スペクター、エルダー、シスター

志波 煌汰

病室には雨の音と姉の声。

 目を向けた窓の向こうは雨だった。ガラスに映る半透明の僕の顔の先では、朝から降り続く雨が小さな音と共に間断なく落ちていて、中庭に植えられた樹の葉をリズムよく叩いている。厚い雲は僕らの頭を押さえつけるようにびくりともせず、正午だというのに室内は異様に薄暗い。一面真っ白で人間味の失せた部屋は耳が痛いほどしんとしていて、まるで世界が制止したかのようだ。

陽光のない冬の昼下がり。外の気温は恐ろしく低いようだ。暖房がついているはずのこの部屋にも、数値では観測できない寒々しさがどんどん侵食しているように感じられて、僕は太ももを覆っていた掛け布団を上体まで引き上げた。

 ベッドの脇にある台を見る。先ほど帰った来客が置いて行った袋がある。手を伸ばしてとってみる。そこそこの重量。中には、

「へー、メロンかぁ」

 僕の後ろからひょいと顔を覗かせた女性が言う。

「いきなり出てこないでよ、姉さん」

「ごめんごめん。驚かせちゃった?」

 てへ、と舌を出す姉さん。そういった漫画じみた仕草はいつになっても変わらない。

「別にそんなことはないけど。それよりどこ行ってたの」

「んー、屋上とか、そこらへんをぶらぶらっと」

「あまり僕から離れないでよね」

「お、甘えん坊さんかな?」

 茶化す姉さんには返事をせず、僕はメロンをしげしげと眺める。

「メロンかぁ……」

「定番ではあるけど、やっぱり分かってないよねあの人たち」

 姉さんは足を宙にぶらぶらさせながら、そこはかとない不満を込めて言う。

「怜君、メロンはそんなに好きじゃないのにね」

「……小さい頃は好きだったよ」

「でも今はそうじゃないでしょ。そういうところだよ。あの人たちが分かってないのは」

「言いたいことは分かるけどさ」

 僕はメロンを台に戻す。

「そんな刺々しくならなくてもいいんじゃないかな」

「刺々しくもなるよ。だって」

「僕だって同じ気持ちだと思うけど」

 声を荒げそうになった姉さんを静かに制し、僕は言の葉を接ぐ。

「仮にも僕と姉さんをこの世に生んでくれたんだからさ、そのことには感謝しないと」

 まだむくれ顔の姉さんに、さらに言葉をかける。

「認めたくないだけなんだよ、きっと。父さんたちが分かってなくても、分かってないからこそ、僕たちが分かってあげないと」

 そこまで言うと、姉さんは大きく息を吐いて、語調を静かなものに戻した。

「……怜君は大人だね。私はきっとそうはなれないや」

「別に、まだまだ子供だよ。あの人たちが思っているよりは大人だろうけど」

 そう、僕はほんの少しだけ大人で、でもまだまだ全然子供なのだ。なんて中途半端なんだろう。僕がちゃんとした大人だったら。あるいはあの人たちの思っていた通りに、もっともっとあどけない子供だったら。こんなことにはならなかったはずなのに。

