第2話 葡萄酒に溺れた (後)



 答えた僕へ振り向き、彼は満足げに目を細めた。懐中時計を大事そうに懐にしまい、白い手袋を着けた手で、僕を招く。


「では、ついておいで。まずはホールへ戻ろう」




 通路は明るいけれど、不気味なほど人気がない。

 時々、遠くの方から人の怒鳴り声や、バタバタと走る音、銃声が聞こえてくる。

 僕は、今にも目前の角から銃を持った男が出てくるのではないかとヒヤヒヤしながら、タンタイルさんに着いていった。

 彼は迷いなく、するすると歩いていく。時々、音がする度に立ち止まって、経路を変えているようだ。

 そんな彼の先導もあって、誰にも会うことなく、あのホールへと戻ってきた。


「中に人が残っていたりは……」

「さぁ、どうだろう」


 彼はそう言いながら、迷うことなく扉を開ける。

 僕は少したじろいだものの、ホールは無人だった。ゲストも、スタッフも、誰もいない。

 舞台上も、血にまみれた展示ケースもそのままだ。

 変わったことといえば。ガラス面を覆う血がほとんど赤黒くなり、ベトベトに固まっていることと、死体に黒い布がかけられていることくらいだろうか。


「ローズ氏だろう。ゲストの遺体をそのままにしておくのは、彼にとっても忍びないことだからね」


 端の階段から舞台に登りながら、僕の心の内を読んだように、タンタイルさんは呟く。僕も後に続いた。

 死体の凄惨な状況は、まだ僕の目に焼きついている。

 もう一度近くで見ることにならなくてよかった。ローズ氏の心遣いに感謝しないと。


「よいしょ、と」


 感謝したばかりなのに!

 タンタイルさんが、黒い布を勢いよく捲り上げる。

 そのせいで、僕は再びその死体と顔を合わせることになってしまった。

 ただ、様子はかなり変わっている。

 まず、床一面に飛び散っていた血は、展示ケースを汚したものと同じで赤黒く変色し、固まっていた。

 死体の手足が変に曲がりくねっていたのも、きれいな寝姿に整えられている。これもローズ氏の心遣いだろうか。死体の表情も、安らかに整えられている。

 何より、その目が閉じられていたことに、僕はほっとした。


「瞳の色は、バイオレット。やはり、彼だったか」


 だから! 今ほっとしたばかりなのに!!

 タンタイルさんは、ペタペタと死体をまさぐり回した挙句、検視官よろしく死体の瞼をそっと持ち上げていた。

 おかげで僕にも見えてしまった。濁り始めた眼球。その焦点の無くなった瞳孔は、確かに紫色のようだけれど。


「う、ぁ……よ、よくそんなに躊躇なく触れますね? それに、この死体が誰か、知ってるんですか?」

「彼はジョージ・バッカス氏。『ミラ』の出品者だよ」

「えっ!?」


 思わず、恐怖も忘れて死体を覗きこんだ。

 オークションでローズ氏が紹介していたから、名前だけは知ってる。けど、僕が見たのは100年以上前の新聞記事だ。

 ジョージ・バッカス氏。『ミラ』を手に入れたジョン・バッカス氏の、曾孫にあたる人物のはず。


「クレイグくん、君はあの時、舞台上にいたんだったね」

「は、はい」

「彼がどこから落ちてきたか、思い出せるかい?」

「へ? あ、ええと」


 僕は記憶を辿りながら、真上を向いた。

 ローズ氏に案内された時のままだ。建物の2、3階くらいの高さに、照明器具を吊るすバトンや、キャットウォークがーー。


「……あれ?」


 キャットウォークは、スタッフが歩くための細い足場だ。一般的には、紙吹雪を降らせているイメージが多いんじゃないだろうか。

 そこから、何か布切れみたいなものがぶら下がっている。


「何でしょう、アレ」

「……。ネクタイ、だね」


 タンタイルさんも、僕に並んで見上げている。

 あんなに高いところにあるのに、わかるのかな。


「僕が見ていた限り、あのキャットウォーク以外には、人が乗れそうなところはありませんでした。えっと、あの人は真っ直ぐ落ちてきていたので……ちょうど、あのネクタイらしきものが引っかかってる辺から、じゃないかな」

「確かかい?」

「……あまり自信はないです。死体が落ちてきた瞬間は、僕は中央の方を見てましたし」


 彼は、ふと僕の方を向く。


「死体、ではなかった」

「えっ」

「落ちた瞬間、激しく出血していたからね。血は変色していない、鮮やかな赤だった。彼は頭から落ち、強化ガラスの展示ケースに頭部をぶつけていた。頚椎が折れたか、脳に損傷を受けたか。明確な死因までは特定出来ないけれど、落ちる瞬間までは生きていただろうね」


