自殺係
@nobel333333
第1話
俺は、もとより、出来損ないの刑事だった。高卒で警官となり、およそ30年になる。もともと頭が悪く、体力も衰え始め、あまり使いモノにならない。周りの同期は現場主任になったり、管理職になったり。俺とは到底格が違う。この事実に俺は悔しさと劣等感を感じていた。さらに、俺は2年ほど前に離婚していた。もともとは俺と妻と娘の3人家族。しかし、離婚後、妻は娘を連れて出ていき、俺は一人で暮らすこととなった。
それでも、俺は捜査一課にいた。そこのリーダーは俺の同期の野口であり、俺は野口にこき使われていた。俺は野口の命令を絶対に聞かなければならず、命令に従わなかった場合は、例え犯人を検挙した場合でも、何発も殴られた。しかも、俺が挙げた数少ない手柄はすべて野口の手柄となり、野口は上からの評価を高めていった。周りの若い刑事からは「出来損ない」「給料泥棒」と陰口をたたかれ、呼び捨てで呼ばれる始末だった。それでも、警察官は俺にとって子どもの頃からの憧れの仕事だったため、一応誇りを捨てることなく続けていた。
そんなある日、俺は微妙な眠気を感じながら出勤すると、野口から急に屋上に呼び出された。屋上は少し寒く、寂しかった。
「おい、近藤。ちょっと来い」
「なんだ? 野口」
野口は険しい顔をしていた。俺は身構えた。
「異動が決まった。お前は明日から捜査一課ではない」
「な……なんでだよ?」
「いや、むしろ、お前が今まで捜査一課にいれたことの方が不思議だがな…」
正直、俺は日成らず捜査一課を外されるのではないかと予感していた。そのため、俺が異動になったことは何ら不思議なことではなかった。だが、いざ異動が告げられると悲しいものだ。捜査一課は、居心地は良くなかったが、何か誇らしいものがあるように感じていた。今思えば、離婚して孤独になり、様々な点で引け目を感じていた。気の合う仲間がいなかった俺にとって、捜査一課にいられることは唯一の生き甲斐だったように思える。
話はそのまま続いた。
「で、異動先だが、警視庁自殺対策課。通称、自殺係という部署だ」
警視庁自殺対策課……。聞いたことのない部署だった。
「警視庁自殺対策課? なんだそれ?」
俺は野口に聞き返した。野口は皇居をじっくり眺めながら答えた。
「俺自身、詳しいことは知らんが、あそこは『死人の部署』と呼ばれている」
「そうか……」
俺は言葉を失った。そんな場所に行きたくない。そう思った。
「以上だ。今日中に荷物をまとめて出ていけ」
野口はそう言い放って屋上を後にした。俺は一人でしばらく皇居を眺め、屋上を降りた。
屋上から捜査一課の部屋に戻り、荷物の整理をしていると、後輩の雨宮たちが笑いながら声をかけてきた。
「あれっ、近藤。どっか行くんすかー」
「……異動だ」
俺は乱暴な口調で言った。後輩たちは必死で笑いをこらえていた。
「ど、ど、どこに異動っすか?」
「……警視庁自殺対策課……だとよ」
俺は小さな声で答えた。すると、ついに後輩たちが笑いをこらえきれなくなり、笑い出した。この様子だと、もともと知っていたのだろう。俺は腹が立った。
「まじか。やべぇよ、あそこは。終わってる」
「そんなにヤバいとこなのか?」
俺は不安になりながら尋ねた。
「えっ、知らないの? あそこはね、自殺を止める部署なんだけど、どちらかというとあそこの部署の人たちが死んでるって感じ。あそこに行ったら人生終わりですよ。間抜けだなぁ。終わってますね。おっつー、こ、ん、ど、う、せ、ん、ぱ、いっ。ハハハハハ」
雨宮がいたぶるように煽ってきた。俺はかなり腹が立ち、雨宮の胸倉をつかみ、机にぶつけるように突き放した。そして、そのまま荷物を抱え、捜査一課の部屋を出ていった。
