第3話 一滴のオイルが零れて
——あの女の欲しい物なら、何でもよかったの。
生まれついた家柄も、容姿も、才能も。最初から全て持ってるくせに。
人のものまで奪っていった、嫌な女。
私が最初から持っていたのは、この声だけ。
だから、必死に磨き上げた。この喉が、歌声が、あの女よりも価値を持つように。
自分の力で、世界に認められたのよ。
なのに、私へは見向きもしない。
彼女、私の名前すら覚えていなかった。
本当に嫌な女。
だから、今度は私が横取りしてやろうと思っただけ。
「もうすぐ客室区画だよ」
先を歩くタンタイルさんが、囁くような声で言う。
ディンゴ・フラナガンやその手下達に見つからないように、ここまで慎重に進んできていた。
船内通路も、上等なホテルを思わせる豪華な仕様だ。通路は青いカーペット張りになっているし、アンティーク調のライトが通路を控えめに照らしている。落ち着く雰囲気だ。こんな状況でさえ無ければ。
けれど、近づくにつれ変な臭いがしてきた。ホールで感じたような、赤錆っぽい臭い。
まさか。
「ひぃ、っ……!!」
口から漏れ出そうになった悲鳴を、手で押さえ込む。なんとか間に合った。
角を曲がったところに、男が倒れていた。スーツ姿で、仰向けになって。凍りついた驚愕の表情で。額に空いた風穴から、おびただしい量の血を流して。
「った、た、タンタイルさん……!」
「うん。彼らの仕業かもしれないね」
うろたえる僕とは正反対に、彼は動じる様子もない。迷う事なく男の死体の傍にしゃがみこむと、その首筋に触れていた。彼が死体に躊躇なく触れるのは2度目だ。
「ここに来るまでに、銃声は2度聞こえたね」
「へ?」
「30分ほど間が空いていた。この人にもう体温は残っていないから、1度目の方だろう。他にも被害者がいそうだ」
さらりと言い切り、立ち上がって僕を振り返った。
そして、少し首を傾げる。
「大丈夫かい? 随分と顔色が悪い」
「へ、ぁ……そ、そりゃそうですよ……! 僕、そんな……見慣れてない、ですし」
「死体を?」
「他に何があるっていうんです!?」
シィ、と口に指を立てて囁かれる。そうだ。大きな声をあげたら、見つかって殺されるかもしれない。
「す、すみません」
「心配ないよ。私達は、彼らの後を辿る形で進んでいる。2回の銃声には、十分な間があった。その分だけ、彼らは私達より先にいる。離れているということだから」
「なるほ、ど……?」
「でも、あまり騒ぐのもいけない。彼らが気づいて、戻ってきたら困るからね」
タンタイルさんはそう言って微笑んで見せる。
安心させようとしてくれているんだろう。けれど、僕は逆に少しずつ、彼のことが怖くなっていた。
目の前に死体が転がっていても、銃で殺されそうになっても、彼は全くと言っていいほど気にした様子がない。どんな経験をしていたら、こんなに冷静でいられるんだろう。
軍人。スコットランドヤード。医師。もしくは、裏社会の人間。どれにしても、鑑定士という肩書きとはほど遠い気がする。
それこそ、一番近いのは、小説に描かれるような探偵なんじゃないか。
本人にそれを伝えたら、また「なんてことを言うんだ」と憤慨するのかもしれないけれど。
「さぁ、行こうか。バッカス氏の客室はもうすぐだよ」
「は、はい」
考えにふける暇は、今は無いようだ。
彼が何者にせよ、他に頼るものは無いのだから。
「着いたよ。ここだ」
目線の先、目的地であるジョージ・バッカス氏の客室は、何故かドアが開きっぱなしだった。
「もしかして、誰かいるんじゃ……?」
「誰かいるのなら、むしろ扉は閉めると思うな」
彼は躊躇わずに進んでいく。僕も慌てて後に続いた。
中途半端に廊下に突き出たドアが、手招くように揺れている。室内にいると忘れかけるけど、ここはまだ海の上だ。船は今も、波に揺すられながら航路を進んでいるのだろう。
タンタイルさんが部屋の中を覗き込んでいる。そして、そのまま中へ入っていってしまった。
「ちょっ、と、待ってください!」
声を潜めながらも、僕も部屋へ踏み入る。
「あ、君は入らない方が」
そんな彼の忠告は、1歩分遅すぎた。
もう僕の視界には、部屋の中の惨状が飛び込んできている。
赤黒い。視界いっぱいに広がる血溜まり。
ぐちゃりと横たわる、人の死体。
「ひ、ぃ、っむぐぅぅぅ……!!」
あがりかけた悲鳴は、タンタイルさんの手袋で素早く押さえられた。