 その方が良かった、なんて言うつもりはないけど。

「……僕はただ、諦めちゃっただけだよ。あの人たちに分かってもらうことを。あの人たちに何も期待してないから、こんなこと言えるんだ」

「……そっか」

 姉さんは少し寂しげな笑顔を見せる。そしてその顔のまま「あ、けどさっきの怜君の発言に少しだけ訂正」と言ってきた。

「何?」

「『僕たち』じゃないよ。分かってあげないといけないのは、怜君だけ。私はもう、そんなの構わないんだから」

「……ん、そうだね」

 そうだ、悲しいけどそれが事実だ。

「でも、分かってあげてほしいな。必要なんてないけど」

「怜君がそういうなら、考えてやらんこともない」

 ふざけた言い方はわざと。僕は柔らかく微笑んで、袋の中に入ってる他のものを見てみる。

「あ、リンゴだ」

「へぇ」

 姉さんの目が一瞬煌めく。

「これはいいチョイスね」

「まあ僕はリンゴ好きだけどさ」

「知ってる。私もよ」

「もちろん知ってる」

 リンゴをお手玉のように投げて弄ぶ。ぽーん、ぽーん。宙に浮いた紅玉に姉さんは手を伸ばすけど、リンゴはその手をすり抜けてしまって掴めない。

「ね、ね、私にも頂戴」

 しびれを切らした姉さんが僕に頼んでくるけど、それは無理な相談だ。

「出来ないよ、そんなの」

 僕が言うと、姉さんは頬を膨らませた。

「いいじゃない、ケチ」

「ケチとかそういう問題じゃないでしょ」

「ケチー」

 不満そうに上下する姉さんだけど、ダメなものはダメだ。こればっかりはどうにもならない。

 ひとしきり跳ねたあと、姉さんは窓の外を向いた。表情が見えなくなる。雨はまだ止む気配がない。

「あの、ね」

「うん?」

 姉さんの長い髪がさらりと揺れる。冬だというのにその格好はお気に入りの半袖で、見ているこちらの方が寒々しい。言っても詮無いことだけど。

 僕に後頭部を向けている姉さんは、とても言いづらそうに言葉を紡ぐ。

「その……あの人たちの様子、どうだった?」

 なるほど、気になっていたのはそれか。

「気になるなら、会えばよかったのに」

 僕が呆れたように言うと、姉さんは髪を指でいじりながら「合わせる顔なんてないよ……」と言った。

「どうせ気付かれないのに」

「気分の問題よ、これは。いいから教えてよ」

 姉さんの言葉に口ごもる。どう言うのがいいんだろう。考えても言葉は出ない。下手に誤魔化す方が不誠実か。そう判断して、思ったままを伝える。一応、柔らかめに。

「そりゃ明るくはないよ。暗くなり過ぎないようにはしてたみたいだけど。あと、腫物に触るみたいな感じだった。当たり前だけどさ」

「そっか……そうだよね」

 振り向いた姉さんは寂しげに笑っていた。空気を変えようと、僕はリンゴに手を伸ばして努めて明るく言う。

「あんまり居づらかったみたいでさ。これ置いて話したらすぐ帰っちゃった。せめてこれの皮を剥いてから帰っても遅くないのにさ」

「あはは、怜君不器用だもんね」

 ふざけた調子で僕が言うと、姉さんはようやく笑ってくれた。その笑顔を見ると、ほっとする。いつだって、姉さんには笑顔で居てほしいから。

「不器用とかどうとか関係なくさ、今の僕にこれだけ渡すの酷くない? 皮を剥くくらいの配慮はあってしかるべきじゃない?」

「そうだねー。お姉ちゃんがナイフ持てたらさささっと剥いてあげるのにな。ウサギさんカットもサービスしちゃう」

「だね。やってほしい所だけど」

「残念だけど、今は無理なんだなあ」

「知ってた」

 僕は姉さんを見る。冬だというのにお気に入りの半袖で、しかしそれを全く気にかけることなく、ヘアピンでとめたロングの黒髪を揺らし――そして、半透明の姿でふわふわと宙に浮いている姉さんを。

「だって姉さん、死んじゃってるもんね」

「果物ナイフも触れないって、幽霊って不便よね」

 僕が放り投げたリンゴは、キャッチしようとした姉さんの手を文字通りすり抜けてベッドに落ちた。



 僕の目の前で浮いてる女性の名は、月島優。僕の姉にして、現在は幽霊だ。艶やかな濡れ羽色の長髪に、それと対照的に雪のように白い肌。瞳はぱっちりと大きく光が輝き、小柄な顔に満面の笑みを浮かべると、まるで太陽が現れたかのよう。スタイルも抜群で、古今東西の彫刻と比べても遜色ない。贔屓目を抜いても、かなりの美少女だ。街を歩けば誰もが目が離せなくなる。もっとも、死んでしまった今となっては、その姿を見られるのは僕一人なんだけど。

 僕は月島怜。彼女の二歳下の弟で、現在中学三年生。身長はこの間姉さんを追い越したばかり。顔は……まあ姉さんに比べたら、普通だ。よく童顔って言われるのが特徴と言えば特徴。成績はそんなに悪くない。スポーツはまあ、人並み。現在はちょっとした事情で入院している。

 ここは僕の病室。贅沢にも個室が与えられていて、真っ白な部屋の中に生きている人間は僕一人。腕に繋がる点滴液が、ぽたり、ぽたりと落ちているだけだ。さっきまで両親がお見舞いに来ていたのだけど、終始気まずそうにしていて、すぐにそそくさと帰ってしまった。まあ仕方ない。