俺は野口に言われた通りの場所に行った。今までの話を聞く限り、絶対に行きたくない場所だ。俺は、これが嘘か、何かの間違いではないだろうか、「自殺係」なんて本当は存在しないのではないだろうか、そう思った。しかし、野口の言っていた場所に行ってみると、確かに「警視庁自殺対策課」と書いたプレートのある部屋があった。プレートは手書きで色あせていた。部屋の扉は汚い木でできていて、ドアノブはかなりさびている。俺は、一瞬躊躇したが、思い切ってドアをノックし、ゆっくりドアを開けた。
「すみません。本日からこちらに配属になった近藤です」
俺は簡単な自己紹介をした。しかし、誰も返事をせず、聞こえているのかどうかすら怪しい雰囲気だった。部屋の中には3人の男がいた。しかし、みんな他のことに夢中で、仕事をしている様子ではない。俺はもう一度、今度はもう少し大きな声で、自己紹介をした。
「すみません。本日ここに異動になった近藤です」
それでも、みんな全く反応がなかった。そのため、今度は3人の中で一番年上だと思われる男の耳元で、少し怒鳴るように自己紹介をした。
「すみません。本日ここにとばされた近藤です!」
すると、やっとその男はやっと反応してくれた。その男はラジオで競馬を聞いているようだった。
「あっ、これは失礼。ここのリーダーの岡崎です。ここに来たということは、何か訳アリですね。何か、やらかしました?」
岡崎は、笑いながら尋ねた。
「や…やらかしたというか…、存在自体がやらかしているというか…」
「まぁ、いいや。とりあえず、そこに座ってください。あの若い男、若林君っていうんだけれど、若林君の隣のデスク。そこがあなたの席です」
岡崎は、若い少しイケメンの男を指さした。俺はその男の横に座った。
「近藤だ。今日からよろしく」
「あぁ、近藤さん。若林です。よろしくおねがいします」
若林は一瞬だけ俺の方に顔を向け、すぐに自分のやっていることに戻った。若林はスマホゲームをしているようだった。
さらに、俺の向かいには小太りで眼鏡をかけた男が座っていた。俺はそいつにも声をかけた。
「新しく入った近藤だ。よろしく」
「あっ、加藤です。よろしくおねがいしまーす」
加藤も若林同様、一瞬だけ俺の方を向き、すぐに自分のやっていることに戻った。加藤はフライドチキンとポテトチップスを食べながら、パソコンをいじっていた。俺はそこで自己紹介をやめ、ぼんやりと部屋の中を眺めた。ここにいる刑事は皆、死んだ目をしていた。
ここに異動してから5日後の夕方ごろ、急に電話が鳴った。岡崎はゆっくりと電話をとった。
「もしもし、自殺対策課の岡崎です」
岡崎はしばらく「はい、はい」と返事を繰り返し、電話を切った。そして、その後、みんなに向けてこう言った。
「東京駅近くの建物で首つり自殺の男性が発見された。鑑定の結果、自殺で間違いないそうだ。現場行くぞ」
しかし、誰も返事をしなかった。それでも、皆立ち上がり、億劫そうに出発した。そもそも、岡崎の言葉にもやる気が感じられなかった。
現場は警視庁から歩いて行ける距離の場所だった。現場には鑑識の人たちが集まり、写真を撮ったり、指紋を採取したりしていた。岡崎は鑑識の一人に声をかけた。
「ご苦労さん。自殺で間違いないんだろ?」
「ああ。今、一応もう一回確認しようとしていたとこなんだけど、まあ間違いない」
「そうか」
岡崎は、死体をまっすぐ見て、手を合わせた。そうしているところに、捜査一課の野口が現れた。
「おっ、死神の岡崎。そうか、そうだよな。自殺だもんな。じゃあ、調書よろしくー」
「おっ、一課の野口。まあ、そうだよな。これが俺たちの仕事だからな。だから、さっさと帰れ」
岡崎と野口は仲が悪そうだった。野口は俺に対しても絡んできた。
「おい、近藤。気分はどうだ? 一課に戻りたいかー?」
「ちっ、うるせぇ」
俺は捜査一課に戻りたくて仕方がなかった。しかし、口には出さなかった。
今度は雨宮が絡んできた。
「おっ、近藤じゃないっすかー。お久っすー。元気だったー? 自殺係の仕事って、調書書いたりするだけでしょー? 税金の無駄使いじゃないですかー? あっ、近藤の場合、一課でも税金の無駄遣いでしたー」