後ずさりしようとした足がもつれ、腰を抜かす。投げ出された僕の足の、靴の先の方まで、てらてらとした液体が広がっている。
その中心にあるのは、おそらく、女性の死体だ。
おそらくとしか言えないのは、そこに転がっている死体の、胸から上が無くなっているからだ。
彫刻などでいう、胸像にあたる部分が丸ごと削り取られている。肩から先の腕と、下半身だけが乱暴に床に投げ出されていた。映画のCGのように、現実味がない。
べっとりと血に染った布きれは、きっとドレスだったんだろう。
多分、ペールグリーンの。
なんだこれ。ただの死体じゃない。どうしたら、こんな惨いことが出来るんだろう。
「悲しいことだね」
一緒に姿勢を下げてまで、僕の口を塞いでいたタンタイルさん。彼が、死体を見ながらぽつりと呟く。
「このドレスの色は、ゲストの中で彼女だけだったはず。世界が愛した歌声は、永遠に失われてしまったようだ」
僕の記憶にもある。このドレスを身に纏い、愛嬌のある笑みを向けてくれた女性。
つまり、この死体が——世界的歌姫、アリシア・グリーンの変わり果てた姿だと。彼はそう言っていた。
「悲しい」という、タンタイルさんの言葉が、ずしりと胸にのしかかる。これは、見知った人間の無惨な死、というだけでは済まされない。
僕は、彼女のファンって訳じゃない。けれど、彼女の歌は聞いたことがあるし、彼女のことを好きな人が、世界中にいることを知ってる。
たくさんの人が彼女を惜しみ、泣くだろう。それでも、永遠に帰らない。
それは、言い知れぬ喪失感だった。
「っ、うぷ」
タンタイルさんの手が離れると、噎せ返るほどの死の匂いに襲われる。鉄錆に生臭さを足したような悪臭。吐き気を抑えるので精一杯だ。
辛うじて吐かずにいられたのは、ここに来るまでに何度も、まだ綺麗な方の死体を見たからだろうか。
「可哀想に。……クレイグくん、これを」
そんな姿を見かねてか、彼が黒いハンカチを僕の口元へと差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
つやのある布で口と鼻を覆うと、不思議な、いい香りがした。彼の香水だろうか。すぅっと気分が落ち着いてくる。
「お借り、します……すみません」
「無理もないさ。どうしても辛ければ、この部屋のバスルームに避難してもいい。換気ができる分、幾分かマシになる」
「大丈夫、です。手伝うって、約束ですから」
タンタイルさんは少し目を見開いてから、満足げに笑ってみせる。僕の返事がお気に召したらしい。
彼の支えで立ち上がる。強がってみたものの、まだ死体を直視出来ない。
それでも何か、と部屋を見回してみると、部屋の真ん中にラウンドテーブルを見つけた。
床に固定されたテーブルの上に、ワイングラスが2つ。両方とも、紫色の液体が底に残っている。
この部屋の持ち主はオークションの間、ずっと舞台にいた。なら、オークションが始まる前に、ここで誰かと会っていたのか。
もしかして、アリシアと。
「……彼女だと思っていたが、違うらしい」
「え?」
思考を読まれたようなタイミングにどきりとしてタンタイルさんを見やる。
彼は、変わり果てた歌姫を覗き込んでいた。
「客席のゲストは一斉に出口へ向かっていた。ならば、必然として避難者の最も最後列にいたのは、客席最前列の2人……アリシア・グリーンとディンゴ・フラナガンになる」
「え、ええ。でも、それが何か」
「あのタイミングで、ジョージ・バッカスの遺体から鍵を盗み、舞台上の『ミラ』を盗むことが出来るとすれば、彼らに他ならない。だが、ディンゴ・フラナガンは今も『ミラ』を探している」
「あ……」
そうか。あの時、司会のローズ氏とディンゴを除けば、一番舞台の近くにいたのはアリシアだ。
「では、彼女がダイヤを持ち出したんでしょうか?」
「……、そうかもしれない。けれど、彼女は『ミラ』の所有者にはなりえなかったらしい」
「……? ええと、彼女はダイヤを持ってなかったんですね?」
「そうとも言うね」
他にどう言うというのか。
というか、もしや彼女の死体を漁ったんだろうか。
タンタイルさんは小さく「ふむ」と呟くと、部屋の中をぐるぐると歩き始める。ついでのように引き出しを開けたり、バッカス氏の私物らしき物を持ち上げて眺めたりしながら。
