしまったというお話だ。

人々は、空に輝く星たちを眺めながら、この伝説に想いを寄せている。

今夜は、美しい星々の輝きを見ることができるだろう。


「人間……。人間ってなんだろう。全ての人間が、自分のことだけを考えて生きている。弱肉強食の世界は今も変わっていない。敗れ去った人間は老いと孤独と死に対して、何の抵抗ができるのだろう。誰もいない世界で時間だけが過ぎていく。私は敗れ去った。」


潮風は、とても穏やかだ。笹の葉が一斉にこすれ合う。汚い字ではあるが、一生懸命書かれた七夕の短冊も一斉に揺れた。

女性は立ち止まっていた。

死んだような視線は、一点を見つめたまま動かない。しかし、次の瞬間、ふと、我に返ったかのように動いた。


夢が叶いますように……。

オリンピックの選手になれますように……。

夏に雪が降りますように……。

世界を征服したい!

いつも笑っていたい!

100歳まで生きられますように……。

おばあちゃんの病気が治りますように……。


「100歳……。おばあちゃん……。」


女性は小声で言った。

眠りから覚めた視線の先には、園児たちが書き上げた躍動感あふれる短冊があった。

手に取ってじっくりと見ている。哀しい視線が七夕の短冊に注がれる。一つの短冊を数秒間だけ見つめ、次の短冊に手を伸ばす。これを数分間、繰り返した。

やがて、視線は、短冊から園庭、その先の園舎、そして、窓の向こうに見える園児たちへと動いていった。

女性は、あの無邪気な笑顔たちにも絶望の視線を突き刺した。

そのとき……、何か、鉄とコンクリートがぶつかったような鈍くて重い音がした。それは、背負っていたリュックサックを地面に下ろしたときの音だった。伝わる音の感触から考えると相当な重量があるのだろう。

女性はゆっくりとした動作で、このリュックの横に腰を下ろした。


「幼稚園か……。私が通っていた幼稚園とはかなり違う。もう何十年もの月日が流れている。あの子たちも、これからたくさんの人生の分岐点に遭遇して、どちらかの道を選ばなくてはならない。選んだ道の先に何が待っているかは誰にもわからない。死が待っている子もいれば、幸せが待っている子もいる。一番悲惨なのは、どの道を選んでも死が待っている子。強制的に死ぬしかない。この子たちの中にも、そんな運命的な道を進んでいる子がいるのだろうか?この私のように……。未来のある園児たちと未来のない私。いったい何?私が園児だったときにもこういう大人に観察されていて、同じような思いを抱かれたのだろうか?あのときの私……、全ては道を選べなかったことに原因があった。いや、道自体が一つしか無かった……。あのとき……、私もあの中に存在していた。」


黄色い帽子に青い制服が見える。

幼稚園だ。




「誰かさんがほしい……。」

教室からメロディに乗った声が聞こえる。

男の子と女の子が人間の取り合いをしていた。「はないちもんめ」という遊びだ。歌詞は地域によって、全然違うようだが……。

先生は歌を歌いながら手をパンパンと叩いていた。 

「はい。今日はこれでおしまい!」

生まれて初めての集団生活は、全員が一斉にゼロからのスタートだ。でも、それは表向きのこと……。すでに、差はついていた。


入園して2日目、教室にはたくさんの園児がいた。

幼稚園は、独自のプログラムに沿って授業が行われている。内容は塗り絵とか工作であり、今思えば遊んでいるのと同じだ。ただ、当時は誰もが真剣にやらなければならない義務として捉えていた。

今日は、塗り絵の授業だ。みんなは先生に褒めてもらいたい一心で、色を塗り始めた。

このクラスは30人もいるので、先生にはなかなか相手にしてもらえない。どうしたら先生に関心を持ってもらえるのだろう?と、それぞれが、あの手この手で先生の気を引こうとしていた。先生の周りには、いつも園児たちの輪ができていた。

大人から見れば園児なんか子供、適当に操ればどうにでもなる。ちょっと褒めれば笑うし、ちょっと怒れば泣く。泣いたのを次の瞬間に笑わすことだってできる。単純だ。園児たちは、そうやって大人の手のひらの上で踊らされていた。

だが……、このクラスに一人……、それに該当しない女児がいた。まるで、感情という概念が存在していないかのようだった。

名前は、ミホリと言う。

ミホリは決して笑わなかった。そういう自分を意図的に演じていたわけではない。それが真の姿だった。

ミホリは、とても集団生活を続けていける感じではなかった。先生もその雰囲気を察し、たくさん褒めて笑わそうとしていた。ただ、何をやってもミホリは笑わなかった。


初めての昼休みを迎えた。入園してしばらく経つと、滞在時間が午後まで伸びるようになった。だから、昼休みを挟むことになる。自由時間ではなくプログラムに沿ったもので、正確に言うと、お弁当の時間だ。机を引っ付けて、グループになる。そして、呪文を唱える。


「今日、おいしいおいしいお弁当が食べられるのは……、いただきます!」


みんなが一斉に言い放ったあと、食事がスタートした。

この幼稚園では牛乳が支給されていた。当時は、紙パックではなく、瓶に入っていた。飲み口は厚紙でできた丸型キャップで塞がれ、その上に青色のポリエチレンが被さっている。瓶とキャップが寸分の狂いもなくフィットしているため、簡単には取れない。

みんなはポリエチレンをうまく払いのけ、キャップの隅に爪をたてて、瓶との切り離し作業を行なっていた。キャップは瓶にめり込んでいるため、剥がすのがとても難しい。やっとの思いでキャップを外して、ようやく牛乳を飲むことができる。


「上手くできないよ、どうしよう。」


ミホリは思わず声が出た。


「あっ!」


大きな音とともに、牛乳がそこらじゅうに飛び散った。

園児たちの視線が、一斉にミホリに集まった。それはとても鋭いものだった。キャップをうまく剥がせないミホリは焦りまくった。その結果、キャップを指で押しこんでしまったのだ。押し出された空気によって、中の牛乳が思い切り吹き出して氾濫を起こしたのだ。

ただ、園児たちは自分の食事に夢中になっているため、ミホリへの関心は一瞬で消えた。それでもミホリには余韻が残ってしまった。先程の突き刺さるような視線に心が委縮してしまった。しばらく下を向いていた。

周りの雑音が自分に向けられていないことがわかると、ゆっくりと顔を上げ、周りを見渡した。すると、どうだろう。今度はそこに、凄まじい光景が広がっていた。

全員が右手に箸を持ち、左手に弁当箱を持って礼儀正しく食べていたのだ。

しかも、あの2本の箸を上手に使いこなしている。


箸を使っている! みんな、箸を使っている! 私、フォークで突き刺すことしかできない。

スプーンで掬うことしかできない。どうしよう。私、恥ずかしくて食べられない。




小さな女の子がいる。とても、かわいかった。


「ん?どうしたの、ミホリちゃん。ほしい物があったら何でも言うのよ。何かないの?おばあちゃんが買ってあげるからね。」


ここはデパートのおもちゃ売場だ。

ミホリはタンバリンを鳴らすことができるぬいぐるみを手に取った。


「あら、かわいいね。これがほしいの?」


興味本位で鳴らしてみる。素直な音がした。音の質も悪くない。全ての楽器奏者が揃えば、それなりの楽団が結成できそうだ。


「あらあ。音が鳴ったね。」


ミホリが手に取ったぬいぐるみは、半ば強制的に祖母の手に……。そのぬいぐるみが行き着いた場所はレジカウンターだった。


「来年から幼稚園だね。頑張ろうね。」


再び、素直な音が鳴った。

祖母は温かい笑顔でミホリを見ていた。

ミホリは、会計が済んだぬいぐるみを抱きかかえた。これがほしい!と言い出せなかったミホリには、とても嬉しいプレゼントだった。余程気に入ったのだろうか?ミホリは家に帰ってからも、ずっとこいつとじゃれあっていた。


「お友達だよね?」


ミホリは、ぬいぐるみを見ながら言った。その日以来、いつもそばにいた。


「さあ、寝ようかな。」


敷布団の上で体を横にした。そのとき、傍らに置いたぬいぐるみの目がミホリを見ていた。


「何?」


話しかけても返事がない。ジーッとミホリを見ている。全く目をそらしてくれない。


「あっち向いて!」


当然、向いてくれない。ものめずらしそうな顔でミホリを見ている。視線が気になる。


「もう、あっちを向いてくれなかったら眠れないよ。」


仕方なく、ぬいぐるみを半回転させて目を合わせないようにした。

ミホリは、こいつの背中に向かって言った。


「おやすみ。」

 



ミホリが生まれてから3年の月日が流れた。太陽はいつもように東から顔を出した。


「ミホリ、ミホリ、起きなさい。朝でしょ、何やってるの。毎日6時に起きる約束でしょ。やりなさい!お母さんの言うことが聞けないの!」


母はいつものようにヒステリックになっていた。

ミホリは来年から幼稚園に入園する。

毎日、同じことの繰り返しで時間が過ぎていた。6時に起きて平仮名の勉強。7時に食事。8時からは、足し算と引き算の勉強。昼間は少しだけ寝る。午後は漢字を覚え、簡単な英単語だって覚える。19時に食事。寝るのは22時だ。

毎日毎日が勉強。でも、辛いなんて思ったことは一度もない。なぜなら、これが当たり前の生活だからだ。他の家で育っている人間がどういう生活をしているかなんて全くわからないため、比較対象がないのだ。だから、辛くも何ともない。

息抜きをするときは、祖母が遊んでくれる。

ビー玉を転がして遊んだり、あやとりだって教えてくれる。

ミホリの毎日は楽しかった。




1年が経過した。

誕生ケーキに刺さった4本の蝋燭を同時に吹き消したあの年……、運命の歯車が動き始めた。

幼稚園入園の日、ミホリは母と祖母に連れられて初めて幼稚園に足を運んだ。そこには、たくさんの人がいた。ミホリと同じ背丈の子供たちが、様々な表情を見せていた。


「今日からこの人たちと一緒に過ごすの?知らない人ばかり……。」


明日からは、幼稚園バスに乗って一人で登園する。約半日間、家族のもとを離れ、生まれて初めて集団生活を体験する。


「私、幼稚園で何をするの?」




ある日の教室、クレヨンで絵を描いている。お題は風景だ。

ミホリは机を並べて、みんなと一緒に描いていた。

三角の屋根の下に正方形の外壁、その真ん中に漢字の田のような窓を描きこむ。屋根に煙突をつける。次に、画用紙の右上に太陽を描く。幼稚園でのお絵かきで雨の日はない、曇りの日もない、もちろん、雪の日も……。太陽は、なぜか描いていた。最後に余ったスペースを使って、適当に木を描いて完成だ。


「綺麗な絵……。たくさん色を使った……。」


ミホリは嬉しそうに言った。

もうすぐ先生が自分の席の方へ見回りにくる。

そのときだった!


「えっ!」


一瞬、何が起こったのか、わからなかった。

ミホリは思わず声が漏れた。

なんと、隣に座っていた男の子がミホリの絵に落書きをしてきたのだ。

あっという間だった。

太陽の一部が真っ黒に塗り潰されてしまった。


「な、何するの!」


ミホリが男の子に言った。

すると、次の瞬間だった。


「きゃあ!」


なんと、男の子は手に持っていた黒のクレヨンで、今度はミホリのほっぺたに落書きをしてきたのだ。

今にも蕩け落ちそうな可愛いほっぺたにクレヨンの跡が付いた。

ミホリは突然、内側から込み上げてくる何かを感じた。

暴力?そう、生まれて初めて見ず知らずの他人に暴力を振るわれたのだ。


「うええええええん。」


ミホリは大声で泣き出した。

小さな手を目まで持っていき、涙を拭いている。しかし、涙は止まらない。出た涙を拭いたところで涙が止まるわけではない……、中の感情を抑えないと止まらないのだ。

この泣き声に気づいた先生がミホリの席までやってきた。


「どうしたの?」


ミホリは泣きながら、隣に座っている男の子を指差した。

先生はすぐに何が起きたのか気づいたらしく、隣の男の子を叱りつけた。

こんな酷いことをした男の子も、先生に怒られただけで、もう泣きそうな顔になっている。


「ごめんなさいは?」


先生が男の子に向かって謝るように強要している。


「ごめんなさい。」


渋々口にした謝罪の言葉が聞こえた。


「さあ、ミホリちゃん。顔を洗いに行きましょう。」


先生はこう言うと、ミホリの手を引っ張って洗面所まで連れて行った。

まだ涙が止まらない。

鏡に映った自分の顔は今まで見たことのないものだった。

先生が顔についたクレヨンを落としてくれた。


「先生、ありがとう。」


ミホリは泣きじゃくりながら言った。


「いいのよ。」


再び、先生の手に繋がれて教室に戻ってきた。あの男の子の横に、もう一度、腰掛けた。男の子は下を向いて、目を合わせようとしない。

ミホリは鼻をすすりながら、黄色のクレヨンを手に取ってお絵かきを再開した。

ただ……、何かが変だった。


「あ!」


すぐに異変に気付いた。

なんと、太陽が無くなっていたのだ。

先程、黒のクレヨンで落書きされた太陽が、今度は完全に真っ黒に塗り潰されていた。


「塗った!」


ミホリは、とんでもない大きな声で叫んだ。


「許さない!」


すると次の瞬間、隣の男の子の服に、持っていた黄色のクレヨンで力いっぱい落書きをした。


「もう……、どうしたの?」


先生が離れた所から怒鳴る。

戻ってきたと思ったら、また、何か、やらかしたのを見て機嫌が悪くなっている。

先生が近づいてくる。


優しい私の先生、もう一回、この人を懲らしめてほしい。


ミホリはそう思っていた。

先生が目の前に来た。


パン!


感覚が……、感覚が消えた。


「痛い。」


ミホリは、先生に顔をビンタされた。


「何やってるの!さっさと謝りなさい。ほら早く!」


先生は男の子ではなく、ミホリを怒鳴りつけた。ミホリは、なぜ自分が怒鳴られているのかが、わからなかった。


「だって、黒く塗ったんだもん。」


泣きじゃくりながら反論する。


「謝りなさい!」


再度、先生が怒鳴る。

しかし、ミホリは謝らなかった。何度言っても謝らない。そして、最後に……。


パン!



     

昼休みになった。

全員が、それぞれの机でお弁当を広げていた。

しかし、ミホリだけはさっきの絵を広げたまま、あの黒い太陽に、黄色のクレヨンで上塗りをしていた。必死になっている。


「太陽は黒くない。」


何度も何度も上塗りを重ねる。しかし、もう黄色の太陽には戻らない。ミホリが塗るのを諦めたとき、黄色のクレヨンは半分以上も磨り減っていた。




「ミホリ、ミホリ、どうして寝ているの?」


家で過ごす休日は、穏やかではなかった。母が何度も何度もミホリを怒鳴りつけていた。午後の英単語の時間なのだが、ミホリは思わず寝てしまったからだ。


「もう、間違っているじゃない。いいミホリ、しっかりと覚えないと、将来あなたが苦労するのよ。あなたのためにやっているの!わかった?あなたのためにやっているのよ!それに、みんなもやっているの!」


母が言った最後の一言が、山彦を伴いながら、ミホリの頭に残った。


みんなもやってるの!って、あの男の子も?みんな勉強してる?みんな英単語覚えてる?ママはどうして知ってるの?嘘をついてまでこれをやらせるのはなぜ?本当に私の将来のため?自分の見栄のためじゃないの? 


ミホリは幼いながらにそう思った。

毎日、家にいて、勉強詰めで一日が終わっていた頃に比べて、幼稚園での生活は今まで知らなかった発見があった。それは、生活面で同学年のみんなより遅れているという事実だった。

    


 

ある日の工作の授業、その日は、厚紙を使って立体的な作品を作っていた。はっきり言って、園児にはかなり高度な内容だ。

ミホリは、あの席にいた。隣には、あの男の子がいる。

みんなは必死になって紙工作に取り組んでいた。小さい子というのは、夢中になると周りが見えなくなる。その中でたった一人だけ、集中できずに手が動いていない園児がいた。顔面蒼白で足を軽くバタバタさせている。

ミホリだ。


お腹が痛い。今日の朝、おしっこしてくるの忘れた。はあ、もう漏れちゃう。


ミホリは心の中で苦境を叫んでいた。

先生は、ミホリの席からは離れた位置で工作の指導をしている。

ミホリは先生と目が合ったら、手をあげてこっちに来てもらい、おしっこに連れていってもらおうと考えていた。しかし、目が合わず、先生が近くに寄って来る気配はない。恥ずかしいが、もはや声を出して呼ぶ以外に選択肢はなかった。


「先生!おしっこ。」


ミホリは大きな声で言った。

すると先生は、遠くから笑顔でこう答えたのだった。


「うん。いいよ。行っておいで。」


優しい声だった。

周りの園児たちは、この恥ずかしい言葉に大した反応もなく工作に励んでいた。中にはクスクスと笑っている園児や、「突然、何を言っているの?」と言った表情を浮かべる隣の男の子のような存在は居たけれども、そんなことはどうでも良かった。「行っておいで」と言われたことへの困惑、それしか頭になかった。

今までの常識が全く通用しないのだ。

それで、次にどういう行動をとっていいのかわからなくなってしまった。


「えっ、何? 私……、どうしたらいいの?」


思わず小声が出た。

ミホリは狼狽えた。

いつもなら「お母さん、おしっこ!」の一言で母が駆け寄ってきて、抱きかかえられて、そのままトイレまで連れて行ってくれる。そこからも全自動だ。服を脱がしてくれて、そのあと、水洗便所の便器に足を跨がせてしゃがませてくれる。そして、用を足したら今度は紙でお尻を拭いて服を着させてくれる。母が水を流したあとは、再び、抱えられてトイレの外まで運んでくれる。

ミホリはこの一連の作業をしてもらうために「先生、おしっこ!」と叫んだのだった。

しかし、先生は来てくれない。

ミホリは焦った。


漏れる。漏れる。どうしよう。私、どうすればいいの?もう一回言おうかな。でも、もう一回言う勇気がない。みんなが見てるし聞いてる。どうしたらいいの私……。ねえ、どうしたらいいの。お母さん助けて。


心の中でいろいろと叫んではみたものの、誰も助けてはくれなかった。

先生は、あの一言以来、ずっと向こうの方で園児たちと仲良く作業している。


「もう無理。お腹が壊れちゃう。」


苦しそうに喋った。

ミホリの我慢も、ついに限界の時がきた。死んでも我慢しなければならないということはわかっていても、もうどうすることもできなかった。

座っている椅子から尿がポタポタと落ちていく。お漏らしをしているという感覚が全身を駆け巡っている。一気に量が増え、椅子を伝い、床に広がっていった。

まだ、誰も気づいていない。

ミホリの不安と憤りは極限に達していた。一瞬チラっと下を見たが、やはり、おしっこが床に広がっている。隣の席の方に少しずつ流れている。

ミホリは思った。


この子にバレたら、私……。


隣の男の子は工作に夢中になっているが、時々、キョロキョロと首を横に振っているのが横目で確認できる。これがとっても気がかりだ。彼の不自然な動きが確認できる。気づいたのだろうか?


神様お願い、私……、私……、私……、私……。


「せんせーい!おしっこ漏らしているよ。おしっこ!おしっこ漏らしている!」


隣の男の子がでっかい声で叫んだ。


「う、うわあ!」


机を並べていた園児たちが、ミホリの机から自分の机を引き離した。机や椅子を引きずる音が教室に響き渡る。近くの園児たちが一斉に離れていく。まるで水面に水滴が落ちたときにできる波紋のように、みんなが遠ざかっていく。

遠くの園児たちは、立ち上がってこの光景を見ている。さらに遠くの園児たちは、椅子や机の上に立ってまで、この光景を見ている。まるで、高層ビルだ。

ミホリは泣きだした。消えて無くなりたかった。数分前の自分に戻りたかった。どうして一人でトイレに行けなかったんだろうと自分の行動を悔やんだ。

先生が駆け寄ってきた。

ミホリは思った。


先生は来ないで!味方じゃないから。


涙の量が一気に増え、大泣きに変わっていく。

ミホリは小さな手を両目に当てて、それを止めようとする。

先生はミホリを抱き上げると、そのまま教室を出てトイレまで連れ出した。ミホリは4歳の女の子だ。先生は叱らなかった。

ざわめきが止まらない教室には、いろいろな感情が入り交じった。

トイレを出たあと、ミホリは園長室に連れて行かれた。そこで着替えが用意された。先生は、教室のことが気がかりなのか、園長先生にミホリを預けるとすぐに戻っていった。

ミホリは自分の不甲斐なさに涙が止まらなかった。園長先生に慰められながら着替えを強制された。

数分が経過した。

ミホリは涙を拭い、恐る恐る教室に戻っていった。教室の扉を開けた瞬間、真っ先に目に飛び込んだもの、それは……、自分のおしっこを一生懸命拭いている先生の姿だった。




半年が過ぎた。


「ミホリ菌、ミホリ菌、タッチ!」


ある男の子がミホリの体に触ったあと、他の男の子にタッチしていく。そして、タッチされた男の子は、今度は自分が鬼とばかりに他の人にタッチしていく。 

ミホリは思った。


私は病気?違う!でも、おしっこを漏らしてしまったあの日以来、普通じゃなくなった……。もう誰も認めてくれない。


昼休みになった。

全員が運動場で遊んでいた。運動場と言っても、面積は狭かった。それでも、ジャングルジム、雲梯、ブランコ、横にグルグル回る全体がドーナツ型の椅子、滑り台、砂場と、いろいろな遊具が揃えてあった。

入園した日、全くの他人同士だった園児たちも、もうこの時期になると仲の良いもの同士が集まって友人関係を形成していた。あっちのグループ、こっちのグループ、至る所に友達のグループが存在していた。

ミホリは、どのグループにも属せずにいた。今日も一人、砂場で山を作っていた。作業の手順は簡単だ。まず、しゃがみ込んだ状態で、砂を掻き集める。次に、掻き集めた砂で山を作る。そのあと、麓にトンネルを掘って中で貫通させる。それで完成だ。

ミホリは一生懸命、トンネルを掘っていた。これの最大の楽しみは貫通の瞬間である。その喜びはミホリにしかわからない。一緒に喜びを分かち合ってくれる人間は誰もいない。でも、寂しいなんて思ったことは一度もなかった。

みんなと一緒にいると極度の劣等感を感じてしまい、陰湿ないじめを受けてしまう。こんなことなら一人で砂場にいる方が楽なのだ。

ミホリは自分の逃避的な行動を正当化して、何とか幼稚園の中で自分の居場所を見つけようとしていた。

しかし、その居場所すら、徐々に狭くなっていった。

毎朝、教室に入るとすぐにいじめられる。ミホリ菌などと言われて口頭でいじめられるのは、まだマシな方だ。酷いときには教室の隅に追いやられて激しく蹴飛ばされる。授業中も、お弁当の時間も一緒だ。安心できる時間なんてなかった。教室の隅で泣いた日は、もう数えきれない。追いやられていくうちに、いつしか砂場だけが唯一の居場所になっていた。

ミホリは思った。


もう、ここに居るしかない。他の場所にはいけない。


時が経つと、彼女の一日の行動パターンは、いじめっ子たちに把握されるようになった。

唯一の楽しみである砂場での山作りも、妨害を受けるようになった。山ができて、さあ、これからが最大の楽しみであるトンネル掘りだというときに、上から踏んづけられてしまうのだ。

残酷に壊される砂山を見るたびに心が折れていった。

いじめっ子たちは快感を覚えたのか、この妨害は連日続いた。次の日も、次の日も、またその次の日も……。

ミホリは、いつしか砂場から姿を消すようになっていた。




「今日は合格!」


母は満足気な表情でミホリを褒めた。いつもと同じ、家でのお勉強タイムだ。小学4年生レベルの漢字テストを母が実施し、それに対してミホリは100点満点を取ったのだ。

ミホリは思った。


家にいる方が楽しい。ずっと家にいたいよ。家で算数や漢字のお勉強をしている方がいい。


だが、それは本音ではなかった。4歳の女の子がそんなもので楽しいと思うはずがない。どちらかと言えば……という前提が付く。すでに育児放棄の現実を集団生活で食らっている。幼稚園で、こんなことがあった……あんなことがあった……なんて、家では話せない。

このときはまだ、壮絶ないじめや虐待を食らう数年前なので、社会全体から見た自分の立ち位置、現状から見えてくる将来図などは、まだ幼すぎて、いろいろなものが漠然としすぎていた。心に引っかかるものはあったものの、具体的な絵図は、まだ構築されていなかった。

家にいると何となく楽しいなぁと思えたのは、祖母の存在が大きかった。


「おばあちゃん。」


ミホリは勉強タイムが終わると、真っ先に祖母の部屋に行く。

祖母は、こたつに入って、一人でブラウン管のテレビを見ていた。

ミホリはこの部屋の中をチョロチョロと走り回ったあと、テレビの前に座り、チャンネルのつまみを回して番組を変えてしまう。

もちろん、アニメ番組だ。

この瞬間からテレビはミホリのものとなる。そして、祖母の傍に寝そべって一緒にその番組を見る。ミホリはアニメに出てくるいろいろなキャラクターの説明をする。おそらく、祖母を自分の世界に連れて行きたいのだろう。そんなミホリに、祖母もその世界にできるだけ入り込もうと努力している。


「うん。うん。魔法使いねぇ。魔法のステッキねぇ。」


母ではダメ、自分の世界に入ってきてくれるのは祖母だけ……。この1年間で、ミホリの心にはそういう構造が出来上がっていた。


「ミホリちゃん。みかん食べる?」


「うん。」


ミホリは、みかんを受け取って外の厚い皮を剥いだ。中の実は綺麗に10等分されていた。

実も薄い皮で覆われている。

その中の一つを口の中に放り込む。祖母も同様に口に入れた。ムニャムニャと噛んだあと、ミホリは薄い皮ごと飲み込んでしまうが、祖母は中の実だけを一片残らず食べて、薄い皮は吐き出している。この作業を、手を使わずに口の中だけでやる。ミホリには、これがどうしてもできなかった。




「はい。一、二、三、四……。」

ここは幼稚園の園庭である。先生が手を叩きながら園児たちの指導をしていた。近日開催予定の運動会の出し物である、お遊戯の稽古をしているのだ。本番は小学校の広い運動場を使って行われるため、それを見越しての入念な稽古が行われていた。

音楽が流れて、それに合わせて園児たちが踊っていた。もうこんな練習を1ヶ月以上は続けている。全員で合わせるということがなかなかできないため、何度も何度も同じことを繰り返している。

ようやく最後の振り付けまでたどり着いた。しかし、簡単にはいかない。


「はい。やめ!」


先生が笛を吹きながら言った。


「はい。次の振り付けで最後だよ。最後は男の子と女の子が一組になります。いいですね。まず相手の子と腕を組んで一回転します。そのあと両手を空に向けてバンザーイをします。これで終わりだよ。さあ、最後の振り付けだからみんな頑張ろうね。」


狭い幼稚園の園庭で、園児たちは、めいっぱいに広がっている。男の子と女の子が体を触れ合わせる振り付けは、これが最初で最後だった。


「はい。腕を組んで。」


先生の一声で向かい合っている男女が腕を組み始めた。

ミホリは思った。


私……、男の子と腕を組むのは初めて。私、みんなに嫌われている。相手は嫌な思いをしているに決まっている!でも、嬉しい。

         

ミホリの相手は積極的に腕を組んできた。異性と腕を組むという意識よりも、このお遊戯を完成させたいという意識の方がこの男の子には強いようだ。

名前は、ケントという。

みんなが「ケント、ケント……」と気軽に呼んでいる。クラスでは一番の人気者だ。

園児たちは、先生の手拍子に合わせて最後の振り付けに挑んだ。


「おい、ケントの奴、ミホリと腕を組んでる。おい見ろよ、あっちあっち。」


早速、冷やかしの声が聞こえてきた。

ミホリはすごく気になった。しかし、ケントは全然気にしていない。彼にとっては、周囲の視線や聞こえてくる声などはどうでもいいようだ。

何度も何度も腕を組んで練習に取り組む。

ミホリは奇妙な気持ちだった。


私がみんなと一緒にお遊戯をしている。これならお母さんをごまかせる。お遊戯は笑顔でやるんだ。最後のケント君との腕組みは最高の笑顔でやるんだ。それでお母さんをごまかせる。私は幼稚園で楽しくやっているよって見せることができる。


運動会当日は、当然、母が見に来る。家では良い子、幼稚園では友達が一人もいない孤独な女の子……、当日、この異なる二つの顔をどうやって使い分けるか……。お遊戯の最中だけならごまかしが効くが、運動会全体を通してそれができるかどうか、ミホリには気がかりだった。

みんなの前では一度も見せたことのない笑顔を、果たして見せられるかどうか……。笑うこと自体は大したことではない。ただ、笑った顔をみんなの前で披露しようものなら、当然の如く、罵声が浴びせられる。「おいおい見てみろよ。ミホリが笑ってる、気持ちワル……」っていう風に……。そんなことくらい、今からわかる。でも、笑わないと母から「あの子、幼稚園で上手くやっているのかしら?」って思われてしまう。

みんなの視線を気にすればいいのか、それとも、母の視線を気にすればいいのか、当日はとても難しい選択を迫られる。

 



運動会前日、本番まであとわずかとなった。

2ヶ月前から練習を始めて、ここ数日は本番さながらのリハーサルを行なっている。普通は省略するはずの綱引きと玉入れを本当にやってしまうところは、さすがに幼稚園だなぁと思ってしまう。

ミホリは練習の合間にある休憩時間に、必ず、砂場で一人になる。なんだかんだで、ここしか居場所がなかった。

そこに、いつものいじめっ子集団が近寄ってきた。軍団のリーダーは、お絵かきやお弁当の時間に隣に座る例の男の子だ。

この子がミホリの体に触る、そして、すぐに他の男の子にタッチする。


「ミホリ菌!」


こういう風に言いながら、この子たちの楽しい鬼ごっこの時間が始まる。

ミホリは悔しさをこらえながら、男の子を見ていた。

顔は、特段、可愛くもなければ、不細工でもない。外見でいじめられているという感覚はなかった。箸を使えない、一人でトイレに行くこともできないという、集団生活に適応できなかったことが原因と言わざるを得ない。

ミホリは不安だった。


どうしよう。明日、演技や競技の合間に今みたいにいじめられたら……。お母さんに見られちゃう。それだけは阻止しないと。勇気があればこの子たちに言ってやれる、「いい加減にしなさい」って……。でも、無理。そんなことを言う勇気はない。言ったら言ったで、おしっこのこと、言われちゃう。


先生の笛が鳴り響いた。


「はい。ではお遊戯の練習をもう一回やって終わりたいと思います。」


並ばされて、お遊戯の練習が再開された。曲が流れ、一斉に踊り始める。

目の前にはケントがいる。

何度も何度も繰り返されたお遊戯の稽古の中で、ミホリは最後のシーンを強く意識するようになっていた。

曲が終わりに近づき、ケントと腕を組む。

ミホリはケントに触れながら思った。


私の体に触れて嫌がらない人、ケント君が初めて。


ミホリはケントが女の子だったらお友達になれたかもしれない……、そう思った。

自然体で、ごく普通に接してくれていたからだ。当たり前の行為だが、ミホリにとっては入園以来、これが初めてのことだった。




「ミホリ、明日が運動会だからって、さぼったらダメよ。」


どんな時でも、家ではお勉強タイムが存在する。

母は運動会のことで頭がいっぱいになっているミホリに釘を刺した。

幼稚園登園日は夕食の前後にそれぞれ勉強タイムが設けてあり、母が目印を付けたところまで各教科をこなさなければならない。それが家でやる日課だ。ミホリは黙々と、国語、算数、理科、社会といった小学校中学年の問題集をこなし、その知識を深めていった。全部終わると母が採点し、間違ったところは徹底的にわかるまでやらされる。

ミホリは言われた通りに、この日課をこなしていった。


「最近、間違いが目立つようになったわね。ちゃんと集中してやらないとダメよ。」


最近、母は合っているところを褒めるよりも間違っているところを注意することが多くなった。

ミホリは、そういうちょっとした母の変化に引っ掛かりを覚えた。

勉強タイムが終わると迷わず祖母の部屋に行く。


「おばあちゃん。」


祖母は黒タンスに背中をもたれ掛けて、こたつに入って座っていた。

ミホリは祖母にジャレ付く。


「明日、運動会だね。何やるの?かけっことかやるの?」


「うん。やるよ。あとお遊戯もやる!」


「おばあちゃんも見に行くから頑張ってねえ。」


「えっ!」


ミホリに重度の不安が襲った。


おばあちゃんも来るの?どうしよう。私、いじめられているの。どうしよう……。いじめられているところをおばあちゃんに見られるわけにはいかない。


「あっそうそう、ミホリちゃん。」


祖母が何かを思い出したかのように言った。

ゆっくりとした動作で振り返り、黒タンスの引き出しを開けた。何かを手に取った。


「なあに、それ。」


ミホリが言った。

縦30センチ、横20センチ、高さ10センチの木箱がこたつの上に置かれた。

祖母は何かを懐かしむような視線で木箱を見ている。

かなり古い外観である。大正時代、いや、明治時代、いやもっと前か……、江戸時代の千両箱のような感じがする。

祖母はゆっくりとした動作で金具を外して箱を開けた。

中には、紙が二枚入っていた。紙縒りが結び付けられた白い無地紙である。サイズはA4だ。もう一枚は、この白い紙についての取扱説明書である。

いったい何なのだろうか?