 そんなわけで退屈を持て余してる僕は、唯一の話相手であるところの姉さんと会話に勤しんでいる。

「そういえば姉さん。今日はあちこちふらふらして、何か面白いものは見つかった?」

 現状、腕に点滴が刺さったままの僕は自由に身動きが取れない。だから姉さんの話してくれる周りの様子は楽しみでならない、のだが。

「それが全然。病院って退屈ね。こうやって誰にも見られずどこにでも入れるのに、面白いものの一つもないんだもん」

「そっかぁ」

 溜息を吐く僕の目の前で、姉さんはすいーっと宙を滑り、病室の壁をすり抜けて行ったり来たりしている。

「こうやって隣の部屋とか覗いても、おじいさんが一人で寝ているだけでつまんない」

「病院が退屈なら外に出てあちこち行ってみたらいいのに」

「それは無理だよぉ」

 姉さんは手をひらひらさせる。

「私は怜君に憑いてるから、怜君からはそんなに離れられないの。病院内を探索するので精一杯」

「……へぇ、そうなんだ」

「うん、そうみたい」

 幽霊なり立てだからよく分かんないんだけどねー、と笑いながら言う姉さん。

「いわば私は幽霊の赤ちゃんだよ」

「姉さんが赤ちゃんかぁ……」

 ふと想像してみると、頬をつねられた。

「あいててて」

「なーにを想像したのかな? 怜君?」

「な、なんでもないよ……。そうだ、分からないなら他の幽霊に聞いてみたらいいんじゃないの? 病院ならたくさんいるんじゃないかと思うけど。会ったりした?」

「それがね、怜君」

 姉さんは顔を近付けて話す。長い睫毛が瞬きと共に揺れる。

「病院中見て回ったけど、自分以外の幽霊を見つけられないの」

「え、それ本当?」

 驚いた。これだけ大きな病院だし、幽霊なんてたくさんいるんだろうと思ったからだ。それなのに姉さん一人だけ?

「不思議だね」

「もしかして、私は自分以外の幽霊を見れないのかもしれないね」

「え、そうなの?」

「ほら、私ってば生きてる時から霊感全くなかったでしょ?」

「そういう問題なのかなぁ」

 幽霊が幽霊を見るのにも霊感が必要なのかどうか、ちょっと僕には分からない。

「あ、面白いこと一つあった」

「何々、教えてよ姉さん」

「私のクラスメイトが来てたんだよ」

 その言葉に、背筋を冷たいものが走った。

 姉さんのクラスメイト、それはつまり生前の、ということだ。死んでいる姉さん。生きているクラスメイト。もう戻れない場所。そのことに姉さんは何か思うことがあるんじゃないか。一瞬、手が震えて、視線が姉さんから逸れる。顔を、見られない。

「……仲の、いい人、だったの?」

 平静を装い聞いてみる。声は震えていないか。自信はない。

「んーん、別に? 多少知ってるだけ」

 そんな僕の気持ちとは裏腹に、姉さんはあっけらかんと答える。その声に暗いところは微塵もない。恐る恐る顔を見る。いつもの姉さんの顔だ。ただ、僕と話していることが楽しいって表情。その顔に僕は胸をなでおろす。

「で、その子なんだけど、ちょっとした特徴があって」

「特徴?」

「そう。学年中で評判なんだけど、その子霊感がとても強いんだって。実際、会ったことないはずのクラスメイトのおじいさんの特徴を言い当てたりして、その力は間違いないんだって」

「じゃあ何、もしかしてその人に挨拶したの?」

「それがさー、ここが面白いんだけどさ。その子全然私に気付かないんだよ」

「へぇ」

「目の前で手を振ったり、頭の上に乗ったり、体をすり抜けて見たりとあれこれしたけど全然気づかなかったよ」

「霊感ってのも当てにならないのかもねー」

「だね。ただ、薄暗い廊下の隅っこをちらっと見ては、何かが居るみたいにビクビクしてたけどね。幽霊が自分の体すり抜けてるのにそっちは全然気づかないで他の幽霊に怯えてるのはちょっと笑っちゃった」