相変わらずの煽り方だ。俺はそう思った。それでも、今回は怒る気力もなく、ただ茫然と立ち尽くしていた。
「あれっ、近藤さん、野口たちと知り合いですか?」
岡崎が訊ねた。
「ああ。そうです」
俺はぶっきらぼうに答えた。
「そうだったんですねぇ」
岡崎はそう言いながら、しばらく死体を眺めた。
「とりあえず、今回は本人の筆跡の遺書もあるみたいだし、ホトケの部下の証言もとれているそうだ。これ以上捜査してもホトケの家族の迷惑になるし、警視庁に戻って、調書だけ書いて、とっとと飲みに行くぞ」
「はい」
俺たちは、現場に10分もいることなく立ち去った。警視庁で30分もしないうちに調書を書き上げ、そのまま飲みに行った。
「では、近藤さんの歓迎会も兼ねて、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
飲み会の時のみんなは生き生きとしていた。この店は自殺係の行きつけらしい。客はかなり多く、少し騒がしい。俺はビールを一気に流し込んだ。
「ところで近藤さん、あなた、もとは捜査一課の人間ですか?」
「ええ。そうです」
「年はいくつですか?」
「52です」
「同い年かー」
岡崎とは同い年だということが分かった。ここまで岡崎と話したのはこの飲みが初めてだった。そのまま話が弾んだ。
「近藤さん、あんたにとって、捜査一課からここに異動は痛かったでしょー?」
「まあ、でも、捜査一課は捜査一課で野口みたいな偉そうなやつと、生意気な後輩しかいないのでね」
「ああ、確かに。野口は嫌だな。よく耐えてきましたね」
「まあ、慣れですわ」
俺はすごく気分がよかった。
「でも、正直、近藤さんは尊敬っすー。なんであんなに近藤さんがあんなに悪く言われてるのか知らないけど、自分はもともと捜査一課にいた近藤さんを尊敬しまーす。捜査一課にいただけで尊敬っすー」
若林が会話に入ってきた。若林はかなり酔っていた。
「ありがとう、若林。でも、いったん落ち着け。飲み過ぎだ」
そう言いながら俺も、早くも3杯目のビールに手を付けていた。
「大体ねぇ、捜査一課が偉いわけじゃないだろ? 自殺対策課には自殺対策課の偉い部分があるでしょーが」
「いや、自殺対策課は、自殺の防止と自殺理由の追求しかできないんだよ。自殺の防止は自殺しそうだという通報があってから駆け付ける形で、多くの場合、間に合わないし、自殺理由の追求は今日みたいに調書を作るんだけど、死んでるから意味ないかな」
岡崎は言っている内容とは関係なさそうに、うまそうにビールを流し込んだ。
「自殺は止められないし、誰の無念にもこたえることなく調書を書くだけだから、俺は死神って呼ばれているんだよ。犯人を逮捕することなく、人が死んだところに現れて、死体を拝んで帰っていくから死神ってわけ」
「なるほど。その呼ばれ方はつらいな。でも、何で調書を書くんだ?」
「厚生労働省が自殺の防止を推進したいみたいで、厚労省の中に自殺理由を調査しているところがあって、そこにデータとして送っているわけなんだ。まあ、あれだろうね。警視庁が政府に恩を売っておくことで、いろいろな場面で優遇してもらえたりするし、そういった意味だろうね」
「なるほど」
俺は納得した。この部署の仕事にはやりがいがない。そう感じた。この後も飲み会は盛り上がり、ある程度のところで終了した。
それから一週間ぐらいが経ったある日、自殺係に電話がかかってきた。今度は、部下がビルの屋上から飛び降りそうだという内容だった。岡崎が通報者に、時間稼ぎを頼み、俺たちは現場に急行した。現場は車で30分ほどかかる場所だった。車の中で俺はそわそわしていたが、他の人たちは浮かなく、暗い顔をしていた。運転をしていた岡崎は何度もため息をついていた。約30分後、俺たちは現場のビルに到着した。