「この箱はねえ、おばあちゃんの大切な宝物なんだけどね、ミホリちゃんにプレゼントしようと思うの。」


「これ?」


ミホリは困惑した様子だ。


「そうよ。お母さんには内緒だからね。勝手にプレゼントすると、うるさいからねえ。」


祖母は優しい表情で微笑んでいる。

しかし、ミホリにはよくわからない。小さな手を伸ばして興味本位で紙を触ってみる。やはり、ただの紙だ。


「ただの紙だよ。何?」


「ここに説明書が付いているからねぇ、読んでごらん。」


ミホリは説明書を手に取ると、それを見た。だが、1秒もたたないうちにポイッと離した。


「読めないよ、こんなの。」


「あらあ、そうだったね。ミホリちゃんは、まだ、ひらがなしか読めなかったね。ごめんねぇ。ミホリちゃんには早かったね。でもね、これで終わりじゃないんだよ。もう一つ、プレゼントがあるの。何かなぁ?」


「なあに?」 


祖母は、再び、黒タンスの引き出しに手を伸ばし、中から何かを取り出した。


「はい、ミホリちゃん。」


「うわあ、マジカルステッキだぁ。」


ミホリは満面の笑みを浮かべた。

祖母が取り出したのは、魔法の杖のおもちゃだった。これはミホリが話していたアニメ番組に登場するもので、主人公の魔法使いが、いつも悪者をやっつけるときに使われるものだ。

ミホリは、早速、杖を手にすると、部屋の中を走り回った。何やら魔法を唱える言葉を発しているようだ。最初に出したプレゼントのことなど、まるで記憶から無くなったかのように、ミホリは魔女ごっこを続けた。

しばらくして疲れたのか、または、甘えたくなったのか……、再び、祖母の胸に寝そべってきた。

手には杖のおもちゃを持っている。


「良かったねえ。」


「うん。おばあちゃん、ありがとう。」


ミホリは寝そべりながら杖をいじくっている。

祖母はどこか懐かしそうな視線を注ぎながら、先程、ミホリが手放した取扱説明書を、再度、箱に入れた。

そこには、こう書かれてあった。


これは、ある偉大な魔導士様からのメッセージです。魔幻の紙縒り。そう、それがこの紙の正式名称です。あなたの弾けた魂に連動いたします。人生というものは儚い。全てを手に入れて、幸福という名のぬくもりに抱かれながら生涯を閉じる人は少ない。また、何一つ手に入れることができずに喪失と絶望と孤独な中で生涯を閉じる人も少ない。人間たちは空に向かって旅をしています。最下層から空を見上げたとき、何が見えますか?先頭をゆく者たちから続く人々の後ろ姿が、たくさん見えるはずです。そこには様々な序列が存在します。魔導士様はそんな世の中の格差を少しでも縮めることができれば……と、このアイテムを作ったのです。魔導士様は特に人類に興味があったわけではありません。魔幻の紙縒りを作ったのは、ただ暇を持て余しておられたときに考えついたささやかな遊びに過ぎないのです。人間世界で例えると、思いつきというものです。私は人間世界と、ささやかな関わりがあります。ですから魔導士様に代わって、私の口から魔幻の紙縒りの使用方法と効力についてご説明いたしましょう。使い方は簡単です。紙縒りの付いた紙に願い事を書くだけです。ただそれだけで、あなたの願い事は、たとえどんな願い事であっても叶えることができるでしょう。ただし、一つだけ発動条件があります。それはあなたの魂が臨界に達していることです。基本的に人間の魂はとても穏やかに推移します。魂が臨界に達したり、弾けたりすることはまずありません。魂の臨界というものは、幸せな人生や平凡とは無縁なのです。病死や事故死や獄死のようなものでも魂は穏やかなまま消えていきます。魂が臨界に達するには長い年月による蓄積が必要です。何の蓄積かわかりますか?魔導士様が興味をもたれた喪失と絶望と孤独、この三つが魂を増幅させていきます。その蓄積こそが臨界へとたどる道と言えるでしょう。魔導士様の概念はとても抽象的でわかりにくいので、私が例を挙げて説明しましょう。現在の人間世界には、エスカレーターという乗り物がありますよね。あれを人生に例えてください。上りエスカレーターの乗り口から上を見たとき、各段の手すりの横には宝箱が固定してあります。宝箱の名前は下から順番に、「家族愛」、「幼なじみと過ごした日々」、「幼稚園・保育園・こども園での幸せな日々」、「小学生時代の幸せな日々」、「友達との出会い・友達と遊んだ日々」、「中学生時代の幸せな日々」、「部活動・課外活動・学習塾の日々」、「高校生時代・専門学校時代の幸せな日々」、「初恋と片想い……」、「受験・就職を取り巻く環境」、「バイト仲間との日々」、「愛の告白の結果による失恋と恋愛」、「デートをした日々・二人で過ごした時間」、「セックス」、「成人式での再会」、「恋人との旅行」、「同棲の日々」、「婚約・結婚」、「妊娠・子供が生まれる」、「家族でお出かけ……」など、ここから先も、数えきれないほどの宝箱が置いてあります。また、今紹介したもの以外にも、たくさんの宝箱があります。あくまで私の話は例えですから……。要するに、私が言いたいのは、一度動き出したエスカレーターは後ろには動かないということです。今という時には、その、今という時にしかできないことが山ほどあるのです。ほとんどの人は、それらの宝箱を知らず知らずのうちに開けて自分の血肉にしています。しかし、残念ながらその宝箱を開けたくても開けられない人がいます。それは努力不足・我慢不足・行動不足……という言葉では補いきれない運命的なものでもあります。80歳を過ぎてから「生まれて初めてデートがしたい」と思ってその宝箱を開けようとしても、もう手が届くことはないのです。宝箱を一つも開けることができずに時が流れると、ある一定の時に、言いようのない喪失感と、その先の人生に対する絶望感が襲ってきます。そのとき、人は……。何のために生まれてきたのか?何のために存在したのか?私の一回きりの人生は何だったのか?そんな疑問に直面します。その疑問が思考回路を遮断し、頭の中で輪廻転生を繰り返します。やがて、何のために働くのか?何のために残りの人生があるのか?といった身近な疑問に変わり、同年代の人たちが送る幸せな人生を尻目に、老いと孤独と絶望の中で、生きる意味・気力・目的・希望が奪われていきます。その先には、無職という肩書きのもと、繋がっている人がこの世に一人もいないという、隔離された残酷が待っているのです。そこでは、過去を振り返りながら途方に暮れる日々と、一度きりの人生をこのまま何もできずに終わりたくないという強い気持ちを懐きながらも、もがき苦しむだけで自殺や殺人という選択肢さえ選べない醜い自分が存在するだけなのです。喪失と絶望に包まれた孤独の世界で、精神は枯渇していきます。宇宙、存在、幻想、神秘、時間、数学、宗教、瞑想、自然、心理……といった哲学的妄想に引き込まれ、心の平穏を求めて彷徨いますが、それも長くは続きません。やがて、魂は臨界に達してしまいます。そして、弾けてしまうのです。弾けた魂は紙縒りに聖なる力を吹き込みます。世界は無限の可能性に満ち溢れ、パラレルの扉があなたを誘います。世界はあなたの手中に落ちるのです。繰り返しになりますが、どんな願い事でも叶います。ただし、一回しか使用できません。力は絶大です。ご使用になる前に、よく考えてみて下さい。かつて、私も魔導士様のお怒りに触れ、愛する人と引き離されてしまいました。私も人間世界も、所詮、魔導士様の手のひらの上で踊らされている存在でしかありません。最後になりますが、魔幻の紙縒りが発動したとき、あなたには全世界を支配する強大な力が降り注ぐでしょう。私は天の川のほとりから、いつでもあなたを見守っています。


祖母は何も言わず、黙々と手を動かして、箱に蓋をした。

ミホリは、いつしか眠りについていた。


「あら、ミホリちゃん、寝ちゃったのかな?」


祖母はミホリの可愛らしい寝顔を見て穏やかな表情を浮かべた。

木箱は、再び、黒タンスの引き出しの中に収納された。以後、この木箱は、ここで長い年月を過ごすことになる。




運動会当日、赤と白の2チームに分かれた。ミホリは赤チームだ。

ここは小学校の運動場ということもあり、幼稚園の10倍の広さがある。いつもと勝手が違うので園児たちは緊張していた。

保護者席には母と祖母がいる。

今日のプログラムを見ると、いきなりミホリの出演するお遊戯から始まる。最初は注目度が高いので失敗すれば目立つだろう。園児たちもそうだが、一番緊張しているのは先生だろう。        


「園児たちが入場します。それでは園児たちの力強いお遊戯をご覧ください。どうぞ。」


アナウンスがかかった。入場門から園児たちが入場してきた。ついに本番がスタートした。

運動場全体にかけ足で散らばっていき、それぞれの配置についた。

ミホリの立ち位置から、すぐ近くに母と祖母がいた。

ミホリは二人の視線を気にしながら、後ろや横から石が飛んでこないかを警戒した。いじめっ子の男の子たちに石をぶつけられるのは練習ではよくあったことだ。

沈黙の時はあっけなく終わり、お遊戯の音楽が流れ始めた。

結局、石は飛んでこなかった。さすがのいじめっ子たちも、自分の親の前ではそういう場面を見せない。したたかだ。練習のときは安物のテープレコーダーから音が流れていたが、今回は違う。小学校の校舎に取り付けられているスピーカーから大音量が流れている。少し離れた住宅にも響きわたるくらいだ。やはり、本番はスケールが違う。雰囲気に呑まれず、いつもと同じように踊りだす園児たちは大したものだ。

ミホリとケントは向かい合って踊る。出だしは順調だ。

ミホリは精一杯の演技を見せている。その中で、どこか余裕も感じられる。


「ミホリちゃん、右!」


ケントの声が飛ぶ。


「ミホリちゃん、足!」


再び、ケントの声が飛ぶ。

ミホリは踊りながら思った。


私、いつも体がガチガチになって失敗して責められて泣いちゃうのに、今日は違う。みんなと一緒に踊れている。リズムに合わせて踊れている。信じられない。おばあちゃんが見に来ているから?お母さんが見に来てくれているから?違う。今日はいつもよりガチガチに固まっているんだ。ならどうして?ケント君だわ。ケント君が私をリードしてくれている。


大勢の人が運動場を取り囲んでいる。保護者以外にも近所のおじさんやおばさん、町内のいろいろな人たちが、可愛い園児たちの演技を見ようと集まってきている。

園児たちは彼らの視線など気にも止めず、踊り続けている。曲が終盤に近づき、園児たちの演技にも、よりいっそうの熱が入る。先生は、本番だというのに思わず手をたたいてリズムを取ってしまっている。

そして、あの瞬間がやってきた。

ミホリとケント、腕をガッチリと組んで弾むようなステップを見せた。


私が輝いている。信じられない。でもお母さんは嬉しそうじゃない。全然、嬉しそうじゃない。どうして? おばあちゃんは満面の笑みで私を見てくれているのに……。




波の音が聞こえる。日本海は果てしなく広がっていた。

大きなリュックサックは防波堤の上に置かれたままだ。傍らには一人の女性が座っている。水平線を見ていた。


「いい匂い。」


海は地球が誕生した頃から、その歴史を見続けてきた。その膨大な記憶にアクセスしようとしても上手くいかない。結局、自分の記憶を遡るだけだ。ただ、ぼんやりと海を見ていると、すでに覚えていない記憶の底に眠る世界が、突然、映し出される。海は知らず知らずのうちに、心をどこかの時に誘う。遠い過去の出来事が、現に目の前で起こっているような感覚になる。


人間って不思議。記憶って何?昔のことなのに覚えていたり、最近のことなのに忘れていたり。これは特殊な能力?得するもの?損するもの?私にとっては損する能力なの?


打ち寄せる波は防波堤にぶつかり、木端微塵に砕け散っていく。


懐かしいなあ。あの頃から私は笑えない人間だったね。母は人間。父も人間。たとえ両親という肩書が付いていようとも、人間である以上、所詮、自分が全て……。もし、あの時代に、「虐待」「いじめ」「育児放棄」「不登校」なんて言葉が存在していたら、私はどんな人生を送ったのだろう……。あの頃の笑顔というのは、両親が敷いたレールの上を、一瞬だけ外れたときに起きた奇跡だったのかもしれない。笑えない環境で笑うということはそういうことなんだろうね、きっと……。


海からは穏やかな風が吹いている。


海は本当に広いね。あの時代に向こう岸まで泳げたら、私の身体はレールの上から外れたのだろう。ただ……、精神は捕らわれたままなので、磁石のように吸い寄せられ、引き戻されてしまう。だって、海といっても、ただの水だもん。私の人生経験では、国内のどこへ逃げても、家族は?家族は?家族は?家族は?と聞かれた。その家族から逃げてきたのに……。行政職員も警察官も刑務官も精神科医も神職の連中も、全員、同じだった。家族主義国家日本……、あの頃はまだ、両親や祖父母を殺したら、死刑か無期懲役にしかならないという法律があった時代……、あれはまるで、地球を覆いつくす大気だったね。それくらい逃げ場が無かった。まぁ、今もあまり変わってないけど……。身体と精神の両方を解放するには、外国ではダメで、あの空の向こう、無数の星々が連なる、あの天の川を渡らないといけないんだ。もし、それができたら、自由という名の、無限の可能性を秘めた世界で、心の底から笑うことができるんだ。


風は笹の葉をこすり合わせ、カサカサという心地よい音を生み出している。


七夕か……。織姫様も同じ気持ちかな?あなたはいったいどういう気持ちで天の川の向こうを眺めているの?自由を奪われ、恋を奪われ、愛しの人に会えるのは一年に一度。でも……。でも……。永久に生き続けるあなたは、これから何千回だって何万回だって愛する人と会うことができる。そこが私とは違う。私には何もなかった。天の川の向こうには永久にたどり着けない。人生は、自由の利かない鳥かごの中で消えてしまった。


「わああああ。」


園児たちの愛くるしい笑い声が聞こえた。

自由時間になったのだろうか?一斉に園庭に飛び出してきた。

女性はスッと立ち上がった。声につられるように反対側の園庭に向かって歩き出した。そして、防波堤の園庭側に座り込んだ。今度は園児たちを見ている。

園児全員が笑顔だった。それぞれが思い通りに動き回っている。遊具らしきものが鉄棒しかないため、遊びの種類は限られているようだ。

女性の目から涙がこぼれた。何かを思い出しているのだろうか?


園児たちは一人では生きていけない。園児たちは誰かに育てられている。園児たちは誰かに強制的に他者啓発をされている。だけど……。この子たちには、そこが閉ざされた世界であるという実感は無さそう……。


園児たちは、とても楽しそうだった。

女性の頭上に張り出しているこの大きな笹の根元には、二人の園児が立っていた。一人はミサンガを腕に巻いたかわいい男の子で、もう一人は、大きなリボンが似合うかわいい女の子だ。

二人とも不思議そうな顔で女性の姿を見上げている。かなりの至近距離だった。

男の子が言った。


「なんで泣いてるの?」


女性は無視した。おそらく、この数十年分の涙の意味を、このクソガキに話しても意味がないと思ったからだろう。

今度は女の子が言った。


「泣いたらダメだよ。」


蕩け落ちそうなプルンプルンのほっぺたが、女性の目に映った。

女の子はポカーンとした表情で女性を見ている。


「うん、そうだね。泣いたらダメだよね。うん。泣いたらダメだよ。」


女性は自分に言い聞かせるように答えた。言い放ったあと、無理矢理作った笑顔で、とりあえず二人の園児に安心感を与えておいた。

女性は、近くに置いたリュックサックに目をやった。悲しい目をしていた。簡単には開封できないように開封口は紐で厳重に縛ってあった。

リュックを目の前まで引き寄せると、紐をほどき始めた。

二人の園児にとって女性の存在は、もはや、どうでもよかった。すでに関心は薄れ、互いの顔を見つめ合って楽しそうにおしゃべりを始めている。

絶望感が漂う女性と、躍動感に満ち溢れる園児……、とても対照的だった。

女性の指先の動きが止まった。紐が全てほどけたようだ。

垂れかかっているカバーをめくった。開封口が大きく開くと同時に、リュックの中に太陽の光が注ぎ込んだ。

女性は、中から小さな木箱を取り出した。まだ、中にはたくさんの荷物が詰め込まれている。この木箱、見たところ、かなり古い代物であることがわかる。箱の大きさはA4の手さげ金庫より、やや大きめだろうか……。箱をゆっくりと開け、中から市販の便箋30枚と、紙縒りの付いた無地紙1枚を取り出した。紙のサイズは、ともにA4である。

女性は紙縒りの付いた紙を、ジッと見つめる。

次に、ボールペンを取り出した。

ため息をついたあと、一転、決意に満ちた表情を浮かべ、何かを書き始めた。

めくられたカバーは弾力性によって自然に戻され、再度、リュックの取り出し口を自動的に閉じようとしていた。

その一瞬だった。

太陽の光がリュックの中に入っている目を疑うような代物を捉えた。プラモデルにしては重厚感がありすぎるように思えるが……。


笹の葉が揺れている。新鮮だわ。葉と葉のこすれ合う音が心地いい。地球が誕生してから46億年。人類が登場してから約1万年。いろんな人間が生まれた。いろんな人生があった。そして、いろんな死があった。私は生まれてから数十年が過ぎたところ。地球や人類の歴史を考えると、私の人生なんて、ちっぽけだ。私の存在っていったい何だったの?いったい何のために生まれてきたの?私は、なぜここにいるの?ああ、馬鹿だ。考えたって答えなんか見つからないのに……。少なくとも、私は今、生きている。旅立つ前に書かないといけない。そう、私が生きたという証を……。別に何かを残したいわけではないんだ。残しても誰も見てくれないから……。だから刻み込んでやるんだ。消せないくらいに強烈に……。ああ……、人生って虚しい。


時間は絶えず流れている。

女性は手を震わせながらボールペンを走らせた。

初夏の太陽は、容赦なく女性の後頭部に照りつける。

辺り一帯には、子供たちの無邪気な声が響いていた。

潮風は、時折、強い風を陸地にもたらす。真夏なので心地よいのは確かだが……。ただ、その強い風で、女性の長い髪は舞い上がってしまう。集中していたいが、その流れで顔が上がった。

園庭では、園児たちが走り回っていた。数人で話し込んでいる園児もいた。教室の窓の向こうでは、お絵かきをしていると思われる園児もいた。どの園児を見ても、その目は光り輝いていた。

女性は眩しい光を避けるように何気なく視線を動かしていると、砂いじりをしている園児に目が止まった。その子は夢中になって砂山を作っていた。砂場は設置されていないので、いろんなところから砂を集めたようだ。

女性は全身を包む絶望感の上に、何やら嫌悪感たっぷりの重石を乗せられた気がした。

声が聞こえた。すぐ近くで誰かが会話している。

女性は、再び、視線を動かした。その姿は目の前にあった。それは園児でありながら手と手を取り合い、楽しそうに会話をする男の子と女の子の姿だった。満面の笑みを浮かべていた。

女性は、自身の凍りついた心の海に、一滴、何かが落ちた気がした。


「男の子と女の子……。幼稚園児の……。」


女性は、小声で呟いた。

この二人、よく見ると、先ほど話しかけてきたあの二人だった。目の前に垂れ下がる七夕の短冊たちと、そのすぐ先で輝く二人の園児……、この遠近感が切なさを倍増させていた。


私は遠い世界にいる。幼い頃、塾帰りの夜道で、ふと、天を見上げたとき、オリオン三ツ星を挟むように赤く輝くべテルギウスと青く輝くリゲルが見えた。とても寒い季節だった。今は夏。蠍が天に上がるこの季節に、あの二つの星は水平線の裏側に沈んでいる。一緒には輝けないんだ。太陽と月みたいに……。私も同じ。みんなと一緒には輝けなかった。私が天に上がれば、みんなは逃げていった。


女性は二人の園児をジッと見つめた。

何だろう?ぼんやりと記憶の断片が繋がっていく。


「あの二人……、どこかで……。」




「ミホリちゃん、今日、何の日か知ってる?」


「知らない。ケント君の生まれた日?」


「違うよ。僕が生まれたのは冬だから……。」


「じゃあ何の日?」


「あれ、先生から聞いてなかった?」


「知らないよ。」


園庭では、たくさんの園児たちが走り回っていた。

ミホリとケントは隅の方で話し込んでいた。

空を見上げると、青一色のキャンパスに初夏の太陽が浮かんでいた。今夜、空には星がいっぱい輝くだろう。


「今日は七夕なんだ。七夕というのは離れ離れになった織姫様と彦星様が、一年にたった一日だけ会うことが許された日なんだ。お互い愛し合う仲だったんだけど、神様の言いつけを守らなかったという理由で随分前に引き離されちゃったんだよ。」


「織姫様?どこに居るの?」


「空にいる。宇宙にいるんだ。宇宙にも川が流れていて、その川が邪魔して普段は会うことができないんだ。でも、7月7日の今日、もし晴れたら、そこに橋がかかって会うことができるようになるんだ。」


「じゃあ、雨が降ったら?」


「雨が降ったら、川の水量が多くなって橋をかけることができなくなるんだ。」


「川の中に入ったらダメなの?」


「この川は天の川と言って、ずっと宇宙の果てまで流れていて、流されると二度と帰ってこられなくなるんだ。それに川幅が地球の直径の何倍もあって……。」


「全然見えないよ。どこにあるの?」


ミホリは空を見上げている。


「昼間は見えないよ。夜になったらはっきりと見えるようになるよ。このあと願い事を七夕の短冊に書いて、あの笹に引っ付けるんだ。」


園庭の中央には、一本の巨大な笹が寝かされていた。


「願い事?」


「どういう風になりたいとか、物がほしいとか、いっぱいあるだろ?この七夕の夜、短冊の付いた笹を天にかざせば、その願いが叶うんだ。すごいだろ?」


「えっ!すごいすごい。」


ミホリは入園してから今年で二年目となり、年長組である。

相変わらずの孤立生活だったが、ケントとだけは普通に会話ができる間柄だった。教室に移動したあと、室内では七夕の日ならではの授業が行われていた。


「さあ願い事を書きましょう。何を書いてもいいんだよ。」


先生の声が教室に響いた。

ミホリ、そして、ケント、他の園児たちも一緒に願い事を書く。短冊は市販の折り紙を使って作られたものだ。


「願い事、一つしかダメなの?」


ざわめきの中からある園児の声がした。


「そうよ、一つだけよ。」


先生が答えた。


「たくさんあるんだけどなあ。」


「ダメよ、一つだけですからね。欲張る人に神様は微笑んでくれないわよ。」


全員が真剣な眼差しで書いている。


「できた!先生できたよ。」


先生は園児の短冊を手に取った。


「へえ、お空を飛びたいんだね。羨ましいわ。きっと飛べるようになるよ。きっと……。もし飛べるようになったら、先生も連れて行ってね。お空の世界へ。」


「うん。」


園児は満面の笑みを浮かべている。

全員が短冊を書き終えたら、園庭に寝かしてある笹に、園児たちの夢が取り付けられる。それが天に向かって真っすぐに聳え立つと同時に、神様に願い事を見てもらうことになる。


「ケント君の願い事は何?」


ミホリが言った。


「誰もいない宇宙の星で暮らしたい。そう、それが願い事だね。」


「宇宙?宇宙って川が流れていて危ないんじゃないの?そんなところに行きたいの?」


「安全なところだってあるさ。広い大地の中で僕だけがいて何でも自由にできるんだ。地に生った果物を好きなだけ独り占めして、時間を好きなだけ自由に使える。そんな場所に行きたいなって本気で思う。」


「でも、独りぼっちだよ。」


「大丈夫だって。そういう夢を持っているということはいいことだと思う。叶えられるわけないけどさ。きっと楽しいって!楽しいって思えば何でも楽しいんだよ。」


「えっ、どうして?願い事叶えられないの?神様が願い事を叶えてくれるんじゃないの?」


「あっ、そうか。そうだね。叶えられるんだったね。そうだそうだ。じゃあ叶えてもらおう。」


「それ、ケント君が教えてくれたんだよ。」


「うん。そうだった。で、ミホリちゃんはどんな願い事するの?」


「どうしよう。いっぱいあるけど。どうでもいいことばかりで。でも、うん、やっぱり一つだけ叶えられるとするなら友達かな……。友達がたくさんほしい。数えきれないくらいたくさん。そしてね、その願い事が叶ったらね、今度は恋人がほしい。ずっとその人と一緒にいたいの。」


園児たちは、それぞれの願い事を短冊に書き綴った。どうでもいいような願い事を書く子もいれば、真剣に将来を考えて書く子もいる。先生の立場から言えば、短冊に願い事を書く行為は年中行事の一つで、子供たちを喜ばせるためのイベントにすぎない。仕事だからやっている。それだけだ。こんなものが叶うわけないということは、先生でなくても園児たちだってわかる。ケントの考えはそれに近いものがあるが、ミホリは真剣だった。


たくさんの友達が作れますように……。


ミホリが祈るようにしたためた願い事だ。


「これでいい。二つ目は来年にしよう。でも、幼稚園にいられるのは今年が最後だから、もう一つ書こうかな。ああ、そうだ……、さっき先生が一つだけだって言っていたからやめておこう。」


「みんな、書き終わったかな?」


先生が言った。


「はい。」


「では、外に出て、今、書いた短冊をあの笹に付けましょう。」


みんなが一斉に立ち上がった。

本当に願い事が叶うのか?神様が微笑むのは果たして誰の願い事か?それぞれがそれぞれの思いを胸に、外に寝かせてある笹に向かっていった。

あっという間に、笹の周りを園児たちが囲んだ。

間髪入れずに、作業に取り掛かる。丁寧に短冊を結びつけていく。

誰がどんな願い事をするのか、みんなが気にしていた。

ミホリは、他の園児たちの願い事を冷めた目で見ていた。みんなが楽しそうに短冊を括り付ける姿を見て、こう思った。


みんなはもう充分でしょ。お友達もいて、毎日笑って、いつも楽しそうにしている。これ以上、何を望むの?この短冊は私のような人間のために神様が贈ってくれたものなの。だから、みんなは願い事を叶えなくていいの。みんなから遅れをとっている私が、みんなから仲間として認めてもらうためにジャンプするの。そのためのものだから……。でも、本当に叶えられるのかな?神様はこの世界で一番偉い人だから何とかしてくれるんだろうね。そうだよ、きっと叶うさ!


ミホリは、可愛らしい手で短冊を笹に結び付けた。

これは夢の短冊だ。この短冊が何かをもたらしてくれるのではないか……という期待感で胸がいっぱいになった。当然、他のみんなも同じ気持ちでいる。一人だけ特別というわけではない。


「僕と一緒にいたい?」


「うん。一緒にいたいの。」


二人の園児の声が聞こえた。それと同時に、たくさんの園児がその周りを囲み始めた。

すでに全員が短冊を結び終えている。

ミホリは自分のようないじめられっ子が「友達がほしい」と書いたことに対して、みんながどういう反応を示すかが怖かった。しかし、みんなから見ればそんなことはどうでも良かった。

ある一枚の短冊に多大な興味を示していたからだ。


ケント君とずっと一緒にいたい。


この短冊である。書いたのは同じクラスの女の子で、名前はユキ。

ミホリがこんなことを書いたら馬鹿にされてしまいそうな内容だが、ユキが書いたので、羨ましさや憧れといった表情が多かった。

誰もが、こう思う。ケント君は素敵な人、私なんかでは手が届かない、でも、ユキならピッタリだわ、と……。世間一般でいう、お似合いのカップルという奴だ。並んだ二人の姿は釣り合いが取れていて、まさに、そんな光景だった。

面と向かって好意を示されたケントも満面の笑みを浮かべて、この気持ちに応えていた。

ミホリもこの騒ぎにようやく気づいた。

瞬間、何かが止まった。


「あ……。」


ミホリは思わず小声をもらした。かわいらしいほっぺたが、とても痛々しく見えた。何も考えが思い浮かばない。

一体となっている園児たちの横で、ミホリだけがこの空気の中に入っていない。

足場が大きく揺らいだ。

仲良く並ぶ二人の姿を見た瞬間、何か大きなものを失った感覚にとらわれた。それは、ミホリから見たケントという存在が1対1であったのに対し、ケントから見たミホリという存在は30対1、つまり、ただのクラスメイトとしての位置づけであったことに気付いたからだ。

以前からそういう感覚はあったのだが、心のどこかで期待をしていた。この空気の流れは今までうっすらと見えていたケントの存在を、完全に遮断するものとなった。ほのかに恋心を抱きながら何もできないうちに遮断される。そういう感覚を、突然、味わったのだ。

つまり……、失恋である。

言いようのない嫌悪感が自分の存在を支配する。世界が広がった。虚しさの世界が広がった。

ミホリの心に、過去の幼稚園生活でのトラウマが容赦なくなだれ込んできた。


「さあ、みんな。笹を天に向かって立てますからよく見ててね。願い事が届くといいね。それ!」


いよいよ笹が立てられる。先生と、幼稚園バスの運転手をしている男性の力で、願い事の詰まった笹が持ち上げられた。この園庭の片隅には相当な重量のあるコンクリートの型がどっしりと置かれている。そこに、この笹を差し込むつもりだ。

先生とともに園児たちも移動する。

園庭に隣接する道路からは一人の老婆がこの光景を見つめていた。穏やかな目をしている。まるで孫と戯れているような感覚だ。笑顔が溢れ出ている。


「よいしょっと。はい。完成だよ。」


先生が言った。茎が、すっぽりとコンクリートの型にはめられた。

流れてくる爽やかな風に乗って、笹の葉と短冊たちが靡き始めた。

ついに、園児たちの夢が天に向かってかざされたのだ。

歓声が上がった。その中にミホリがいる。笹の頂上を見上げながら期待を膨らませた。


みんなが笑ってる。願いが叶うんだ。本当に友達ができるんだ。神様が叶えてくれるんだ。あっちの世界へ行くんだ。 


ミホリは視線を地上に戻した。

そこには、ハッと飛び込んでくる光景があった。

ケントとユキだ。いつの間にかケントの手は、先程、衝撃の告白をしたユキの手とがっちりと結ばれていた。

一瞬、心臓をチクッと刺されたような感じだった。

ミホリは短冊に想いを寄せる気持ちと、今、目の前で起こっている出来事との間で複雑に揺れていた。訴えかけるような目は短冊ではなくケントに向けられていた。

二人の姿は弾んでいた。他のみんなも嬉しそうに自分の短冊を眺めている。老婆は園児たちを見て顔をほころばせている。足場のない空間でゆらゆらと揺れているのはミホリだけだった。


「ミホリちゃん。」


突然、ケントが話しかけてきた。隣には手を繋がれたユキもいる。


「なあに。」


ミホリは少し驚きの表情を浮かべながら答えた。


「願いが叶うといいね。ミホリちゃんの短冊は高いところに付いているから、神様も見つけやすいんじゃないかな?」


「うん。でも……、神様って高い所に付いている短冊は欲張りだって思うから見ないよ、きっと……。」


ミホリは、そっけなく答えた。

ユキはケントを不思議そうな顔をして見ていた。

短冊を天にかざすというこの瞬間に、どうしてミホリなんかに話しかけるの?と言わんばかりの表情だった。その視線をミホリも気にしていた。

そして、次の瞬間……。


「ひゃああああ!」


一斉に歓声が上がった。

誰もが目を疑う信じられない光景がそこにあった。

悲鳴とも受け取れるこの声……、ユキの嫉妬めいた表情が、ケントをこの行動に駆り立てたのかは定かではないが……。


時間が止まった。


ケントとユキ……、突然のキスだった。


ケントはそれまでの時間の流れを完全に無視して、半ば強引にユキの唇を奪っていった。

唇と唇が合わさってから離れるまで、約三秒……。突然の衝撃に周りは凍りついた。


「……。」


ミホリは目を大きく開いたまま息ができなくなった。あまりの息苦しさから逃げ道を探してそこに飛び込むかのように上を向いた。

笹の葉と短冊たちが揺れていた。

再び、歓声が上がった。二回目のキスが交わされたようだ。

ケントの勇気ある行動を称えるものと、突然だったがそれを好意的に受け止めたユキの気持ちを称えるもの、さらに、それを周りで見ていたみんなが興奮して、もの凄い騒ぎになった。

先生は怒ったりなんかしない。ただ照れくさそうに笑みを浮かべて老婆に対して頭を下げていた。

ミホリは胸に手を当てて、心臓が動いていることを確認した。ただ、呼吸が荒くなってしまい、棒になったまま動けなくなってしまった。指令を下す脳が訳のわからない状態になっているため、通常に作動しなかった。幸せそうな二人の姿だけが、脳幹を突き抜けてくる。

短冊が風に乗って揺れている。

ミホリは動揺している自分が恥ずかしくなった。神様が見ていたかどうかはわからない。だが、老婆は見ていた、この動揺を……。

足が自然にこの輪の中から離れようとする。自分でそれを止められない。

ミホリは思った。


私にとってケント君は全て……。全てなの。心臓を取ったら人は死ぬ。それと同じ。その心臓がなくなった。こうして幼稚園の生活を何とか乗り切ってきたのはケント君がいたから……。私の話し相手にケント君がなってくれていたから……。だから頑張れた。砂場で山を作る権利すらいじめっ子たちに奪われてしまう私を、傍らで話し相手になってくれることで守ってくれた。人気のあるブランコやすべり台なんて触れることすら許されない私を誘って一緒に滑ってくれた。おしっこを漏らしたあの日から、みんなの輪の中に入れない私を嫌な顔一つせずに相手にしてくれた。散々いじめられて人に話しかけることが怖くてできなくなった私を、みんなと同じように扱ってくれた。そのケント君の存在が無くなる……。


ミホリは負けを認めたくなかった。しかし、二人の輝く笑顔とそれを祝福するみんなを見ていると、運命的にあっちの世界には行けないということを感じることができた。ここから見える光景というのは、周りとの違いに疑問を抱くこと自体が許されない別世界からの眺めでしかなかった。


私は醜い……。靴箱に置いてあるシューズは、いつもどこかで裏返しになって転がっている。机の上には落書きがいっぱい。粘土工作は壊されるし、描いた絵はいつのまにか違う色が上塗りされている。醜い私、ゴミみたいな私……。そんな私をケント君だけが……、ケント君だけが……、相手にしてくれた。これからもケント君は私に話しかけてくれるかな?でも、話しかけられたくないって気持ちもある。なんかよくわからない。私……、これからどうしたらいいんだろう。ケント君が離れていく。本当に一人になっちゃうよ。


ミホリは足がガクガクと震えていた。老婆の視線がミホリの心に更なる揺さぶりをかける。

ミホリの短冊は風で左右に揺れていた。まるで、神様に手を振っているかのように……。それは……。お願い、気づいて、お願い、助けて!と、叫んでいるようだった。

ケントとユキは手を繋いで歩き始めた。教室に向かっている。

ミホリの目からは、いじめられてもいないのに大粒の涙がこぼれ落ちた。涙はミホリウイルスとなり、体を伝って地面に落ちていく。ウイルスは大地を枯らし、水を濁し、空気をも汚す。人や動物が一切近寄れない隔離された世界を作りだしていく。

笑いながら離れていくあの二人の背中を見て思った。


私もいつか必ず幸せになってやるんだ、いつか必ず思い切り笑ってやるんだ。


笹の葉と短冊が揺れている。

ミホリはたくさんの後ろ姿を見て、あっちの世界が徐々に遠ざかっていくような印象を受けた。ケントとユキの後ろ姿……、みんなの後ろ姿……、先生の後ろ姿……、老婆の後ろ姿……、たくさんの背中がミホリを委縮させた。

ミホリは動けなかった。たった一歩が踏み出せないのだ。ミホリにとって、あっちの世界とを繋ぐ唯一の窓口だったケントの存在消滅は、心に不安と恐怖を植え付ける以外の何ものでもなかった。

ケントと会話した最後の日、そう、それが今日、7月7日だった。以来、卒園するまで一度も口を利くことはなかった。

この3年後には、家でのたった一人の理解者、祖母がこの世を去る。

隔離された世界に二つだけ付いていた扉が完全に閉ざされてしまったのだ。

七夕の短冊が揺れている。高い所で、神様に近い所で揺れている。虚しく、そして、儚く揺れている。隔離された世界で、誰もいない空間で、いつまでもいつまでも揺れている。




波の音が聞こえる。日本海は果てしなく広がる。

大きなリュックサックは防波堤の上に置かれたままだ。

傍らには一人の女性が座っている。幼稚園の園庭を向いている。

右手にはボールペン、左手には紙を持っていた。何かを書き綴っている。


「潮の匂いがする。」


女性は寂しい声で呟いた。


風が吹きつけている。包み込まれるような感じじゃない。追い払われているような感じ……。

人類の歴史を見続けてきた海が私に問いかける。この世からあの世まで風で運んであげるよって。私は答える。そんなに焦らなくてもいいよ、すぐに行くからねって……。


園庭には、たくさんの園児がいた。

目の前には手と手を取り合い、楽しそうに話し込む男の子と女の子の姿があった。


私は今まで、たくさんの夢を見た。本当にたくさんの夢を見た。そのほとんどが自由と愛を求めた夢……。この世で生きる人間は、いろんな制約の中でしか生きられない。その制約は人それぞれだ。私は、誰かを愛することができないし、誰かに愛されることもない。そんな制約の中でしか生きられなかった。


風に煽られてサラサラの長い髪が大きく靡いている。女性は乱れた髪を手で整えた。目には涙が滲んでいた。絶望の視線が、一瞬、夢と希望に満ち溢れた短冊たちに向けられた。


私は遙か遠い世界を求め続けた。みんなのいるあの世界を……。私は負けたのではない。初めから決まっていたのだ。人生は、持って生まれた才能(外見・性格・身体的能力・知能指数)と、育てられる過程で親や監護者から受ける他者啓発で決まる。私はハズレだった。だから、外見を外科手術で整形した。美貌はそうやって手に入れた。性格は、大量の薬で脳内物質をいじくりまくることで整形した。明るくて優しい性格はそうやって手に入れた。それ以外のことは、現代の医学では変えられない。この時点でみんなのいる世界に行けなかったら、もう何をやっても行けない。あとは神の力が必要だ。変えられないことを運命という言葉を使って納得するのは簡単だけど……、そんな人生なら要らない。私は能力の限界を超えたかった。神の力を借りてでも……。


葉と葉のこすれ合う音が聞こえる。それと同時に、女性の髪もサラサラッと靡いた。髪のボリュームに比例するように、香ばしい香水の匂いがその濃度を増して、辺りに撒き散らされた。


これほどの絶望があるだろうか……。これほどの無念があるだろうか……。この世で独り……、誰もいなかった。制約から逃げて逃げて逃げまくっていたら、みんなのいる世界ではなく、井戸の底にいた。どれほどの時間、逃げ続けただろうか……。もう、生きる意味・気力・目的・希望は無い。井戸の底は深かった。見上げれば、地上は遥か彼方……。円筒の向こう側に見える空はとても小さかった。私はここから同年代の幸せと成長を、ただ眺めていただけ……。それしかできなかった。何もできなかった。なんの手段もなかった。あの小さい空は止まったまま……。みんなのいる世界では、おそらく、空の景色は幸せと成長とともに変わっていくのだろう。私は止まったまま孤立してしまった……。


神は、短冊たちをどのような思いで見ているのだろう。

女性の目に滲んでいた涙の粒は、ついに、頬を伝って流れ落ちた。


幸せそうに恋をする同年代たちを眺めながら、幸せそうに恋をする人間たちを眺めながら、何もできずに恋愛ができない年齢になった。時間は流れるのに、幸せはいつまで経ってもやってこない。それがなければ成長もできない。そういう現実への葛藤がずっと続いた。私はみんなのいる世界には行けなかった。遙か彼方に存在するその世界には何があるのだろう?


