第2話 葡萄酒に溺れた (前)
——私の栄光。何よりも尊い宝石よ。
お前を手放す私を許しておくれ。
酒の勢いで、お前のことをつい口に出してしまった。それが何よりの過ちだった。
でなければ、お前の代わりに得られる金が、私を誘惑することもなかったろう。
全ては、あの忌々しい狼が悪いのだ。
お前は私の全て。私の神。
ああ、どうか許してくれ。
壁越しに、遠くから銃声が聞こえてきた。
びくりと身体を強ばらせる。
そんな僕の様子に気づいたんだろう。彼は眼帯の無い左目の、視線だけをきろりと動かした。
顔が近いから、眼球の動きまで見て取れる。彼は中性的な、整った顔立ちをしていた。ボーンチャイナみたいな色白の顔に、黒目がちな目がくっきりと映えていて、左目の下に泣き黒子がふたつ並んでいる。
タンタイル・バリィと名乗る鑑定士。彼は、壁越しに銃声のした方をじっと見ていたが、不意に口を開く。
「そうだったね。悠長にしている時間はない。君も手伝ってくれないか」
「えっ、と……何をですか?」
「ラムか、ブランデー。ワインでもいい。持ち運べそうなサイズの瓶を探してくれないかな」
「さ、酒? こんな時に、飲むんですか?」
「私は飲まないよ。けど、必要なんだ」
訳が分からないけど、冗談を言っている雰囲気でもない。
僕が悩んでいるうちにも、彼はカウンター裏にある酒棚へ歩いていく。並んだ瓶をひとつずつ手に取り、ラベルを読んでいるようだ。
「うーん、小さな瓶だけど、スピリッツは度が高すぎる。こっちは……瓶の大きさはいいが、ジンか。せめてウイスキーだと良かったな。あまり得意じゃないんだ」
「……飲まないんですよね?」
「私は飲まないよ」
飲まないのに、味の好みはあるらしい。
彼の行動につられるように、僕も改めてバーを見渡す。
灯りはついておらず、薄暗い。けど、お洒落な雰囲気の店だ。レトロなデュークボックスや、オイルランプのような照明。営業している時に来たかったな。
この船にいるゲストは全員、オークションが目当てだ。本来ならオークション中の時間だし、店が閉まってるのも当たり前か。
「鍵がかかってなくてラッキーでしたね……おかげでここに隠れられたわけですし」
「うん? ああ、そうだね。私も助かった」
こうも薄暗いと、少し離れるだけで姿も見えづらくなる。彼は黒い服を着ているからなおさらだ。けれど、闇の中でガラス同士が擦れる音はよく聞こえた。
カウンターに並ぶ瓶をひとつ、手に取ってみる。暗くて読みづらいけど、辛うじてラベルの大文字だけはわかった。赤いし、タバスコかな。
スマートフォンをライトにしようとして、船に乗る時に没収されたのを思い出した。録画や録音ができるからだ。こんな状況だと、心細いな。どこかへ助けを呼ぶことも出来ないじゃないか。
「……」
そもそも、これってどういう状況なんだろう。
記憶を遡ろうとして、すぐに後悔する。カメラのスコープ越しに見たせいで、舞台に降ってきた死体の姿は、はっきりと目蓋に焼きついてしまっていた。
飛び散った血や、見開かれた目が恐ろしくて、思わず逃げ出してしまったけれど。
あれは一体、誰だったんだ。
「何か見つかったかい?」
ハッと我に返る。
手に乗った赤い瓶は、軽薄なオレンジ色だ。血の色とは程遠い。
「あ、いえ、タバスコだけです」
「タバスコ? ふふ、独創的だね。君はタバスコが好きなのかな」
「そんなことは、無いですけど……」
「飲まないの?」
「飲みませんよ!?」
暗がりから、クスクスと堪えた笑い声が聞こえる。何がそんなにおかしいのか、と彼の方を見やれば、いつのまにかすぐ側まで歩いてきていた。
手に炭酸水の瓶と、作り置きらしいサンドイッチまで持って。
「君も、何かは腹に入れておくといい。今のうちにね」
「え? でも、店員さんはいないし、お代も」
「船のゲストなら、料金は必要ないはずだから。チップは多めに置いておくし、安心して」
ああ、だからこんなに堂々と酒を漁っていたのか。
彼はカウンター席のひとつに座ると、上品にサンドイッチを口に運ぶ。随分とマイペースだ。人が死んで、あちこちから銃声がしているのに。
今更だけど、こんな状況だ。そもそも、この人を信用していいんだろうか。
「……あの、バリィさん」
「タンタイルでいいよ」
「はぁ、じゃあ……タンタイルさん。その、あなたもオークション会場にいましたよね?」
「いたよ。はい、これは君の分」
「あ、どうも……じゃなくて!」
続けようとした言葉は、腹の音に遮られてしまった。
「……」
もちろん、僕のだ。
「っふふ、ははは、いや、失礼。無理もない。あのオークションは、あえて空腹になる時間に、最高潮を迎えるようになっている。ああ、炭酸水は苦手かい?」