 ま、その幽霊が居たかどうかは私には全然見えなかったけどねーと、呑気に言う姉さん。

「とにかく、ぶらぶらしてる間に分かったのは、私は怜君以外には話しかけられないし、怜君しか私のことを認識出来ないってこと」

「……面白いね。なんでだろう」

 その話を聞いて思うのはそんな疑問なんかじゃないんだけど、ここでは話を逸らすことにした。姉さんは腕組みしながらしたり顔でうんうんと頷き、

「やっぱりね、これは愛の力だよ」

 などともっともらしく言っている。

「そうだね」

 僕もにっこり笑って肯定する。姉さんの言う通りだと感じるからだ。こんな奇跡があるとしたら、そういう理由が一番ふさわしいように思える。

「えへへ」

 姉さんははにかみ笑いをすると、ベッドに腰掛けて僕に体を預けてくる。姉さんの背中と僕の肩、その接着面から伝わってくる体重が、この上なく嬉しい。

「こうやって、私が触れられるものも、怜君だけだよ。果物ナイフも持てないけど、怜君には触れられる。嬉しいな」

「僕も全く同じ気持ちだよ、姉さん」

 体重がかかっているのとは反対側の手で姉さんの髪を撫ぜる。さらさらで指通りのいい、とても美しい髪だ。姉さんは嬉しそうに目を細めている。なんて愛おしいんだろう。


 それなのに、僕はこの人を。


 ずきんと、体の奥深くが嫌に疼く。駄目だ、やっぱり。目を背けてちゃいけない。言わないと。

「あの、姉さん、僕――」

「失礼します」

 僕が言いかけたところで、病室の扉が開かれた。……なんてタイミングの悪い。

 入ってきたのは、看護師さんだった。いつも僕の世話をしてくれる、まだ若い感じの看護師さんだ。とはいえ、少なくとも二桁は違うだろう。

「あの、点滴の交換に来たんだけど……どうかしました?」

「……いえ、何も」

 見てみれば、確かに点滴が残り少なくなっていた。

 なあに? という顔をする姉さんに軽く手を振り、「なんでもないよ、姉さん」と声を掛ける。少し腑に落ちない顔をした姉さんだったが、看護師さんが近づいてきたため、僕のそばを離れた。近くでふわふわと浮いて、僕らを見ている。

 看護師さんは手慣れた様子で点滴を交換する。てきぱきてきぱきと。横顔を見てみるが、無表情。やはりプロは違うな、なんて益体もないことをぼんやり考えながら、僕はそれを眺める。

「お体の具合はどう?」

 こちらに顔を向けないまま看護師さんは訪ねてくる。口調が微妙に砕けているのは、僕がまだ子供だと思ってるからか。

「大分いいです」

「そうですか、それはよかったね」

 本当にいいと思ってるんだろうか。分からない。大人の本心ってやつは小難しいあれこれで何層にもコーティングされていて、僕程度じゃ分からない。

「後遺症もないみたいだし、体力なども順調に回復してます。退院はまだかかるかもしれないけど、このまま順調なら、直に転院できるよ」

「……次は精神病院ですかね」

 僕がぼそりと呟くと、手際よく動いていた看護師さんの手が不意に静止した。横顔は相変わらずの無表情。いや、これは強張ってるんだな。分かりやすい。この看護師さんもそんなに大人じゃないんだろう。

「……何のことかな?」

「とぼけないでいいですよ。皆さんが噂してるのは姉さんから聞いて知ってるんで」

 さらに表情が強張る。僕は事実を言ってるだけなんだけどな。

「事件の後遺症で精神に異常を負い、死んだ姉の幻覚を見てそれと会話するイカれた中学生――とかって言ってるんでしょう? さっき部屋に入ってきたときも僕と姉さんの会話を聞いて顔を強張らせてましたもんね」

「……そんなことは」

「別にいいんですけどね」

 言葉に詰まる看護師さんを、僕は自分の言葉で遮る。

「事情が事情ですし、そういう推測もしやすいでしょうから、まあ仕方のないことですし。姉さんが他の人に見えない以上、幻覚と言われるのも妥当ですし。ただ、精神病院は勘弁してほしいですね。姉さんが見えない人に幻覚だって治療されて、本当に見えなくなっちゃったら嫌ですし――精神病の治療ってどんなことするのか分からないんですけど、洗脳みたいなものなんですかね? どうせ治らないんだし、治したくないからほっといてくださいって主治医の先生にでも言ってもらえたら」