 僕も必死に記憶を思い返す。たしかに、血はすごい勢いで飛び散っていた。けれど、あまりに一瞬のことで、身体のどこから落ちたかなんて覚えていない。スローモーションでもなければわからないだろう。

 彼は再び、懐中時計を見ている。


「それに……彼が落ちてきて、約1時間が経過している。けれど、遺体の硬直はまだ始まっていなかった。死後、そこまで時間が経っていないということだ。キャットウォークへの経路はわかるかい?」

「たしか、舞台袖にハシゴみたいなのが……」

「旧式だが、無理もないか。船自体が古いからね。オークションの最中、出品物を運ぶスタッフが、ここを忙しなく行き来していた。そうだろう?」

「は、はい」

「では。オークションが始まってからは、誰にも見つかることなく、彼が自力であそこまで登ることは不可能だ。オークションは2時間。それよりもずっと前に、彼はあの上にいた。生きたままで、ね」


 彼の言葉を受けて、あらためてキャットウォークを見上げる。人ひとりが通れるくらいの幅しかない。

 あんな高さの、あんな狭いところに2時間もいろといわれたら、僕なら震え上がってしまうだろう。


「どうして、出品者がわざわざあんな場所に……」

「それはまだわからないな」


 まだ、と彼は言う。まるで、これからそれを解き明かすみたいだ。


「あなたは、その、実は探偵だったり?」

「なんてことを言うんだ!」


 僕が問いかけると、タンタイルさんは突然声を上げた。心外だとばかりに顔をしかめている。


「き、気に障ったならすみません! その、探偵嫌いとは思ってなくてっ」

「探偵とは、隠された真実を探る者のことをいうんだ。私が探偵を名乗ったりしたら、本物の探偵に失礼だよ」

「あ……むしろ、かなりお好きなんですね? 探偵」

「大好きだとも。私にとって、探偵は特別な存在なんだ」


 予想とは別の角度で気に障っていたらしい。


「私はあくまで鑑定士。物の真偽、良否を見極めることが、鑑定士の真髄だ」

「……それは探偵とは違うんですね?」

「違う」


 食い気味の断定だった。あらためて、不思議な人だと思う。

 そんなタンタイルさんは、むしろ僕の方を不思議そうに見ながら、首を傾げた。


「質問、そんなことでいいのかい?」

「えっ?」

「ひとつずつ質問を受けると言ったろう? 私のことより、他に聞きたいことがあるだろうに」


 そういえば、取材させてもらうという条件で彼についてきたんだった。

 慌てて考えを巡らせる。

 けれど、聞きたいことなんてありすぎて、どれから聞けばいいのかわからない。


 どうしてジョージ・バッカス氏は、舞台上へ落下死したのか。

 誰が、何を目的に、銃を撃っているのか。

 先程の言葉。「誰も逃げられない」、「オークションが終わっていない」とはどういう意味なのか。

 この船で何が起こってるのか。

 それを、なぜ鑑定士の彼が知っているのか。


 ふと、思いつく。一番先に聞いておかなければいけないことがあったじゃないか。

 というか、バーを出る時に教えてくれてもよかったのに。


「えっと。ホールには、捜し物に来てるんですよね」

「そうだね」

「僕に手伝って欲しいっていう捜し物は、一体何なんですか? バッカス氏の死体、とかじゃないですよね」


 彼も気づいたのか、苦笑した。


「ああ、それは質問に含めなくていいよ。私の落ち度だね。こちらからお願いしたのに、説明不足もいいところだ」


 そして、展示ケースに近づくと、血を被ったガラスケースのあちこちを触り始めた。

 しばらくして、ケースの正面が横にスライドする。

 当然、そこにはオークションの時のまま、『ミラ』がある。

——はずだと思っていた。


「……! どうして」


 もぬけの殻だ。

 展示ケースの中は、『ミラ』が座していたネックレス諸共なくなっている。


「このケースは、台座の後ろ側に鍵穴があるんだ。これを解錠すると、前面のガラスが動かせるようになる」


 タンタイルさんが指さすのは、ほんの小さな鍵穴だった。言われなければ気づけなかったくらいに、目立たない場所にある。


「ディンプルキーと電子パスワードの二重鍵だ。ケースの鍵は、出品者が持つことになっている。落札されて初めて、鍵はオークショナーへ、そして新たな持ち主へと手渡される。ローズ・アンティークオークションならではの伝統であり、儀式とも言うべき手順だ」