防波堤の上には力強く初夏の日差しが照りつけている。

打ち寄せる波の音も夏仕様で力強かった。  


ああ神様、私は、あなたの作った運命に従って旅立つのね。ゴミはゴミらしく、ゴミとして処分される。精一杯、もがいてみたけれど、ただ、ゴミ箱の中をかき回していただけ……。みんなのいる世界に……、あの世界に……、たった一度でいいから行ってみたかった。


女性は、ほんのりと微笑んだ。そして、ペンを走らせた。

風に乗って大きく揺れる短冊は、まるで神様に手を振っているかのようだ。園児たちの字は、お世辞にも綺麗とは言えないが、力強く躍動感に満ち溢れていた。

近くには二人の園児が立っていた。あのミサンガの男の子とリボンの女の子だ。あっちの世界で揺れる笑顔たちは、とても眩しかった。笹の根元で、ずっと話し込んでいる。


「願い事、叶うかなあ。」


女の子が言った。


「きっと叶うよ。だって晴れているんだもん。」


男の子が言った。


「でも、さっき先生が、いつもお行儀の悪い子は叶えられないって言ってたよ。」


「自分で行儀が悪いって思ってるの?」


「ううん。思ってないよ。」


「じゃあ、大丈夫だよ。」


女性は、目の前の会話をよそに、ひたすらペンを走らせている。さっきからずっと、何を書いているのだろうか?

絶え間なく押し寄せる波は、数秒周期でこの防波堤にぶつかり、木端微塵に砕け散っていく。

空中に散った水しぶきは太陽の光によって照らされ、美しい光の芸術を生み出していた。まさに、夏色の光景である。


「本当に願い事って叶うの?」


女の子が言った。


「だから叶うって!どんな願い事なの?」


男の子が言った。


「あのね、それは……。」


「何?」


少し間を置いたあと、女の子が切り出した。


「好きな人と……、好きな人と一緒にいたいな。ずっとずっと一緒にいたいな。」


一瞬、ペンを走らせていた女性の指がピクッと止まった。


「好きな人?」


「うん。」


再び、女性の指が動き出した。


「きっと、その願い事、叶うと思うよ。」


「どうしてそんなことがわかるの?」


「だって、あの短冊だろ。一番上に付いているあの赤色の短冊だろ?」


「うん。そうだよ。」


笹の上部には、下地が赤色の短冊が一つだけ付けられていた。汚い字ではあるが、力強い言葉が綴られていた。


「あんなに高い所に付いているんだから、神様も見つけやすいと思うんだ。だから、その願い事はきっと叶うよ。」


再び、ペンを走らせていた女性の指がピクッと止まった。


「じゃあ低い方に付けてある短冊も、上の方に付けてあげようよ。」


「大丈夫だよ、大丈夫。みんなの願いも叶うよ。」


防波堤の上に座る女性は、ゆっくりとした動作で顔を上げた。切ない視線が園児たちに突き刺さった。数秒間、眺めたあと、再び、紙を見つめ、ペンを動かした。


「ねえ。」


突然、女の子が男の子の手を握りしめた。


「うん?どうした?」


「願い事、叶えたいよ!」


「だから、今、叶うって言っただろ!」


「本当に?」


「うん。本当だよ。」


女の子の顔が、突然、真剣な表情に変わった。


「じゃあ、私と結婚して。」


「えっ!」


男の子は、心臓をチクッと刺されたような感覚だった。思わず驚きの表情が顔に出た。しかし、驚いたのは一瞬だけ、あとは堂々としていた。羞恥心というものを知らないのか、それとも、生まれ持っての性格なのかはわからないが、逃げの姿勢がなく、周囲の目も全く気にしていないようだった。


「いいよ、結婚しよう。お前のこと好きだし……。」


男の子が言った。

二人の頭上で揺れる笹の葉と短冊が、その光景を見守った。


「嬉しい。願いが叶った。願い事、叶ったよ。」


女の子が言った。とても嬉しそうな表情を浮かべている。

女の子は、あの赤い短冊から何かが放たれて、強烈な後押しをされた気がした。そして、握っていた男の子の両手を、自分の両頬に持っていった。

男の子も同様に、女の子の両手を、自分の頬に持っていった。

二人とも蕩け落ちそうな可愛らしいほっぺたをしている。

女の子が男の子のほっぺたを両手でさすり始めると、男の子も女の子の頬を両手でさすり始めた。自然と笑みがこぼれる。


「可愛いね。」


男の子が言った。


「本当に?嬉しい。」


女の子は自分の顔を男の子の顔に近づけた。至近距離で見つめ合っている。

他の園児たちは、これに気付くことなく、それぞれがそれぞれの遊びに夢中になっていた。


「キスしようか?」


男の子が言った。


「キス?」


女の子が答えた。


「キスって言うのはね、口と口を合わせるんだよ。」


男の子が言った。


「口と口?」


「うん。こんな感じ。」


瞬間、可愛らしいキスの音が鳴った。いきなりだった。お互いの頬をさすり合っている手の動きが止まった。

唇と唇が重なり合ったあと、スッと離れた。

見つめ合う二人を見ていると、そこから癒しや安らぎを感じ取ることができた。

お互いニンマリと照れ笑いを浮かべる。見つめ合ったまま動かない。照れ笑いは、すぐに大爆笑に変わった。

とても幸せそうだ。

二人の一瞬一瞬を一コマずつ写真に撮り、全体をセピア色にしてから、豪華な写真立ての中で永遠に飾っておきたい……、そう思わせてくれる光景だった。


「結婚しようね、絶対に。」


女の子が言った。


「うん。わかった。約束だよ。」


互いの手は、相手の頬から離れた。

そのあと二人は、横に並んで七夕の短冊を見上げた。互いに手と手を繋いで、どちらか一方が主導したわけではないのにリズムが生まれ、肩を起点に公園のブランコのように揺れ始めた。

他の園児たちに、これと似たような光景は見られない。

彼らはこの二人のようにまだ恋というものには巡り合えていないのかもしれないが、きっと、今という時を楽しんでいるに違いない。


「ねえ、私の願い事、もう叶っちゃったよ。」


女の子が言った。


「結婚することが願い事だったの?」


「うん。」


「じゃあ大人になっても、おじいちゃんやおばあちゃんになっても、ずっと二人でいられるように……、今度の七夕からも、そうやって願い事を書き続けて行こう。」


「うん。ありがと。」


男の子の優しい笑顔が揺れる。女の子の明るい笑顔が揺れる。言葉はいらなかった。

幸せ……、ただ、それだけである。

穏やかな風が園内に流れた。その風は、見つめ合う二人の髪を、一瞬、サラサラサラッと靡かせた。

女の子は笑顔のまま体の向きを変えて、園舎に向かってゆっくりと歩き始めた。

一歩、また一歩と、園庭を横切っていく。

地面には小さな足跡がうっすらと刻まれた。そんな彼女の後ろ姿を、男の子は優しい顔で見つめていた。

幸せにつつまれた女の子からは、自然に躍動感が生まれていた。何が見えているのだろう?

今、女の子の目の前には、幸せの世界へと続く階段があった。一直線に天まで伸びる階段だ。躊躇いはなかった。溢れんばかりのパワーを全身に漲らせて、この階段を駆け上がっていった。

満面の笑みを浮かべている。軽やかにステップを踏んでいる。後ろを振り返ることなく、ただ、幸せの世界に向かって一歩一歩……。ただ、幸せの世界に向かって……。

女の子が、ふと、我に返ったとき、園舎の目の前にある鉄棒では、たくさんの園児たちが楽しそうに遊んでいた。

女の子はこの集団の前で立ち止まった。そして、振り返った。満面の笑みだ。視線の先はミサンガの男の子だけ……。

女の子は大声で言った。


「結婚したらね、料理をして、洗濯をして、お部屋の掃除をするの。料理は、ごはんの作り方とお味噌汁の作り方を覚えてね、そのあとハンバーグの作り方を覚えるの。部屋の中はいつも綺麗にして、二人で過ごすの。そして……。」


一瞬、不穏な空気が辺りを覆った。


次の瞬間……、とてつもない雷鳴が轟いた。 


何だ!


何が起きた?


突然、幸せの世界へと続く階段に、天から悪魔の雷光が落ちた。

それは、神の世界にまで届くほどの轟音だった。

階段は破壊され、一瞬で何もかもが崩れ去った。


沙羅双樹の花の色……。


入滅のとき……。


樹は白く枯れ変じ……。


まるで白鶴のように……。


止まった……。


世界が止まった。


鈍くて、重苦しい音だった。


あまりにも突然だった。

どこからともなく飛んできたピストルの銃弾は、まさに、悪魔の牙……。

何という速さだろう。

風を切るとはこのことを言うのだろうか?とてつもないスピードだった。

銃弾は全てを貫き、どこかに消えていった。

後を追うように発生した銃声は、かすかな山彦を奏でながら止まった時をゆっくりと動かしていく。


女の子が……。


リボンの女の子が……。


笑顔のまま、凄惨を極めていた。


女の子の体は、徐々に角度を狭めながら後ろへ倒れていった。


地面との角度は、90度から80度へ……。


70度……。


60度……。


突然……、終焉という言葉とともに、別の世界への扉が見えた。

角度が一度狭まる度に、記憶の底に眠るものが、凝縮された形で映像化され始めた。


50度……。


40度……。


勢いよく駆け上がっていた階段……。

幸せの世界へと続く階段……。

壊された。

誰かに壊された。

真っ逆さまに落ちていく。

幸せの世界が遠のいていく。

落ちていく。

どんどん落ちていく。

階段が崩れ去っていく。

目の前にあったはずの幸せの世界が、どんどんどんどん離れていく。


30度……。


20度……。


願いを託した七夕の短冊……。

一緒に愛を誓い合った男の子……。

楽しく遊んだクラスのみんな……。

いろいろなことを教えてくれた先生……。

優しい幼稚園バスの運転手さん……。

思い出の遊具たち……。

海の匂いがするこの園舎……。

おじいちゃん……。

おばあちゃん……。

お父さん……。

そして、お母さん……。


10度……。


零度……。


全身が地面に落ちた。

女の子は、大の字になった。


「キャアアアアア!」


園庭には、数人の園児たちが居た。

そこに園舎から飛び出してきた保育士の女性一人が加わった。

あまりの光景に全員が凍りついた。事態を飲み込んだあと、もう一度、絶叫した。


「キャアアアアア!」


女の子は、ピクリとも動かない。

全員の視線が、防波堤の上に立っている女性に向けられた。

いったい何が起こったのか?思考回路の混乱で全員が言葉を失っている。静寂が全体を支配する。

防波堤の上では仁王立ちの女性が一人、冷たい目をしていた。手には短銃が握られている。銃口の先は保育士と園児たちに向けられていた。

この女性は、先程まで防波堤に座って何かを書いていた、あの女性だ。


「みんな、怖がらないでね。私は、みんなの望みを叶えてあげているだけだから……。」


この女性が言った。

状況から見て、この女性が銃で発砲したのだろう。そして、弾が女の子に当たった。そういうことなんだろう。

一人、また一人と、園児が泣き出した。


「や、やめて!何するの!」


保育士の先生はこう叫ぶと、倒れた女の子の元へと駆け寄った。他の園児たちも先生の後を追って集まってくる。

女の子の表情を見て、そこにいる全員が愕然とした。

先生は歩み寄ってくる園児たちを、両膝をついた状態でがっちりと抱きしめた。

笹の葉と短冊が揺れている。短冊たちは、本当に神様に手を振っていたのだろうか?

笹の根元で呆然と立ち尽くす男の子が一人、横たわる女の子を眺めていた。


「日本人はね、自分さえ良ければ他人がどうなろうが知ったこっちゃない民族なの。恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた被害妄想者と、不幸の背比べをして意地でも勝とうとしたがるクソガキしかいないの。自分が世の中で一番不幸だと思い込んでいる。すぐに不幸自慢したがる。そんなに不幸の背比べをして勝ちたいのなら、私はその望みを叶えてあげたい。死ほど不幸なものはないからね。それに、この家族主義国家日本で天涯孤独になるという地獄を、あなたたちにも知ってほしいの。いかに生きられない世界かということを教えてあげる。幸せな未来なんか無い。私が答えだから……。」


女性は笑顔で言い放った。


「子供たちには手を出さないで!」


決死の表情で先生が叫んだ。

そのときだった。

願いを込めた短冊たちの下で、委縮していた男の子の感情が大きく膨れ上がった。


「どうしたの?ねえ。ど、どうしたんだよ!」


男の子が叫んだ。

倒れた女の子を眺めながら、どんどん息づかいが荒くなっていった。

次の瞬間だった。感情が沸点を超えた。

男の子が……、あのミサンガの男の子が……。


「嫌だ。嫌だ!嫌だあっ!」


突然、大声を張り上げた。そして、泣きながら倒れたリボンの女の子に向かって駆け出した。

あと少しの所だった。

それは二度目の雷鳴だった。


沙羅双樹……。


飛び散った花びらは……。


白色になって地面へと舞い落ちていく……。


白鶴の群れのごとく……。


「キャアアアアア。」


再び、止まった。


空気が止まった。


牙が発射されたのだ。一瞬の出来事だった。

男の子の身体を後ろから何かが貫いた。

瞬間、棒立ち状態になった。


そのあと……。


前方へ倒れていった。


地面との角度が90度から80度へ……。


70度……。


60度……。


時間が停止した。

視界から女の子の姿が見えなくなった。

訳の分からないまま近づいてくる砂の地面……。

流れ落ちる涙のしずく……。

破壊された脳の感覚……。

閻魔の声が、一瞬、聞こえた。

図太い声で何を問うた?


50度……。


40度……。


角度が瞬時に狭まっていく。

ここで倒れたらいけない。

仰向けに横たわる女の子まであと1メートル……。

ここで倒れたら、永遠に届かなくなる。

あと少し……。

あと一歩……。

せめて一緒に……。


30度……。


20度……。


ここはどこ?

笑顔で話しかけてくるリボンの女の子が見える。

楽しそうに微笑んでいる。

安らぎ、ぬくもり、癒し、幸せ、夢、希望……、いろんなものを与えてくれる。

生きる意味と目的を教えてくれる。

存在した時間を共有してくれる。

声が聞こえた。

誰だ?

何かを語りかけてくる。

あなたは一人じゃない、ずっと一緒だよ。

優しい声だった。

迫りくる地面を目前にして、少しだけ笑顔になれた。

涙のしずくが宙に舞った。

尽きる瞬間に、さっきの図太い声がはっきりと聞こえた。

閻魔の声だ。その声は高揚感に満ちあふれていた。


「さぁ、一緒に遊ぼうね!」


10度……。


零度……。


全身で地面を叩いた。

男の子は顔面から倒れ込んだ。

ピクリとも動かない。


「キャアアアアア!」


先生と園児たちは足がすくんで全く動くことができない。

瞬間、止まっていた時の中に穏やかな風が流れ込んだ。葉と葉がこすれ合って、爽やかな効果音を生み出している。この海からの潮風は、漂い始めた死の香りをわずかながらではあるが、遠くへ遠くへと運んでいった。

この二人の短冊が虚しく揺れていた。


「勝手に動かないでよ。まぁ、苦しい人生経験を積まずに済んだのだから良かったけど……。」


狂気の女性が静寂を打ち破った。

銃口は先生と園児たちに向けられている。

銃声が二発鳴り響いたが、付近の住民が異変に気づいたり、助けに来るといったような気配は感じられなかった。

すすり泣く園児たちの声だけが聞こえた。


「お願い、やめて!園児たちを撃たないで。」


先生が言った。

女性は銃を構えたまま、足元のリュックサックに目をやった。

先生の叫び声など耳に入っていない。

女性は、片方の手で銃を構え、標的を威嚇しながら、もう片方の手でリュックサックの開封口を広げ始めた。中から何かを取り出そうとしている。


「お願い、やめて。」


再び、先生が言った。


「やめないよ。私は殺人者でない。救済者なの。あなたたちの望みを叶えてあげるだけ……。」


「落ち着いて!落ち着いて話をしましょう。」


「私は落ち着いているわ。オロオロしているのはあなた達の方ですわ。私はね、生涯、ずっと独りっていう、誰にも味わえない過酷な精神鍛錬を経て、何が起きても冷静でいられるの。凄いでしょ?」


「あなたに何があったかは知りませんが、何の罪もない園児たちに手を出すのはやめてください!」


先生は必死だ。

女性はニンマリと微笑んだ。

園児たちの恐怖と不安は極限に達していた。

先生は辺りをキョロキョロと見渡し、「誰か助けて」と言わんばかりの表情だ。しかし、付近の民家は静まり返っていた。誰もいないようだ。結局、自分が園児たちを守らなければ……という使命感を胸に、強くなるしかなかった。

防波堤の上では、リュックサックから何か大きなものが取り出されようとしていた。その横には、女性がさっきまで何かを書き綴っていた紙が無造作に置かれていた。


「みんな!泣くのは、やめようね。私は助けに来たのだから……。いい子にしていようね。」 


「ウウ……、ワアアアアアン!」


園児たちの泣き声は大きくなるばかりだ。


「静かにしな!クソガキども。お前たちは大人がいなければ何もできないクズなんだよ。クズっていう自覚がないのかな?子供は大人の奴隷なんだよ。大人の言うことを聞くんだよ。私が笑えって言ったら笑う、死ねって言ったら死ぬの。わかった?私は親から、毎日、それを言われて、毎日、殴られて蹴られた。15年以上もね。今も身体は傷だらけ……。心はもう、どこかに行ってしまった。完全なハズレくじだった。だから、お前たちみたいに、アタリくじを引いたクソガキは大嫌いだ。お前たちは、孤独という言葉と、一生、縁がないからね。孤独という言葉は主観的な言葉だから誰もが好き勝手に使うけど、私が言いたいのは本当の意味の孤独よ。アタリくじを引いた人間は、当たり前のように自分を愛してくれる家族がいて、当たり前のように住む家があって、当たり前のように出会いが待っている。恋愛・結婚・出産が向こうから降ってくる。お前たち、アタリくじを引いた人間が大人になったとき、楽しそうに恋愛をして私のような人間を苦しめる。恋愛をするのは当然の権利と言わんばかりに、目の前で見せつける。私がそれを見せられることで、どれほどの傷を負ってきたか……。そんな人生にもかかわらず、不幸の背比べをして勝とうとしたがる被害妄想者しかいない。私は、アタリくじを引いた人間に、怒りと憎しみをぶつけに来たのではない。その背比べを、望み通り勝たせてあげると言っているだけ……。」


女性は力強い口調で言った。

すると、次の瞬間、何を思ったか、手にしていた短銃を海に放り投げたのだ。

いったい何をするつもりなのだろうか?

女性は不敵な笑みを浮かべながら、リュックから取り出した代物を見せつけた。それはとても大きかった。

なぜ、こんなものがここにあるのだろうか?なぜ、この女性がこんなものを持っているのだろうか?

この代物は一回引き金を引くと、一発の銃弾が飛んでくるといった甘いものではない。一回引き金を引いたら、数百発の弾丸が轟音を鳴り響かせながら怒涛のごとく飛散する恐ろしい武器であった。


連なる何百発もの銃弾……、重量感と威圧感……、機関銃だ。


なぜ、日本人の女性がこんなものを持っているのか?いったいどこから持ち込んだのか?まるで現実味がない。だが、すでに二人が撃たれている。それは事実である。

これから何が始まるのだろうか?不穏な空気が辺りを包み込む。

女性は、この大量殺人兵器を装備した。左手でグリップを握り、右手を引き金に持っていく。

連なる弾丸はすでにセットされており、あとは撃つだけのようだ。

機関銃を胸の辺りまで持ち上げた。狙いを定める。

銃口は先生と園児たちに向けられた。

いつ地獄の協奏曲が鳴り響いてもおかしくない状況だ。


「何をする気?」


先生が言った。

女性はニンマリとした表情を浮かべたまま何も答えない。

倒れた二人は穏やかな表情をしていた。地面をベッドにして寝ているようにも見える。

園児たちは、死というものを、いったいどのように受け止めているのだろうか……。恐怖を感じて泣いているのだろうか……。それとも、悲しくて泣いているのだろうか……。

涙を流していない園児は一人もいなかった。


「大丈夫だよ。先生がついているから怖くないからね。大丈夫だよ。」


先生が小声で言った。

銃口を向けている女性に対して、毅然とした態度を示している。その姿からは、自分の体を盾にしてでも園児たちを守っていこうという気迫が感じられた。

他の園児たちも、先生の声を聞いて自然に集まってきた。

先生はそれをしゃがんで抱きしめた。

すすり泣く声が、静寂に包まれる園庭に響き渡った。頬から落ちる涙は、上着を濡らすまでに至っている。

先生は一人一人の頭を優しく撫でることにより、安心感を持たせようとしていた。


「ねえ、みんな!これ、何だと思う?」


女性は手にしている機関銃を顔の辺りまで持ち上げた。


「これはね、機関銃と言ってね……、たくさんの人間の想いを叶えてあげることができる道具なの。人生はね、生まれた瞬間に全てが決まるの。世の中は才能の背比べをするところよ。残念ながら、それがわかる人は、この日本には、ほとんどいないわね。すぐに、努力・我慢・行動・ポジティブ・ネガティブ・前向き・後向き・プラス思考・マイナス思考・諦める・諦めない・強い・弱い……という言葉を使って、何でもかんでも自分の力で勝ち得たことにしたがる。そういうことを言う人は、才能や環境に恵まれて生まれ育った人……。それを当たり前だと思っている。そいつらには、当たり前のように家族がいて、当たり前のように住む家があって、当たり前のように友人がいて、当たり前のように恋人がいて、当たり前のように結婚できて、当たり前のように子供がいる、または、そのどれか一つでも叶えられている人生ばかり……。私の生きた世界とは随分と違う。こういう人たちは、本当の孤独を知らない。その孤独が原因で、生きる意味・気力・目的・希望を失った世界を知らない。私は10代からずっと独りだった。会話の相手なんかどこにもいない、現実だけでなくネットでもね。命懸けで人との繋がりを求めても、言葉が通じない。会話にならないのよ。どうしてかわかる?生きている世界が違うからだよ。人生観・世界観・家族観がズレると、言葉って通じないの。自分がそうなって初めてわかったわ。何十年もそんな世界にさらされると、最後は、自殺か殺人かの二者択一になってしまう。生きていけない世界だからね。そのまま自ら命を絶つか、自暴自棄の果てに誰かを消すか……、選択肢はそれだけ。なぜ、二択しか残らないと思う?ほぼ全ての日本人は、こちらの世界で生きる人間を不可抗力による結果とは思わない。努力が足りない、我慢が足りない、行動が足りない……って、自身の落ち度によってそうなったんだというレッテルを勝手に貼りつけてしまうの。私にとって当たり前の概念が誰にも通じない。どいつもこいつも恵まれた環境でヌクヌクと生きている。その立ち位置から、私にそういうレッテルを貼りつける。許せるわけないでしょ?言葉は通じないし、会話にもならない。だったら、選択肢はそれしかないでしょ?違う?」


女性は狙いを定めた。


「や、やめて!園児たちを撃たないで。」


先生が盾になっている。


「キャハア!あなた最高よ!カッコイイわ。何?その正義感は?反射的にそんなセリフが言えて、そんな行動を取れるなんて、よほど育ちがいいのね。今、何を考えているのかしら?自らの死を予感しているのかな?それとも、園児を守った上で自分も助かるという絵を描いているのかな?それとも頭の中は恋で埋まっていて、彼のことを考えているのかな?」


女性は、先生が身に着けているある物に対して、異様な執着心を見せた。

再び、切り出す。


「なあに?その指輪。いいわね、幸せになれる人間は……。でも、ここで死んでしまったら、彼と一緒に映画を見たこと、ドライブしたこと、旅行したこと、ディズニーランドに遊びに行ったこと、また、プレゼントを渡したり貰ったりしたこと、風邪をひいたときに優しく看病してもらったこと、キスをして幸せを感じたこと、その全てがエンディングノートに刻まれることになるわよ。でも、羨ましいわ。私も送りたかった、そんな人生を……。良かったわね。短い一回きりの人生の、短い一回きりの若い時間に彼氏を作れて……。出会えない運命のもとに生まれて、出会えない人生を送ってみる?命を懸けても人生の全てを捧げても、絶対に出会えないのよ。どれほどの無念と絶望が、毎日の一分一秒を支配するかわからないでしょ?生きていけないわよ。まぁ、あなたみたいな人生を送っている人間には天涯孤独の世界なんてわからないから、私の言葉は全否定でしょうけど……。何度も言うけど、日本人は恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた被害妄想者と、不幸の背比べをして意地でも勝とうとしたがるクソガキしかいないの。私が何を言っても、『私だって……』という言葉で切り返されて、不幸の背比べを挑まれる。そもそも、日本人は自分さえ良ければ他人がどうなろうが知ったこっちゃない民族で、自分が全て……。他人の人生には無関心なのよ。今だって、近所の住民は誰も反応しないでしょ?他人事だからよ。まぁ、そのうち警察は来るでしょうけど……。平和ボケ国家日本の治安部隊なんか、私の敵ではないわ。」


海からの潮風は途切れることがない。笹の葉がサラサラサラッと音をたてて揺れた。

地球の自転は着実に時を刻んでいく。数分後、どうなっているのだろうか?先生を中心に体を寄せ合う園児たちは、無事でいられるのだろうか?

すでに動かなくなってしまった二人の姿が恐怖を倍増させている。

機関銃を構える女性の目はとても冷たかった。話せばわかる、といったタイプではなさそうだ。憎しみにかられて、生命倫理や公序良俗などの規範が無くなっているようだ。

女性の足元に置かれた紙には、太陽の光が当たっていた。うっすらと反射している。どういうわけか、自ら白銀色の光を作りだしているようにも見える……。妖しい光だ。


「私……、元傭兵団のメンバーなの。だから、こういうのは初めてじゃないの。もう何人……、いや、何十人仕留めたかな?当然、日本の話ではないけどね。普通に、平和ボケ国家日本で生まれ育って、そんな未来が待っているとはね。人生ってわからないものね。」


女性が言った。

先生は何も答えない。

園児たちのすすり泣きは続いている。


「みんな、どうして泣いているの?可愛いわね。癒されすぎて体から力が抜けていくわ。私の胸で温かく慰めてあげたい。あとで触ってもいいかな?その蕩け落ちそうなプヨプヨのほっぺたを……。母性本能を擽られる。凍てついたはずの私の心に火が付きそうだわ。」


女性が言った。

先生は何も答えない。園児たちを庇いながら強い目で女性を睨んでいる。美しく輝く左手の指輪が勇気を与えているように思えた。


「私はこの世に生まれた。先生、あなたもこの世に生まれた。いろいろな道のりを経て、今、私はあなたの目の前にいる。一人は殺す人、もう一人は殺される人。一人は幸せをつかめた人、もう一人は幸せをつかめなかった人。運命を掌る神は、人の一生をいったいどのように操っているんでしょうね。人生には、いろんな分岐点がある。もちろん、その国の、その地域の、その家に生まれたという、自分の力では選択できないものは除いて……の話だけどね。例えば、好きな人に告白した場合と告白しなかった場合で、そのあとの人生が二通りに分かれるでしょ?さらに、告白したら、交際がスタートする場合とフラれて失恋してしまう場合とに分かれるでしょ?そうやって分岐点は、時間の流れとともに、ほぼ無限に増えていく。他にも、会社に留まった場合と転職を選んだ場合、引っ越しをした場合としなかった場合、旅行に行った場合と行かなかった場合、ある人に話しかけた場合と話しかけなかった場合、何気なく外を歩いていて、左の道から帰ろうとした場合と、右の道から帰ろうとした場合など……、ほぼ一秒単位で作り出される分岐点に遭遇する度に、道は二通りに分かれていく。まぁ、正確に言えば、最初から二通りどころではないけどね。悩み苦しむ中で一つの道を選択することもあれば、何気なく一つの道を選ぶこともある。そうやって進んだ道って、本当に運命って言えるのだろうかって思うの。自分の意思で進んだ道じゃないかってね。もし、二通りの選択肢の中から自分が選ばなかったもう一つの道が実際に並行世界として存在していたら、そこにはどんな自分がいるのだろうかって考えるわ。いわゆるパラレルワールドという奴ね。量子物理学の理論ではそれぞれが異なる世界を作って、分岐点にさしかかる度に、さらに枝分かれしていって無限に増殖する。おまけにそれぞれの世界が互いにリンクすることはない。そんな並行世界があったら、それは神の力ではなく、自分の選択の結果が多数あるということだよね。もし、その中の一つに理想の自分がいたら立証できるのよ、神の力ではないということを……。だけど、その部分がファンタジーである以上、神や運命という言葉を使わざるを得ないの。不可抗力という言葉も、そういう概念のもとで使っているの。古典物理学で言うところの因果律って奴かな?結果として、私はここで二人を殺しただけでは飽き足りず、機関銃をあなたたちに向けているの。」


女性は言った。

先生は何も答えない。

さらに続ける。


「あなたは恋人がいるみたいだから、良い選択を重ねたのかしら?それとも、良い選択肢しかなかったのかしら?運命って不思議ね。私、恋人ができなかったでしょ。だから、あなたみたいな人間を見ると憎しみを感じてしまうの。幸せになりたかった……。ただ、それだけだったのよ。叶えられないことで何もかもが吹き飛んでしまった。人生の全てが吹き飛んでしまった。この家族主義国家日本で、家族がいないという現実を埋め合わせるには恋人しかいないのよ。その恋人と、今度は自分の家族を作るという作業が必要なの。子供がいる・いないは、また別問題。当たり前のように家族がいて、愛情を注がれてきた人間にはわからないわ。他に生きがいを探したけど、この日本では無理ね。持って生まれた能力、つまり、外見・性格・身体的能力・知能指数が、他者との競争に勝ち抜けるだけのズバ抜けた能力だったら、独りでも生きがいを見つけて、それを糧に生きられたかもしれない。残念ながら私にそういう能力は無かったわ。以前、自殺を図ったときに精神が壊れてしまってね、それ以来、私には銃が必要になった。無いと落ち着かないの。私には誰もいないからね。本当の孤独が支配する世界で時間だけが過ぎた。これも経験した者にしかわからない。今の時代、24時間営業の喫茶店や自家用車で生活するホームレスはいっぱいいるけど、コンクリートの上で寝泊まりする路上生活者は相変わらずほとんどいない。私はその経験に加えて、牢屋暮らしと精神病棟暮らしも経験している。そんな私に、なぜ、この国の人々は、不幸の背比べを仕掛けてきて、勝とうとしてくるのか?ほとんど全ての人が、被害者ではなく被害妄想者なのに……。自分で自分が被害妄想者であることに気づかない時点で、幸せな人生だと思うわ。私がこういう経歴だと自己紹介した途端に、今度はストレスを感じたのか知らないけど、突然、暴言を吐いて去っていったり、『私なんて首を刺したわ……』なんてファンタジーの世界に突入してでも不幸の背比べで勝とうとしてくるよね?そんなに勝ちたいのなら、勝たせてあげるわ。死より不幸なものはないから……。みんな、勝ちたいんでしょ?それを望んでいるんでしょ?可哀そうって言ってほしいんでしょ?だから、私は救世主よ。望みを叶えてあげるのだから……。殺人者ではないわ。あなたも私と同じ立場なら、そう言っていると思う。」


女性は言った。

先生は何も答えない。


「ねえ先生、なんでさっきから黙っているの?お話しましょうよ。寂しいじゃん。独りにしないで。」


女性が言った。

先生は何も答えない。ただ、強い目で睨み付けている。


「何も言わないのなら、そろそろ、カウントダウンを始めるけど、いいかな?さあ、どうする?たまたま、この幼稚園に就職して私の目の前に現れたあなた!旅立つ前に、何か言いたいことはある?」


女性が言った。

先生は何も答えない。

ただ、園児たちを守らなければ……という強い意志は見て取れた。全く怯む様子がない。

女性はこの静かな視線を受けて、人間性の全てを否定されているような感覚になっていった。

園児たちのすすり泣く声が響き渡っている。全員が小さな手であふれ出る涙を拭いていた。

願いを込めた七夕の短冊は力を貸してくれないのだろうか?神に祈っても何も起こらないのはなぜだろう?