「君は」

「ん?」

 遮り返し。今度は僕が遮られた。看護師さんは静かに言う。

「君は、なんでそんなに落ち着いてるのかな?」

「……」

 答えない。

「あんなことをしておいて、あんな結果になったというのに、どうしてそんなに落ち着いてられるの?」

「……さぁ。よく冷めた奴だとは言われますけど」

 違う。

 本当はそうじゃないはずだ。落ち着いてるのは、そんなのが理由じゃない。目を逸らしてるからだ。

「君、さぁ――」

 看護師さんはなにか言いかけて、言葉を飲み込んだ。でも、続きはなんとなくわかった。

『君さぁ、気持ち悪いよ』

 そんなところだろう。

 看護師さんはそのまま無言で作業を終え、部屋から出て行ってしまった。

「……次から担当の人変わるかな?」

 姉さんに聞いてみる。

「さぁ? そうかもしれないね」

 姉さんはどうでもよさげに答えてまた僕のそばに寄って来た。

「でもどうでもいいでしょ? 他の人のことなんてさ」

 姉さんは僕の肩に顎を預け、耳元でささやくように言う。

「私は怜君だけでいいし、怜君だって私が一番だよね? 他なんてどうでもいいじゃない」

「そうだね」

「えへへ」

 姉さんが抱き付いてくる。体が僕と密着する。

「怜君の香りがする。大好きな匂い。……愛してるよ、怜君」

 すんすんと鼻腔を鳴らしてうなじの匂いを嗅ぐ姉さん。とても愛おしそうに、とても嬉しそうに。吐息を漏らすようなささやきが、鼓膜を愛撫する。

「ね、怜君も抱きしめて?」

「うん」

 姉さんの麻薬のような囁き。僕は言われるがまま、姉さんを抱きしめる。その白い肌。その柔らかい肢体。そしてその――まるで体温のない、冷たい体。



 瞬間、胸の奥の疼きが決壊した。

『僕が姉さんを――こんな風にした』

『僕が姉さんを――――殺したんだ』

『こんな、血の通わない体にしてしまったんだ――』




 僕と姉さんは、お互い愛し合っていた。

 家族愛? 違う、そうじゃない。そういうありふれた話ではなくて――つまり、僕と姉さんは男女の関係にあった。

 みんなに隠れて抱きしめ合った。愛をささやきあった。キスもした。そして、それ以上のこともたくさんした。

 いつか二人で誰も僕たちのことを知らないところに行って、結婚しよう。そんなことを何度も話した。実現すると思ってた。数年の辛抱だって、心の底から思い込んでいた。でも、僕達は子供で。結局子供の夢物語だったんだ。


 愛し合っているところを、両親に見つかった。

 所詮子供じゃ、いつまでも隠し通せるわけがなかったんだ。

 その日の夜、僕と姉さんは引き離された。今までずっと同じ部屋で寝ていたのに、無理やり分かたれた。

 両親は厳格な人物だ。実の子供のこんな関係、許すわけがない。じゃあどうするか。二人で家を抜け出した深夜、しんと冷え切った公園で話し合った。

 心中しようと言い出したのは僕だった。

 二人の大学卒業後、同じ部屋に住んで気兼ねなく愛し合う計画はもう駄目だ。僕たちはずっと引き離されて、二度と会えなくなるだろう。だからと言って今からどこかに逃げようにも、金のない高校生と中学生じゃうまく行くわけない。すぐに追いかけられて連れ戻される。

 だから、誰にも追いつけないところに二人で行こう。僕はそう言った。

 浅はかだった。子供だった。なんて、馬鹿な台詞だっただろうか。

 姉さんは一瞬驚いた顔をしたが、うん、と頷いた。

 そして僕らは抱き合ったまま、二人で冷たい海に飛び込んだ。死後の世界で永遠に結ばれることを誓って――。


 そして僕は気付くと、病院のベッドの上に居た。

 姉さんはその隣で、浮きながら僕を見つめていた。












 涙がとめどなく溢れてきた。頬を伝った涙が落ちて、姉さんの体を濡らした。

「ごめん……姉さん、ごめんね……」

「怜、君?」

 姉さんが戸惑ったような声を上げる。でも僕は、涙を止められなかった。姉さんが体を離して僕の顔を見る。

「僕が……僕が二人で死のうって言いだしたのに。それなのに僕だけおめおめと生き残っちゃって。姉さんだけ死なせてしまって――」

「怜君……」

「僕のせいで、姉さんは死んだ。僕が姉さんを殺したんだ。僕のせいで姉さんは、誰とも話せない。何も出来ない。何にも触れられない。全部、僕が、奪って」

 そうだ、僕のせいだ。

もう姉さんは仲のいい友達と話すことも、好きな漫画を読むことも、好物のアイスを食べることも、全部全部出来なくなってしまった。死んでしまったから。僕が死なせてしまったから。