「……、好きな方だと思います」
気恥しい気持ちになりながら、まだ笑っている彼の隣に大人しく座った。差し出された炭酸水の瓶に口をつける。
キンと冷えた、甘さの無い炭酸水だ。喉へと滑り落ち、心地よく刺激してくれる。それで、ようやく自分の喉がカラカラだったことに気づいた。
続けざまに、ひどくお腹が空いていたことにも。
皿に乗ったサンドイッチにかぶりつくと、なおのこと空腹感は増した気がする。柔らかいパンに、生ハムとチーズ、野菜。上品すぎて少し物足りない、などと考えているうちに、あっという間に無くなってしまった。
「空腹は、物欲も促すんだ。身体が満ちていると、欲望は抑えられてしまう。オークションでは、欲望、競争心なんかも刺激されるからね。とても冷静じゃいられない」
「はぁ……」
言われてみれば。オークションからずっと気が張り詰めていたはずなのに、空腹が満たされたことで少し余裕が生まれている。自分の身体とはいえ、単純なつくりをしているものだ。
タンタイルさんは、ひどく静かにサンドイッチを食べ終えると、座ったまま僕へと顔を向けた。
「さて。私に、何を聞きたいのだったかな?」
反射的に背筋を伸ばし、僕も彼に向き直る。
職業柄か、取材を許される、話をしてもらえるといった雰囲気は敏感に感じとることが出来た。
自然と背筋が伸び、手帳に手が伸びる。視線は真っ直ぐに、彼の口元へ注ぐ。
「タンタイルさん、あなたもオークション会場にいたんですね」
「そうだね。ライトオークションから、ずっと」
「……舞台に死体が降ってきたところも、見ましたか?」
「見たよ」
僕は手帳にメモを取りながら、ため息をつく。
少なくとも、アレが僕だけの白昼夢じゃないことは確かになってしまった。
「あの時、会場で何が起こったか、ご存知ですか?」
タンタイルさんは、片手で口元を擦りながら、少し考える素振りを見せる。
「まず、舞台に人が降ってきた。その直後、客席の最前で、誰かが銃を撃った。舞台の方を見ていたから、誰が撃ったのかまでは確認していない」
僕も舞台に気を取られていて見えなかったけれど、ことは最前列で起きていたらしい。
頷いて続きを促す。
「オークションで最高にまで高められた緊張と、死体への恐怖。加えて、銃声が引き金になったんだろう。ゲスト達がパニックを起こしてしまった。200人がひとつしかない出入口へ押し寄せるのだから、大変なことになっていたよ」
「なんだか他人事みたいですけど、あなたもそこにいたんですよね」
「我々は、彼らを上から見ていたからね」
「上?」
「2階席にいたんだ。鑑定士として……というより、レディ・スカーレットのアドバイザーとして」
舞台、右側の特等席。レディ・スカーレットの他に、彼女の使用人も控えていたのかもしれない。2階なら、舞台上も客席も一望出来るだろう。
「舞台上にいたローズ氏から、二階席の我々にも避難するように声がかかった。スタッフからの誘導に従うように、と言われたが、待てどもスタッフが来ることはなかったよ」
「えっ、でもホールスタッフはたくさん……」
いたはずだ、と言いかけた口を止める。
招待状片手にホールに入った時も、案内を頼めるようなスタッフはいなかった。舞台裏で出品を運んでいたスタッフと、ホール前に持ち物検査をする警備員がいたくらいだ。
そんなことあるんだろうか。映画館ですら、避難誘導するスタッフくらいいるはずなのに。
「そう。ローズ氏も、スタッフが動かない状況には困惑していた様子だった。待っていても仕方がないし、我々はゲストルームへと避難することにしたんだ」
「ゲストルーム、というと?」
「宿泊の含まれていないクルーズではあるけれど、客席番号が50番までは、個別に客室が用意されている。プライベートな休憩室だね。……そういえば、君は何番の席だったのかな? あの人集りに巻き込まれなかったのかい?」
「あ、いえ、僕はその……」
逆に問い返され、どもってしまった。
聞く側なら慣れているけど、聞かれるのはあまり得意じゃない。
「客席は、無くて……舞台袖にいたんです。左側の。あの、ローズさんに椅子を貸してもらって」
「なんだって!?」
突然、彼が身を乗り出した。
驚いて身を引いても、距離が空いた気がしないほどに顔が近づいている。
「では、君はあの時、舞台上にいたんだね?」
「へっ、あっ、はい!」
黒々として大きな目が、僕を凝視している。
「……。彼女を、間近で見たということだ」
「あ、あの? 彼女って?」
「『ミラ』を肉眼で見ているのに、君は随分と落ち着いている」
「『ミラ』?」
もしかして、最後に出品された『ミラ・ダイヤモンド』のことだろうか。