「……ジョージ・バッカス。酒造業会社の3代目社長にして、好事家、特にアンティーク蒐集に目がないと有名だった」
彼は、ベッドサイドに置かれたパイプを持ち上げ、ライトに透かしてみせた。象牙に金の装飾がされたそれは、素人目にも高価なものだと分かる。
「バッカス酒造といえば、ワインですごく成功したところですよね。専用の輸送船を持ってるとか聞いたことあります」
「ああ。けれど、近年の業績は苦しいものだったみたいだよ」
「そうなんですか?」
「彼自身も」
彼はバッカス氏の旅行鞄を指し示す。
「高級な衣服が多いが、どれもいくつか前の流行の物だ。古く解れているものまで入っている。時計やパイプもひとつずつ。こういった場所で、最低限度の体裁を保つためのように見える。『ミラ』を手放したのも無理はない。まとまった金額が必要だったのだろう」
バッカス氏は、お金のためにダイヤを手放した。
僕は、バッカス氏はダイヤを狙った人に殺されたんだと思っていた。けれど、ダイヤを手放す予定も、理由もある人を、わざわざ殺す必要があるんだろうか。
殺す、といえば。アリシアもここで死んでいる。
これは、いわゆる連続殺人事件というやつなのでは。
「君がこれを殺人事件だと思っているのなら、手段やトリックについては考えない方がいい」
「へっ?」
「意味が無いからね」
むしろ意味ありげなのはタンタイルさんの言葉なのだけれど。
「えっ、と……それって、あなたには全部分かってるとも取れるんですけども」
「全部は分かっていないよ。『ミラ』の場所もわからない。だから探しているのだしね」
彼の言葉を噛み砕いて、意味を捉えようとするのは難しい。
けれど、そのままの意味で受け取るのなら。
「もう、分かってるということですか!? ジョージ・バッカスと、アリシア・グリーンを殺害した犯人も、方法も!」
「……?」
彼はきょとんとした顔で首を傾げる。
「犯人、か。犯人。それが分かったとして、どうしたいんだい?」
「どう、って……殺人犯なら、その、警察に……」
「いかなる警察組織も、オークション内のトラブルに介入出来ないよ。ここはどんな国境にも属さない、海の上の独立地帯だから」
「……あ」
思い出した。ローズ・アンティークオークションは、いかなる客人同士のトラブルにも対応しない。武力行使に関しては、自警団が制圧することになっているはずだ。
「手段についてもそうだ。これがただの殺人事件なら、犯人から身を守るために必要かもしれないけれど」
「……違うん、ですか?」
「違う。殺害方法が分かっていても、防ぐ手はない。」
さらりと恐ろしいことを断言される。けれど、僕はふとアリシア・グリーンの死体を見下ろしてしまった。
体の半分以上を、跡形もなく削り取られている。ホラー映画に出てくるようなクリーチャーが、頭から食いちぎったように見えなくもない。むしろ、それ以外どうすれば、こんな酷いことになるのだろうか。
もちろん、ホラー映画はフィクションだ。クリーチャーが本当に存在するとすれば、彼の言う通り、僕らがどう足掻いたって無駄な相手なのかもしれない。
「……いや、君だけは違うのかな」
彼が小さな声で、独り言のように呟く。
どういうことかと問おうとして、不意に耳に飛び込んで来た音に口を噤む。
楽器の音だ。上品な音量の、聞き覚えのあるクラシック。船のスピーカーから聞こえているらしく、辺りに響き渡っている。
「た、タンタイルさん、これは」
慌てる僕の口に、彼の人差し指がくっつけられた。反射的に黙ってしまう。
彼と共に、スピーカーを見上げていると、音楽に混じって声がした。
『──これより、真のローズ・アンティークオークションを開催します』
美しく、冷たい女性の声だ。
どこかで聞いたことのある、ハープに似た可憐な音。この声で命じられれば、誰もが何もかも捨て海に飛び込んでしまうだろう。それほど蠱惑的な声。
『この世の何より高貴で尊い宝石、赤い貴婦人。彼女に相応しいのは、最も多くの価値を捧げられる者だけ』
スピーカーからの声は、高らかに謳い上げる。さながら、オークションの司会者のように。
『最後に残った一人だけが、選ばれる。生きて陸へ戻り、栄誉を手にするのは、選ばれた者だけ』
音楽が止まる。
『奪い合いなさい』
静寂の中に一言だけ放つと、スピーカーは沈黙した。
どこまでも美しく高貴なのに、妙に心に引っかかる、不穏な余韻を残して。