先生は怯える園児たちの表情を見るたびに、闘争心が強くなっていった。職務を全うしようとする先生の責任感は半端じゃなかった。


「絶対に、この子たちを殺させない!」


突然、立ち上がった先生が女性に向かって言い放った。それは相当大きな声で、力強いものだった。撃てるものなら撃ってみろ!と言わんばかりの表情だ。装着されている指輪が美しく輝く。


「キャハア、最後の一言がそんなので良かったの?」


「惨めですね。彼氏を一度も作れないなんて……。あなた、モデルさんみたいに綺麗な顔をしているのに……。外見が悪くないのに彼氏ができないということは、よほど性格に問題があるんでしょうね。友達ができない。恋人ができない。それはあなた自身の問題でしょ?ただの努力不足でしょ?それなのに何の罪もない園児を巻き添えにして何が楽しいの?八つ当たりですか?もう止めてください!」


先生はこの女性に対して、初めて反抗的な言葉を口にした。


「今、なんて言ったの?」


「自分勝手な考えで、罪のない人を殺さないでって言ったんです!」


「罪がない?幸せなのに被害妄想を振りまくゴミどもは、みんな死罪よ!それに、私は殺しに来たんじゃない。そういう人間しかいないこの国の人々の願いを叶えてあげるの……。」


「あのう、私もそんなに器用な人間じゃないから追い詰められたあなたを説得したり諭したりすることはできないけど、意見は言わせてもらいます。あなたは間違っています。誰もが幸せな人生を送っているわけではないし、たとえ幸せになれなくても、ほとんどの人が道を踏み外さずに我慢して生きているんですよ。例えば、世界の貧しい国々では食物がなくて飢えて死んでいく人がたくさんいます。また、着るものがなくて凍え死んでいく人もたくさんいます。病気や怪我にもかかわらず、治療を受けられずに死んでいく人もたくさんいます。生きたくても生きられない人は世の中にはいっぱいいるんですよ。それに比べてあなたは何不自由なく生きてきたんでしょ?生きていられるだけでもありがたいと思えばこんなことはできないと思います。」


「先生……、意外と薄いわね。もっと深い人かと思ったのに……。さっきも言ったけど、努力・我慢・行動・ポジティブ・ネガティブ・前向き・後向き・プラス思考・マイナス思考・諦める・諦めない・強い・弱い……などという言葉を使う人間って、もう、その時点でどんな人生を送ってきた奴か、私にはわかるわ。そういう人間は、本当の孤独を知らない。生きたくても生きられない人?よくもまぁ、元路上生活者の私に向かって、そんな事が言えるわね。路上生活をするとわかると思うけど、声をかけてくるのは外国人だけよ。日本人は完全無視……。どうしてかわかる?あなたのように恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた人って、生まれたときにそこにあったものを、あたかも、自分の力で勝ち取ったものと錯覚するからだよ。自分を愛してくれる家族、新生児・幼少期を経て学生時代に至るまで住んでいた家、成長していく過程で親や監護者から受ける他者啓発(箸の持ち方、トイレの仕方、挨拶の仕方、その他生活をしていく中で必要な知識や知恵を教えてもらうこと)は、あなたが自分の力で勝ち取ったものではない。あなたが生まれたときにそこにあったものなの。大半の日本人って、それが全くない世界で生まれ育った人のことを知らないよね?私は好きでこんな人生を送っているんじゃないのよ。好きで元受刑者、元路上生活者、元自死ダイブ実行者、元精神病棟患者……なんて肩書が付いたわけではないのよ。あなたが当たり前だと思っているそれらのことは、実は当たり前じゃないの。それに、あなたが勝ち取ったものでもない。あなたが生まれた瞬間にそこにあったものなの。最初からそこにあったの。私にはそれが何も無いの。しかも、それは後から自分の力でひっくり返すことができないの。そんな、あなたのいる世界から自分の物差しで、違う世界にいる私を計測しても何もわからないわ。人生観・世界観・家族観は、まるで地球を覆う大気のように果てしないものだから……。それが違うということは、違う星にいる生物と会話をしているとでも思ってくれたらわかりやすいかな?私がここにいるのは、努力不足・我慢不足・行動不足……の結果ではないのよ。不可抗力なの。でも、あなたたちは、私のような肩書が付いている人間は努力不足・我慢不足・行動不足の結果としか捉えないでしょ。だから日本人は無視するの。もし、不可抗力の結果、そうなっていると思えたら、外国人と同じように手を差し伸べる人は増えるでしょうね。日本人は無視だけならまだしも、攻撃までしてくるでしょ、生産性を生み出さないクズとか言ってね……。あなたたちには、恵まれた環境でヌクヌクと生きてきたという自覚がない。何でもかんでも自分の力で勝ち得たことにしたがる。何も勝ち取ってないくせにね。日本は一応、民主主義という名の多数決社会だから、そんな人間が九割以上を占めてしまったら、そっちの世界の考え方が基本になってしまうよね?私の意見なんて少数意見としてかき消されるだけ。たとえ真実であったとしてもね。よく自殺した子の母親が、まるで殺人事件の被害者遺族のように被害者づらをして記者会見しているのを見かけるけど、あれは被害者ではなくて加害者……。なぜなら、自殺の原因は親だから……。ジェンガって知ってる?あれと同じ……。原因を作っているのは親または監護者よ。それなのに、なぜか、違法労働のせい……、誹謗中傷のせい……、いじめを受けていたせい……と、違う理由にすり替える。それはそれで立件すればいいけど、自殺の原因ではない。それは、ただのきっかけに過ぎない。ジェンガで言うところの、最後の一ピースでしかない。それなのに、政治家も裁判官もマスコミもコメンテーターも、みんな親を被害者として扱う。子供を失った悲劇の親として扱う。信じられないわ。自殺の原因はお前だよ!と指摘できる人間が、なぜこの日本には誰もいないのか……。おまけに亡くなった子は世間からは弱い人間のレッテルを貼られる始末……。あり得ないよ。これが多数決社会の恐ろしいところ。真実を、数の力で覆いつくしてしまう。私はそういう敵しかいない世界で生き、自殺か殺人かの選択を余儀なくされた。あなたには私の言葉は通じないわ。会話も成立しないわ。そういう人生だったからね、私……。」


「どんな御託を並べようとも人殺しが正当化されることはないわ。自分の人生が上手くいかないからって幼い命を奪って何になるの?もう自首したらどうですか?」


「あなたさっき、生きたくても生きられない人って言ったよね?世界には……どうのこうの……って言ったよね?貧困が人を殺すテロリストを生んでいるのよ。貧困が違法行為に手を染める人を増やしているのよ。私がその人たちとは無関係で何不自由なく生きてきたっていうのはどういう根拠があって言っているのかしら?日本人だからそう思ったのかしら?もし、そんな人生なら、今、ここで機関銃なんて手にしてないよ。随分と先入観を持って話しているみたいだけど……、不可抗力だって言っているでしょ?私の意思とは関係ないの。あなたが私の立場にいないだけ。私だって、あなたの言った人たちと同じよ。こっち側にいるんだから。人間の人生に画一性・客観性なんて無いの。1歳で死ぬ人もいれば、100歳まで生きる人もいる。一生を幸せだけで終わる人もいれば、一生を不幸だけで終わる人もいる。餓死する人がいれば、食べ物に困らない人もいる。凍死する人もいれば、寒さとは縁のない人もいる。人生というのはピンからキリまでいろいろあるの。それはあなたの言う努力不足・我慢不足・行動不足……で陥るものではないの。不可抗力なの。変えられると思っているのなら大間違い、それは立場が違うだけ。家族主義国家日本では、独りでは真っすぐ生きられない。私と同じように天涯孤独になればわかるわ。でも、当たり前のように家族がいるあなたのような立場からは、私の存在は普段の煩わしい人間関係から解放されているお気楽な一人暮らしをしている奴としか映らない。決して、生きられない世界にいるとは思わない。立場が違えば見方も違う、よって、結論も違う。だから、言葉が通じない。人は、神の手のひらの上で踊らされ、操られ、ある一本道を強制的に進まざるを得ないのよ。人生が上手くいっていると思える人は、初めから良いレールの上に乗っかっているという事実に気づいていないだけ。努力したから結果が出た、我慢したから今の幸福がある、などと勘違いを繰り返す。人は、運命の渦の中で、どん底に落ちたときに初めて神という絶大な存在を認識するの。絶望って言葉の意味はわかるかな?文字通り望みが絶たれるってこと。神力の前では人間なんてあまりにも無力で小さなもの……。他人の幸せを目の当たりにしながら、どうすることもできない無力感の中で歳だけを重ね、自殺と殺人の選択を迫られる。そして、それを実行に移してしまう。自分では、もう、止められない。」


女性は、全身を使って発砲する体勢を整えた。引き金にかかる指に力が入る。

表情はニンマリとしている。まるでメインディッシュを目前にして、アペリチフで舌の渇きを潤す心の腐った高級貴族のようだ。


「馬鹿げてるわ。」


先生が言った。

次の瞬間、女性はニンマリとした表情のまま、こう言い放った。


「イッツ、ショータイム!」




1ヶ月前、女性はそこに居た。

ここは中部地方の玄関口、名古屋である。その場所は、名古屋市よりも少し東側にある郊外の住宅地だ。その一角に、女性にとって思い入れの深い場所があった。

この辺りの土地は、1960年代から70年代に掛けて、住宅地として開発された。辺り一帯は綺麗に区画整理されており、当時の新居の定番である瓦屋根の二階建て住宅が軒を連ねている。

網の目のように区画整理された住宅地の一角に小さな広場があった。面積は20平方メートルくらいだろうか?名称は、星の広場……。地図に記載されているわけではない。ここの町内会と広場の所有者が、手作りのプレートを制作して入口に掲げているだけだ。周りが住宅で囲まれているため、近くに住む子供たちのちょっとした遊び場になっていた。こんなちっぽけな広場にもかかわらず、遊具があった。滑り台と子供用のブランコだ。それに、砂場も設けられている。どれもかなりの年季が入っていた。

この場所は、かつて幼稚園の園庭として使用されていた土地の一部だという。少子化の影響で幼稚園自体は、15年以上も前に無くなっている。だが、そのとき使用されていた遊具の一部が、今も現存していた。滑り台は、黄色いペンキで綺麗にコーティングされているがムラが目立つ。おそらく廃園になったあと、近くの住民によって上塗りされたのだろう。もう一方のブランコは、鉄の部分が完全に錆びついている。幼稚園が無くなって以来、何の手入れも施されてはいないのだろう。そんな遊具たちに、今日も穏やかな光が照りつけている。


「お母さん、早く早く。」


広場の入口から3歳くらいの女の子が入ってきた。遊具に向かって小走りで駆けていく。

この広場、空から見ると全体が正方形の形をしている。東側と南側は道路に面しており、公園との境には高さ2メートルのメッシュフェンスが張られている。北側と西側は高さ3メートルほどの土手があり、その上には住宅が建っている。入口は、東側の真ん中に一カ所あるだけだ。広場の四隅には6メートルほどの背丈がある立派な木が植えられており、深緑に生い茂る葉っぱたちが、区画整理された住宅地の中では癒し的存在になっている。広場内には、南西の隅に滑り台がある。南東の隅には子供用のブランコがある。滑り台とブランコの間にはフェンス沿いに小さな砂場が設置されている。


「お母さん!」


女の子が大きな声で呼んだ。滑り台を前にして母が来るのを待っている。一緒に滑りたいみたいだ。

少し遅れて、母がこの広場の中に入ってきた。

女の子は母の姿を見た瞬間、安心したのか、滑り台の階段を一気に上り始めた。単純な行為であるが、一生懸命だ。

母は滑り台の降り口に到着すると、早速、笑顔を作って待ち構えた。上りきった女の子はこれから滑るワクワク感で自然と笑みがこぼれている。


「おいで。」


母が言った。

太陽の日差しを浴びて、少し温まった滑り台を、女の子はスーッと滑り下りた。楽しそうだ。


「もう一回、もう一回。」


無邪気な声が辺りに響いた。

新緑の香りに包まれた初夏の昼下がりにおいて、何となく癒される光景だった。

今年も、もうすぐ七夕がやってくる。この女の子も神様に願い事を託すのだろうか?

その昔、この場所が幼稚園であった頃、七夕の日に願い事をした園児たちは、すでに大人になっている。それぞれがそれぞれの道を歩んでいる。20代、30代、40代、50代になっているだろう。また、その人たちが園児だった頃にいろいろなことを教えていた若い先生は、すでに人生の重みを肌で痛感する年齢に達している。当時の経営者だった園長先生が生きていれば、もう100歳くらいになっている。時が過ぎるのは、あっという間だ。昔、自分が居た場所を久しぶりに訪れると、そのスピードを痛感してしまう。


「もう一回、もう一回……。」


女の子の声は途切れることなく続いていた。


「星の……、広場……。」


広場の入口に一人の女性が現れた。小声で何かを言ったようだ。視線の先には、親子の仲むつまじい光景が映っていた。10秒程度、この光景を見つめたあと、広場内に足を踏み入れた。

この女性、見た目の年齢は30歳くらいで、グラマーな体型で肌は色白、それにかなりの美人だ。茶色に落としたサラサラの長い髪が、辺りにジャスミンの香りを撒き散らしている。ただ、全体的に躍動感がない。それに目が死んでいる。何か木箱のようなものを手にしていた。

女性の雰囲気は、辺りの光景と釣り合いが取れていなかった。佇みに来たのだろうか?

女性は子供用のブランコに腰を下ろした。


「お母さんも一緒に滑ろっ!」


「うん。いいよ。」


滑り台での親子の戯れが聞こえてくる。

ブランコに腰掛けた女性にとっては、この二人の姿はどうでも良いようだ。ほとんど関心を示していない。

手に持っていた木箱を膝の上に置き、目を上下左右に動かしている。住宅、道路、木々、滑り台、砂場と、ゆっくりとした動作で辺りを見渡している。時折、足で地面の砂を突っついてみたり、握ったブランコの鎖を見つめたりもしている。とても感慨深げな表情だ。


あれから何年が経過したのだろう。この辺りの町並みは、金沢とそんなに変わらないかもしれない。昔もこんな感じだったかな?あのとき腰掛けるだけでも精一杯だったこのブランコも、もうこんなに小さいなんて……。


女性は少しだけブランコを揺らしてみた。心地よさと同時に虚しさが襲ってくる。


あのとき、今の自分を想像できただろうか?ハッキリは見えないけど、何となく、心の中に潜む暗い影として、今の自分は存在していたような気がする。でも、未来は無限に広がっていて、いつかなるようになるものだという楽観的な期待の方が大きかったかも……。友人を作ったり、恋人を作ったり、結婚をして子供が生まれる……、そんなのは、年齢を重ねていけば必然的にやってくるものだと思っていた。まさか、命を懸けても手に入れられないものだとは思わなかった。無限に広がっていたのは暗い影だけだった。それは私の生きた全ての領域を覆いつくしていた。私が自暴自棄に陥っても、誰も相手にはしない。まるで、隔離が初めから用意されていたかのよう……。自暴自棄もピンからキリまでいろいろあるけど、私は最悪だろう。時間の流れとともに、幸せと成長を手に入れた同年代を尻目に、私は取り残されてしまった。これが私を覆いつくした世界……。どこをどう探しても、あっちの世界へ行ける扉など無い。無念だよ。たった一度でいいから、心の底から思い切り笑ってみたかった。


女の子は滑り台から砂場へと興味を移していった。早速、楽しそうに砂をいじっている。

母親は傍らに立って見守っていた。

表面の砂はサラサラであるために、少し走っただけで靴の中に入ってしまう。おそらく履いている靴下は砂まみれになっているのだろう。踏み込むたびに、小さな足が砂に埋まる。


私にはあの時間は無かった。家族愛とは何か?私にはわからない。いろんな荷物を背負わされた。その荷物は私の心臓と連結されていて、荷物を捨てたら、私も死ななくてはならない。私のような自殺実行者にはそれがわかる。当時、虐待は躾、いじめは子供同士のやんちゃな遊び、そういう概念しかなかった。育児放棄に至っては、言葉も概念も何も存在していない。振り返れば、とんでもない時代だった。あれを古き良き時代と言っている同年代が信じられない。時代は流れたが、私の立ち位置は変わっていない。相変わらず、私の居る場所って、時代が追いついてこない。死期って、わかるもんだね、予感ではなく確信として……。故郷という言葉は私には存在しない。だけど、今、そこにいる。なぜ居るのか?ちょっとわからないね。望郷でないことは確か……。この町に来るのは学生時代以来……。町の景色も随分と変わった気がする。同世代が結婚をして土地を買って家を建てているからね。空き地が無くなっている。なんか、私はよそ者・お尋ね者……、そんな気分。どうしてここに来たのだろう。宇宙、存在、幻想、神秘、時間、数学、宗教、瞑想、自然、心理……、いろんな概念が私をここに導いた気がする。あの砂場……。遠い日の私が見える。それにしても、あの子は楽しそうだ。お母さんが傍らに居るからなんだろう。あの場所であんなに楽しそうに笑っていられるなんて……。




「ミホリちゃん。ミホリちゃん。」


声が聞こえた。みんながいた。幼稚園がそこにあった。


「ミホリちゃん、今日もお山を作っているのかな?」


先生が言った。


「うん。」


ミホリは質問に対して首を縦に振った。

先生の言葉なんかどうでもいい。聞かれたら合わせるように答えているだけだ。ただ、先生が嫌いなわけではない。自分一人の先生であってほしいというミホリの独占願望に対して、先生は誰に対しても平等に接している。そこが気に入らないのだ。

お山を作るとき、いつ先生が来てくれるのかを期待している。先生は園庭で他の園児と遊んでいるときもあれば、教室で遊んでいるときもある。仕事の義務感からなのかどうかはわからないが、全員と平等に接しているため、ミホリの前に現れるのは週に一回か二回である。友達ができず、泣いてばかりいて、時には酷いいじめを受けるミホリから見て先生という存在は、それらの苦しみから守ってくれる唯一の盾なのだ。

ミホリは知っている。こんなクズみたいな自分に、先生が好んで接してくれているわけではないということを……。それが本当かどうか、図ったりもしている。そんなミホリの繊細な心は、先生のちょっとした仕草や態度で大きな傷を負ってしまう。こうやって相手をしてくれているとき、先生が真剣に向き合ってくれていないことがよくわかる。ただ、先生がいることで、その間だけはみんなからいじめられることもなく、馬鹿にされることもなく、安心感がもてるということは、とても心強いものだった。


「先生、楽しい?」


ミホリが言った。

砂の山を挟んで向かい合う先生は、明るい笑顔でこれに答えた。


「うん。楽しいよ。ミホリちゃんは楽しくないのかな?」


ミホリは俯いて黙り込んだ。とても寂しそうな表情だ。それでも小さな手の動きは止まることなく、お山作りは続いていた。

表面には出していないが、実は、みんなの視線が気になって仕方がない。きっと、こう思っているに違いない。どうして先生はあんな奴の相手をしているのだろうと……。こういったみんなの純粋な疑問は、突き刺すような視線となってミホリを苦しめていた。


「先生はみんなと遊ばないの?」


ミホリが言った。


「ううん。遊んでいるよ。」


「今日は遊ばないの?」


「今日?今日はミホリちゃんと一緒にお山作りをするの。」


先生には、ミホリの複雑な気持ちはわからなかった。先生と一緒にいることでミホリ自身は守られるが、他の園児からは、よりいっそうの反感を買ってしまう。先生が去ったあと、いつも以上の地獄が待っている。それがとても気がかりだった。

たまに一緒に居る所を目撃されていたケントとの関係が断絶してからは、地獄の日々が続いていた。

晴れの日は、砂場で独りぼっち……。夢中になって、お山を作る。一生懸命作ったお山は完成目前で他の園児によって破壊されてしまう。それも、目の前で見せつけるように……。お山は、たくさんの園児たちによって蹴られたり踏み潰されたりして跡形もなく消える。

雨の日はもっと酷い。教室で男の子たちにスカートを捲られてパンツの色を確認される。それが起点となって口頭による暴力が始まる。また、あるときは、一人の男の子がミホリの体に触れることで鬼ごっこが始まる。鬼は、最初にミホリの体に触れることで黴菌を自らが預かった、という意思表示をする。次に、黴菌に汚染された自分の体が他人に触れることで菌を移していく。菌はいろいろな人を渡り歩き、その間、当事者である男の子たちは笑いに満ち溢れている。また、あるときは下駄箱に入れてあるはずの靴がなくなっている。これも一連のいじめの一つではあるが、かなり陰湿なものだった。発見されるのはいつも園庭の真ん中だ。雨の日は靴の中に水が溜まり、ズブ濡れになっている。クラスのみんなは、ミホリがこれを発見して雨に打たれながら取りに行く姿を楽しそうに見ていた。

逃げ場所なんかどこにもなかった。

トイレの個室に入ると全ての視線から遮断されて少しだけ安心感を覚える。しかし、次の瞬間、悪魔の視線がミホリの放尿シーンをとらえる。便器が設置されているこの一平方メートルくらいの空間は上部が吹き抜けになっているため、完全な密閉空間にはなっていない。そのため、男の子たちは、掃除道具入れに立て掛けてある脚立を攀じ登り、上から覗きをしていたのだ。放尿中は身動きが取れず、どうすることもできなかった。

先生に言うと、その仕返しが必ず待っているので怖くて言えない。だから、我慢するしかなかった。涙は、いくら流しても足りなかった。


「先生、あとは一人でやる。」


ミホリが言った。お山作りは、もう少しで完成する。


「あら、どうして?」


「あとは私にしかできない。」


ミホリは必死になって先生を突き放そうとした。先生も完成目前ということで、最後のトンネル作りは一人でやりたいんだなと思い込んだ。みんなの視線が突き刺さる。先生はミホリに気を使ったのか、それとも上手くあやすことができないことで間を置きたかったのか、その判断理由はよくわからないが、一旦、その場を離れることにした。


「ミホリちゃん。先生は教室に戻るけど、トンネルが完成したら絶対に教えてね。トンネルの中で手を繋ごうね。一緒に作ったんだもん。」


溢れんばかりの笑顔を見せて、先生はミホリから離れていった。

先生の後ろ姿が小さくなる。盾を失ったことで、みんなの視線が激しく突き刺さった。

ミホリは目の前のお山を見て、気持ちを入れ直した。

守ってくれる人がいなくなったこの空間は、飢えた狼たちの恰好の的となった。

周りのことは気にせず、小さな手でトンネルを掘り始めた。崩れないように慎重に掘り進めていく。トンネルを掘り始める手先以外は、常に太陽の光がミホリの全身を捉えていた。

今日は、雲一つなく、晴れ渡っている。園庭内の遊具の影が、くっきりと浮かびあがっている。気温は暑くもなく寒くもない。適温である。人間を含む動物たちは、この太陽の光を浴びることに心地よさを感じているはずだ。室内や木陰から思わずその身を光の中にさらけ出す。


ワン、ワン!


犬が吠えた。少し攻撃的で、威圧感があった。

幼稚園の入口に、一匹の子犬が姿を現した。

そこから園庭の真ん中に向かって、ゆっくりと歩いてきた。

体の大きさはバスケットボール二つ分くらいだ。園児たちからすれば、かなり大きなサイズだ。


「わあ、犬だ、犬だ。」


みんなが一斉に騒ぎ出した。

別に、犬を見ることは珍しいことではない。犬や猫は、度々、この園庭に入ってくるし、恐ろしい動物であるという先入観もない。全員がフレンドリーに接している。

ただ、園児たちから見たフレンドリーな接し方とは、頭をなでなでしたり、抱き上げたりすることではない。小石を犬の体にぶつけることによって興奮させ、逃げ出す犬を追っかけたり、また、向かってくる犬に追い回されたりして楽しみを得ている。

犬は園児たちに囲まれると、突然、元気よく走り出した。向かってくるタイプの犬だったので、園児たちは楽しそうに逃げだした。

ミホリの目にも、この光景は映っていた。

逃げ回る園児たちの何人かは、この砂場にも足を踏み入れている。すぐ目の前を走り去っていくものもいる。

ミホリは思った。


怖いよ。怖くてたまらない。


臆病なミホリにとって犬は熊と同じである。

犬は大きな声で吠えている。全身をよく見ると、ゴミを漁っていたのか、あちらこちらに生ゴミと見られる残骸が付着していた。飼い犬ではなく野犬だ。悪臭も強烈だった。

お山の前で動けないミホリは、犬がこちらに来ないことを祈るのみだった。

ミホリは、トンネルを山の真ん中まで掘り進めた所で作業を止めた。今度は逆側に回り、再び、ゼロから掘り始めた。

犬の声が背中から聞こえた。園庭の中央で、はしゃいでいるみんなの声も……。

幼稚園に隣接する道路の脇には、いつも園児たちを優しい眼差しで見つめる老婆の姿があった。


「崩れないように繋げるの。」


ミホリは独り言を呟いた。

慎重にトンネルを掘り進める。すでに、両手両膝は砂まみれだ。砂場の表面にある砂はサラサラだが、深く掘り下げた砂は湿っているので、上手く使い分けて作業を進めることができた。

老婆は他の園児よりも、ミホリの作業を見守っているようだ。

しばらくして、トンネル工事は終盤に差しかかった。もう少しで貫通するという多大な期待感が、みんなからの視線と犬への恐怖心を頭の片隅へと追いやった。

ずっと同じ動作を繰り返しているうちに、その瞬間はやってきた。

常に指先から感じていた砂の感触が急になくなったのだ。貫通である。

ミホリは地べたに顔をつけて、これを目で確認した。狭いトンネルの向こう側から光が見えた。期待が達成感に変わった。


「繋がった。先生!」


思わず声が出た。

ミホリは途中までこのトンネル作りを手伝ってくれた先生に、真っ先に報告したかった。しかし、内に秘めた向上心が、さらなる高い完成度を目指したのである。ただ繋がっただけでは、さほど先生を驚かすことはできない。内装を整えて驚嘆してもらい、たくさん褒めてもらおうと思ったのだ。

ミホリが練った計画は、ゴツゴツしたトンネル内部の壁を滑らかなカーブにして、内部全体を円筒の形に整えることだった。

早速、取り掛かった。作業のために砂場と水飲み場を何度も往復する。

砂を湿らせることで壁を固めていき、その作業の中で綺麗な曲線を作り上げていく。山の大きさと形状、トンネルの長さと内装、全てがミホリの中で満足できるものに仕上がっていった。

あとは、この喜びを分かちあってくれる先生を呼んでくるだけとなった。

地べたに顔を近づけて、綺麗に整ったトンネルの内装を、再度、確認した。小さな可愛らしいほっぺたから、その満足気な表情が見て取れた。

地面から頭を上げる動作の途中、目がこのお山の頂の高さに差し掛かった、その次の瞬間だった。


ザッ!


重い音がした。

息が詰まって胸に痛みが走った。

一瞬の出来事だった。

なんと犬から逃げ惑う男の子の一人が、お山を頂上から踏み潰してしまったのだ。

男の子は満面に笑みを浮かべて砂場を駆け抜けて行った。視線は犬に向けられている。

どうやら意図的に踏んづけたのではなく、たまたま逃げていたらそこにお山があったということなのだろう。

頂上から踏み潰されたお山には、足跡がくっきりと残っていた。

ミホリは呆然となった。

当然、幼いミホリには偶発的に踏み潰されたなどという状況判断はできなかった。いつもと同じ、卑劣ないじめ行為だと思った。砂場を笑顔で駆け抜けていった男の子の残像が頭に浮かび、自分のいる世界との違いを痛切に感じた。


今日は先生と……。


私はなぜいじめられるのか、という疑問や、非力な自分に対する嫌悪感、また、一緒に作ってくれた先生に対しての言いようのない罪悪感で心が重く絡まり始めた。

いつものように目が潤んできた。

ミホリは砂場に刻まれた男の子の足跡をボーッと眺めていた。すると、再び、犬が近くを駆け抜けていった。


「あっ!」


思わず声が出た。

また、新しい足跡がお山に刻まれたのだ。今度は二人、三人……と、続々となだれ込んでくる。

ミホリは、知らず知らずのうちに、涙を流していた。

かすかに残ったトンネル入口付近の形状も、度重なる襲撃に、跡形もなく崩壊した。


グルルルゥ、ワンワン!


園庭を走り回る犬は、とても好奇心旺盛で元気が良かった。逃げ回る男の子たちも、同様に元気だ。


「今日は絶対に、絶対に、お山を褒めてもらうんだ。壊しちゃいけないんだ。」


ミホリは自分に言い聞かせるように言った。

犬と男の子たちを目で追いながら、決意を固めた。

いつもならこのまま教室へ逃げ帰り、自分の机ですすり泣きをするのだが、今日は違うみたいだ。

ミホリは、再び、崩壊したばかりのお山に視線を移した。湧き上がる使命感が逃げることを許さなかった。芽生え始めた勇気に加え、大きな抵抗力が備わった感じだ。

ミホリはお山の残骸を取り除き、再度、ゼロから作業を開始した。もう一度、土台作りからの作業だ。さっき刻まれた足跡は、ミホリの強い意志の前にかき消された。

隣接する道路からは、砂場の様子を見つめる老婆の姿が見える。

ミホリは、ふと視線を上げた。老婆はこちらを見ていた。何か妙な距離感だった。老婆は、それをかき消すかのようにミホリに向かって手を振った。穏やかな笑顔だ。 

ミホリは咄嗟に潤んだ目を手で拭った。砂まみれの小さな手が、とても痛々しかった。

言葉ではなく笑顔で語りかけてくる老婆に対して、気弱なミホリも、これに軽く手を振って答えた。

園児たちを見つめる老婆の眼差しの奥には、いったい何があるのだろう。生き抜いてきた長い人生、終わってみれば短い人生、死という終着点を目前にして幼き日々を思い起こしているのだろうか……。それとも、新しい時代を生き抜いていく園児たちを、多大な人生経験から得た包容力で優しく見守っているだけなのだろうか……。

いずれにしても幼稚園にとっては、老婆は園外の観客でしかない。ただ、ミホリにとっては、お山作りをするための心の支えとして、今、最も近い存在になっていた。

ミホリは、先程の山よりも直径の大きい土台を作り始めた。その上に、次から次へと砂を載せていく。すると、みるみるうちに土台が出来上がっていった。


ワンワン!


犬が吠える度に、たくさんの笑い声が響き渡った。

園内には犬と戯れる園児の他にも様々な動きが存在している。遊具で遊ぶ子、鬼ごっこやかくれんぼをする子、園庭の隅で静かに過ごしている子、水飲み場で水を掛け合っている子、園舎の中で話をしている子、それぞれが自分に合った過ごし方をしている。この中には、あの二人の姿もあった。

太陽の光は園庭と同じように、園舎の窓にも力強く降り注いでいる。園庭の北側にある園舎は、3メートルの土手の上に建っているため、教室の窓から園庭を一望できた。

窓からその身を乗り出して園庭を見下ろす二人の姿があった。人生の勝ち組が負け組を見下ろすかのように、他の園児たちを眺めていた。二人とも、上半身にありったけの光を浴びていた。小さな手と手を繋ぎ合わせて、自然に湧き出る笑顔がそこにあった。


ケント君……。


ミホリは生きている世界が違うんだ、と自分に言い聞かせてはみたものの、なぜ私は好かれる存在ではないのか、なぜ私だけがいじめられるのか、という疑問の噴出が止まることはなかった。二人の姿を見るたびに、苦しみが深まっていった。

初めての集団生活で味わった競争社会の現実と、そこで体験した敗北の苦しみ、その二つが、自分の居場所を川の流れが緩やかな砂場に導いたのかもしれない。

老婆に見守られながら大きなお山が出来上がっていく。先程よりも大きいので、トンネルを掘るときに崩壊しないよう、斜面を手で叩きながら固めていった。

ミホリが作る山の形は、中国の黄河流域に聳える曲線が不揃いのものや、マッターホルンのようなそそり立つものとは違う。富士山のように、頂上から麓までの形状が滑らかで美しく、優雅で壮大なスケールのものだ。砂で作りやすいと言ってしまえばそれまでだが、ミホリの頭の中には、まだ多種多様な山の形は存在していなかった。


ワンワン!


近くで犬が吠えている。いつの間にか、砂場のすぐ横に来ていた。

お山の方をジッと見つめながら座っている。

ミホリは一瞬だけ犬の方に目をやるが、特に気にすることなく作業を続けていた。

犬が近くに居ることで、みんなの視線が砂場に集まってしまう。

好奇心旺盛な園児たちは静止している犬には当然のごとく物足りなさを感じ、小石をぶつけようと攻撃態勢に入っていた。

園児たちを見つめる老婆の眼差しに変化はなかった。いつも安らぎに満ちている。

ミホリは斜面を固める作業を終了させて、トンネル掘りを始めようとしていた。作業は急ピッチで進んでいく。

その時だった。

砂場に、犬の足跡が一つ一つ、ゆっくりと刻まれていった。なんと、犬が入ってきたのだ。

ミホリのすぐ横までやってきた。


「あっち行って!」


ミホリは思わず声が出た。

付着した生ゴミから漂う悪臭は強烈だ。

ミホリは目の前の犬と、みんなから浴びせられる数々の視線に、急に恐怖を感じるようになった。


早く、どこかに行って!


心の中で叫んでも犬には届かない。犬はミホリを見つめたまま全く動かない。

ミホリは恐怖に加え、羞恥心も発生して、全身が震えてきた。もはや、トンネル掘りどころではない。

ミホリは、しゃがんだ状態のまま、視線を空に向けて神に祈った。

犬の息づかいが間近で聞こえた。この呼吸のリズムは獲物に襲いかかる直前にしか起こらないものではないか、とミホリは思った。


食べられるよ!