「なんでそんな手間のかかることを」

「ふふ……自分への特別なプレゼントなら、自分の手でリボンを解きたいだろう? 落札者にとって、この展示ケースに鍵を差し込む瞬間は、そういうものなんだ」


 つまり、演出の一部ということらしい。


「出品者……じゃあ、このケースの鍵は、バッカス氏が持ってたってことですね。なら、もしかして……」

「うん。それを知る誰かが。バッカス氏から鍵を奪い、『ミラ』を持ち出したんだろう。前もって奪ったか、遺体から持っていったかはわからないけれどね」


 僕は背筋が寒くなるのを感じた。

 『ミラ』を手に入れるために、誰かがバッカス氏を殺したのかも。そうだったら、殺人事件だ。

 タンタイルさんは、小さくため息をつく。


「ここにあれば済んだのだけど、簡単にはいかないね。まぁ、だからこそ君の助力を頼んだのだし」

「……あの、まさか」

「私が探しているのは、『ミラ・ダイヤモンド』。彼女を、鑑定しなければならない」


 タンタイルさんは、はっきりと口にした。

 『ミラ』を探すのだと。

 つまり、『ミラ』を持っていった人を探すことになるわけで。


「……む、」

「む?」

「むむむむ、無理ですよ僕!? 銃持った人に立ち向かったり捕まえたりするの!!」

「はは、私もだ」

「ただの記者なんです!何も出来ないですって!」

「私もただの鑑定士だよ。けれど、2人なら出来ることも増える」


 ぶんぶんと手を振るう僕へ、彼は微笑んで見せる。

 どこか、こちらへの親しみを感じる目だ。


「君にしか頼めないんだ。私は、君がいい。船に乗る前からそう思ってた」

「へ? な、何で……どうして僕なんか」

「大丈夫。銃を持った殺人鬼とご対面、なんてことにはならないさ」


 答えになっていないようなことを言って、彼は舞台から降りようとした。

 どうも彼の言葉は要領を得ない。仕方なく僕も後に続こうとして。


「っ、クレイグくん!!」


 突然、振り返ったタンタイルさんに体当たりされ、舞台上へ無様に転がる。

 途端に、間近で乾いた破裂音がして、すぐ頭上を何かが掠めていった。ガラスケースがひび割れる、耳障りな音がする。


「はっ、な、何!? 何がっ」

「こっちへ、早く! 逃げよう!」


 彼に引っ張られるようにして、もつれる足で舞台袖に滑り込んだ。

 バンッ、とまた銃声が響く。背後のカーテンが撃ち抜かれ、たわんでいるのが見える。

 舞台袖は、展示ケースや出品物が放置され散らかっていた。

 タンタイルさんはスタッフ用出入り口の扉を勢いよく開く。そこから逃げるのかと思いきや、僕を大きな展示ケースの隙間に押し込むように身を隠した。

 彼は唇に指を当て、「静かに」と視線で訴えてくる。言われなくてもそうするけど。

 しばらくすると、誰かが舞台に上がってくる足音がした。


「いません。奥の通路から逃げたかと」

「追え。ソイツが持ってるかもしれねぇ」


 聞き覚えのあるその声に、ひとりでに足が震え出す。

 今「追え」と言ったのは、ディンゴ・フラナガンだ。

 すぐ側をバタバタと人が走っていく。タンタイルさんがさっき開けた扉の方だ。


「まぁいい。どのみち、このクソ野郎から鍵をせしめた奴が持ってるんだ。客でもスタッフでも、全員殺せば見つかんだろうよ」

「しかし、若」

「なんだ? トマス。俺のやり方に文句でもあんのか?」

「いえ。若へ発砲したのがスタッフですから、船側の人間をひとりでも捕まえて、主犯を吐かせた方がいいかと」

「……ふん、勝手にしろ。どうせ『パンサリオーネ』の連中だろ。この男が乗ってるくらいだし、なぁッ!」


 鈍い打撲音が響く。ディンゴが、何か蹴りつけたみたいだ。


「わかりました。下にもそう伝え……どうしました?」

「トマス。トマスよぉ。テメェ、俺を裏切っちゃいねぇだろうな?」

「な、何を言って……!?」

「俺がここに来ること、マスコミに漏らした奴がいるよな。信頼できる、選りすぐりの部下だけを連れてきたはずなんだがなぁ」

「内部に裏切り者がいる、と?」

「トマス、お前だけは信じてやるよ。裏切り者の死体と、あのダイヤを俺のところに持ってこい」

「……。わかりました、若。……いえ、ボス」


 2人分の革靴の音が、少しずつ遠のいていく。スタッフ用の出入り口の方へ行ってしまったようだ。


「……すまない、クレイグくん」


 タンタイルさんがようやく、囁くように呟く。