「よし、着いたな。このビルは6階建てで、6階部分が屋上らしい。いち早く上に上がる必要がある。エレベーターと階段、二手に分かれよう」
岡崎の指示で、俺たちは二手に分かれた。俺は待つのがじれったかったため、階段を選んだ。俺は他のメンバーに置いて行かれ、息をあげながら必死で登った。俺が屋上に着いたとき、みんな下を見て突っ立っていた。
「はぁ、はぁ、すまない……。遅くなった」
「また…、防げなかった…」
岡崎は暗い顔をしていた。岡崎の隣には、通報者と思われる男性が泣きながら立っていた。
「すみません。部下を…、引きとめておくことが……できませんでした……」
「まあ、仕方ないですよ」
岡崎が、少し明るめに言った。それを聞いた男性は余計に泣き出し、今度は岡崎をまっすぐ睨め付けた。
「大体ね、あなたたちね、来るのが遅いんですよ。引き留めておくなんて無理。そう思いませんか?」
男性は、岡崎の肩をつかみ、岡崎の体を思いっきり揺さぶった。
「けど、悪いのは俺かぁ。警察なんて呼んだから。このことがあいつを追い詰めたのかもしれないな。警察なんてどうせ無能だし。信頼できないし」
「お気持ち、お察しします」
「もう、いいですから。これ以上私にかまわないでください。失礼します」
男性はそう言って屋上を去っていった。屋上に冷たい風が吹いた。俺たちは下に降り、死体をじっくり眺め、死体を写真に収め、警視庁に戻った。調書は、まわりの人たちのことも考慮し、後日まとめることになった。
例の自殺からしばらく経ったある日の昼頃、自殺係に一本の電話が入った。2分くらい経った後、岡崎が電話をとった。
「もしもし、自殺対策課の岡崎です」
しばらくすると、岡崎は電話を終え、ため息をついた。
「文京区の一軒家で自殺があった。自殺者は藤原和夫82歳。浴槽で手首を切り、自殺。このじいさんが自殺をしたとき、家族は外出していたということだ。家族のアリバイはもちろんとれている。あとは、調書を書くだけだ。行くぞ」
「はい」
他のメンバーはやる気なさそうに返事した。俺たちは、そのままだらだらと車に乗り、現場の家に向かった。
自殺現場の家はある程度金持ちのようだった。ある程度の広さがあり、大きめの門があり、庭には池があった。今回は、鑑識作業などは終わっているようであり、現場の家には他の警察官はいなかった。岡崎は玄関のチャイムを押した。
「すみませーん、警視庁の者です」
「はーい」
しばらくすると、家政婦のような人が出てきた。
「ご主人様はお仕事で出かけておりますが、奥様はおられます」
「わかりましたー。おじゃましまーす」
岡崎はそう言った後、家に入った。俺もそれに続き、家の中に入った。家の中には大広間があり、そこに通された。大広間には、奥さんとその息子がいた。奥さんは、和夫の息子の嫁である。
「こんにちは。警視庁の者です」
「刑事さんなら、仕事が済み、もう帰ったはずですが。自殺ですよね。もう、お話することはないと思いますが」
奥さんが言った。
「いえ。さっきの刑事は捜査一課でして。我々は自殺対策課という部署の人間で、自殺を止めたり、自殺理由を解明する部署でありまして……」
「はぁ。まあ、いいわ。何でも聞いてください」
奥さんは嫌がるそぶりを見せた。まあ、仕方ないことではある。岡崎は続けた。
「では、始めます。まずは、お名前をお聞かせいただけますか?」
「私は藤原久子です。それから、私の息子の荒太です。私の夫は秀樹で、今、福岡に出張に行っています」
「ありがとうございます。では、早速本題に入りましょう」
岡崎は、そう言って若林に何かの指示を送った。若林は、すぐにノートとペンを用意した。この係では若林が記録係のようだ。
「自殺されたのは秀樹さんのお父さんということですが、自殺理由として思い当たることは何でしょう?」
「そうですねぇ……」
久子はしばらく黙り込んだ。岡崎はじれったそうに久子を見つめた。
「和夫さんは何か悩んでいたことがあったとかありますか?」