ミホリの頭に浮かんだのは、犬に食い殺され、自分の死体が犬の胃に放り込まれていく姿だった。恐怖のどん底だ。

ミホリは地面を見ながらジッと蹲った。貝のように全身防御態勢になった。

しかし、一瞬芽生えた好奇心が、この状態の中で顔を上げるという行動を取らせたのだ。

そこに映ったのは、今にも襲ってきそうな犬の背後から、とんでもない行動を取ろうとしている園児たちの姿だった。それは信じられない光景だった。


「死ね!」


石が飛んできた。直径3センチほどの少し大きめの石だ。どこで見つけてきたのかはわからないが、当たれば大怪我に繋がりかねない。

標的は犬だけのはずだが、ミホリもろとも、その対象になっていた。

犬は、石が砂場に着弾する一瞬前に、突然、勢いよく駆け出した。五感を研ぎ澄ませて危険を察知したのだろう。猛然と園外へと駆けていく。園児たちの視線も、釣られるようにそちらの方に向けられ、手にしている石を次々と投げつけていった。

砂場にいるミホリは、恐怖に駆られながらも、この光景を目で追っていた。

犬は勢いよく幼稚園から飛び出し、住宅群の中へと消えていった。

ミホリは、この後ろ姿を確認すると、ようやく恐怖から解放された気がした。

ざわめきが消えて、辺りは静寂につつまれた。

男の子たちは道路まで飛び出し、犬の行方を気にしていた。

一瞬、静寂の中、幸せいっぱいの笑い声が園内に響き渡った。ミホリはこの声がケントとユキのものだと知りながらも、あえてその場所を見ようとはしなかった。

ミホリは中断した最後の大作業であるトンネル掘りに着手しようとした。


邪魔されないうちに作ってしまおう。先生に見てもらうの。


早速、麓の砂を取り除く作業に取りかかった。

両手で砂をかきだし、どこに捨てようかと砂場全体を見渡したとき、視界に何かを捉えた。

嫌悪感と同時にあるものが目に飛び込んできたのだ。

できたてホヤホヤの犬の大便が、すぐ隣にあった。

トンネル掘りには直接関係がないにせよ、近くにこんなものがあると、あまり良い気分にはならない。


あの汚い犬のうんち。見ないようにしよ。


ミホリは作業に集中することにした。照りつける太陽が背中に降りそそぐ。

園庭の真ん中では、再び、園児たちの笑い声が飛び交い始めた。

犬が去ったあと、今度は、男の子同士で小石のぶつけ合いをしていた。やられたらやり返す。

それを楽しそうにやっていたのだ。

こういう遊びを大人数でやるときは、大概は、力関係の劣る一人が集中攻撃を受けるものである。現に、男の子の一人が集中的に攻撃を受けている。

彼はさすがにどうすることもできないとわかったようで、攻撃をあきらめて逃げ回り始めた。


「逃げるな!」


集団のリーダー的存在が声を上げた。

逃げ回る彼に対して、四方八方から小石の雨を降らせている。逃げ慣れているのかはわからないが小石はなかなか命中せず、攻撃を受けているはずの彼も、結構、楽しそうに走っていた。

そんな動の世界とミホリのいる静の世界が一つのエリアで共存している。

ミホリはトンネルを半分まで掘り進めた。右肩から指の先まで、もう砂だらけだ。先程よりスケールが大きいだけに、俄然、やる気が出ていた。

そんなミホリの姿を園舎の窓からあの二人が眺めていた。


「フフフッ。そうなんだ。でも、どんなケント君でも大好きだよ。」


ユキの声が聞こえた。

この二人は視線を園庭に向けているだけで、会話の内容は目で捉えた情報とは違うようだ。

ざわめきとざわめきの間にできる静寂の瞬間に、この二人の声は飛び込んでくる。いろいろな声が飛び交う中で、ミホリにはなぜかこの二人の声だけが聞こえてくるように思えた。

トンネルは半分まで開通した。

ミホリは反対側に回り、未開通分のトンネルを麓から掘り始めた。

園庭の真ん中では、相変わらず男の子たちによる石のぶつけ合いが続いていた。


「ハハハハハハハッ。」


あの二人の笑い声だ。物理的ではなく、精神的な攻撃である。

心を抉り取られるような感覚は、ケントと釣り合わない自己嫌悪と、釣り合っているユキへの嫉妬が、同時に襲ってくる結果だろう。

ミホリは、漠然と二つの世界を感じ取っていた。光と影のように相対する二つの世界……。

例を上げるとキリがない。太陽と月、S極とN極、生と死、カオスとコスモス、幸福と不幸、Y軸とX軸……。世界、いや、宇宙、いや、もっと上位層レベルでの相違を感じていた。それが自分とみんなとの距離……。こっちの世界とあっちの世界……。それは、自分だけが、何か巨大な力によってそういう立ち位置を義務づけられたのではないか?という……、何か、神の指示によって強制された確信的な答えのような気がしてならなかった。


「痛っ!」


集中攻撃を受けている男の子に石が当たった。


「くそ、当たれ!」


この男の子も、闇雲に石を拾っては投げまくっているが、狙いを定めていないので当たらなかった。

遊びにおいて、園児のエネルギーは無限大である。石のぶつけ合いをしている彼らだけでなく、これはミホリにも言えることだろう。スタイルは違っても、このエネルギーに差はなかった。


できたあ!


トンネルがついに完成したようだ。ミホリは心の中で精一杯の喜びを表現した。

トンネル内部の円筒は、見事なまでに美しい曲線が表現されていた。

ミホリは立ち上がった。お山全体を上から見下ろしてみる。いつもより大きく、形の整った満足のいく出来栄えだった。

内面に溜め込んだこの喜びを爆発させるには一人では駄目だ。誰かに見てもらって、一緒に喜びを分かち合い、賛辞の言葉を浴びせてくれる人の存在が必要だ。


「先生、どこ?」


弾むような気持ちを、顔には出していなかった。しかし、体には溢れていた。

ミホリは無意識のうちに先生の笑顔を求めて駆け出した。


そのときだった!


一瞬、不穏な空気が辺りをよぎった。


「キャアウウッ。」


大きな衝突音とともに、思わず声が漏れた。

それは、人間の頭がい骨と頭がい骨が衝突したときに発生する不気味な重低音だった。

石のぶつけ合いで集中攻撃を受けていた男の子は、後ろに注意を取られながら走っていた。一方、ミホリは、完成したお山を、いち早く先生に見てもらいたかった。二人とも前が見えていなかった。

男の子の顔面とミホリの前頭部が激突したのだ。出合いがしらの衝突である。

一瞬、みんなの視線が砂場に集まった。

二人とも、ぶつかった個所を両手で押さえている。あまりの痛さに荒れた呼吸音しか出せない男の子と、何が起こったのかわからず、突然の激痛に困惑するミホリの姿があった。

徐々に痛みが湧いてきた。

ミホリは頭を押さえる自らの両腕の隙間から前を見た。そこには悶え苦しむ男の子がいた。


「ハハハハハハ。」


石を投じていた男の子たちが一斉に笑い出した。彼らにしてみれば面白い光景だったのだろう。


「まぬけな奴。」


「あいつ、ミホリとキスしたんじゃない?」


次々と罵声が浴びせられた。

ミホリは激痛で動けなかったが、それ以上に男の子のことが心配だった。男の子は顔を押さえて蹲っている。

ミホリはゆっくりと近づき、声をかけた。


「大丈夫?」


小さくて優しい言葉だった。

男の子は何も言わなかった。目の辺りが大きく腫れていることは自覚できているようだ。


「今、先生を呼んできてあげるから待っててね。」


ミホリは先生のもとへ向かおうとした。しかし、男の子は意外な行動に出た。


「えっ!」


ミホリは思わず声を上げた。

いきなり、男の子はミホリの腕をつかんで行動を制止させた。鋭い怒りの目をしていた。


「おい、あいつミホリの腕をつかんでるぞ。」


さらに、いろいろな罵声が飛んだ。


「うるさい!」


罵声に耐えられなくなったのか、男の子はつかんでいたミホリの腕を離すと、足元の砂をすくい、彼らに向かって投げつけた。

ミホリは喧嘩が始まるのではないかと、一瞬、ドキッとした。

投げつけた砂は彼らには届かず、空気抵抗と引力の壁の前に虚しく落ちていった。

だが、宣戦布告をしたことは彼らにも伝わっている。報復攻撃が始まると思いきや、彼らはその場に突っ立ったまま、小笑いを浮かべていた。喧嘩をする気はないみたいだ。

ミホリは感じ取った。

この男の子はいじめられていたわけではない。彼らと同じ世界に存在し、友達という枠の中で、少し立っている位置が違うだけなのだと……。普段は少し離れた位置に存在していて、一緒に笑ったり騒いだりするときは近づき、それが終わると、また元の位置に戻る。ただ、それだけ……。

最初から最後まで誰からも相手にされないミホリとは、全然違った。

ミホリは、この男の子に対して勝手に親近感を持っていたが、所詮、生きている世界が違うのだと、改めて痛感させられた。

男の子にしてみれば、ミホリの優しい言葉や仕草なんて、怒りを増幅させるだけのやるせない行為としか映っていなかった。好きな子に優しくしてもらいたい……、このような願望なら誰にでもある。しかし、好きではなく、まして、隔離された世界で生きている人間なんかには、相手にされたくない、関わってほしくない、隣に居てほしくもない。男の子の心理状態が不安定になってきた。

衝突時の激痛と、みんなからの罵声と、目の前のミホリの存在が、増幅した怒りを爆発に導いた。

少し間が空いたあと、この男の子の中で何かが弾けた。


「いやああああ!」


ミホリは悲鳴を上げた。

男の子はミホリの髪の毛を無造作につかむと、そのまま砂場に投げつけたのだ。

ミホリは体ごと吹っ飛ばされ、顔面から砂に埋もれた。砂が口に入り、反射的に振り返ったとき、惨めな自分への思いから感情が高ぶってきた。


「うっ、うっ、うっうあああああん。何するの?やめてよ。」


衝突では泣かなかったのに、暴力で涙がこぼれた。

男の子は容赦なかった。第二波、第三波と、物理的な攻撃が加えられた。横たわるミホリの背中や後頭部を、足の裏で何度も何度も踏みつけた。


「死ね、死ね!」


普通ここまでやると正義感がそれほど強くなくても、止めに入る人がいるものだが、ミホリに対するこのような行為は日常的になっており、この不秩序な状況に対して、それを不秩序だと受け止める園児はいなかった。

誰かが助けに入ることはなかった。

かつて、ミホリに対するいじめに防波堤の役割を果たしていた人物は、今では高台から事の成り行きを眺めるだけの傍観者になってしまっている。ケントからすれば、もはや、ミホリなんかどうでも良かった。ユキと一緒に居る時間に心地良さを感じていた。無意識のうちに感じる幸せと、この温かいぬくもりにずっと包まれていたいという思いで、頭の中は埋まっていた。それはユキも同様である。しかも、窓から見下ろす二人の視線に意味はなかった。ただ、視界に入っているというだけだった。そこに感情はなかった。

そんな視線とは対照的に、ミホリは地面を這うように歩く蟻の視線で周りを見渡していた。


誰か……、誰か……。


「死ね、死ね、死ね、死ね!」


男の子は、うつ伏せで横たわるミホリの頭部めがけて、砂を蹴り飛ばしている。


「ゴホッ、ゴホッ、ううう……。」


ミホリは思わず咳き込んだ。顔は、砂と涙でぐちゃぐちゃだった。

ふと、周りを見渡してみた。すると、そこには、自分に向けられたたくさんの冷たい視線があった。

ミホリはそれらの目を一瞬見ただけで、それぞれの心の中で感じていることを理解した。手を差し伸べてくれる人は誰もいない。この弱肉強食の世界で、憎しみや軽蔑、また、憐みの目でこっちを見ているだけだ。


「おばあちゃん。」


ミホリは咄嗟に老婆のいた方向に目をやった。しかし、そこに老婆の姿はなかった。知らぬ間にいなくなっていたのだ。


「先生……、先生……。」


今度は先生に助けを求めた。

ミホリは、この騒ぎに気付いて先生が駆けつけてくれるのではないかと期待した。だが、先生が姿を見せる気配はなかった。

しばらくすると、男の子の周りに、先程まで石のぶつけ合いをしていた仲間たちが集まってきた。

男の子は彼らに見せつけるように、ミホリの全身を蹴り飛ばしていた。どうだ、僕はこんなに強いんだぞ、僕が怒るとこんなに怖いんだぞ、と言わんばかりに攻撃を加えている。

ミホリはいつも暴力を振るわれるが、これほどまでに身体への物理的攻撃が加えられたのは、今日が初めてだ。


「ううっ。痛い、痛いよ。」


泣きながら絞り出すミホリの声が聞こえた。


「誰か……、誰か……。」


ミホリは助けを求めているが、誰も止めに入ろうとはしない。

ここで正義の味方づらをして、助けに入って、自分が標的にされたらあまりにも馬鹿らしいからである。

ミホリは神に縋るような思いで痛みに耐えた。しかし、神は救いの手を差し伸べてはくれない。ここにあるのは、園児にもかかわらず、算数や英語の問題を矢のように浴びせられ、何の躾も施されずに集団生活にぶち込まれて、いじめの対象となった儚い現実だけである。


「お願い、やめてよ。」


ミホリは泣きながら声を出した。


「バーカ!」


男の子は、足でミホリの後頭部に砂をかけた。そのあと、今度はその後頭部を踏みつけた。

ミホリの顔面が砂に埋まった。

このとき、ミホリは込み上げてくる感情を抑えることができなかった。呼吸ができない苦しみから反射的に頭を上げたとき、その泣き声は園内全体に響き渡った。


「うわああああん。」


ミホリは暴れたため、今度は仰向けの状態で大の字になった。


「静かにしろよ、先生に聞こえるだろ。」


男の子は、自分の足先をミホリの口の中に入れた。

ミホリは顔を上下左右に動かして嫌がっている。暴れているため口を完全に塞ぐことができず、泣き声は、依然、大きく響き渡っている。


「うわああん。嫌だ、やめて!」


「静かにしろ。このションベンたれが……。」


男の子は、更なる攻撃に出た。なんと、もう一方の足で顔面を蹴り出した。

ミホリはショックからか、泣き声を含めて声が出なくなってしまった。

そして、次の瞬間……。


「こんなもん作りやがって。」


男の子の視線が、ミホリからお山に移った瞬間だった。


あの、お山が……。


精一杯、気持ちを込めて作った、あの、お山が……。


最後の最後まで自分の意思を貫き通して作った、あの、お山が……。


一瞬だった。


本当に、一瞬だった。


頂上から踏みつけられ、あっけなく破壊されたのだ。

ミホリは驚嘆で目が大きくなり、そこで止まった。目に焼きついた光景は、心に強烈な衝撃を与えた。

何かが弾けたように、深淵に眠っていたドス黒いものが蠢き始めた。決して目覚めてはいけないものが蠢き始めた。これは何だろうか?

神に転生するための何か絶対的な感じの……。いや、地獄の番人になるための、何か野蛮で狡猾的な感じの……。いや違う、これは悪魔と呼ばれるようになるための何か排他的で異質な感じの……。

蠢きは、少しずつその領域を広げていった。心の世界に何かが宿ってしまった。

ミホリはあまりの衝撃に、驚嘆の表情のまま、瞬き一つできなかった。

粉々に砕け散ったお山が目の前にある。

言葉にならなかった。全てを潰されてしまった。唯一、この幼稚園で存在できた場所、砂場で潰されてしまった。

ミホリは、徐々に視点が定まらなくなってきた。

何かを発しているようだが自分で自分の声が聞こえない。誰に何を問うているのかすら、わからなくなった。

蠢くものによる浸食は、破壊的に加速度を増していった。そして、あっという間に心の領域を覆いつくした。

そのとき、雰囲気が変わった。可愛らしい目が、突然、恐ろしく狡猾的な目になった。

ミホリは何かに取りつかれたように、スッと立ち上がった。

男の子を睨み付けた。


「私のお山を壊した。許さない!」


小さな声で冷淡な口調だった。

ミホリの急変ぶりに傍観者たちは怯んだ。あの弱々しいミホリが初めて立ち向かう姿勢を見せたからだ。しかも、何か雰囲気がおかしい。

ただ、男の子は動じることなく、勢いに任せて突っかかっていった。


「何だよ、その顔は?」


男の子はミホリの胸ぐらをつかんで言った。

ミホリはすぐに言い返した。


「お・ま・え・こ・そ・し・ね。」


脅しに全く怯むことなく、逆に冷淡な視線を突き刺した。もはや、いつものミホリではなかった。

突然、獲物を目前にした野獣のように、男の子に襲い掛かった。


「うわあああああああ。」


男の子は、思わず悲鳴を上げた。

ミホリは自分の胸ぐらに伸びていた男の子の手をつかむと、そのまま勢いよく噛みついたのだ。まさに鬼の形相だ。


「うわあ。コノヤロー、離せ!」


男の子は噛まれた手を上下左右に振って離そうとしているが、ミホリは執念で食らいついている。全く離れなかった。

ミホリは噛みつきながら、視線だけは男の子の目に向けていた。

男の子は完全に怯んだ。

彼にしてみれば相手は女、しかも、あのいじめられっ子の弱虫ミホリなのだ。男の子はこれ以上、不甲斐ない姿をみんなの前で晒すことができず、ミホリの反撃に対して、さらなる反撃で対抗した。余裕のない表情から過激な言葉だけが繰り出された。


「死ね、ミホリ菌。」


ミホリは噛み付いたまま笑った。その表情は、今から何のためらいもなく人を殺すのではないか、と恐怖を感じるほどだった。

男の子は、もう一方の噛まれていない手で、ミホリの顔面を押したり、パンチを入れたりして離そうと試みるが上手くいかない。


「コノヤロー、離れろ!」


ミホリの表情は、三十三間堂の阿修羅像のように変わった。

男の子はどうにもならないので、必死だった。今度は自身の身体を回転させながら、噛まれた手を強引に引っ張って振り回した。

ミホリは一気に、身体ごと引きずられた。すると、ようやく男の子の手から、ミホリの口が離れた。噛みつき地獄から解放されたのだ。しかし、くっきりと残る歯形の痕からは血が流れていた。

男の子は間髪入れずに、ミホリの髪の毛を掴んだ。そのまま強引に足を引っ掛けて地面に投げつけた。

ミホリは、再び、笑顔の表情に戻り、そのまま顔が砂に埋まった。

周囲には、多くの園児が集まってきていた。

ミホリは、うつ伏せ状態のまま、ピクリとも動かない。

何とか面目を保った男の子だったが、その代償は大きかった。激痛と流血で、今にも泣き出しそうだった。

ただ、泣くことだけは絶対に許されない。目に涙を浮かべるだけでも駄目だ。あのミホリに泣かされたとあっては、この先やっていけない。

男の子は、追いつめられている自分を悟られまいと、さらなる攻撃に出た。倒れているミホリの後頭部を足で何度も踏みつけた。


「コノヤロー、コノヤロー。」


ミホリからは泣き声や悲鳴は聞こえてこない。無言のままだ。それに無反応だ。

周りで見物をしていた園児たちは、あのミホリがあれほどまでの反撃を見せたことにショックを受けていた。

一方的に蹴り飛ばされるミホリを見て同情的になったものは多数いたが、止めに入ることはなかった。

男の子は、みんなの視線が気になって仕方がなかった。本音を言えば、早くこの場から立ち去りたかった。潰されそうな自分を守るために、また、それを隠すために、何度も何度も蹴りによる攻撃を続けている。

プライドを保ったまま、これを止めて、ここから立ち去るにはどうしたら良いのか?いろいろ考えてはみたものの、良い方法は浮かばなかった。

ミホリはピクリとも動かない。何をされても全くの無反応だ。

このことに恐れを感じたのか、一旦、男の子の攻撃がストップした。

園内の空気が止まった。

突き刺すような見物人の視線は、その数を増している。

男の子は周囲を気にして、目をキョロキョロと動かした。

そのときだった。

偶然、男の子の視界に一つの物体が飛び込んだ。

その物体を見て、男の子は閃いた。

今までの攻撃に区切りをつけ、上手くここから立ち去る方法を、ついに見つけたのだ。

発見してから実行するまでの時間はとても早かった。余程この場にいるのが嫌だったのだろう。

再び、ミホリの髪の毛を鷲づかみにすると力任せに引っ張り上げた。

すると、埋もれていたミホリの顔が砂から持ち上がった。冷たい目で無表情の顔がそこにあった。

髪の毛を引っ張りながら、ミホリの体を移動させている。


「噛みついた罰だ。これでも食らえ!」


男の子はそう叫ぶと、ミホリの顔面を犬の大便の真上にもっていき、そのまま勢いよく地面に押し付けたのだ。

ミホリは無言だった。

時が止まったような感覚が辺りを包んだ。

この残酷な行為に、誰もが言葉を失った。

大便はまだトロトロとした軟らかい状態だったため、強烈な悪臭とねっとりとした感触がミホリの顔面を直撃した。この瞬間、ミホリの心に更なる異変が生じた。


目覚め……、いや、覚醒という言葉の方が相応しいのかもしれない。 

心の領域を掌握した蠢くものが、今度は、人間というプログラムを削除し始めたのだ。

思いやる心、労わる心、優しい心などの愛情表現に関わる要素が消滅した。状況に応じた感情表現という要素も消滅した。

蠢くものが心の領域を掌握したあと、今度は、身体までも支配するようになった。

外傷は時が経てば治るし、痛みもなくなる。しかし、心の傷はそうはいかない。灰と化した森林と同じように、元に戻すには時間がかかるのだ。

蠢くものは誰の心にも存在する。残虐で冷酷な部分は、普段、心の領域で眠っている。だが、免疫を無くすと動き出す。一度動き出してしまうと、これを取り除くのは容易ではない。バイオセーフティーレベルで例えると、エボラを超える最強レベルだからだ。最新医療でも手段はない。

人間は蠢くものに支配されないように、常に免疫を保てる環境で生きていかなければならないという責務を負っている。

だが、ミホリは乗っ取られてしまった。もうどうすることもできなかった。


「アハハハハハハ。アハハハハハハ。」


ミホリは、突然、笑い出した。

体を反転させて仰向けになり、空を見ながら思いっきり笑っている。全身を大の字にしていた。

顔は大便まみれになっていた。加えて、前歯が数本折れており、口から血を流していた。

おそらく、噛みつき攻撃を振りほどかれたときに折れたのだろう。


「アハハハハハハ。アハハハハハハ。」


ぐちゃぐちゃな顔は笑顔に満ちていた。意味不明な言葉を空に向かって叫んでいる。

「私だけの世界……、私だけのおひさま、私だけのお空、私だけのお星さま。フフッ。」

異様な光景だった。

周りの園児たちは呆然と立ち尽くした。


「私、忘れないからね、今日のこと……。必ず、やり返すから……。」


何かが壊れていた。


「アハハハハハハ。アハハハハハハ。」




――私は暴発への第一歩をこの瞬間に踏み出したのだ。


蠢くものは、消去した私というプログラムを分厚い殻の中に閉じ込めました。「本当の孤独」という名の分厚い殻にね……。

このとき私は、この一回きりの人生を、死ぬまで独りで生きるという選択を余儀なくされた。


冒頭は、そのように書かれてあった。

防波堤の上、リュックサックの横に置かれた30枚の便箋には、文字が敷き詰められていた。

隣に置いてある、紙縒りの付いた紙にも文字が刻まれている。

続きを読んでみる。


――あの日、みんなが私に向ける眼差しは、もはや、同じ人間を見る目ではなかった。


解離性健忘という診断の原点を探っていくと、どうしても、あの幼稚園での出来事が最初ではないか……と思えてならない。

幼稚園の記憶が、なぜ、これほどまでに鮮明なのか……。逆に、小学生の頃から現在までの記憶が、なぜ、これほどまでに断片的なのか……。

あれ以来、現実の世界と、空想の世界・夢の世界・精神世界を行ったり来たりしている。

もう、こうなってしまうと、何が真実で何が幻想だったのかがわからない。

一つだけハッキリと言えることは、私にしか、この現象は起きていないということ。他の人たちは正常に生きている。これは個性の違いではなく、正常か異常かの違いだった。


私は人間として存在できなかった。

分厚い殻の中から見えるあっちの世界こそが、本来、私が送るはずだった人間の世界だった気がする。 

あっちの世界を眺めていると、そこでは、みんなが笑顔で生きていました。家族と団らんする姿、友人と語り合う姿、恋人と愛を分かち合う姿、どれも幸せそうでした。

あっちの世界に行きたいと願えば願うほど、それに反比例するように、殻は、どんどん分厚くなっていきました。

みんながいた世界が、どんどん見えなくなっていきました。

学生時代なんて、振り返ってみれば、あっという間に終わってしまった……、そう思うのが普通なのに、私にはその時間が、とても長く感じました。

もっと早く、そこから抜け出せていれば間に合ったのかもしれない……。そう思うこともあるけど、残念ながら手段が何一つ無かった。社会に出たときにはもう、自殺願望と殺人願望以外、何も残っていなかった。 

この社会で生きていくには、仮面を被らなければならなかった。自殺と殺人が丸出しになっている人間になど、誰も近づいてきませんから……。社会は、そんな人間を門前払いします。

本性を隠し続けなければならないのは、本当に辛くて苦しいものでした。それに、全てを隠せたわけではありません。異様な雰囲気だけは消せなかった。だから、外見と性格を整形しなければなりませんでした。他に方法はなかったのです。外見は外科手術で、性格は薬物で脳内物質をいじくりました。親しみやすく、明るく、そして、優しい外見と性格でなければ、生きていけない状態でした。完璧な人間像を求め、それになるしかなかったのです。

誰かが生活の面倒を見てくれるのなら、身体や精神に変更を加えてまでも社会に適応する必要はありません。ただ、私は違います。生きるためには、どんな手段を使っても社会に適応しなければならなかったのです。まぁ、それだけのことをしても、適応はしませんでしたが……。あっちの世界は遠かったです。

あっちの世界の人には、こっちの世界の実情は一ミリもわかりません。家族主義国家日本で、家族を失うというのは、全てを失うと言っても過言ではありません。それほどまでに生きられない世界です。自分がそういう経験をしない限り、この話は通じません。どんなに居場所が無くて独り立ちしたくても、0歳から一人暮らしをすることはできません。10代後半までは何もできません。その間は、ただ、誰かの奴隷としてそこに居るしかないのです。

問題は、たとえ年齢がクリアになったとしても、持って生まれた才能(外見・性格・身体的能力・知能指数)と、親や監護者にどういう環境でどう育てられるかという他者啓発の結果が、社会に適応できる水準に達していなければ生きてはいけないということです。

私が社会に出たとき、その水準には程遠く、とても適応できなかった。もちろん、社会での競争に勝ち抜ける武器も無かった。整形なんて、焼け石に水で、ただ単に仮面を被ってその場しのぎをするというだけ……。とても適応というところまではいかなかった。本来、あったであろう武器も、虐待と育児放棄を食らったことで、蕾のまま削ぎ落されたと思っています。


まだ携帯電話が無い時代だった。もちろん、ネットやメールもありません。情報収集は、雑誌・本・新聞・テレビのみで、あとは何もなかったです。

当時は、連帯保証人がいないと家を借りることができなかった。家代わりとなる24時間居住可能な店も、その時代にはありません。免許は無いですし、車を買うカネもないから、車中生活もできません。まだ外国人がいない時代なので、外での居住は、すぐに警察官に声をかけられてしまいます。実際に何度も声をかけられました。身元保証人がいないので、働ける場所がほとんど無かった。行政機関は警察官同様、「家族は?家族は?家族は?家族は?」と聞いてくるだけなので、全く使えなかった。答えたところで法定代理人である親に連絡がいくだけですし……。それは、虐待と育児放棄から命を繋ぐために飛び出した私には最も使えないコンテンツでした。生活保護も同じでした。

「東京に行けば何とかなるさ」の時代はすでに何十年も前に終わっていたので、東京に行ったところでどうにもならなかったです。

生きるか死ぬかのピンチに陥ったとき、最後にモノを言うのは人間性だと知りました。まぁ、自殺願望と殺人願望しかない私に、そんなものは無いので、知ったところで何もできませんけど……。

やんちゃ系の遊べる人間と違って、私のような真面目系の遊べない人間は、こういう状況になったら真っ先に潰れるなぁと実感しました。

私には帰る場所が無かった。生きるためには、住み込みの仕事に飛び込むしかなかったのです。保証人がいないので、当然、警戒されますし、距離を取られるので、人間関係が上手くいくはずがありません。もともと苦手な人間関係なのに、いきなりそんな対応をされたら、こちらも自分を守るために「舐めたら殺すぞ!」というレベルの、勝ち気な自分でいなければならなかった。だから、上下関係は全くできなかった。職を転々とする中で、社会とは何たるかを体で覚えていくしかなかったです。

気が付いたときには、裏社会に片足を突っ込んでいた。いや、両足かな?

残念ながら、私の居場所はそこにもありませんでした。

社会に適応できなかったから裏社会に流れたのに、今度はその裏社会にも適応できなかった。

当時、仕事と住む場所はセットになっていたので、その両方を失い、最後は路上に行き着きました。

いつもと違って仕事を探すための行動が取れなかったのは、もうこの時点で、生きる意味・気力・目的・希望を失って、無気力になっていました。

当初は、家出したときと同様、どこで何をしていればいいのかがわからず、外をウロウロしていましたが、虫の襲撃と雨風がムリで、しばらくしてから地下道に移りました。そこには他にも路上生活者がいました。結局、同じ状況になると、人は同じ場所に集まってくるんだなぁと感じました。

あの路上生活は本当に苦しかった。自分で自分の体の臭さがわかるのが嫌でしたし、それ以上に、劣等感と自己嫌悪に潰されそうでした。それでも声をかけてくる人間はいました。もちろん、日本人ではありません。日本人は襲撃してくることはあっても、助けてくれる人は一人もいません。そういうことをしてくるのは、当時、まだほとんどいなかった外国人でした。宗教の布教活動で日本に来た、と言っていたのは覚えています。

この頃……、蠢くものは、私という人間に、何か新しいプログラムを書き込んでいるような気がしました。それが良いプログラムでないこともわかりました。


もう、どうにでもなれ!


何かに背中を押されるような形で、犯罪に手を染めていく私がいました。その「何か」というものを私たち犯罪者は、神と呼ぶことが多いです。もう、自分では止められなかった。逮捕されたとき、少しホッとした気持ちになったのはそのためでしょうか……。ただ犯罪の深さのせいで、いきなり実刑を食らいました。刑務所では、なかなか物思いにふけるという時間がなかったけど、裁判が確定するまでの勾留中にはそういう時間がたくさんあったので、それまでの時間のことをよく振り返っていました。その中で湧いてくる疑問は、いつも同じでした。


私は、何のために生まれてきたのか?

何のために存在したのか?

一回きりの人生とは何だったのか?

人間とは何か?

日本人とは何か?