 舞台の上で「逃げよう」と大声で言っていたのは、彼らへのブラフだったのか。


「い、いえ、むしろ助かりました」

「じゃなくて、ね。さっきの今で、さっそく銃を持った男と対面してしまったから」

「あ、そこでしたか……」


 おそるおそる、物陰から這いずり出る。

 すぐ側に赤黒い靴跡が残っているのを見つけて、ゾッとした。銃を持った男達が血を踏んだんだろう。

 でも、乾きかけの血がこんな風につくだろうか。さっきの打撃音から察するに、まさか死体を蹴っ、いや、考えないようにしよう。死体の方も向かないようにしたい。

こんな近くにいて、気づかれなかったなんてラッキーだ。

 タンタイルさんがいたからかな。彼の黒い服は、影によく溶け込むから。


「あの人達も、目当てはダイヤモンドなんですね」

「そのようだ」


 彼は上着についたホコリを軽く払っていたかと思えば、僕の身体もパシパシ払い始める。


「あ、いや、僕はいいですって」

「そう。怪我はしていないかい? 無理に引きずってしまったけれど、どこか捻ったりしていないかな」

「ほんとに大丈夫ですってば」


 じっと僕を見つめるタンタイルさん。僕の方が少し背が高いから、彼は見上げる形になる。


「というか、撃たれるよりマシです。ほんとに、その、ありがとうございます」

「……よかった」


 彼は黒い目を、三日月型に細めて笑う。

 隻眼というアンバランスさも相まって、同性でもドキッとしてしまう程に綺麗だ。

 でも、恐い気もする。どこか不気味というか、人っぽくないというか。

 そんなことを思うのは、失礼だとわかっているけれど。


「さて。彼らも私達を探している。ここからは、静かに行くべきだね」

「は、はい」

「話しながら行くことは出来ない。今なら、質問に答えられるよ」


 さっきの話の続きみたいだ。

 僕は、頭の中で言葉を整える。捜し物が『ミラ』だと知った時から、聞きたいことは決まっていた。


「タンタイルさん。手紙で僕に、『ミラ・ダイヤモンド』を見るな、と伝えようとしてましたよね」

「その通り」

「あれは、どういう意味なんですか? ダイヤを見たら、何が起こるんです?」


 彼は、「いい質問だ」とでもいわんばかりに頷く。


「『ミラ』を目視する。というより、彼女を通した光が、目に入るといけないんだ。人は物を見る時、反射光を見ている。だから、見てはいけない」

「……?」

「彼女はブラックライトの光を内部で増幅させる。あの光が目に入るのは、ただ見るだけより、もっと質が悪い。濃度が高い、というべきかな」


 わけがわからず首を傾げていると、彼は微かに笑った。

 わからなくて当然だというように。


「彼女ーー『ミラ』を介した光が目に入ると、人は多幸感と、深い陶酔を感じる。それは酷く依存性が高くてね。一度味わえば、ある種の強迫観念に取り憑かれる。彼女を独占したくなるんだ」


 最初に隠れたバーで、「激しい衝動を引き起こされたか」と聞かれたのを思い出す。

 本来なら、あのダイヤが欲しくてたまらなくなるのかもしれない。


「彼女は、宝石の姿をした麻薬。ただの光を麻薬に変える、と言った方が正しいかな」

「……とんだ『賢者の石』があったもんですね」

「はは、まったくだよ」

「…………」


 正直、半信半疑だった。

 確かに、あの赤い光は、僕でも見蕩れるくらい綺麗だったけど。酒や麻薬みたいに、溺れるような依存性があるものとは思えない。

 僕が宝石嫌いだから、というだけなんだろうか。


「さて、ここで問題がある」

「へ? な、何ですか?」

「君は平気みたいだが……さっきの彼らを含め、ゲスト全員があの光を目にしている。それも、ブラックライトで増幅させられた、とびきり濃厚なのを浴びただろう。つまり、ゲストの誰もが、『ミラ』を欲するようになっている可能性が高い」


 彼は、客席のある方向へ腕を広げる。

 そこにいた人々が、魔性の宝石に魅入られていた様子を示すように。


「銃声によるパニックが治まれば。いや、むしろ混乱しているからこそ、彼女の暗示が効いてくる。彼女を手にしなければ、落ち着かなくなるんだ」


 ようやく僕にも、彼が言いたいことが分かってきた。

 僕らにとって、都合がいいとはいえないことだ。


「ゲスト全員が……ここから『ミラ』を持ち出した容疑者かもしれない、ってことですね」


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