「そういえば……。お義父さんは自分の体が段々動かなくなっていくことを悲しく思っている様子でした。もう、こんな体なら生きている意味はない。よく、そう言っていました」
久子は下を向いた。岡崎は続けた。
「では、和夫さんは、老いていく自分に嫌気を感じて自殺ということですね」
「そうかもしれないですね……。ああ、私達がもう少し話とかを聞いてあげていればこんなことにはならなかったのに……」
久子はうつむいた。
「まあ、残りのご家族に迷惑をかけたくなかったんでしょう。では、これで終わります。ご協力感謝いたします」
岡崎はそう言って終わらせ、若林はノートを閉じた。
「さあ、帰るぞ」
岡崎はそう言って玄関に向かった。
「では、ありがとうございました。失礼します」
岡崎は門のところでそう挨拶し、俺たちは家を出た。家を出た後、岡崎はため息をつき、「早く話が終われて良かった」と言った。今回の自殺理由は完全に明らかになり、あとは調書を書くだけに思われた。しかし、俺は何か引っかかっていた。久子たちは、俺たちを見送り、家の中に入るとき、少し笑ったのだ。ほんの一瞬だったが、確かに笑ったのである。しかも、少し、気味の悪い笑い方で……。
やはり、何か引っかかる。
俺は自殺対策課の部屋の自分の席に座り、静かに考え込んでいた。しかし、俺が考えている間にも調書は作られていた。今回の調書を書いていたのは若林だった。
「ふぅ。岡崎さん、調書が完成しそうです」
「そうか。じゃあ、とっとと終わらせて、飲みに行こうぜ」
自殺対策課は、いつも通り、活気のない雰囲気だった。若林だけ懸命に調書を書き、岡崎は雑誌の美女を只管眺め、加藤はオタク系のゲームに没頭していた。
「はい、できました」
「よし、じゃあ、俺が上に提出してくる。お前らは飲みに行く準備をしとけ」
岡崎は明るい声で言った。
「ありがとうございます」
若林はカバンに書類を突っ込み始めた。
やはり、何か引っかかる…。
そう思った俺は、岡崎の腕をつかみ、調書の提出を防いだ。
「待った。待ってくれ」
「どうした? 近藤さん」
岡崎は不思議そうに俺を見た。
「和夫さんの自殺には何か裏があると思う。もう少し調べたい」
その瞬間、みんな黙り込んだ。そして、気違いを見るような目で俺を見た。
「じゃあ、近藤さんは、和夫さんは他殺だとでも言うのかい?」
岡崎は不思議そうに言った。
「いや、そうじゃない。自殺は自殺だと思うが、自殺理由はもっと他にある気がする」
「と、言うと?」
「今日聞いた話は本当の話じゃない気がするんだ」
「じゃあ、あの親子が嘘をついていたと言うんですか?」
加藤が尋ねた。
「ああ。何か隠してる。笑ったんだ。俺たちが門を出た瞬間。久子と荒太は一瞬笑ったんだ」
俺は熱を入れて訴えかけた。しかし、加藤は信じてくれない様子だった。
「見間違いじゃないですか? それに、もし笑ったとしても、人が亡くなった後でも笑うことはありますよね」
「………」
俺は一瞬言葉を失った。しかし、もう一度説得を試みた。
「だけど、あの笑い方には何か悪意のようなものを感じた。今思えば、事情聴取の時も何か違和感があった気がする」
「そうですかー?」
加藤は半分笑いながら言った。
「本当だ。間違いない」
俺は熱意を持って訴えかけた。しかし、みんな信じていない様子だった。
「俺は自然な様子に見えたけどなぁ」
「ですよねぇ、岡崎さん。近藤さん、何言ってるんですか?」
「いや、違和感があったんだけどなぁ」
俺は頭を悩ませた。すると、若林が俺の意見も汲み取るようにこう言った。
「じゃあ、あれじゃないですか。和夫さんは老いを理由に自殺したことには間違いはないが、久子は、実際に、和夫のことをよく思っていなかった。死んでくれてラッキー、みたいな。そういう感じじゃないですか?」
俺は再び言葉を失った。