私の人生経験では、日本人は自分さえ良ければ他人がどうなろうが知ったこっちゃない民族で、他人の人生には無関心だということです。恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた被害妄想者と、不幸の背比べをして意地でも勝とうとしたがる人しかいません。すぐに、努力・我慢・行動・ポジティブ・ネガティブ・前向き・後向き・プラス思考・マイナス思考・諦める・諦めない・強い・弱い……などという薄っぺらい言葉を口にして、何でもかんでも、自分の力で勝ち得たことにしたがります。どいつもこいつも、当たり前のように家族がいて、当たり前のように住む家があって、当たり前のように友人がいて、当たり前のように恋愛ができて、当たり前のように結婚できて、当たり前のように子供がいる、または、そのどれか一つでも叶えられている恵まれた人生ばかりです。

この国には、そんな薄っぺらい人間しかいません。

当たり前のようにいろいろなものが備わり過ぎているから、当たり前じゃない世界で生きる人間のことなんか一ミリもわからないのです。おそらく、自分自身が恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた、ということに気づいてもいないでしょう。

努力・我慢・行動……などという薄っぺらい言葉は、こっちの世界では使いません。心に思うことすらありません。それくらい無駄な言葉なのです。そんなのは私にとっては当たり前のように実践している、ただの既成事実でしかありません。こっちの世界では、それを怠ること……、それは死です。自分を励ますとか、自分を高めるとか、自分を超えるとか、違う自分になるとか……、そんなのは、恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた被害妄想者と、不幸の背比べをして意地でも勝とうとしたがる人の、戯言でしかないのです。

こっちの世界に来ればわかります。そんな言葉は使わなくなりますから……。

もう一つ、世の中の人は、運という言葉を頻繁に使うような気がします。運という言葉は、単体で成立しますが、極めて主観的な言葉なので、何を持って運というのかは人それぞれかと思います。それに、そういう成功事例は極めて稀かと思います。

あっちの世界の人たちとの決定的な違いは……。


孤独……。


そう、この言葉以外にはない。

あっちの世界の人たちも、孤独という言葉を使います。主観的な言葉なので、人それぞれが好き勝手に使います。家族がいる人も、友人がいる人も、恋人がいる人も、結婚している人も、子供がいる人も、みんなが使います。そこに客観的指標はありません。その人が孤独だと感じたら使用できるので、この言葉自体、あまり意味のあるものではありませんね。私の使っている孤独は、明らかにあっちの世界の人とは違うものなので、「本当の孤独」という言葉を使って分けています。

これは家族崩壊から天涯孤独、そのあと、路上生活から刑務所に入った私にしかわかりません。この日本で独り……、この世で独り……、そんな毎日から、突然、誰かと一緒に生活をする毎日に変わると人間は大きく変わります。それが牢屋の中であったとしてもです。むしろ、牢屋の中だからこそ、そういう変化が体験できるのでしょう。勾留施設・拘置所・刑務所は、ルールが若干違いますが基本は同じです。24時間、誰かと一緒にいます。それが、どのような変化をもたらすかなんて、実際にその状況からそこに入ったものにしかわかりません。そのときの年齢によっても、その変化には違いがあると思います。私はその場所で、初めて、家族という言葉に触れました。まぁ、疑似家族でしたけどね。


「人は独りでは生きられない」という言葉をよく耳にしますが、これは間違いで、「人は独りでは真っすぐ生きられない」が正解です。


この世で独りになると、人間は真っすぐに生きることができなくなります。生きる意味・気力・目的・希望を失うからです。もちろん、これには個人差があります。あっちの世界で生きる人の一般的な視点で言うと、同居の両親が他界し、同居の配偶者が他界し、子供がいなかった場合、その時点で初めてこの世で独りになります。ただ、その頃には、自分自身が50代、60代、70代になっている人が多く、残りの時間はあとわずか、という状態です。人と過ごした時間が長ければ長いほど、思い出や充実感の方が勝り、人生への無念や絶望を最小に抑えることができます。家族関係のみならず、そこに友人関係・恋愛関係などが加わると、さらに思い出や充実感は増します。

私のように10代から天涯孤独になり、人間関係ゼロの状態で、それが死ぬまで続くと、人生に対しては無念と絶望しか残りません。

私から見たら羨む人生でも、そいつらは平気な顔をして「私には子供がいなかった」と、被害妄想を振りまいてきます。不幸の背比べを仕掛けて、意地でも勝とうとしてきます。あっちの世界の人は、生きていれば誰もが経験する「人生の山あり・谷あり」と、この世に誰もいない「本当の孤独」を同列にして話をするので、私とは会話が成立せず、あっという間に喧嘩になってしまいます。

「本当の孤独」に陥ると、この家族主義国家日本では、必ず私のように、元受刑者、元路上生活者、元自死ダイブ実行者、元精神病棟患者……など、様々な肩書が付く人生になります。その過程で命を落とす人もいるでしょう。実際に、そういう人間を何人も見てきました。それは不可抗力で、地球を覆う大気のように自分の世界を支配されてしまいます。人間の力では、どうすることもできません。あっちの世界の人々には、この概念が一ミリもわかりません。奴らは、持って生まれた才能(外見・性格・身体的能力・知能指数)と、親や監護者にどういう環境でどう育てられるかという他者啓発の結果が社会に適応できる水準に達していて、それを当たり前の概念として捉えるため、そのことを考えたり掘り下げたりすることなんか、一切ありません。奴らは、あまりにも恵まれ過ぎていて、そのことを含めた全ての事象を「努力・我慢・行動・ポジティブ・ネガティブ・前向き・後向き・プラス思考・マイナス思考・諦める・諦めない・強い・弱い……」の結果と捉え、何でもかんでも自分の力で勝ち得たことにしたがります。それを人生の美学だと思っているのですから、たまったものではありません。そういう物差しを持って、私の人生を土足で計測して、「努力不足・我慢不足・行動不足……」と暴言を吐いてくるわけですから、喧嘩になって当然です。それが一人や二人ならいいのですが、日本人のほぼ全てがそんな状態では、その薄っぺらい価値観が社会のルールになってしまうので、私に居場所なんてあるはずがないのです。


日本人が助けるのは困っている外国人だけ……。困っている日本人は、身内の論理で切り捨てられます。身内の論理とは、同じ日本人という括りだけで、なぜか同じ能力、同じ条件、同じ環境で生きていることに設定され、「そうなったのは自業自得だろ」「努力不足だろ」というセリフを吐きたがる自己陶酔野郎の思考回路から繰り出される考察のこと……。ほぼ全ての日本人を指している。「不可抗力でこうなった」と反論しても、その概念すらわからないため、誰も相手にはしてくれません。

身内の論理による切り捨ては、裏社会でも、裁判でも同じです。同じ大量殺人罪でも、日本人は死刑になるけど、外国人は無期懲役になる。私はこれを「おもてなし裁判」と呼んでいる。

外国人の社会的弱者の場合、そのバックボーンになっている国際的に活動をする人権団体、環境団体、社会団体が小突いてくるので、それだけで、すぐ日本人は白旗を上げる。そのくせ、同じ日本人の社会的弱者には「努力・我慢・行動……の足りない奴ら」という身内の論理で情け容赦なく切り捨ててくる。

私は、それを被告人席に立ったときに痛感しました。

私が服役してわかったことは、「本当の孤独」と「あっちの世界」はリンクしているように見えて、実際にはリンクしていなかったということ……。それを、その二つの居場所(刑務所とシャバ)を行き来することで証明しました。まるで円を周っているかのように、その無限ループからは抜け出せません。出所したときは、「あっちの世界に来たんだ。」と錯覚してしまいます。再び、服役したとき、「やっぱり私は、ここでしか人間でいられない。」と納得してしまいます。そこには疑似家族の存在が大きく関わっています。


「もう一度、刑務所に戻りたかった……。」


そんな言葉を残して、罪を犯す元受刑者がいます。

あっちの世界で生きる人々には、この言葉の意味を理解できないでしょう。私には、この言葉の意味が痛いほどわかります。24時間、他人と共同生活を強いられる勾留施設・拘置所・刑務所では、それが疑似家族の役割を果たしました。そこに浸っていると、不思議なことに、壊れた人間性が修復されていくのです。

これは天涯孤独の路上生活から刑務所に入った私の経験ですが、他の受刑者も似たような感覚になった人は多いと思います。看守は父親と母親に思えました。同じ受刑者たちは兄弟姉妹のように思えました。「同じ釜の飯を食う」とは、まさにこのことで、これが私にとっては家族でした。失ったはずの、生きる意味・気力・目的・希望が漲ってきました。精神は充実し、集中力が高まり、身体も動くようになりました。早くシャバの世界に戻りたい、仕事をしたい、資格を取りたい、旅行がしたい、友人を作りたい、恋もしたい、そんな欲求に駆られました。

私は見違えるくらい変わりました。

家族観が形成されるって、こういうことなんだなって思いました。それがあるか・無いかで、この家族主義国家日本では天と地ほど違うんだな……と、身を持って理解しました。同時に、これが生まれたときからずっと続いていて、それが死ぬまで続くであろうほぼ全ての国民(あっちの世界の住人)の、精神性を知りました。私もあっちの世界に生まれていたら、良い人生を送れたんだろうな……と、確信を持った瞬間でもありました。奴らが「努力・我慢・行動……」なんて薄っぺらい言葉を口にする理由も、何となくわかりました。出所したとき、自由という解放感よりも、疑似家族で形成された家族観はシャバの世界でも維持できるのか?という焦燥感の方が際立っていた気がします。なんか、妙な感覚でした。

シャバの世界に戻ってから、しばらくはその精神性を維持できたのですが……。次第に、それが錯覚だということがわかるようになってきました。そう、ここには誰もいませんから……。表面上の会話やメールができる相手すらいませんから……。心の拠り所、つまり、私が帰る場所は、結局、ああいう場所しかないと思えるようになりました。

私は、再び、出会いを探しました。この精神性が消えないうちに……という思いでした。精神に負担がかかることくらいわかっていましたが、諦めきれなかった。命を懸けて、全てを使い果たしましたが、やはり、誰とも出会えない。時間が経つにつれて、徐々に、刑務所に入る前の状態に戻っていきました。「本当の孤独」と「あっちの世界」はリンクしているように見えて、実際にはリンクしていない。私が人の輪の中で生きていられると思えたのは「疑似家族」であって、彼らは刑務所の中にしかいない。形成されたはずの家族観もニセモノで、全てが嘘だった……。

私は生きる意味・気力・目的・希望を、再度、失いました。もちろん、就いたばかりの仕事も手につかなくなり、辞めざるを得なくなりました。路上と刑務所を経験済みだったので、もはや、生きるためだけに仕事にしがみつくなんて、とてもじゃないけど無理でした。気が付いたら、自殺願望と殺人願望以外、無くなっていました。

人は独りでは、真っすぐ生きられない……。

これは、あっちの世界の人が知らない概念です。

「もう一度、刑務所に戻りたかった……。」と言って再犯をする人は、この無限ループに、はまっている人なのです。私はその無限ループから抜け出そうと出所の度に思うのですが、「本当の孤独」には勝てません。出会えない運命なら、あの「疑似家族」を求めてしまいます。

私はなぜ、こんな人生しか送れないのでしょう?なぜ、私の世界は、大気のように覆われたままなのでしょう?これでは、学生時代と何も変わらない。


あの時代……、私は、学校でいじめられ、家では虐待を受けていた。

まだ「いじめ」や「虐待」なんて言葉は、世の中に出回っていなかった。いじめは、子供同士のやんちゃな遊び……。虐待は、躾……。それで片付けられた。私が人間でいられたのは、登下校時の、学校と家との間を一人で歩いている時間だけ……。幸い、学校と家との距離が遠かったため、より長くその時間を過ごすことができた。よく自然を観察した。道路、街路樹、公園、川、池、石、草、花、森、小動物、踏切、歩道橋、U字溝……。加えて、私が作り上げた空想の世界で、自己満足に浸っていることも多かった。その世界では、いつも私が主人公で、いつもそこでは輝いていた。晴れの日も、雨の日も、曇りの日も、風の強い日も……。春の日も、夏の日も、秋の日も、冬の日も……。ずっと、そんな時間がそこにあった。あの歩いている時間だけが、歪な人間関係から解放された妙に心地のよい時間だった。


いじめられた原因はわかっている。育児放棄だ。

初めて集団生活をした幼稚園で、同学年のみんなについていけなかったことで、いじめの対象になった。本来なら一人でしなければならないのに、それができなかった。教えられていないと、その概念すら頭に存在しない。よく職場で「わからないことがあったら聞いて」と言う上司なり先輩社員がいるが、わからないことと知らないことは違う。概要はわかっているけど、その処理の仕方が不明な場合と、それ自体を知らない場合とでは全然違う。私も上司という立場で仕事をしたことがあるけど、わからないことは聞いてくるのを待っていればいいが、知らないことは教えなければ永久に知らないまま……。あとから、どこかでその概要に触れて、聞いてくることはあるかもしれないけど……。

私が、箸を使えなかったり、一人でトイレに行けなかったというのはそういうことだろう。

もちろん、幼稚園という集団生活までに、大人が箸を使っていたり、一人でトイレに行っている姿は見ているはずだから概要を知らなかったわけではないのかもしれないけれど、まだ3歳だったので、そういう思考がなかった。だから、どうしようもなかった。


では、虐待はいつから始まったのか?


正直言って、私自身の主観では、生まれたときからずっと……。もちろん主観なので、「虐待」の定義も含め、他人と客観性をもって比べることはできない。明らかに異常だった。そもそも育児放棄自体、もはや虐待と言えるのではないか……。常に、同学年のみんなについていけなかった。私は「勉強しろ!」以外の言葉を両親からかけられたことがない。日々の会話なんてしたことがない。学校で集団生活をしていると、明らかに「何かがおかしい……」ということに気づく。他の家で生まれ育っているクラスメイトたちの言動・表情・仕草・行動が、明らかに私と違う。どう考えてもおかしい……。私の見知った世界は、全て、嘘だったのか……。私の当たり前は、世間一般の当たり前ではないのか……。激しく悩みました。

プレゼントをもらう、誕生日を祝ってもらう、どこかに食事に出かける、どこかに遊びに連れて行ってもらう、そんな経験はしたことがない。そもそも家から一歩も出たことがない。

私は同学年のみんなから置き去りにされている……。

言いようのない恐怖と不安は歳を重ねるごとに大きくなっていきました。友達がいないのは当たり前……、むしろ、いたらどうなっていたのだろう?両親はどんな反応をしたのだろう?想像するだけで恐ろしい。祖母が亡くなってからは、家で笑ったことなど一度もない。

この先、私はどうなってしまうのだろう……。

恐怖と不安しかなかった。


父親による暴力は物心つく頃からありましたが、本格化したのは、10歳のとき……。それが原因で顔面神経麻痺を発症したのが、18歳のとき……。母親は、えげつないほどに心に刺さる言葉の暴力を、物心つく頃からずっと続けていました。暴力がなぜ始まったのか?その原因はわかります。あれは、小学4年生のとき……、私は学校の校舎裏で集団リンチを食らった。この頃、いじめはどんどんエスカレートしていき、昔、幼稚園で受けたのと同じレベルの制裁を食らっていた。身体を押さえられ、殴られ、その上、トロトロとねっとりとした犬のウンチを食べさせられた。しかも、それが、給食が終わったあとの掃除の時間だったため、担任の先生が、「お宅の子供は、掃除の時間に掃除をさぼって、校舎内のどこかで遊んでいる」と両親に連絡を入れてしまった。そこでスイッチが入ったのだと思う。その日、家の空気感が変だった。どことなく狂気に満ちていた。突然、髪を引っ張られ、殴る蹴るの暴行を加えられた。まさか、そんな連絡をされているとは知らなかったし……。新人の先生は自分を守るために生徒を犠牲にしたのだ。両親は、私と日々の会話をしたことがないので、当然、私が学校でいじめられていて、友達や会話の相手が一人もいないことを知らない。仮に聞かれても言わなかっただろう。私は……、この理不尽な状況に追い込まれたのは「お前たちのせいだ」と、心の中で叫ぶのがやっとだった。


次に、なぜ顔面神経麻痺になったのか?だが……、これに対する答えを言葉にするのは難しい。もちろん、鼓膜が破れるほどの殴打を食らったのが原因だと思うけど、それ以外にも、精神的に何か飽和状態だったものが溢れた……という感覚があった。

子供に託した自分自身の夢が叶いそうにないとわかり、「使えない道具」というレッテルを私に貼ったあと、使えない道具なら何をしてもいいだろうと、感情を剥き出しにしたのでしょう。

幼少期から、勉強においてスパルタ教育が施されていた私の家庭では、私の成績がガタ落ちしたという現実を、到底、受け入れることなんてできないでしょう。やり場のない怒りが、殺意という名の暴走に変わったのだと思います。父は、私の顔に毎日のようにサバイバルナイフを突きつけ、「今度、成績が落ちたら殺すぞ!」と殺害予告を繰り返してきました。母は、それを見ながら、毎回、不敵な笑みを浮かべていました。両親の学歴コンプレックスは嫌というほどわかっていましたが、その過度な期待に応えていけるだけの気力が、私にはもうありませんでした。なぜ、今まで、その過度な期待に応えようとしていたのか……。他人にはわからないと思いますが、それ以外、私の人生観・世界観には存在していませんでした。

当時の時代背景は、全てを根性論で片付けてしまうので、精神や身体に深刻な異常が起きても、黙っているしかなかったです。今の時代だったら、双極性障害または鬱などの診断書を声高々に掲げることによって、被害者という名の殻の中に閉じこもることもできたでしょう。たとえ、他人から被害妄想クズ女のレッテルを貼られようともね……。

高校3年生にもなると、ついに、卒業も危ういレベルまで成績が落ちてしまった。私の顔面が麻痺して、私から喜怒哀楽が消えたのが、その年の夏……。みんなが爽やかに青春を謳歌しているときでした。

「そもそも、オレが食わしてやったのだから感謝されることはあっても非難される覚えはない」と、それまで、何をしようが自分を正当化してきたのだから、なるべくしてなった結果かと思います。

尊属殺の規定があった当時、親とは、神のように慕われなければならないという風潮があった。だから、そういう古い日本社会の風潮と現実との狭間で戦っていた子供の存在なんて、

当然のごとく、家族だけでなく社会からも抹殺の対象でしかなかった。


当時、私が自殺をしても、その理由は誰にもわからなかったでしょう。

残念ながら、その風潮はあれから何十年も経ったけど、あまり変わっていない気がする。「自殺の原因は親である!」と叫んだところで、この家族主義国家日本では、誰からも相手にされることはないでしょう。親が作り上げた人生観・世界観の中に、子供の心を閉じ込め、出られなくしておきながら、子供が「この檻から出なくてはとても生きていけない。」と、危機感とともにSOSを発しても、檻を解放するという作業はしないくせに、自分の望んだ結果だけは偉そうに求める。その狭間で居場所が無くなり、命を絶つという選択をした子供が被害者であり、親は加害者である。それが、この家族主義国家日本で生きる人間には一ミリもわからない。悲しい現実だ。

あのとき、私が自殺したら、おそらく似たような展開になっただろう。

自殺をした私は「弱い人間」というレッテルを貼られ、死んだあとも各方面から罵られただろう。実際は強い人間で、その強さを遥かに上回る負荷がかかっただけかもしれないのに……。

子供から親子の縁を切ることができ、新しい戸籍のもと、新しい名前、新しい住所、新しい生活圏が付与され、生きたまま人生をリセットできるという法律がこの国にあるのなら、若年層の自殺率は一気に減るだろう。なぜなら、親が原因だからね。

今の時代、学校が原因なら行かなくても社会から抹殺されないし、仕事が原因なら終身雇用の時代ではないので会社を辞めればいいだけだし、ネットが原因ならコメント欄とメール設定をオフにすればいいだけ……、残念ながら、親子関係だけは、今も切ることができない。

そこで、一つの疑問が湧いてくる。


なぜ、両親は私を作ったのか?


当然の疑問だ。

子供が邪魔なら最初から作らなければ良かっただけの話……。なぜだ?

私は不慮の事故によってこの世に生を受け、本来なら、生まれてくるべき人間ではなかったのだろうか……。今思えば、二人とも子育てには全く興味が無かった。それは痛烈に感じていた。では、なぜ作ったのか?


私の答え……、それは「道具」がほしかったからではないだろうか……。


逆らえない相手を服従させることで得られる快感……、また、「子供のため」と言えば、この家族主義国家日本では、たとえ育児放棄をしていたとしても、各方面から承認欲求が得られるので、その快感……、さらに、老後の孤立を防ぐためという理由や、将来の介護用ロボットとしての役割など、「道具」としての用途に必要性を感じたのだろう。私が牢獄に閉じ込められているような感覚しかないのは、そのためだ。


私は自分の運命を考えずにはいられなかった。

将来という言葉が、成長するたびに、どんどん迫ってくる。逃げ道は無かった。当初は、ただ漠然と……ただぼんやりと……見えていた未来だったけど、詳細に見えるようになってきた。

おそらく、私はみんなと同じように生きられない。将来のどこかの時点で、この街を去らなければならない。私が生きた痕跡も消さなければならない、追跡不可能なレベルでね。そして、もし、それができなければ……、それに失敗したら……、私は死ぬ。生か?死か?選択は二つしかなかった。


家族主義国家日本で、10代で家出するのは簡単なことではない。亡命と何も変わらないからね。決断は容易ではなかった。それは、同年代たちが羽根を伸ばすように冒険を楽しんでいたのとは違う。まだ見ぬ世界へ、道なき道を行く……、片道切符の過酷な旅路だった。実際に、その旅路は、私の覚悟を遥かに上回るものだった。

家族主義国家日本では、父と母は尊敬されるものという大前提がある。尊敬できない人間は、子供扱いとなる。尊敬できるようになって「大人になったね。」と言われる。これが私には、幼い頃からずっと苦痛だった。いったいどんな人生を送ったら、そんな発想が生まれるのか、私には全く理解できなかった。なぜ、父の日・母の日があるのか?もちろん、日本だけで設定されている日でないことくらいは知っているけど、これは、家族という保証人がいないと、家族主義国家日本では何もできない……、それを象徴するような日だ。虐待と育児放棄を食らって、奴隷という立場で家の中で塩漬けにされた私が、なぜ、国家や社会に親への感謝を強制されなければならないのか……、私にはそれが全くわからない。それをしなければ、なぜ子供扱いされるのか……、それもわからない。就職・結婚などの人生の節目を、いちいち親に報告したり承認を得たりする行為も、私にはさっぱりわからない。それが家族主義国家日本の流儀であり常識であるという世界観を知ったとき、私には恋愛や結婚は一生無い……と悟った。家族観があるかないかは、この国で生きる私の年代では、命取りになるかならないか……、それくらいの事案だった。現に、それが原因で命取りになったと思う。


あっちの世界の連中は、家族観の無い世界などわからない。父の日・母の日を、虐待や育児放棄を食らって育ってきた人間がどう思うか?なんて……、そんな思考は、連中には一ミリも存在しない。社会的行事に逆らうことで「ああ、悪かったな、非国民で……」と言いたくもなるが、それを言って何になるだろう?私が、どれほど苦しい嘘をついてきたか、わかるだろうか……。どれほどの思いをして、家族観のある人間を演じてきたか、わかるだろうか……。当たり前のように、父の日・母の日の定義を振りかざし、ギフト商戦を展開するこの国の国家観と、それを認容する社会が、私にはあり得ない。

身元保証人がいない天涯孤独の世界というのは、私に言わせれば、足あと一つ残らない獣道だった。

結局、私が故郷で生まれ育ち、そこで得たものは、自殺願望と殺人願望だけ……。その結果、誰とも繋がれずに、ただ「生きるためだけに生きる人生」という選択を余儀なくされた気がする。

そして、あの日がやってきた。故郷で過ごす最後の日がね。学生生活の終わりとともに、私は失踪という形で、あの街を去った。


私がこの世でやり残したこと……。


そう……、それは、恋……。


同じ一回きりの人生……。同じ一回きりの若い時間……。何もできずに終わった無念と絶望は、言葉では表現できない。私には、なぜ、青春時代が無かったのか……。

あのとき、みんながしていたことは……、好きな人に愛の告白をして、または、誰かに告白されて、付き合いがスタートする「恋」というものだった。

家族主義国家日本で、天涯孤独となった私にはこの「恋」が、唯一の突破口であり、生きていくための手段であることは、恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた大半の日本人にはわかるはずがない。まさか、この「恋」ができないという十字架まで背負わされていて、その重荷に耐え切れず、人生自体が潰れてしまうなんて……。今まで、幸せそうに恋をする二人と、何回すれ違ったのだろう。何百万回、何千万回、何憶回、いや、それ以上か……。

学生時代……、恋愛は、未来のある時点で必然的に発生するものだと思っていた。

10年後の私は、きっと最愛の人と恋愛をしているのだろうと、勝手に想像していた。ただ、現実は違っていた。今、この時にしかできないことだった。

家族観が無ければ恋愛や結婚は不可能だと、当初から、心のどこかで感じていた。それでも、きっと違うはずだと、言い聞かせる自分もいた。

恋愛ができる時間は、もう終わってしまった。たとえ、今、あの時代に戻れたとしても、私はあの時と同じように何もできずに終わってしまうだろう。今となっては、人生の全ての時間が、恋を追いかける時間だったような気がする。

私は恋がしたかった……。

死ぬほど、恋がしたかった……。

ただ、恋がしたいという単純な願望だけでなく、恋ができなければ、この先の人生には進めないという……、言わば、恋とは人生の登竜門の役割を果たしていたような気がする。だから、叶うまで追いかけるしかなかった。次のステップに進むため……、つまり、生きるためにね。それなのに……。


あのとき、みんなが恋をしていた。

私が高校生のときの話だ。

教室、廊下、校庭、通学路、学校からの最寄り駅、駅のホーム、電車の中……、あらゆる場所で、同じ制服を着た、恋する人たちがあふれていた。

今しかできないことを、今、全力でそれを実行し、そのときにしか得られない色に染まっていた。

私も、あの当事者になりたかった。その思いは強かったけど、どこか、異世界の物語のようにも見えた。あれを人間的な成長というのなら……。私には、あの壁を超えられない。とても、ついていけなかった。


16歳になった途端、周りのみんなは、急に社会性を身につけるようになった。将来を見据えた勉強をしたり、アルバイトをして自分で稼いだり、仲の良いもの同士が集まって旅行に出かけたり、メイクをするようになったり、大人の下着を身につけたりと……。

私はこの急激な変化に、ついていけなかった。それに追い打ちをかけるように目の当たりにしたのが恋だった。物心つく頃から「勉強以外は何もしてはいけない」と言われ続けた私は、いつしかマインドコントロールの状態に陥っていた。恋愛をするという行為は、私の生まれ育った環境による知見では、テストで悪い点を取ることや、友達を作って遊ぶこと、人を殺すこと、それと同じくらいの罪意識があった。

それに告白なんて、とてもできない。そんな勇気や自信はないから……。

私のした努力と言えば、通学中に化粧をして、少しだけ色っぽく魅せることくらい……。結局、そんなことをしても異様な雰囲気の私に言い寄ってくる男性は一人もいなかった。恋をする同級生たちの一瞬、また次の一瞬が、一コマずつ私の記憶に焼き付いた。それはまるで、宇宙ステーションの窓から、青くて美しい地球を眺めるかのように……、分厚い殻の中からの眺めでしかなかった。

本当に苦しかった。

記憶に焼き付いた同級生たちの恋愛シーンがあまりにも膨大に膨らみ、メモリがそれで埋まったとき、私は勉強が完全にできなくなってしまった。親からの暴力よりも、こちらの苦しみにとどめを刺された感じだった。

恋愛に関して言えば、私は見事なまでに敗北を重ねた。

恋人のいる毎日や、恋人と過ごす一分一秒の時間って、どんな時間なのか……。何十年も追いかけたのに、私はそれを一秒も味わうことなく、この世を去らなければならない。もう、それが可能な時間は終わってしまったからね。出会えない運命と、その枠の中でしか生きられなかった人生……。そんな人生の意味を問い続けた。無念に苛まれながら……。毎日毎日、一分一秒単位でそれを考え、悩み、苦しみ……、何も手につかないまま惰性で世の中に合わせてきた。最後は、その惰性すらできなくなった。年齢を重ねる度に、同年代の幸せと成長が眩しく映るようになっていった。それは、20代の頃に最も激しい衝動をみせた。さらに年月が流れると……、あるとき、それはスーッと消えていった。実際には、消えたのではなく、私から届かなくなるほど離れていっただけ……。あれが見えなくなるまで離れたとき、あいつらと、あいつらの子供は、殺戮の対象となった。


恋とは何だったのか?


私は服役していたとき、24時間、誰かと一緒に過ごすことによって、たとえそれが疑似家族であったとしても、この家族主義国家日本で生きるには絶対に必要なものだと知った。ただ疑似家族はニセモノで刑務所に中にしか存在しないので、シャバの世界に戻ったら消えてしまう。それとともに私に培われた人間性も消えてしまう。あのあと……、もし、あれが受刑者仲間ではなく、恋人だったらどれほど違ったのだろうか?と……、暇を見つけては考え込むようになった。

残念ながら、私の若い時間は終わったので、もう、それを立証する術はない。私はこのことを、死んだあとも問い続けると思う。同年代の幸せと成長を尻目に、私の一回きりの人生は、何もできずに終わってしまった。私は、幸せそうに恋愛をする二人の姿を、観察することしかできなかった。最後まで、当事者にはなれなかった。天涯孤独の私が、結婚どころか、恋愛どころか、たった一回のデートすらできずにこの世を去る。そんな運命が、どれほど無念で、どれほどの絶望かなんて、誰にわかるだろうか……。

小学生のとき、すでに敗北という恐怖はあった。それが、どうにもならないほどにどうにもならない神レベルの話であることも含めて……。本当に、本当に、無念でしかない。あの家にさえ生まれなければ、みんなと同じように恋ができた気がするから……。


改めて、恋人のいる毎日とは、いったいどんな時間だったのだろう。

そこには、どんな毎日の一分一秒があったのだろう。その経験を得たあとの人生は、どういうものになったのだろう。

私のように家族観の無い人間は、駆け落ちという逃避行ができる人間以外は無理……。そんな人間は、この家族主義国家日本では、どこをどう探したっていない。実際に、命を懸けて探しても、どこにもいなかった。

一回きりの人生が何もできずに終わってしまうなんて……。

どの国で生まれ育ったか、どの地域・どの環境で生まれ育ったか、誰が両親か、その全てを自分では変えられないなんて……。

私の人生の突破口は「恋」しかなかった。それなのに……。

私の無念など知る由も無く、世の中の人間は、当たり前のように恋を手に入れている。なぜ、そのとき、私はそこにいなかったのか……。


高校時代……、外を歩けば、同年代の、恋する人たちと、何度も、すれ違った。

二人はいつも楽しそうに笑っていた。

社会人になり、過ぎていく年数が積み上がると、今度は10歳くらい年下の、恋する人たちとすれ違うようになった。さらに過ぎていく年数が積み上がると、今度は一世代下の、恋する人たちとすれ違うようになった。

私は今まで、ありとあらゆる場所で、恋する人たちとすれ違った。生きている限り、これからもすれ違い続けるのだろう。テーマパーク、大型ショッピングセンター、レストラン、コンビニ、学校、会社、書店、飲食店、雑貨店、映画館、街の歩道、山、海、河川敷、橋の上、道路、駐車場、公園、駅のホーム、階段、マンションの通路、アパートの通路など、一つ一つの場面が鮮明に蘇る。春夏秋冬、それぞれの季節の色を添えて……。晴れの日、曇りの日、雨の日、台風の日、雪の日、それぞれの天候の色を添えて……。早朝、朝、昼、夕方、夜、深夜それぞれの時間帯の色を添えて……。

私もあっちの世界に行きたかった。

恋がしたかった。

だって、私にはそれを求めるしかないのだから……。


残念ながら、私は幸せそうにデートを楽しむ人たちの姿を、ただ、見ていることしかできません。自分を変えられないのです。もう、あの家を離れて随分と時間が経過しているのに……。物理的支配からは逃れられても、精神的支配からは逃れられないのです。いつまで経っても人を殺すことと恋愛をすることは同じ罪に思えました。自分からブレーキがかかってしまいます。

どうしたら良かったのでしょうか?人生は一度しかないのに……。

あの頃、私は焦っていました。

一度も付き合ったことのない私が恋愛に踏み出せるのは、精々20代までだと思っていたから……。30歳を過ぎたら、きっと何もできずに通り過ぎた若い時間への喪失感と、一度も付き合ったことがないという劣等感で押し潰されるだろうと……。

時間が迫っていました。もう、手段を選んでいる場合ではありませんでした。


今、恋愛ができなければ、生涯できない……。


そんな強烈な危機感が私の背中を押しました。

私は自分の運命を変えるために全身整形を始めたのです。もともと外見は悪くはなかったけれど、異様な雰囲気を和らげるために顔も整形しました。その結果、モデル並みの顔、張りのある巨乳、引き締まったウエスト、プリンのように弾けるふっくらとしたお尻を手に入れました。ほぼ完璧でした。

少しばかりの自信を胸に、数々の出会いのパーティに参加しました。もちろん、ネットでの出会いも頑張りました。

努力の結果なのでしょうか、私に言い寄ってくる男性が山ほど出てきました。私も積極的にいろいろな人と話をして可能性を探りました。だって、死ぬほど恋がしたかったから……。

男性と話ができるようになったのは大きな進歩でした。しかし、結婚を前提としたパーティでは私の求めているものは手に入りませんでした。要するに、理解者がいないのです。あれだけたくさんの男性と話をしても、一人も見つかりませんでした。

私が求めていたのは、失ったあの時間を取り戻すことでした。それは手の届かないファンタジーでした。

現実は、全く違うのです。

私自身、好きとか愛しているとか、そんな言葉遊びなんかどうでも良いと思えるほど、人生に疲れ切っていました。たとえ「好き」と言われても疲れるだけで全く響かないのです。だから何?という感じでした。交際が、好きとか愛しているという言葉でスタートする若い精神脳は、一度も使用していないにもかかわらず、時間の流れの中で、知らぬ間に無くなっていました。交際に発展するには、「孤独」という言葉の本当の意味を知る人間を見つけて、その人と一緒に、共通の敵である「孤独」に打ち勝っていくといった理念が大前提でした。要するに、生きるための戦友探しです。

私はもう……、このような形でしかパートナーを探せない状態に陥っていました。

「好き」や「愛している」が排除されてしまうと、相手の要望と言えば、収入や資産管理をどうするか、住居をどうするか、家事をどうするか、子供を何人作るか、親の介護をどうするかといった、リアルな生活感だけが残ってしまいます。そのような重荷を恋愛経験が一度もない私に唐突に突きつけられても、それに向き合えるだけの人生経験がありませんでした。私は家族に対して憎しみの感情しか持てません。それは他人の家族に対しても同じです。それに幼少期からの辛い出来事を払拭して、みんなと同じように立ち居振る舞うだけの強さもありませんでした。だから、結婚相談所や婚活パーティといった場所では可能性がゼロでした。

では、ネットでの出会いはどうだったか?というと……。

ネットは気楽な気持ちでメールのやりとりができ、結婚を前提にしない分、私の求めているものに少しは近づけると思っていました。しかし、こちらも全くダメでした。単なるマッチングの問題なのかもしれませんが、既婚者が独身を装うケースが多く、悪質業者によるサクラ・なりすましも横行していて、この体を抱くことだけを最終目標に掲げている男性ばかりでした。

それでは、ただ拒絶するしかありません。抱けないとわかると見切りをつけて去っていきます。男なんてそんなものです。恋には、年齢というタイムリミットがあります。期待と疲労が入り交じったパートナー探しは、やればやるほど精神が磨り減っていきました。なぜ、これほどまでに出会うことができないのでしょう。悔しさと無念だけが精神を支配するようになっていきました。

何年も……、何年も……、こんな事を繰り返しました。

自分だけが止まった状態で動かないのに、周りはどんどん恋に仕事に人生経験を重ね、年相応の自分へと成長していきます。同年代の幸せと成長を尻目に、私は……、あまりにも離れすぎてしまいました。


もう、追いつけない。


そして……、もう、実らない。


結局、一回きりの人生の、恋が可能な時間は、ただ何もできずに虚しく過ぎていっただけでした。

私は女子高生というあの時代の中に、みんなから10年、20年遅れで必死になって飛び込もうとしていました。しかし、時は流れ、歳も重ね、人はそれぞれ成長を遂げていきます。男性に会えば会うほど、あの時代には戻れないことを痛烈に感じるようになりました。あの輝きはあの時代にしか存在しないもので、同年代が10年前、20年前に経験したことを今さら追いかけても、そこにたどり着けるはずがありませんでした。恋愛経験が一度もないという事実だけが重く積み上がっていき、危機感は絶望へと変わりました。

「私は能力のない人間のクズで、社会のゴミなのだ」という強烈な自己嫌悪に陥りました。こんな手の施しようのない人間のクズが「恋がしたい」などと言っている時点でおかしいのではないかと思いました。恋をするために闇雲に走っている自分が情けなくなりました。強烈な劣等感は私から行動という二文字を奪いました。そして、気づいたのです。神には逆らえないということに……。


あの日……、そう、30回目の誕生日を迎えたあの日……。私は恋愛が一度もできずに10代と20代を終えて、生きがいと生きる意味を失いました。誰もいない部屋で大量の薬を飲んで、床に大の字になったまま、天井を眺めていました。恋をするための爆発的エネルギーは消え、廃人のようになってしまいました。もう、何も残っていませんでした。私はただ、強制的に設定されたレールの上を進んだだけなのかもしれません。それでも、私は諦めきれなかった。人生は一回しかないのだから……。何が何でも、恋がしたいから……。

その日から何年……、降りかかる葛藤の中で、恋を求めたでしょう。どれほど「神様、お願いです」と願ったでしょう。

「なぜ、私だけが……」という無念の言葉とともに死んでいく人間は、山のようにいます。私の運命は、きっとそういう人たちとは違うと、自分に言い聞かせてきました。残念ながら、私はその中心にいたように思えます。


人間とは何なのでしょう?日本人とは何なのでしょう?命とは何なのでしょう?

