天使の微笑み

緑夏 創

第1話


腹が立つ程に、太陽は輝いていた。まるでこれから起きる事を心待ちにしているように。

そのギラつく太陽の光を受けて、若い木々の瑞々しい葉は、更に生き生きと楽しげに胸を張っているように思える。私達、人間と違って。


辺りには怒号と悲鳴が飛び交っている。まるで川の流れのように、同じ方向へ逃げ惑う人々。その阿鼻叫喚の群れの中に、私も混じっていた。

終末を告げるサイレンが、いつも通りの真夏日だったはずの私達の世界に鳴り響いている。

だけど、私にはそんな聞き慣れないサイレンや殴り合う男達、赤ん坊の泣き声よりも、聞き慣れたはずの蝉の鳴き声の方が何故か何倍も煩わしく思えた。

きっと、喜んでいるんだ、と私は思った。太陽も

空も木々も蝉も、ここから私達が居なくなる事を

歓喜しているんだと、そう思えば蝉達の合唱はま

るで私達人間を嘲笑っているかのようにも思えてきて、余計に煩わしい。

常に、肘や肩には誰かの肘や肩がぶつかって、吹き飛ばされそうになる。それでも、私は濁流の中を藻掻くように懸命に前へ駆けた。死にたくなかった。

悲鳴、怒声、泣き声、車のクラクション、蝉の鳴き声、阿鼻叫喚。その絶望の中心、そこにはまるで濁流の流れに逆らう巨木のように微動だにせず、涼し気な笑みを浮かべている少年が立っていた。


「晴彦……?」


彼は紛れもなく、幼少の頃からずっと一緒に居た幼なじみの晴彦だった。それでも、私は何度も目を疑った。それ程に、何度も見てきたはずの彼の笑顔はいつも通りで、それ故に現実味を帯びていなかったのだ。


「……あ、詩織。終業式ぶりかな。今日も暑いね」


彼はまるで通学路で一緒になった時みたいに笑いかけてくる。たまらず、私は足を止める。すると、幾人もの人の身体が私にぶつかっていく。波にもまれるかのように私の体はよろめき続けて、立つことすらままならない。

そんな逆らう事を許さない人の群れの中心に、晴彦は私とは対照的に、平然な顔をして立っていた。

危機感のまるで無い、普段通りなその微笑みを浮かべる彼は、まるで透明人間になったかのように人々には見えていないのかもしれない。

そんな様子に、腹が立った。


「何してるの!逃げるよ!」


彼の腕を掴む。けれど、晴彦は動かなかった。


「君こそ何してるんだよ。早く逃げないと」


晴彦は困ったように微笑む。

いつしか、周りに人は居なくなっていた。私の視界の奥の方で、微かな喧騒が聞こえてくる。けれど、それも次第に離れていっていた。

サイレンも、もうこれ以上は無駄と言う事なのか、ぴったりと鳴り止んでいた。不気味な程に空っぽになった街に、私達だけが向き合っていた。

喚く蝉達の声と、生温いそよ風に全身が総毛立つ。

そんな中で、晴彦はやはりいつもみたいに微笑んでいた。それに最早苛立ちでは無くて、どうしようも無い切なさと不穏を胸に感じて、まるで体内に直接氷水を流し入れられたみたいに臓腑が急速に冷えていった。その感覚がたまらなく恐ろしかった。


「詩織。僕はここに残るよ」


私の不穏は的中していた。私は今、どんな表情をしているのだろう。彼は困ったように微笑んでいた。それでも、晴彦はその場から微動だにしない。それは彼の意志が既に決定している事を表しているように思えた。その事が、酷く悲しくて、悔しい。