そういえば、彼には手紙で、あのダイヤモンドを『見るな』と言われていたんだった。
理由はわからないが、彼の言いつけに背いてしまっている。
なんとなく気まずくて、顔を背けようとする。けれど、手袋をした彼の両手が、僕の顔を優しく、挟み込むように添えられた。逃げられない。きょろきょろと視線だけが泳ぐことになった。
眼球を通して、頭の内側まで覗き込まれているようで、ひどく居心地が悪い。
「えっと……タンタイルさん?」
「欲しくは、ならなかったのかな」
「な、何が? 何を?」
「『ミラ・ダイヤモンド』のことだ。あの輝きを見て、何か、激しい衝動を引き出されなかったかい?」
何を言っているのかわからない。タンタイルさんの口ぶりは静かで、真剣そのものだ。
けど、僕はそれどころじゃない。さっきから、彼の距離感がおかしい。今にも鼻先がくっつきそうな近さだ。
香水の匂いを感じる。気まずいなんてもんじゃない。彼が妙に綺麗な顔をしているから、余計におかしな気分だ。
「今すぐこの体勢から逃げたい」より激しい衝動なんて、ディンゴ・フラナガンを前に抱いた恐怖心くらいだ。
このまま全て白状しろと言われたら、衝動的にあることないこと話してしまうだろう。
「べ、別に僕は、何とも……」
「何とも?」
「綺麗な宝石だとは思いましたけど……僕、宝石ってあまり好きじゃなくて」
「……、本当に?」
「すみません、やっぱり、その! 正直に言って嫌いなんです、宝石が!」
『ミラ』を見て引き起こされた気持ちなんて、これが一番だと思う。
彼は、じっと僕を見つめながら、ゆっくり瞬きをしていた。
そして、あっさりと僕から身体を離すと。
「……っ、あはは! 嘘じゃなさそうだね」
気の抜けたように破顔して、愉快そうに笑った。
呆気にとられている僕に、彼はなおも湧き上がる笑いを堪えるように、わざとらしく咳払いして見せる。
「失礼。生まれつき隻眼なものでね。距離感を測るのが苦手なんだ」
「そ、それだけですか……?」
「ああ。嘘をついている反応が無いか、よく見るためでもあったけど。何か誤魔化していると思ったら……ふふ、そうか。宝石が嫌い、か。そういう手もあったとは」
嘘の反応、か。本当に内心まで見通す気でいたらしい。
「いったい何っ、ひぃっ……!」
僕の言葉を遮るように、銃声が2発、響き渡った。壁越しだが、さっきより近い気がする。
「ふむ、リボルバーかな。弾数は多くないようだ。先程から1発、2発と、大事そうに撃っている」
「そんな呑気なこと言ってる場合ですか!? ここにも銃を撃ってる人が来るかもしれないのに……そうだ、そうだった、逃げないと!あ、そ、そうだ、避難艇! ……あっ、でも、あんなに一気に逃げ出した人がいるんだし、もう使われちゃってるんじゃ」
「誰も出ていないよ、この船からは」
焦って立ち上がる僕をよそに、タンタイルさんは落ち着いたままそう言った。
「……へ?」
「誰も逃げられない。オークションが終わっていないからね」
彼は、分かりきった事実とばかりに、さらりと言い切る。
何故、彼にそんなことがわかるんだろう。
それに、「オークションが終わってない」ってどういう意味だ。
「聞きたいことがたくさんある、という顔だ」
「そ、そりゃそうですよ!」
彼は懐から懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開く。
「……。なら、私の手伝いをしてくれないか」
「へ?」
「今のままでは、誰も生きてこの船から出ることは出来ない。けれど幸運にも、君はアレの呪縛を免れている。ならば、まだチャンスはあるということだ」
独り言のように呟くと、時計を見たまま彼も立ち上がる。そして、暗がりに紛れていた黒いトランクを持ち上げると、扉の方へ歩いていってしまう。
「私の捜し物を手伝って欲しい。全て説明してから依頼すべきだけれど、残念ながら時間は有限だ。なので、この先、時間が出来る度に、ひとつずつ君の質問や要望に答えよう。どうかな?」
「どう、って言われても……!」
「選択肢は2つ。ここで隠れてやり過ごし、事態が収拾するのを待つか。私と共に、真相を追い求めるか、だ」
彼の後ろ姿を見ながら、僕は唾を飲み込む。
その言葉が、怯えきっていた心の隅に、ぴったりと収まった。待ち望んでいたみたいに。
真相を追い求める。それはきっと、僕の仕事だ。
「……やります。ついて行きます。僕なんかに出来ることがあるなら。その代わり、あなたの知ることを取材させてください」
この船に、記者は僕ひとりしかいないのだから。
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