 姉さんは困った顔で僕を見ている。そんな顔をさせているのは誰だ。僕だ。僕が姉さんを苦しめている。

「姉さん……ごめん……ごめん……」

 滴る涙で前が見えなくなり、目を閉じる。そして開けると――姉さんの姿がなくなっている。

「え……」

 嘘だ。

 僕が姉さんを殺してしまったから。姉さんを困らせてしまったから。姉さんは僕の前からいなくなったの?

 もう僕には姉さんしかいないのに。姉さんだけなのに。やめて。いやだ。僕を置いていかないで―――。

 その瞬間、後ろから抱きしめられた。

「泣かないで、怜君。大丈夫。お姉ちゃんはここに居るよ」

「ねえ、さん……」

「男の子なんだから、泣き顔あんまり見られたくないでしょ? だから後ろから、ね」

 背中から、姉さんの感触がする。姉さんを感じる。

「ね、怜君。謝ることなんてないんだよ。私、今とても幸せなんだから」

「でも」

「でも、じゃないよ」

 姉さんは囁く。

「あのままだと、二人はこれから先ずっと会えなかったよ。愛し合うことなんて出来なかった。そんなの、死んだほうがマシじゃない。だから怜君と一緒に死のうと思った。だけど怜君はここに居て、私も存在している。もう誰にも邪魔されないんだよ。こんな幸せないじゃない?」

「けど、姉さんは全部失くして」

「何も失くしてないよ」

 姉さんが僕を抱きしめる。強く、強く。

「私は怜君さえいればそれでいいの。他はどうだっていい。怜君にしか触れられない、怜君だけが全部って今の状態、とても素敵。世界が怜君で満たされてるんだもん。嬉しくないわけがないよ」

「姉さん……」

 姉さんが手を伸ばして僕の涙を拭った。

「ねえ。怜君は幸せじゃないの? これでもう私は怜君だけのものだよ? 怜君以外には見ることも、聞くことも、触ることも出来ないんだよ。お姉ちゃんの全部、怜君専用。嬉しくない?」

 姉さんは僕の耳元で、静かな声で囁きかける。とても嬉しそうな声が耳に滑り込んできて、脳の全てをぐちゃぐちゃに溶かしていく。

「私は怜君に私の全部あげられて、とてもとてもとても嬉しいよ。この体が余すところなく怜君だけのものになれるなんて考えてもみなかった。二人の愛の奇跡だよね、これは。怜君は? お姉ちゃんの全部もらって、嬉しくない?」

 そんなの、答えは決まってる。

「嬉しくない、わけがない」

「でしょ?」

 うふふ、と姉さんの笑い声が耳の産毛を震わせる。

「それにさ、もう一つ嬉しいことがあるんだ」

「……それは?」

「分からない?」

 姉さんの吐息。

「こうやって死んでも幽霊になれるってことはさ。これからずっと先、何があっても二人は一緒に居られるんだよ。良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも――死ですら、二人を分かてない。ねえ、これってさ」

 永遠の愛って、呼ぶんじゃないかな。

 姉さんはそう言った。

 嗚呼――その通りだ。何を悲しむ必要があったんだろう。

 これで僕たちは、真の意味で永遠にいられるんだから。

 もう誰にだって二人を引き離すことは出来ないんだから。

 これ以上の幸福が、世界にあるだろうか?

 悲しむことも、怯えることもない。だって愛し合う二人は永遠なんだから。

「姉さん……」

 姉さんに顔を向ける。僕の姉さん、僕の一番大事な人が、確かにそこにいる。他の誰にも見えなくても、僕はその存在を感じられる。

「なあに、怜君?」

「キス、しよう」

「……うん」

 姉さんの唇は、体温こそなかったけど。

 生きてた頃と変わらない、姉さんの味がした。

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