私の延長戦も、今の年齢になって、さすがに不可能だと思いました。恋愛が一度もできずに、たった一回のデートすらできずに、一回きりの人生が終わったのです。

360度、見渡す限り、岩と枯草しかない大地に、呆然と立ち尽くし、その景色を眺めているような感覚でした。喪失感は半端じゃなく、何も手に付かなくなりました。仕事を辞めて、部屋に閉じこもり、食ったら寝るという日々を繰り返していました。部屋はコンビニ弁当の食べ残しや空き缶が散乱するようになり、いつしかゴミの山に埋もれるようになっていました。唯一の会話の手段であるネットでは、ディスプレイの向こう側にいる人たちに対して「人の一生は生まれた瞬間に全て決まる。それを自分の力で変えることは絶対にできない」と宗教指導者のように説き伏せていました。

まさに、絶望の日々でした。

分厚い殻の向こう側に見えた世界は見えなくなり、希望の光は完全に消えてしまいました。私のいる世界では、ただ暗闇が広がっています。あの光だけを見て、蠢くものの支配に背を向けてきた私にとって、この暗闇は何十年にもわたる自分との戦いに終わりを告げるものでした。


私は神を探しました。なぜなら、答えを知りたかったからです。私の存在とその意味についての……。

神なら知っていると思いました。でも、居場所がわかりません。どこにいるのですか?宇宙でしょうか?

神は、なぜ人に宿命を与えるのでしょう。神は人に幸福を与えることもあれば、時に非情な決断を下すこともある。宿命は、人が生まれる前から決まっている。神との対話はいまだ叶いませんが、神の意図はわかります。神が私に与えた宿命は、「人は他人の幸せを目の前にして、いつまで憎悪を抑え続けることができるのか」だと思います。きっと、私の人生を使って実験をしたかったのではないでしょうか……。私は知らないうちに神が課した課題に取り組んでいたのでしょう。全ての人間は、お題は違えど、自分に与えられた課題に取り組むために生まれてくるのでしょう。

神を分析するだけの能力は人間にはありません。だから、神の正確な意図はわかりません。

ただ、神が絶対者であるということに変わりありません。人生を巨大な迷宮に例えると、どの入口から入って、いつ、どういう手段で、どういう経緯を経て、どの出口にたどり着くかは人それぞれですが、神はこの経路を始めから知っているのです。知っていながら実験をするのです。

神に言わせれば、実験は余興に過ぎないのです。だから、人生は儚いのです。全ては神の手のひらの上で起きていることであり、人の意思は関係ありません。努力は関係ありません。我慢も関係ありません。行動も関係ありません。一見、突発的に起こったように感じる、偶然、奇跡、幸運、不運といったものは、全て神の粋な演出に過ぎません。私は人生に行き詰まりました。でも、神に言わせれば、ただの途中経過なのかもしれませんね。すでに私の結末を知っているのですから……。


私はこれからどうなるのでしょう。どんな選択をすれば良いのでしょう。

恋愛……、できなかったです。一回きりの人生で……。苦しいです。

残りの人生って、老けて孤独に死んでいくだけですよね?違いますか?生きる意味、ありますか?

私、もう終わりにしたいです。

私は精一杯、叫びました。悔しい思いと、無念な思いを……、その状態でしか生きられない苦しみを……。

もう、疲れたのです。いや、全てに疲れ果てたのです。何もしなければ、この無念と絶望の日々はいつまでも続いていきます。この苦しみから逃れる術は何でしょう?答えは簡単でした。だって、二択しかありませんから……。

それは究極の暴発です。具体的に言うと、自殺か殺人です。

私は……、私を覆う大気を振り払うことができませんでした。もちろん、そこから抜け出すことも……。その選択をするしか、道が無いのです。

私は宿命とともに、日本を出国しました。

恋愛が一度もできずに終わる人生は、例えるならば、シャバの世界にいながら独房で無期懲役を食らっているのと同じです。

一回きりの人生……、無念としか言いようがありません。極限の孤独は正常な精神を壊してしまいます。私は行く場所も帰る場所も、そして、生きる場所も無くなりました。もう、どうにもなりません。


今度生まれてくるときは……。


今度生まれてくるときは……。


私は、神を恨みます。


さよなら、私の幸せ……。




波の音が聞こえる。

日本海は果てしなく広がる。

大きなリュックサックは防波堤の上に置かれたまま……。その横で、一人の女性が仁王立ちしていた。

女性の手には機関銃が装備されている。

園庭には、幼い二人が横たわっていた。


「ねえ、聞こえるでしょ?ほら、聞こえるでしょ?最高のショーが始まったことを告げるオープニングテーマが。素敵なメロディだと思わない?」


女性が言った。

曲なんて流れていない。聞こえるのは恐怖に怯え、すすり泣く園児たちの泣き声だけだ。

園児たちは死体の近くに集まっていた。

それを、自らの体を盾にして守ろうとする先生の姿があった。とても強い目をしていた。

女性は、機関銃のグリップをしっかりと握っている。銃口の先、つまり、標的はこの先生の全身である。

引き金には、すでに指がかかっていた。ゆっくりと狙いを定める。


「やめて!」


先生が叫んだ。


「さあ、みんな、苦しみから解放してあげるからね、いくわよ!」


女性が言った。


「待って。待って。待って。待って!」


先生は万歳をしながら、必死の形相で女性に訴えかけた。

次の瞬間、まだ、引き金は引かれていなかった。


「なに?悪あがきはよしなよ。みっともないでしょ。どこに撃ちこんでほしいかリクエストして。あなたは良い人生を送っているのだから、未練なんか無いでしょ?」


女性は狙いを定めたまま動かない。


「ちょっとお話しませんか?」


先生が冷静な口調で言った。


「先生、あなたとは価値観が違いすぎる。人生が違い過ぎる。これ以上、話をしたって何の意味もないわ。駄目よ、時間稼ぎは……。誰かがこれに気づいて通報してくれるとでも思っているの?意味ないよ、そんなの。私、実戦経験あるの。日本の警察が来ても、多分、そいつら全員死ぬと思う。さっき見たでしょ?動いている標的だってピンポイントだから……。私には勝てないよ。」


「人を殺すことにそれだけの自信があるのに、どうして恋愛をすることに自信が持てないの?自信を持てばいいじゃないですか。自信を持って頑張れば、これから恋愛なんていくらでもできるじゃないですか。」


「キャハア、どこまでも最高。自信っていうものはねえ、結果が出て初めてつくものなのよ。恋愛だけじゃなくて、どんなことをするにしてもそうなの。あなたが言いたいのは闇雲に突っ走れってことでしょ?それは自信を持って行動する事とは意味が違うのよ。わからない子ね。神の絶対的な意思なの。」


「違う!運命は自分の力で切り開くものよ。妄想にとらわれているだけ……。」


「ハハハハハッ。私はどこの誰よりも現実を受け止めて生きてきた人間なの。その私が何をどんなに捻じ曲げても、逆立ちしようとも、背伸びしようとも、恋愛はできなかった。自分では運命を切り開いたつもりでいても、実際は神の手のひらの上で、もがいていただけ。人生はね、生まれた瞬間に決まっちゃうのよ。恋愛はテストで良い点を取るのとは訳が違うの。生まれた瞬間に決まるの。どんな人間に生まれて、どんな環境で育って、どんな思想を植え付けられたかで決まるの。それは自分の力ではどうすることもできないの。大人になってから、どんなに自分を変えたいと願って行動を起こしても変えられないの。それは運命、つまり、神の意思。わかった?」


「変わる必要なんてないじゃないですか?ありのままの自分でいいじゃないですか。必ずいるよ。わかってくれる人。立派に生きていれば必ず見つかるの。良い出会いがなかっただけよ。ただ縁がなかっただけ。どういう人間になれば彼氏ができるってものじゃないの。ありのままの自分を理解してくれる人が必ずどこかにいる。」


「はぁ?どこかってどこよ!」


「それは立派に生きていれば、必ず……。」


「ハハハハハハハハハハハハ。あなた薄いわね。恋人っていうのはね、ある日突然、目の前に降ってくるものじゃないのよ。恋愛が一度もできずに人生を棒に振った地獄の苦しみを「縁がなかった」の一言で片づけられてたまるか、バーカ。彼氏を作るためだけに生きてきたの。人生の全てだった。それだけが唯一の生きがいだった。あとは何もいらなかった。一番ほしかったものが手に入らず、どうでもいいような社会的地位や責任だけは歳とともに膨れ上がっていく。そのスピードについていけなかった。辛いなんてもんじゃない。私は資本主義社会の一労働者としてのみ、この世に存在したのよ。車に例えたらタイヤのような存在なの。ただ走って、磨り減って終わり。たったそれだけ……。たったそれだけのためにこの世に存在したの。私は愛されたかった。大好きな人に思い切り抱きしめてもらいたかった。もう終わった。終わったの。そして、これからそういう人生を送るであろう予備軍たちに対して、それを味わう前に助けてあげるの……。私は殺人者じゃない!救済者なの。勘違いしないで!」


女性は大声で叫び出した。


「落ち着いて。落ち着いて。これからいくらでも恋愛はできる。できるよ。まだまだこれから、これからよ。今まで不幸だった分、幸せが待っているわ。」


「うるさい、クソ女。人間は平等じゃない。毎年のように、運に恵まれただけの他人に、これからだ!これからだ!と言われ続けて、私はもう疲れたんだ。生涯、恋愛はできなかった。あんたみたいに幸せの手のひらの上で生まれた奴等が、そっちの世界から他人事のように、これからだ!これからだ!と言うことが許せないんだよ。ムカつくんだよ。わかってたまるか、この苦しみ……。」


「ええ、わからないわ。でも……。」


「じゃあ、死ね!」


時間が止まった。


風も止まった。


ここはどこだ?


大地の息吹が聞こえない。


音が全く聞こえない。


人間たちは走り出している。

怒り、憎しみ、嘆き、悲しみ、人間たちは何かを絶叫している。

まるで、音声の壊れた動画をスーパースローで見ているようだ。そこには追い詰められた人間たちの様々な表情が映っていた。

もし、これが映画なら、映像とともに、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」が流れているのだろう。

20世紀は戦争の時代……、では、21世紀は何か?国家・宗教・イデオロギーといった大世界の衝突から、家族・個人間の、小世界の衝突へと移行する時代なのか?そこにはいったい何が待っているのか?その深淵に見えるものは何か?家族の概念が崩れた孤独な人間たちの暴走か?愛無き世界の住人が、世界を破滅させるために武器を取る?いや、ここの住人は、おそらく……。あっちの世界の人間を、自分たちの世界に引きずり込むために武器を取る……。


心地良い振動が全身を揺さぶる。

轟音のダンスが止まらない。

空中に吹き上がる鮮血たちは、とても勢いが良かった。

逃げ出す園児たちが見えた。

太陽、そして、空の世界も見えた。

何が起こった?

振動が大地を揺さぶる。

ゆっくりと……。止まった時間が、元に戻っていく。

先生の身体を無数の銃弾が貫いていく。

全身が傾き始めた。


90度から80度へ……。


70度……。


60度……。


倒れている二つの小さな身体が近づいてくる。

人生の終焉?

鮮血が四方八方に飛び散る。

笹の葉と短冊たちが見える。でも、風の音は聞こえない。波の音も聞こえない。


50度……。


40度……。


美しく輝く指輪に、鮮血が降りかかる。

彼からプレゼントされたときの光景が思い出される。

忘れられない、あの日の誕生日……。

胸いっぱいに感じた幸せ……。

いろんな場面で交わしたキス……。

手と手を繋ぎ合わせて歩いた道……。

楽しかったデート……。

何気なく一緒に過ごした時間……。

共に駆け抜けた青春時代……。


30度……。


20度……。


彼の優しい笑顔が最後に浮かんだ。


「お前のこと、ずっと好きだったんだ。」


「キスしようか?」


「はい。プレゼント。お誕生日おめでとう。」


「今度の休みに、この前言っていた映画、見に行こうよ。」


「初めて作ったわりにはおいしかったよ。全然、いける。」


「風邪治った?なんか作ってやろうか?」


「このこたつ、暖かくないんだけど……。」


「いいだろ、新車は。一番初めに座ってもらうために、ずっとキープしていたから。」


「どうして泣いているの?」


「大丈夫だって、一人じゃないから。」


「こんな店できたんだ。今度、行ってみようか。」


「こうして一緒に居られる時間がずっと続けばなぁって、本気で思うよ。」


「へえ、保育士の資格取るんだ、頑張れよ。」


「思い切り、抱いてもいいか?」


「輝いているよな、この指輪……。」


「死ぬほど好きだよ。」


「大好きだよ。」


「ずっと二人で生きて……。」


10度……。


零度……。


心臓の鼓動が止まった。

逝ってしまった。早すぎる旅立ちだった。たくさんの思い出を胸に、二度と戻れない世界に行ってしまった。

輝きを失った指輪は血に覆われていた。

かすかに零れ落ちた涙の雫が頬を伝っていた。

銃撃が止んだ。


「助けて!」


轟音が消えたあと、走り去る園児たちの悲鳴だけが聞こえていた。


「みんな、どうしたの?どうして逃げるの?私は助けに来たのよ。ねえ、お姉さんと手を繋いで、楽しく行こうよ。だから戻っておいで。」


園児たちは、すでに園舎を飛び出し、無我夢中で逃げていた。


「怖いよ、お母さん。」


泣きながら走り、助けを求めて幼稚園から離れていった。

女性は防波堤から園庭に降りてきた。


「神よ……、運命のパズルは完成させないとダメでしょ?一つでもピースを無くすとこうなるのよ。私一人だけが、こぼれ落ちちゃったじゃない。九九人に幸せを与えたのなら、残りの一人にも幸せを与えないとダメでしょ?あなたのミスよ。」


海からなだれ込んだ潮風が、女性の全身を包み込んだ。

もう誰もいないのに、再び、轟音が鳴り響いた。


「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!」


女性は狂ったように叫んだ。

このとき、足元に置いてあった一枚の紙に異変が起きた。

紙縒りの付いた一枚の紙だ。

なんと、紙から幽体離脱するように一羽の白鶴が大空に向かって飛び立ったのだ。


いったい何が起こったのか?


「ハハハハハハハハ、ハハハハハハハハ。みんな死ね!みんな死ね!みんな死ね!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!」


女性は絶叫していて、この異変に気づいていなかった。

絶叫のダンスは激しさを増していた。

これは、「気が狂っている」という表現に留まらない、何か別の領域に到達していた。

何と言えばいいだろうか……。

これを表現するのにふさわしい言葉は何だろう?


魂が弾ける。


まさに、そんな感じだった。もはや、生身の体がどうなったかではなく、精神的にどうなったかでもなく、魂が暴走しているようだった。

女性は、神の使いにでもなったつもりだろうか?

絶叫が鳴り響く中、何か不穏な空気が漂っていた。


これは、いったい何だ?

地球に変化が生じていた。

少しずつ世界の形が変わり始めている。

何が起こったのだろう。

大地の不気味な変化とともに、時間軸にも異常が起こり始めた。しかし、人類は誰一人としてその変化に気づいていない。今までと同じように、何の違和感もなく、一分一秒の時間が流れ、いつもの日常がそこにあった。


女性の絶叫は止まらない。

激しいリズムとともに、その笑顔は最高潮に達した。


「畜生!クソガキどもがああああ。」


突然、轟音は止んだ。

装備していた機関銃の銃弾を、全て使い切った。それなのに、まだ、引き金を引き続けている。


「死ね死ね死ね死ね死ね!日本人は、みんな死ね!」


狂ったように、その場で360度、クルクルクルクルと回っている。

自分以外は全て敵ということなのだろうか?


「ハハハハハハハハハハハハッ、ハハハハハハハハハハハハッ。」


女性の笑い声が響いた。

ただ、その動きは、突然、止まった。


「ん?」


女性は思わず声を漏らした。音の無い世界に違和感を覚えたのだろうか……。

静まり返った園内は、とても不気味だった。

怒涛のごとく降り注いだ銃弾の雨は、園舎の窓と壁を激しく破壊していた。凄まじい光景だった。

相変わらず、辺りに人の気配は無かった。

海からの潮風は、笹の葉をサラサラサラッと揺らしていた。今は、自然の音しか聞こえない。

血生臭い空気さえなければ、ここは心地よいはずだった。

傾きかけた太陽の光が女性を照らした。その表情は、魂を抜かれているような感じだった。

女性は、ジッと辺りを見渡した。

海だけはいつもと変わらない光景だった。

何だろう、この静けさは?

潮風は、園庭に転がる死体の頭髪たちを、静かに靡かせていた。


「先生、先生!」


突然、声がした。

可愛らしい声だった。園児の声だ。

なんと、亡くなった先生の横で、しゃがんでいる女児がいた。どうやら一人のようだ。両手で先生の体を摩りながら話しかけている。

あれだけの銃弾が飛来したにもかかわらず、逃げずに残っていたのだろうか?特に怖がっている様子もなく、きょとんとした表情をしていた。


「先生、先生!」


小さな声だった。

先生は、すでに死んでいるため、何の反応もない。

穏やかな風は、この女児の頭髪も靡かせている。


「重たいんだよ!」


女性はそう叫ぶと、弾切れになった機関銃を地面に放り捨てた。

まだ女児の存在に気づいていない。

女児は、当然、女性の存在に気づいているはずだが、無関心だった。


「先生、先生!」


何回呼んでも答えは返ってこない。

女性はリュックサックを持ち上げると、ゆっくりと歩き始めた。


「駄目、駄目よ、駄目じゃない、逃げたら。あれ?ひょっとして、誰も死んでない?みんな地獄に落ちなかったの?どうして?生き続けるのは、それ以上の地獄なのに……。」


女性が言った。

リュックの中には、まだ実弾入りの短銃が何丁も詰まっている。

さっき不思議な現象を起こした一枚の紙は、ボールペンとともに防波堤の上に置かれたままだ。

女性はリュックを持ったまま、再び、園庭の地面に飛び降りた。

このとき、初めて女児の存在に気づいた。ゆっくりと近づいていく。


この頃……、先程、大空に旅立ったはずの白鶴は、どこか不思議な空間にいた。

ここは?ここは……、いったいどこだろうか?

何か強烈な時間の歪みを感じる。宇宙空間らしいのだが、どこか違う。生と死の狭間だろうか……。

360度、無限に広がる幻想空間に、ポツンと小さな島が浮かんでいた。この島の大地から上を見上げると、無限に広がる光の世界が広がっている。逆に、下を覗くと、無限に広がる暗黒の世界が広がっている。この幻想的なコントラストの狭間に浮かぶこの島は、いったい何なのだろうか?

とても現実の世界とは思えない。

この浮遊島の直径は一キロほどだ。島の中央には神秘的なデザインの巨大宮殿があった。建物はここだけで、それ以外の場所は、光と水と緑に覆われた幻想的な大地が広がっていた。

ここは神の国なのか?

白鶴は優雅な飛行で宮殿の中へと入っていった。

中で何が行なわれているのか……、少し覗いてみる。

宮殿内の間取りと装飾は、光と暗黒が入り混じり、とても幻想的だった。そこには一人の人物、いや、生物が慌ただしい動きを見せていた。

何者だろう?

その姿はまるで……、古代メソポタミアの、人類最古の文学作品「ギルガメシュ叙事詩」に出てくる、森の守護人フンババを彷彿させる異様な出で立ちだ。その手には、偶然、奇跡、幸運、不運を暗示する四枚のカードが握られていた。

何が始まるのだろうか?

この生物の前に、巨大な渦が、幻想的な光を放ちながら蠢いていた。これはきっと……、運命の渦だろう。人の運命が集まっている。宇宙、存在、幻想、神秘、時間、数学、宗教、瞑想、自然、心理、哲学、地球、精神世界……、万物が異様な形で凝縮されている。

宮殿内には、不穏な空気が流れていた。

この生物は、かつて彦星様と織姫様をも引き離した、神と呼ばれる道士だろうか? もし、運命を掌る神ならば、ある人間を、自ら作ったシナリオ通りにするために、ある日突然、殺すこともできるだろう。宇宙の創世すら可能な万能者ならば、人間から見たら神と言っていいだろう。神が、いつ、どこで、どのカードを使ったとしても、人間の力ではどうすることもできない。少し覗いてみてわかったことだが、人間がよく口にする予感という言葉は、神がどのカードを使うのか、それを熟慮しているシーンを、一瞬だけ覗かせてもらうことを意味するのかもしれない。なぜなら、結果はどうなるかわからないが、次に何かが起こるという事だけは、なんとなく察知できるからだ。

女性に運命のときが迫っていた。そのことを女性は予感できているだろうか……。


「先生、先生!」


先生の死体を摩っている女児の手は、もう血だらけになっていた。丸まっているために全身がバスケットボールくらいに小さく、癒される可愛さがあった。

近づいてきた女性が、女児の目の前に立った。


「ねえ、あなた。どうして逃げなかったの?」


リュックを片手に女性が言った。意外にも冷静な口調だった。

女性は、幼い二つの死体の横を何の感情もなく通り過ぎ、先生の死体までたどり着いた。


「先生、寝ているの?」


女児が女性に向かって言った。


「そうだよ。おねんねしているの。もう永遠に目覚めることはないけどね。どうして逃げなかったの?怖くないの?殺されるところを見ていたんでしょ?目の前で……。」


「明日、先生と遊ぶの。一緒に遊ぶって言ってたよ。」


「なあんだ、ただの馬鹿か……。勇気があったわけじゃないんだね。」


女性は独り言のように呟くと、女児のすぐ隣にしゃがみ込んだ。それと同時にリュックが地面に置かれた。

小さな体、小さな手、小さな足、はち切れんばかりのふっくらとした可愛いほっぺたが、女性の目の前にあった。


「ねえ、あなた名前は?」


女性が言った。


「ゆき。」


女児は死体を見つめながら答えた。


「ゆき?それがあなたの名前?ふうん、ゆきちゃんか……、ゆき……ね……。」


女性は、感慨深げに言った。


「お姉ちゃん、名前は?」


ゆきが女性の顔を見た。


「名前?ああ、そうだね。ウーン?忘れちゃった……。」


ゆきは一瞬、女性に何かを聞きたそうな表情を見せたが、何も言わず、再び、視線を下に向けた。

ゆきは先生の体を摩っているが、蘇生を試みるというよりは、無意識のうちに手を動かしているという感じだ。


「ねえ、ゆきちゃん。死ってわかる?」


女性が言った。


「……。」


「わからない?死くらいわかるでしょ。ゆきちゃんがこれから大きくなってね、どんどん歳を重ねていくでしょ?最後はお婆ちゃんになって、そのあとにやってくるものなんだよ。わかるかなあ?」


「うん。」


「本当に?」


「うん。」


ゆきはわかっているのか、いないのか、判断しにくい表情をしていた。


「ねえ……、本当に怖くないの?みんな逃げ出しちゃったのに……。」


「うん。」


ゆきは無表情で軽くうなずいた。


「ゆきちゃんの同級生は、もう永遠に動かないのよ。本当に怖くなかった?」


「うん。」


女性は不思議そうな表情を見せた。

園内には、この二人以外、誰もいなかった。

辺りの住宅地や道路にも、誰もいなかった。

動きがあるとすれば、笹の葉と死体の髪が風にさらされることと、あとは……、太陽に照らされる鳥の姿が地面に投影されることくらいだ。

太陽の光は、防波堤の上をずっと照らし続けている。あの紙にも光が当たっている。

気のせいだろうか?

紙縒りの付いた一枚の紙だけ、なぜか白銀色に輝いているように見える。とても光の反射には見えないが……。不思議な情景だ。

時折吹きつける少し強めの風は、血生臭い幼稚園の空気を一掃してくれる。また、それと同時に、笹の葉たちのこすれ合う音が大きく園内に響く。短冊たちも大きく揺れる。

願いは届くのか?


「ねえ、ゆきちゃん。どんな願い事を書いたの?」


「ええとね、お友達がほしいって書いた。」


「お友達?お友達がほしいんだ。今、お友達はいないの?」


「うん。」


「そっか。先生はよく遊んでくれたの?」


「うん。」


「そっか。優しい先生だったんだね。」


「うん。」


女性は目の前の死体を見つめながら、複雑な表情を浮かべた。


「願い事って叶うの?」


ゆきが言った。


「うん。叶うよ。ゆきちゃんがね、いつも良い子でいたら叶うんだよ。そうやって人生経験の薄い大人たちに言われなかった?」


「叶うの?本当に?」


「うん。本当だよ。でもね、何もしなかったら駄目。お友達がほしかったら自分から話しかけるようにしないとね。人間関係は距離感と強弱を上手に使いこなすことが大切なんだ。明るくて優しくて、笑顔弾ける自分を演じていれば、そのうち誰かが話し相手になってくれるよ。」


「本当?」


「うん。」


「男の子も?」 


「男の子?ゆきちゃんは男の子の友達がほしいの?」


「うん。」


「そっか、男の子か……。」


女性は近くに横たわるリボンとミサンガを見た。血で真っ赤に染まっている。

女性の感情に、波が立ち始めた。

男の子と友達になりたいという、ゆきの願望は、無意識のうちに湧き上がってくる恋心なのだろうと女性は感じた。


「誰か、好きな男の子でもいるの?」


「うん。」


「そっか、いるんだ。じゃあ、その子とお友達になりたいのかな?」 


「うん。」


「ねえ、ゆきちゃん。それはお友達になりたいじゃなくて、正確にはその子の恋人になりたいってことでしょ?まあ、お友達とも言うけどさ……。好きなんでしょ?その子のこと。だったら、短冊にはお友達じゃなくて、恋人になりたいって書いた方が良かったかもね。」


「恋人?」


「そう。恋人よ。この二人みたいになりたかったんでしょ?こういうのを恋愛って言うの。」


女性は愛し合って死んでいった二人の園児を指差した。

ゆきは何も答えなかった。


「どうしたの?ああいう風になりたかったんでしょ?」


女性は、再度、尋ねてみた。


「う……、うん。」


ゆきは小さな声で答えた。

女性は、気弱で不器用な感じに見えるゆきの姿に、少しばかりの共感を覚えた。血まみれの手で先生の体を摩る姿が、かつて砂まみれの手で砂山をいじくっていた女の子の映像と重なった。

傾きかけた太陽の光が二人の顔を照らす。


「お姉ちゃん、結婚してるの?」


突然、ゆきが切りだした。あどけない顔はとても可愛かった。


「結婚?」


女性は驚嘆した。

突然、ゆきからこのような言葉が飛び出すとは予想できなかった。感情の波が少し荒くなった。


「結婚はしてないよ。」


女性は無表情で言った。その口調は、まるで警察署の取調室で「していない!」と容疑を認めない無実の容疑者の口調に似ていた。

辺りが静まり返っているので、話し声はいつもより遠くまで響く。さっき、あれだけの銃声が鳴り響いたのだから付近の住民が様子を見に来てもおかしくないのだが、なぜか人の気配は全くない。

七夕の短冊たちが揺れる。その中には「結婚したい」という願い事が書かれた短冊もあった。


「私、結婚するの!」


突然、ゆきが力強く言い放った。


「は?」


女性は思わず声を出した。驚きというよりは、少し攻撃的な口調だった。

園児が幼い世界観の中で放った一言に対し、女性はそれを大らかな気持ちで包み込んであげることができなかった。

結婚という言葉が「大人の女性」という名の薄っぺらい表皮を突き破り、その奥にあった「恋愛経験なし」という名の劣等感を突き刺した。人生の先輩として接しているつもりが、実は人生経験はこの子よりも下なのではないか……という不安と恐怖が、自己嫌悪の抑制を不可能にした。

女性はこの言葉を受けて、今まで見せつけられた数多くの恋する二人の笑顔が浮かんだ。

突然、感情が沸騰する。

女性はゆきに対して、なぜか急に「見られたくないものを見られた」という気持ちになった。


「ダメ!ダメなのよ。結婚はダメ!ダメダメダメダメダメ!絶対にダメ!」


女性はこう言い放つと、隣に置いたリュックサックを思い切り蹴り飛ばしたのだ。


このとき、優雅な舞を見せる白鶴の視界に、ある光景が飛び込んだ。

絶対者である神が、どのカードを切ろうかと決断を下そうとしていたのだ。


女性は感情の波を、大波に変えていた。

ゆきは女性のこうした変貌に対しても、特に怖がった様子もなく、ポカーンとした表情で下から女性の顔を見上げていた。

女性はリュックの中に詰め込まれている短銃たちに目をやった。

ゆきと接してから、それなりに心の豊かな大人の女性を演じてはみたものの、所詮は何もできずに人生が通り過ぎた劣等感の塊でしかない……、いくら相手が幼い園児であっても、浴びせられる言葉に対して大人の対応などできるはずがなかった。孤独な生活から見える幸せな他人への憎悪、失った若い時間に対する喪失感、生きる意味・気力・目的・希望の無い現実と、老いと孤独と死しかない未来に対する絶望、才能や運に恵まれなかったことに対する神様への不信感、ありとあらゆる競争に負け続けた無能な自分に対する嫌悪感、同年代の幸せと成長を尻目に、何もできずに終わった一回きりの人生に対する焦燥、空っぽの自分を見透かされているのではないかという不安と、その現実に対する虚無感……、それらは劣等感という、自分が作り上げた大地にのみ存在し、自分を形作ってきたが、その大地が丸ごと砕け散ろうとしていた。

それに抗うべく、激しい大津波を自分から引き起こした。


「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ。そうだよね、みんな一緒だもんね。人間なんてみんな一緒だよ。ハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ。勝手に結婚すればあ?」


女性は狂ったように言った。

ゆきは相変わらずポカーンとした表情をしている。

つい先程まで「恋人がほしければ短冊に書けばよかったのに……」と言って恋愛に対して肯定的だった女性が、「結婚する」と言った途端に豹変して真っ向から否定してきたことが、ゆきには理解できなかった。

その疑問は言葉となって表に出た。


「恋愛と結婚って違うの?」


ゆきが言った。


「ハハハハハハハハハハハハハッ。可愛い顔してそんなこと聞くの?お前みたいなガキに話してもわからないと思うけど……。一応、冥途の土産ということで教えてあげる。恋愛っていうのは妥協ができないの。結婚っていうのは妥協ができるの。結婚は相手の存在が全てじゃないんだよ。寂しくて一人では生きられないとか、家族が急かすからとか、子供がほしいとか、相手のカネにしがみつくとか、ジジババの介護要員募集とか、仕事や家名の後継者募集とか、いろんな理由があんのよ。でね、私はそういう妥協した結婚と死を秤にかけたとき、死を選ぶ人間なの。わかるかな?妥協した結婚をするくらいなら一人で野垂れ死んだ方がマシ。家族観の無い私には、そういう結婚は不可能なの。私にとって結婚は『駆け落ちをする』という意味以外では存在しない。それは若いときに心ゆくまで恋愛をして、愛に満ち溢れて、人間的に成長を遂げたあと、戦友とともに残りの時間を歩むという意味……。短い一回きりの人生で大切なのは、そこに至るまでの一分一秒の時間を磨り潰すように味わい、濃厚な時間にすること……。それが人生の中核となり、やがて、それが人生の意味となる。だから、恋愛の延長線上にあるような、相手のことしか見えない愛に満ち溢れた結婚以外は興味がないの。恋愛が一度もできずに若い時間を終えたとき、私の人生は終わったの。大した努力や我慢もしないで、幸運に恵まれ、恋愛を重ね、愛に満ち溢れる人生を手に入れた人間を、私は許せなかった。こんな事を口走ると、恋愛をしてきた人間たちは、一斉に私を馬鹿にするし、あんたの先生みたいに『まだ、これからだ』とか、『努力が足りないからだ』とか、『理想が高いからだ』とか、適当なことばかり言って見下すけどね。」


「じゃあ、恋愛してから結婚する!」


ゆきが言い放った。

今、話したことが理解できているとは思えないが、その言葉はとても力強かった。

女性の劣等感に突き刺さった刃は、この勢いのある言葉を受けて、さらに深淵まで抉った感じだ。


「フフフッ。ゆきちゃん、最高。最高よ。」


女性は興奮気味に言った。同時に、チラッとリュックの中を確認した。

覚悟を決めた視線の先には、短銃たちが犇めき合っていた。

ゆきの顔に恐怖はなく、女性の発する言葉に対しての反応も薄く、ポカーンとした表情をしているだけだった。


「幸せを……、幸せを手にする奴は、みんな死ねばいい。私は助けに来たんだ。劣等感にまみれて憎しみをぶつけに来たんだじゃない!フフフッ。悪気はないんだけどね……、運命だと思ってあきらめてね。私だって好きでこんな人間になったんじゃない。どうすることもできなかった……。人間の力ではどうすることもできないの。人間は誰も助けてはくれない。正確に言うと、日本人は誰も助けてはくれない。自分さえ良ければ他人なんかどうなっても構わないという、日本人の本質に触れ続けた結果なのよ。最後の最後まで、他人の踏み台だった。ただ、踏みつけられた。いろんな人間に踏みつけられた。そんな一回きりの人生だった。我慢強かったと思うけどね。死ぬまで我慢っていうのは無理だったわね。私は踏み台という立ち位置から、踏んづけている奴らに、ただ銃口を向けただけなのよ。何が悪いのかしら……。ハハハハハハハハハハハッ。何が悪いの!何が悪いんだよぉ。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね、死んじゃええええええ。大好きな先生の元へ送ってあげる!」


興奮は最高潮に達した。

女性は地面に置いてあるリュックの開封口の中に、勢いよく手を突っ込んだ。

その瞬間だった。


「うっ!」


女性は思わず声を出した。

鈍い音がした。


いったい何だ?


まるで瓶入り炭酸飲料のコルク栓が、中の圧力に押し出されて吹っ飛んだときの音に似ていた。

かなり大きな音だった。


時間が止まった。


風も止まった。


女性は今までの人生で目に映った全ての場面が、一瞬で同時再生されたような感覚に陥った。


「今の音は何?」


女性は音の正体を探った。


どこから聞こえた?


「なんだろう、この感覚は?ここはどこだ?」


女性は白鶴の目を借りて、その光景を見た。

空の向こう、あの太陽の向こう、宇宙の果てをさらに進み、時空を超えた無限という名の世界の姿を……。

そこでは光と暗黒が美しいグラデーションを奏でていた。

誰もたどり着くことのできない天堂の世界だ。そこに小さな島が浮かんでいた。そう、ここは神の国である。

遙か彼方に存在するこの国で、今、何かが起こった。

この国には運命を掌る様々なカードが存在する。その中でもレアカードとして、偶然、奇跡、幸運、不運、といった四枚のカードがあった。これらのカードは、神と呼ばれる魔導士だけが持つことを許される。

ここから見える光景は、運命の渦の前で、仁王立ちする魔導士の姿だった。

ん?何か変だ!二枚、足りない。つい、さっきまで、四枚のカードを手にしていたはずなのに……。

「四枚のカードを手にしていた」というのは錯覚でも予感でもなかった。「覚えている」という言葉には遠く及ばないが、記憶の深淵にかすかに触れる程度の……。それをどこかで感じていた。この世界との繋がりを感じていた。

魔導士は何をしたのだろう?