「なっ……なんでっ……」


だらしのない嗚咽が声に混じってしまう。それでも、私は何度も喉につっかえかける言葉を振り絞った。


「仕方ないんだ。僕はここに残らないといけないんだ」


「どうしてっ……!」


晴彦は瞼を閉じて、微笑んだ。何も教えてくれない彼の態度に、涙が溢れてくる。


「……っ!どうして?ねぇ……どうしてなのっ?なんで晴彦が……残らないといけないの……?」


「ごめんね」そこからはもうその一点張りだった。

いつしか、そんな彼の胸によりすがっていた。そして、何度も両手の拳の底でその胸を叩いた。腕は震えて力が入らない。それでも、何度も私は晴彦の胸を叩いた。そうするしかなかった。

筋肉の「き」の字もついていない、薄い胸板。まるで女みたいに華奢で、もやしなヤワ男なのに、なんで……。


「なんで……っ!はるひこがいないとっ……わたし……これからどうしたら……っ、むかしから……ずっといっしょだったのに……っ!あんたがいないとっ……わたし、これからどうすれば……っ」


ありったけの思いの丈をぶちまけた。自分で何を言っているのかわからない。それでも、吐きつくせるだけの言葉を吐いた。

彼は何故か目を丸くして首を傾げた。


「……それって、告白?」


彼は間の抜けた声でそう言った。


「……っえ?」


私はまるで時が止まってしまったかのように固まってしまう。


「え?」


「……は?」


そしてしばらくの間、私はまん丸に見開かれた晴彦のくすみの無い瞳を、晴彦は私の腫れて潤んだ瞳を、互いに見つめ合っていた。私達の間を、夥しい蝉時雨と互いの息遣い、そして鼓動が満たしていた。

そして、互いに笑った。彼は普段の談笑のように、私は吹っ切れたように笑った。


「ねぇ、最期にキスをしようよ」


「はぁあ!?」


「だって詩織、僕のこと好きじゃん」


「ちょっ、バカ!そんなわけ……っ」


それはどこまでも照れ隠しだった。それを分かっていて、なお晴彦は露骨に悲しそうに眉をひそめて、「じゃあ、嫌い?」と私に微笑みかけてくる。

それをされると、もう私は何も言えなくなる。ただ、燃えるように頬が火照って言葉にならない呻きを漏らすだけだった。


「あはは」


晴彦は笑った。もう誰もいない街で高らかに笑った。

無邪気なその笑い声に、酷く安心してしまう。逃げなくちゃいけないというのに、何故だか心は満たされていた。


「因みに僕は詩織の事、好きだよ」


「……バカ」


そして、口付けを交わす。それを最期になんてしたくはなかった。それ程に、優しくて甘い口付けだった。

晴彦の方から、唇を離した。とろけるような彼の温度が甘い甘い余韻として今も私の唇に残り続けていた。

とくんとくんと心臓は高鳴って、鼓動している。ちゃんと息をして、額から汗を流して、揺れる陽炎を視界の奥に捉えて、二本の足で立って、私は今、生きていた。


蝉達はもう一匹も鳴いていなかった。前髪が風にそよぐことも無かった。聞こえてくるのは、私達の息遣いだけだった。まるで私達を置いてこの街だけ時が止まってしまったかのような、そんな静けさが辺りに満ちていた。

そして、憎いほどに晴れ渡っていた空は、今ではまるでモザイクがかかったように白く霞んでいた。

それらは最早、何かの儀式めいていた。


「君だけは、生きていて欲しかったんだけどな」


霞んだ空からは赤い雨が降ってきていた。ぽつり、ぽつりと雨は額を打つ。地面は赤黒く濡れていった。

ぼとりと、何かが落ちる。赤いアスファルトの上にくたびれているのは、溶けかけた私の右腕だった。続いて、まるで雪が溶けるように私の手のひらも赤いドロドロの塊になって地に落ちた。


「ごめんね」


私は赤く溶けていく。降り注ぐ死の雨が私を清めていく。

周りの木々も、蝉も、草花も、全てが赤く崩れて、血の池を形成していく。そこへ、溺れていく。


暖かな感覚に包まれていた。まるで、母の胎内に帰ったかのような感覚だった。恐怖はなく、ただただ心地良かった。

そうして、私は崩れて、溶けて、終わっていく。

最後に見たもの。それは白い翼を広げた彼の困ったような微笑みだった。

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