わけがわからずに、タンタイルさんの方を伺う。僕の口を指1本で制したまま、彼はじっとスピーカーを見つめていた。
「……困ったな。そう来るのか。クレイグくんが逃れていることに、彼女も気づいたのかもしれない」
自分の名前が出てくるとは思わず、僕が目をパチクリさせているのに、彼は独り言を続けている。
いつまで口を塞がれてるんだろう、僕。
「いや、遅かれ早かれ、始まってはいただろう。アリシア・グリーンの部屋も調べておきたかったが、もう意味はないかもしれない。それよりも、今すぐここを離れた方がいい。うん、そうしよう。君もそれでいいかな、クレイグくん」
「…………」
「クレイグくん? ……あぁ、すまない」
ようやく彼の指が退いて、僕は真っ先に何を問うか少し迷う。
さっきの放送、真のオークションとは何なのか。あの声の主、“彼女”とは誰か。聞きたいことはたくさんあるけれど。
「今、質問してもいいですか?」
タンタイルさんにできる質問は、一つずつ。
僕にとって一番、今、知らなければならないことは。
「構わない。時間が無いから、手短に頼むよ」
「こ、これだけは知っておきたいというか……真相を知るための質問じゃなく、その……ただ怖いから、なんですが」
「怖い?」
「これから……何が起こるんですか?」
彼は小さく首を傾げて、僕を見つめる。「本当にそれでいいのかい?」とでも言わんばかりに。
それはそうだ。彼と共に行くのなら、これから起こることなんて、嫌でも目の当たりにするだろう。
けれど、僕は平凡で臆病な、ただの新人記者だ。先行きの見えない恐怖の中で、事の真相なんて、まともに考えられるわけがないんだ。
「……ふむ、そうだね。一言では説明し難いが。『ミラ』に魅了された人間は、あれを強く求めるようになる、という話はしたね?」
「は、はい」
「銃声に驚き、パニックになったゲスト達なら、すぐにはその依存性に囚われることはない。しかし、逃げるなり身を隠すなりしているうちに、興奮状態が落ち着いてくるだろう」
そう言いながら、タンタイルさんはテーブルの方へ歩いていく。部屋に備え付けられたメモとペンを見つけると、何か書き込み始めた。
「すると彼らは、精神に植え付けられた『ミラ』への独占欲を自覚し始める。『ミラ』の支配下にある、と言ってもいい」
「……支配、ですか? 宝石が、人を支配するって」
「そう。そして、あの放送。ゲスト達に、己の乾きを満たすために何をすればいいか、気づかせるためだろう」
メモを折りたたんだかと思えば、あの黒いトランクケースをベットの上で開いている。中はほとんど何も入っていないようだ。
「『ミラ』を手に入れるのも、生きて帰れるのも、最後の一人。衝動的にも、本能的にも。彼らは、限られた枠を奪い合うことになる」
トランクケースの中にメモを放り込み、彼は何事も無かったかのように軽く衣服を整えた。
一連の動きの意味はよく分からなかったが、言いたいことは理解できた。
つまり、これから起こることというのは──。
「より多くの価値、すなわち他者の命を捧げ、残った一人だけが『ミラ』を手に入れる。真のオークションという名の、ゲスト達による殺し合いさ」
思わず、唾を飲み込む。
タンタイルさんは、静かに微笑みを浮かべたままだ。
だからこそ、余計に怖くて仕方がなかった。
僕らがバッカス氏の部屋を出る、ほんの少し前。
「わ、っとと……ん?」
床に広がったアリシアの血を、僕はうっかり踏みつけてしまった。乾きかけてべっとりとした血と共に、何かが靴底に張り付いている。
ツルツルした紙質。写真、かな。破れているみたいだ。好奇心に負けて、おそるおそるそれを拾い上げてみる。
「これは……ひっ!」
写っている物が何かわかった途端、悲鳴を上げて手からそれを振り払う。
「クレイグくん、大丈夫かい」
「あ、はい! い、今行きます……」
部屋を後にするタンタイルさんに、慌ててついていく。ズボンで指を何度も拭う。あの血溜まりのような、ねっとりとした憎悪が、皮膚にこびりついたような気がした。
隠し撮りのような写真に映っていたのは、赤いドレスの女性。
胸から上にあたる部分は、ズタズタに傷つけられていた。
タンタイル・バリィの蒐集記 錫樹ゆひこ @yuhiko-suzuki
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