運命の渦は異様な輝きを放っている。

白鶴は見ていた、その行動の一部始終を……。どうやら魔導士は、この女性に対して、四枚のカードのうち、二枚のカードを使ったようだ。

なんだろう、この鳴り止まない歓声は……。

神と呼ばれる魔導士が、カードを使ったことに対して歓声が上がったのだろうか……、それとも、運命の分かれ目に立ち会えたことに歓声が上がったのだろうか……。姿は見えないが、大観衆による大歓声が聞こえる。声の主は、おそらく神に仕える司教たちだろう。どこからともなく聞こえる大歓声は、きっと神の行動を賞賛する歓喜の歌なのだろう。

女性は白鶴の能力を借りて、それを見た。


「何だ、これは?私の運命?」


神は女性の行く末を冷静に眺めていた。


「何?四枚のカードが二枚しかない。何だ?私に突き刺さっているのは、偶然のカードと不運のカードのみ。この二つが、私の運命に氷の刃と化して突き刺さっている。あれ?残り二枚はどこにあるの?幸運のカードは?奇跡のカードは?どこにあるの?神の手元に残っているのは?あれ?か……からだ……、体が……。」


女性は棒立ち状態となった。

思わず視線を胸の辺りに移す。すると、おびただしい量の血が流れ出ていた。

女性は目を背けるかのように、反射的に視線を上げた。

何が起こったのか全くわからない。

手で胸を触ってみる。温かい血が、脈々と流れ出ている。


「何が……起こった?なんだ?」


明らかに女性の体に異変が起きていた。

どこからともなく恐怖の影が忍び寄ってくる。


「こ……、これは?」


女性は、再度、体の異変を目で確認した。それは、まるでエンジェルフォールを上から眺めているような光景だった。

女性は反射的に滝口を手で塞ぐ。しかし、勢いは止まらない。

尋常でない量の血が、滝壺に落ちていく。

女性は何かを悟った。


「私、撃たれたの?」


ゆっくりと周りを見渡してみる。

ゆき以外は誰もいない。視界に、怪しい人影はない。


「何?何なの?」


何が起こったのか?

リュックの中からうっすらと煙が上がっている。火薬の臭いがした。

銃火器の扱いに詳しい女性は何かを察知した。


「ま、まさか!」


リュックの中を見た。

そこにはランダムに詰め込まれた短銃たちがあった。銃口の向きは上下左右いろいろな所を指している。この中の一つから煙が上がっていた。


「ぼ、暴発?」


胸の痛みとともに、意識が薄れていく。

流れ落ちる自分の血を何度も確認する。服が真っ赤に染まっていく。

幼稚園の園庭は静けさに包まれていた。


「そ……、そんな……。」


女性は、ようやく短銃が自分に牙を剥いたことを理解した。


「こ……こんなことって……、こんな……、嘘でしょ?ハハハハハハ。マジかぁ。」


銃弾は女性の胸を完璧に貫いていた。


「わ……私……。私……、ヘヘヘッ。」


女性はニヤリと笑みを浮かべて、ゆきの顔を見た。

あどけない顔がとても可愛かった。

オレンジの太陽が全身を照らす。海から吹き付ける潮風が全身を揺らす。

防波堤の上には、紙縒りの付いた一枚の紙と、30枚の便箋、それにボールペンが転がっていた。

なんだ?この声は……。動物?海鳥の鳴き声か?何か神秘的な音が、この静まり返った空間に鳴り響いた。


その、次の瞬間だった。


どこからともなく一羽の白鶴が舞い降りてきた。

そのまま防波堤の上に着地した。

こちらを見ている。

太陽に照らされているせいか、白鶴自身が光を放っているように見えた。

移ろいゆく季節、過ぎていく時間……、なぜか、突然、時間の流れを感じた。

穏やかに揺れる笹の葉がとても儚く映った。願いを込めた短冊たちにも、同様の感情を持った。

リボンの死体とミサンガの死体、それに指輪の死体が見える。

女性は、光輝いていたあの指輪が、何かを訴えかけてくるように思えた。


「嫌だよ。マジかよ、神様。こんな所で……。」


女性の胸から流れ出る血の量は半端じゃなかった。


「嫌だ。嫌だ。嫌だああああああ。ちょっと待ってよ。何よ!嫌だ。死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない。キュ……救急車、救急車呼んで!嫌だよ、絶対に嫌だよ。死んでたまるか。まだ、全然、足りない……。」


女性は空を見上げた。

絶対者である神は、天堂の世界からこの姿を見て何を思うのだろう。

女性の運命に突き刺さった氷刃と化したカードからも、大量の血が流れ出ていた。

神はなぜ、この二枚のカードを選んだのだろうか?神は自らこの女性に宿命を与えておきながら、暴走したことを理由に途中で見切りをつけたのだろうか?それとも、初めからこうなることが宿命だったのだろうか?


「嫌だよ。嫌だよ……。嫌だ嫌だ嫌だ。こんな終わり方、絶対に嫌だ!」


出会える運命のもとに生まれた人間と、出会えない運命のもとに生まれた人間……。恋愛ができる運命のもとに生まれた人間と、恋愛ができない運命のもとに生まれた人間……。同じ一回きりの人生……。同じ一回きりの若い時間……。神に幸運のカードを使ってもらえた人と、不幸のカードをもたらされた人……。全てを手に入れる人、何も手に入らない人……、それほどの差をつけるとは……。

人間の力が遠く及ばない運命の世界って何?人間は神の手のひらの上で、踊らされ、遊ばれている。全てを出し尽くしたところで、神の前では、あまりにも無力……。

女性の意識が薄れていく。

溢れ出るサラサラの血が地面に広がる。両手、両腕はすでに真っ赤になっている。

呼吸をすることに強烈な違和感があるようだ。心臓の鼓動にも同様の違和感があるようだ。

絶望感が漂う。


「血が……こんなに大量の血が……。」


女性は自分の胸を確認して、ほんのりと笑みを浮かべた。

そのまま、数秒間……、動きが止まった。

潮風は、血の臭いを辺りに撒き散らしていく。

女性は神の視線を感じ、再び、ゆっくりと空を見上げた。

そこにあった女性の表情は、幼くて優しいものだった。


「私……、私……。」


女性は棒立ち状態のまま、体が傾き始める。

もう、立っていられなかった。

背中から地面に落ちていく。

徐々に狭まる地面との角度……。


90度から80度……。


70度……。


「フフフッ。ゲームオーバー?私という名のゲームは強制終了かよ。ここで終わり?こんな終わり方?一回きりの人生……、冗談だよね?私、死ぬの?ここで死ぬの?フフフッ。まだ、終わりじゃないよね?」


体の中で起きた異変に対して、各器官で状況の分析がされている。その大半が、もはや助からないだろうという判断であり、そういった信号が次から次へと脳に送られていった。


「やっぱり、もう駄目なのかな?終わるのかな?」


さらに、意識が薄れていく。

消えゆく生への希望と、膨れ上がる死への恐怖が交錯した。

生の世界が遠ざかっていく。

あっという間に遠ざかっていく。

精一杯、生の世界にしがみついてきた。

他人を踏み台にしてまで、しがみついてきた。

こんな断崖絶壁だったけど、しがみついてきた。

力の限り、しがみついてきた。

なぜか……、手が離れてしまった。

落ちていく。死の世界へと、落ちていく。


60度……。


50度……。


まだ三人……。

自分の死と引き換えに奪った命は、たったの……。

幸せを手にして笑っている人間たちが、まだまだたくさんいるのに……。愛を分かち合う男女が、まだまだたくさん……。

今、死んだら……、今、死んだら、間違いなく人生の敗北者……。

犬死にという言葉が私に……。


40度……。


30度……。


このまま死ぬの?一人で死ぬの? 

誰もいない孤独な人生のまま?

一回きりの人生が……。

出会えない運命とともに沈む。

私の存在は何?

生きた証すら残らない?

住んだ借家には、新しい住人がやってくる。

使った物は捨てられるか、売りさばかれる。

残った財産は国庫に……。

ネット上に残した痕跡は、いつまで残る?

思い出がほしかった。

私は、誰かに気づかれること無く……。 

ただ、ひっそりと……、無縁仏として……。

誰かに看取られるはことなく……。誰かの記憶に残ることもなく……。


20度……。


10度……。


恋を……、恋をしてみたかった。

死ぬほどしてみたかった。

誰かと出会いたかった。

一回くらい……、一回くらい……、デートしたかった。

夢で見たことを、空想で思い描いたことを……、一回くらい……。

愛されたかった。誰かに愛されたかった。

ドロドロに抱き合いたかった。壊れるぐらい、激しく……。

笑ってみたかった。心の底から笑ってみたかった。

一回くらい……、一回くらい……。


零度……。


地面に倒れると同時に、激しく吐血した。


「ウウッ。」


まだ、息があるようだ。地面に大の字になっている。

静かだ。なんて静かなんだろう。音が止んでいる。何も聞こえない。


「フフフッ。マジかよ。死神か……。突然、現れやがって。フフフッ。私、もう終わりね。」


女性が小声で言った。

朦朧とする意識の中で、ぼんやりと目に映るこの光はなんだろう。

もう一度、しっかりと目を開けてみる。そこには、色鮮やかに広がるオレンジ色の空があった。果てしなく広がっていた。斜光は美しく輝いていた。

女性は思った。


綺麗……。なんて綺麗なんだろう。地面を背にして空を見ると、こんなに美しいなんて……。とっても綺麗……。吸い込まれるような感覚。これが最後の……。


目から大粒の涙が溢れる。頬をゆっくりと伝い、地面に落ちていく。

夕日が、全てをオレンジ色に染めていた。

これは大地を暖める光ではなく、心を温める光だった。そのオレンジに包まれていると、何か奇妙な光景が見えた。


何だ?この光景は?これは……、何?時間の……、時間の流れに揺られているみたい……。あれは、私……。私がいる。経過した全ての時間が一つになったような……、そんな感覚……。


女性は時間の渦に飲みこまれた。

俗にいう、走馬灯というやつか?


赤ちゃんの頃の私……。可愛い私……。満面の笑みを浮かべるおばあちゃんに抱かれる私……。お父さんがいる。お母さんもいる。みんな笑っている。私は歓迎されて生まれてきた?


時間の渦の中は、とても温かい。

心が癒されていく。

家族がいる。大好きだったおばあちゃんがいる。

咄嗟に言葉を投げかけた。


おばあちゃん。どうして居るの?私に会いに来てくれたの?また、遊んでくれるの?わかる?私が……。私を見て思い出すこと、あるでしょ?おばあちゃん、いつも言っていたよね。死ぬまでに一度でいいから、CMで宣伝していたあのケーキ、食べてみたいって。私が小遣いを全部使って、そのケーキを買ってきたの覚えてる?おばあちゃんの笑顔がどうしても見たくて……。ねえ、聞こえてる?私との思い出で、一番、覚えていることでしょ?おばあちゃん……。家で勉強ばかりさせられて、幼稚園ではいじめられている私の苦境を察して、連れ出してくれたよね。生まれて初めて行った遊園地はとても楽しかったよ。小さな観覧車に乗って一番高いところまできた私に、地上からカメラを向けて写真を撮ったでしょ?強張った表情の私の写真を、後から一緒に見たでしょ。初詣や節分の思い出、また、夏の夜には勝手口で花火をしたよね。一緒にこたつに入って、あやとりをしたり、折り紙をしたり、ビー玉を使って遊んだり……、本当に楽しかったよ。覚えてるでしょ。ん?聞こえてる?何か言ってよ。


時間の渦が勢いを増していく。女性は流されるままに漂った。

優しい表情をしていた。

自然と一体化している。


私が見える。全身血まみれの私が見える。私の人生は……。私の人生は何だったのか?私の存在は何だったのか?


女性の口から血が噴き出す。

意識がなくなっていく。

あふれ出る涙が止まらない。


これが人生最後の景色か……。私は、ここで死ぬのか……。ここで一回きりの人生が終わるのか……。悔しいよ。虚しいよ。悲しいよ。そして、寂しいよ。私は何のために生まれてきたんだろう。なぜ、幸せをつかめると、最後まで自分を信じることができなかったんだろう。ただ……、あれ以上の我慢は、私にはできなかった。人生に運が無かった。ああ、綺麗な空……。


突然、その空に人影が映った。

朦朧とする意識の中で、ゆきの姿が視界に入った。


「ゆきちゃん?」


かすかに声が出た。

可愛らしいゆきの顔が目の前にあった。

血だらけになった女性の手を、小さな手で握ってきたのだ。もはや、女性には、その手を握り返してやれるだけの余力も残っていなかった。

死が近づいてくる。


死ぬ瞬間って、こんな気持ちなんだね。こんなに純粋なんだね……。


女性の口から血が流れ出る。

何かを話そうとしているが、声が出せなかった。


ゆきちゃん、ごめんね。私……、あなたを殺そうとした。何もわからないあなたを……。幸せをつかんでいないあなたを……。手を……、手を握ってくれてありがとう。


涙が止まらない。


私は幸せになれなかった。あなたは同じ人生を送っちゃ駄目よ。人はね、幸せになるために生まれてくるの。「仕事が生きがい」だなんて言うクズになったらダメよ。そういう言葉を発する人は、今、当たり前のように享受している幸せに気づかないゴミでしかないから……。この国の人は、その幸せに気づかない。本当の孤独に陥ってからそれに気づいても、もう二度とそれは得られない。若いうちにいろんな経験をして、自分の可能性に気づいてね。もし、幸せになれない運命なら、私が何とかしてあげるわ。幸い神様は、私に幸運のカードを切らなかったの。もし、私に切る予定だった幸運のカードがまだ残っているのなら、ゆきちゃん、あなたに受け取ってほしいの。きっと神様も最後の願いくらいは聞いてくれるんじゃないかな。ゆきちゃんの手って、とっても温かいな。温かいな。温かい……な。温かい……。


地面に落ちる一粒一粒の涙には、まだ体温を感じた。

女性の意識が薄れていく。


「お姉ちゃん?」


ゆきが言った。

女性は穏やかな表情をしていた。再び、口から血が噴き出る。

全身はオレンジ色の太陽光に照らされている。海からの潮風にも包まれている。


大地が揺れている。地球という名の大きな船に乗っているみたい。もう一度、星を見てみたかったな。織姫様……。彦星様……。もし、もう一度、生まれてくることができるのなら、あなた方のような恋をしてみたいな。絶対に、絶対に……、恋をしてみたいな……。


「好きだよ。」


「大好きだよ。」


「私、どう?」


「どんな私でもいいの?」


「何か作ってあげようか?」


「傍に居てあげようか?」


「私、泊りがけで旅行するの初めてだな。」


「雲一つないね。水平線が綺麗だね。好き!」


「意外に空いているんだね、ディズニーランドって。もっと混んでいると思ってた。最初、何に乗る?」


「退屈?私はこうやって、まったりとテレビを見ている時間も好きだよ。」


「ううん……伝わった。気持ち、伝わった。嬉しかった。」


「車のカギ、忘れちゃった。そこにあるでしょ?ごめん、今から取りに行く。」


「こんなに優しくしてもらったのは初めて。」


「幸せ……。生まれてきて良かった。」


「ううん。全然嫌じゃないよ。こんな高級な店で、こんな綺麗な夜景が見れて……、なんか場違いな気がするだけ。ありがとね、連れてきてくれて。」   


「私はあなたに会えると思うだけで、仕事やそれ以外の全てことを頑張れるの。それがなかったら何もできない。」


「こうして好きな人と一緒に誕生日を過ごせるなんて最高だよ。」


「ねえ、何の映画見る?」


「前評判はそんなに高くなかったけど……、いい映画だったでしょ?」


「あ、今日、クリスマスイブじゃん。」


「ちょっと何?ハハハハッ。なんでこたつが、ぺちゃんこになるの?足が下敷きになってるんだけど……。普通起こらないよ、こんなこと……。」


「あれ?ん?ちょっと……。ハハハハハッ。なんで着メロ一緒にしてんのよ。サウンドも一緒だし。わかんないでしょ、どっちが鳴ったか。」


「はい!誕生日プレゼント。」


「忙しい合間をぬってでも会いに行く。」


「どうしたの?大丈夫?」


「熱は下がった?可哀想に。」


「ずっと一緒にいたいよね。ずっと……。」


「好きだよ。」


「大好きだよ。」


流血が止まらない。涙も止まらない。

意識が無くなりかけている。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


ゆきが言った。

女性は優しい笑顔で返した。


そう言えば……。


女性は、突然、思い出した。

自分がゆきと同じ園児だった頃、たった一人だけ、仲良くしてくれた男の子がいたことを……。

女性は最後の力を振り絞った。


「幸せに、幸せに……なるんだよ……。絶対に……。」


音が聞こえた。

タンバリンの音だ。パン、パーンって鳴っている。

小さなぬいぐるみの目が、その瞬間を見ていた。旅立つ瞬間を見ていた。

長い年月、ずっと動き続けていた心臓が止まった。

安らかな顔だった。

頬に残る涙に、もう体温は感じなかった。

これからどんな夢を見るのだろう。

事切れた瞬間、海からの潮風につつまれた。優しくつつまれた。温かくつつまれた。


「ささのは、さあらさら……」


どこからともなく、音楽が聞こえてきた。

幼い声は懐かしく律動している。それは風に乗っていた。この潮風に乗っていた。笹の葉たちも、その風に乗って揺れていた。

願いを込めた七夕の短冊に、魂が宿る。

願いよ、届け!

願いよ、届け!

声が聞こえる。園児たちの声が聞こえる。力強く、躍動感あふれる声が聞こえる。天に向かって叫んでいる。天に向かって……。




ここは防波堤の上である。

どれだけ時が流れたのだろう。

太陽が沈む。

弱々しい光が大地を照らしている。

ここには、ボールペンと30枚の便箋の他に、紙縒りの付いた一枚の紙が置いてあった。相当な熟慮の末に刻まれた多くの文字とともに……。

また、この一枚の紙には、明らかに人が書いたものではない神秘的な印字があった。まるで、あぶり出しのように、突然、文字だけが浮かび上がってきたかのようだ。

そこには、こう書かれてあった。


「魔幻の紙縒り(魂が弾けるとき、あなたの願いが叶います)」


これはタイトルだろうか?意味はよくわからないが……。

その次の行から、手書きで文章が書かれていた。


――神様、私の一回きりの人生ってどうでしたか?(笑)魔幻の紙縒り?面白いね。こんなアイテムが本当に存在するなら、私は幸せになれたかもしれない。古い木箱に加え、どういう構造になっているのかわからないけど、妖しい光を放つこの紙……、本当に魔法のアイテムみたいだね。子供だましには面白いかも。とは言え、これは私が大好きだったおばあちゃんの形見なので、この紙に最後の言葉を記したいと思う。

ごめんね。おばあちゃん。私、最後まで生きられなかった。力の限り生きたつもりだけど、及ばなかった。この世には高いハードルがいくつもいくつもあるんだね。おばあちゃんはどうやって越えてきたのかなぁ、あの歳まで。すごいなぁ。もうすぐ、そっちに行くから話を聞かせて。

ああ、そうか……。私は天国には行けないから、会えないのかな?これから日本犯罪史に残るような最悪の殺戮を行なう予定だから、私は地獄に真っ逆さまだろうね。

遺書って実際に書こうと思ったら、何を書いていいのかよくわからないね。自殺をする人は自分が死ぬ理由について、多くを語らず、薄い理由をほのめかし、ただ一言、「ごめんなさい」という言葉だけを残すらしいけど、それは私の人生経験から推測すると、その全てが本音ではなく建前なんだろう。

家族主義と日本的仏教価値の中では親批判はタブー。どんな合法かつ正当な理由があろうとも、口に出してしまえば社会から抹殺される。だから、私の身に起きたことは全て墓場まで持っていくしかない。誰かにわかってもらおうとすればするほど、その分だけ自分に跳ね返ってくる。その環境に生まれた時点で、詰みだ。

人はなぜ、殺人をするのか?なぜ、自殺をするのか?

私は、その答えを知っている。だが、ほぼ全ての国民はその答えを信じない。なぜなら自分の人生経験と真逆に位置するものだからだ。人生経験で得た答えは、その人にとっては絶対だ。揺るがない真実だからね。私の言葉が誰にも通じないのは、それが理由だ。

日本は家族主義国家だ。家出や失踪をして家族から離れるということは……、一党独裁国家や軍事独裁国家に例えると、党や軍から離れるということを意味する。すなわち、それは抹殺の標的になるということだ。持って生まれた才能(外見・性格・身体的能力・知能指数)が、社会での競争に勝ち抜けるだけのモノだったら、この家族主義国家日本でも、最後まで独りで生きられたし、人生を開拓できたかもしれない……。無念だよ。私は無能な人間だから社会から抹殺された。そこには離れたものでしかわからない残酷がある。生きるために離れるという選択をせざるを得なかったのに、その先は孤独という暗闇しかなかった。そこは、全てのセーフティネットをすり抜けた人間だけが、たどり着く場所だった。その場所では選択肢が二つしかなかった。

自殺か、殺人だ。

私は、おそらく、その両方を選択する。

幸せという言葉なんて、どこにも存在しなかった。耐え難い不公平を是正するのには、殺人以外に方法は無い。命を絶つのは、そのあとだ。

私は残酷な運命に屈した。

「本当の孤独」が全てを奪っていった。

今となっては、このモデルの並みの美貌とグラマーな体も、儚く散った夢の残骸でしかない。

言いたいことは山ほどあるけど……、これ以上を語るのはやめておこう。

最後に願い事を一つ……。

「魔幻の紙縒り」って書いてあるから(笑)

私は人生の可能性を探り続けた。私に何ができるのか?と……。残念ながら、持って生まれた才能は変えられない。「何ができる?何ができる?」と呪文のように自問自答しながら、いろんな場所に飛び込んだ。その過程でいろんな選択をした。その選択の結果が今の私の立ち位置になるのだが……。もし、違う選択をした場合、その結果はどうなっていたのだろう。「魔幻の紙縒り」の説明書は何度も何度も読んだ。子供だましのおもちゃにしては、まともな事が書いてあるから驚いたよ。パラレルの世界って……、なるほどなって思った。

人生には無限の可能性があった。たとえ、才能や環境といった縛りを差し引いてもね。次の瞬間に何をするか?なんて選択肢は、ほぼ無限にある。選択した先には、次の選択肢が待っていて、それも、ほぼ無限にある。生きている限り、それが、瞬間、瞬間、という単位で自分に降りかかってくる。選択肢はほぼ無限にあるから何を選ぶかで、種類が異なる次の分岐点が生まれる。もし、何かを選んだ場合と選ばなかった場合で、それぞれが異なる世界を形成して、それが並行世界として存在していたら、無数の自分の中に理想の自分がいたのかもしれない。そういう世界があるのなら、私がこうなったのは運命ではなく、選択ミスをした結果なのだと立証できる。それはどんな自分なのだろう。その人は、私とは違う選択を繰り返して、今、そこにいる。今の私から見て、最良の選択を重ねた結果はどうなのか……、私はそれを見てみたい。可能なら、そこに行ってみたい。それが私の願い……。

おばあちゃんにも見せてあげたい。理想の自分がどんな姿なのかを……。

もう、随分と昔の記憶になるけど、おばあちゃんと過ごした時間……、楽しかったな。ありがとう。本当にありがとう。今度生まれてくるときは、恋愛ができる人間に生まれたい。幸せになれる人間に生まれたい。

さようなら。


涼しい風が吹いている。

夜が近づいてきた。

波の音は、絶えることなく聞こえていた。

夕日は、海を真っ赤に染めていた。

穏やかな風は、ここの血生臭い空気をさらっていく。

辺りは、さっきと違って慌ただしくなっていた。たくさんの警察官と報道記者がいた。

今頃、テレビやネットを通じて、この小さな田舎町で起こった猟奇殺人事件の現実が、世界中に配信されているのだろう。

付近の住民の姿も見える。涙を流している人もいた。

この事件は、日本犯罪以上、最も凶悪なものだった。

笹の葉が大きく揺れている。園児の書いた七夕の短冊は躍動感を増していた。なぜなら、間もなく夜が来るからだ。

今夜、もし、晴れていたら願いが叶うのだろう。どんな夜がくるのだろうか……。

日が暮れる。

今のところ、雨が降る気配はない。

オレンジ色の太陽と、夕日に染まる海の色は、類似色でありながらも、見事なまでのコントラストを描いていた。

 



数時間が経過した。

辺り一帯は真っ暗だ。

月の光が薄っすらと大地にかかる程度……。

夜の世界は静寂につつまれていた。

まだ、遺体は置かれたままのようだ。

時折、少し強めの風が吹いたりもしている。

そんな大地の息吹に嫌悪感をもって、ふと空を見上げると、一羽の白鶴が空を舞っていた。白銀色の光を放ちながら……。その視線は、銃の暴発で亡くなったあの女性の死体に向けられていた。まるで飼い主を失った犬が、その遺体を舐めて愛情を示すように、何かこの死体に未練があるかのように飛んでいる。

しばらくの間、その上空を何度も何度も旋回したあと、海の彼方へと羽ばたいていった。その後ろ姿はとても力強く、美しく、なぜか言葉にできないほどの妖しさを兼ねそろえていた。


どこに向かっているのだろう?


空には、いつも見えないはずの星たちが、たくさん輝いている。

敷き詰められた星たちを大地から眺めていると、まるで空に川が流れているかのようだ。そう、これが織姫様と彦星様を引き離した、あの天の川だ。

光り輝きながら飛んでいる白鶴の軌道は、そんな星々の流れに、大きな橋をかけているかのように、私には見えた。




大きなリュックサックが見える。

人の後ろ姿を覆い隠している。

歩いているのだろうか……。ゆったりとしたリズムで上下に揺れている。一歩一歩がとても重たい。相当な重量があるのだろう。

このリュックを背負っているのは華奢な女性だ。

バランスを欠いたこの光景はいったい何なのだろう?

灼熱の太陽が全身を照らす。


ここは海に隣接する防波堤の上である。4メートル程の幅があった。海岸沿いは殺風景だが、夏の太陽がその寂しい感覚を消している。

そんな背景に、女性が一人、溶け込んでいた。

砂交じりのコンクリートの上を、一歩、また一歩と、歩を進めている。

見た目の年齢は30歳くらいだろうか……。体型はグラマーで肌は色白、それに、かなりの美人だ。茶色に落としたサラサラの長い髪が、辺りにジャスミンの香りを撒き散らしている。全身が躍動感に満ち溢れていた。

防波堤には、日本海の荒波が容赦なく打ち寄せていた。大きな衝突音とともに白いしぶきが空中に砕け散っていく。波の力強さとは裏腹に、風は穏やかに吹いていた。


「真夏の太陽は眩しいなあ。それに暑いよ。太陽は何十億歳?そんなに長生きなら、少しくらい衰えて手加減してよ。このままだと日焼けしちゃうよ。はあ。私、なんでこんな所を歩いているんだろう。歳のせいかしら、記憶が曖昧だわ。専業主婦は毎日に張りがないから、たまにはいいかな、こんな運動も……。ああ、お腹すいた。早く食べたいな。かき氷……。」


真夏の光景を目の当たりにしながら、女性は歩いていた。

時折、海から吹き付ける強い潮風によってバランスを失いそうになる。

これだけの荷物を背負っているにもかかわらず、休憩を取らなかった。

一歩一歩に、何か強い信念を感じる。

しばらく歩くと、まるで防波堤に傘をかけるかのように、陸地から海に向かって何かが張り出しているのが見えた。

それは七夕のイベントで使う大きな笹だった。


「ささのは、さあらさら……。」


オルガンの音とともに園児たちの力強い歌声が聞こえてきた。

防波堤に隣接する敷地の中に、開放感あふれる平屋建ての建物があった。

幼稚園だ。

園舎は昔ながらの木造建築ではなく、最新の耐震技術が施されたモダンな造りだった。瓦屋根を使うなど、和の趣を取り入れてはいるが、全体的には未来をイメージした斬新なデザインとなっている。

その園舎から見て北側に園庭があり、さらに、その北側に防波堤がある。防波堤側を除く敷地全体が、高さ2メートルのフェンスによって囲まれていた。

園庭の広さは、テニスコート一個分くらいだろうか?遊具は、園舎の前に鉄棒が設置されているだけだった。

園舎の南側は、狭い道路に面している。その道路の向かい側には、昔ながらの古い民家が軒を連ねていた。東側と西側にも同様の光景が広がっていた。

この質素な光景の中で一番華やかなのが、園庭から防波堤を覆うように伸びる二本の笹の存在だ。この笹は高さ3メートルの防波堤の上を、さらに3メートルも突き出していた。

防波堤の上は、いつも、近くに住む人たちの散歩コースとして利用されていた。

防波堤自体、側面に多少の角度があるため、体力に自信があれば、階段の無い場所からでも上がることができた。

今日もいつもと同じ、穏やかな日常がそこにあった。

笹には、七夕の短冊がたくさん括り付けられていた。色鮮やかな折り紙たちが、天の川を始めとする物語の情景を映し出している。美しく散りばめられた無数の星たちが印象的だった。


7月7日、今日は七夕……。


夏の訪れを告げるこの風物詩には、毎年、たくさんの人々の想いが揺れる。

短冊にしたためた願い事を、紙縒りを使って笹に結びつけると、その願い事が叶うというのだ。

もちろん、これは、ただの年中行事の一つであり、地域を彩る祭りの根拠に使われているだけだ。実際に願い事が叶うことはなく、それ自体、それほど重要な意味はないのだが、五節句の一つとして、古来より国民的な行事となっている。

七夕の伝説で一番有名なのが、やはり、織姫様と彦星様の話だろう。お互い愛し合う仲だったのだが、神様の言い付けを守らなかったという理由で引き離されてしまい、会うことが許されるのは一年に一度、この七夕の日だけになってしまったというお話だ。

人々は、空に輝く星たちを眺めながら、この伝説に想いを寄せている。

今夜は、美しい星々の輝きを見ることができるだろう。


「はあ。休憩。いったいどこにいるのよ。先に来ているはずなのに……。結婚して5年、娘が生まれて3年。日常の煩わしさから開放されて、少しは気分がいいはずなのに……。こんなに重たいもん持たせて。いったい何を考えているのかしら。それにしても綺麗な海ね。吸い込まれそう。潮風もいい。初めて日本海を見たときのことを思い出すわ。」


潮風は、とても穏やかだ。笹の葉が一斉にこすれ合う。汚い字ではあるが、一生懸命書かれた七夕の短冊も一斉に揺れた。

女性は立ち止まっていた。

優しい微笑みで辺りを見渡している女性の目に、何かが映った。


「今日は七夕か……。」


そこには、たくさんの短冊があった。


夢が叶いますように……。

オリンピックの選手になれますように……。

夏に雪が降りますように……。

世界を征服したい!

いつも笑っていたい!

100歳まで生きられますように……。

おばあちゃんの病気が治りますように……。


女性は、園児たちが書き上げた躍動感あふれる短冊たちに気持ちが踊った。


「なんか、懐かしいな。」


女性の顔は満面の笑顔だった。

そのときだった。


「ごめん、ごめん、遅れちゃった。」


コンビニ袋を持った一人の男性がやってきた。


「ごめんじゃないでしょ。何を持たせているの、こんな華奢な女性に……。」


女性が笑いながら言った。


「ゆきは?」


男性が言った。


「知らないわよ。まだ帰る時間まで結構あるよ。こんなところにいたら日焼けしちゃうでしょ!」


「わりい、わりい。じゃあ早速、かき氷食べよ。」


男性はそう言うと、女性が背負っていたリュックの中から、重さ20キロもある電動氷削機を取り出した。

コンビニで買ってきたと思われる板氷も取り出した。


「ここでやんの?」


女性が言った。


「うん、そうだよ。」


「アホ。」


女性は、恥ずかしいわ!と言わんばかりの表情だ。

男性は電動氷削機を防波堤の上に置くと、電池を入れて、機械のパワーをオンにした。


「よし、行くぞ!」


男性はそう言うと、早速、板氷を機械にかけて、持参の皿にかき氷を盛っていった。


「ヒャア、おいしそう。」


女性は手を叩いて喜んだ。


「夏は、太陽の下で食べるかき氷に限る!」


男性が言った。

二人は防波堤の上に仲良く座って、園庭を眺めた。手には、かき氷が盛られたカップとスプーンがあった。


「いっただきます。」


二人とも勢いよく食べ始めた。


「ヒャア、冷たい!」


背中から来る潮風と、同様に背中から聞こえる波の音……、それに、ほぼ真上から照りつける太陽の光もあって、最高の夏日だった。二人とも美味しそうにかき氷を食べている。


「あの二人、付き合っているのかな?」


女性が言った。


「さあ。幼稚園児だぞ。」


休憩時間なのだろうか……、たくさんの園児たちが園庭に繰り出していた。その中には、大きなリボンが印象的な女の子と腕にミサンガをつけた男の子がいた。

楽しそうに話し込んでいる。


「さあ、みんな、水浴びしましょうね。」


保育士の女性が園児たちに向かって声をかけた。美しく輝く指輪が印象的だった。

水は、蛇口からホースを伝い、散水ノズルから勢いよく放出された。まるで、消防士が燃えさかる火を消火するような感じで、勢いよく園庭に水が撒かれた。時には、園児めがけて水攻めをしている。


「ハハハハハハ、冷たいよ。」


多くの園児が、楽しそうに逃げ回った。その中には二人の娘である、ゆきの姿もあった。

笑顔が弾けていた。


「ゆき、楽しそうね。」


女性が言った。


「まったく、いつ、おとなしくしているんだろうな、あの子は……。」


男性が笑顔で言った。

防波堤の上では、時折、近所の人たちが犬を連れて散歩に来ていたり、ジョギングをしていたりと、ほのぼのとした日常が見られた。

二人は笑顔を交えながら、園児たちを眺めていた。

潮風は絶えることなく吹いている。穏やかな風に女性の髪が靡いた。


すると、次の瞬間……、どこからともなく、一枚の羽根がヒラヒラと舞い降りてきた。


「ヒャアア、びっくりした。」


女性が笑いながら叫んだ。

羽根は、女性の膝に着地した。


「何だよ、どうしたんだよ。」


男性が近づく。


「何、これ?カラスの羽根?」


女性が言った。


「いや、違うと思う。カラスの羽根なら黒だろ。多分これ、鶴の羽根だと思うけど……。」


「鶴?」


二人は空を見上げる。しかし、鳥は一羽も飛んでいなかった。


「でも、なんかこの羽根、おかしくない?光っているように見えるけど……。」


女性が言った。


「太陽に反射してんだろ。」


「そうかな?」


「自分で勝手に光るわけないだろよ。」


「ワハハハハ、そうだよね。」


女性は満面の笑みを見せていた。


「なんで羽根だけ落ちてくるの?」


女性が言った。


「さあ。どこか高いところを飛んでいるんだろ。」


「ふうん。」


七夕の短冊が風に揺れていた。

躍動感に満ち溢れて揺れていた。

女性はふと、思いつめた表情で一言呟いた。


「この羽根、どこかで見たことあるんだよね。思い出せないけど……。」


「は?何言ってんだ?美穂里。」

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魔幻の紙縒り (全文) Kaede.M @kaedelovers

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