「とにかく、はっきりさせたい。だから、調べ終わるまで調書の提出は待ってほしい。頼む、この通り」
俺は頭を下げた。それでも、岡崎は嫌そうな顔をし、「いや、悪いが、これで提出する」と言って、部屋を出ていこうとした。
「待ってくれ!」
俺は再び岡崎の腕をつかんだ。なぜ、こんなに必死になっているのか。自分自身のことがよくわからなくなった。しかし、今回のことを適当に処理してはならない。適当に処理すると、和夫さんが浮かばれない。そう思った。
「とにかく、事情聴取は済んだし、もう終わりだ。これ以上捜査をすると、遺族の方々に迷惑をかけることになる」
岡崎はそう言って、俺の手を振り払った。
「近藤さん、なんかおかしいっすよ」
加藤が言った。
「いや、俺はおかしくない。捜査をする以上、きっちりやらなければならない。俺はそう思う。今まで流されてきたが、今回はきっちりやりたい」
「どうしたんですか?急に」
加藤は不思議そうな顔で俺を見た。
「そもそも、自殺の理由をちゃんと究明する。自殺者のために。それが、自殺係じゃないのか?」
俺は冷静に言った。すると、それを聞いた岡崎は、俺を馬鹿にするような目で見て、こう言った。
「いや、自殺係は自殺を処理する部署だ。発生した自殺に理由を付ける。家族、友人、知人。これらの証言があれば終了。その証言が嘘であろうとかまわない。自殺理由なんて、本人に聞かなければわからない。違うか?」
俺は完全に呆れた。
「じゃあ、俺たちは何のために自殺理由を調べるんだ?」
「それは、政府に恩を売るためさ。そうすれば、警察への待遇もよくなる。俺たちはそのために仕事をしているんだ。そんなこともわからないのか?」
岡崎は俺を挑発するような態度で言った。俺は腹が立った。それでも、俺は冷静にこう言った。
「まあ、上の意向はそうなのかもしれない。だけど、俺たちがちゃんと捜査しないと、自殺した人が浮かばれない。そうだろ?」
「いや、自殺理由を究明したところで自殺者は浮かばれない。だって、死んでるから。自殺したってことは、死にたかったってこと。遺書が残されていないということは、自殺者に世の中に対して何かを訴えようという意思はなかった、ということだ。ただ死にたかっただけかもしれない。それより、自殺なんて後味が悪いし、早く終わらせた方がいい。他殺の場合は真実を見つければ遺族が喜ぶが、自殺の場合は喜ばない。それなのに、俺たちが本気になって捜査して、何の意味がある?」
俺はあきれた。
「はぁ。自殺係って最低な部署だな。こんな部署、警察の部署じゃない」
「ふんっ、新入りのあんたに何がわかる」
「新入りだろうが何だろうが、俺は警察官だ。俺たちは市民の思いに寄り添い、被害者や自殺者の気持ちに寄り添って捜査をする。それが俺たちの仕事だ。違うか?」
俺は少し怒りながら言った。すると、岡崎は再び挑発するようにこう言った。
「近藤さん。あんた、何様のつもりだ? 偉そうに俺たちを説教か? まあ、あんたは何週間か前は捜査一課だったもんな。だけど、今は自殺係。あんたはもう、偉くない」
「何だと!」
俺の怒りはどんどん大きくなった。
「捜査一課にいただけで偉そうにしやがって。目障りだ!」
「岡崎ぃ!」
俺はついに、我慢が出来なくなった。俺は岡崎の胸ぐらをつかみ、岡崎を壁にぶつけた。
部屋にはドンという音が響き、緊迫した空気が流れた。
それでも、岡崎は続けた。
「あんたは今まで捜査一課にいたから、自分のことを偉いって思ってるんでしょ? 俺たちのこと、心の中で見下してるんでしょ? 今回の自殺はあんたにとっては確かに引っかかるところがある。だけど、本当は、今回の自殺を使って、俺たちに偉そうな立場を取りたかった。というより、この自殺をきっちり捜査することで、自分がちゃんと仕事をしてる。そう、自己満足したい。捜査一課を外された。だけど、自分は立派な仕事をしている。そう思いたい。違うか?」
「違う。そんなんじゃない」
「いや、そうだ。だが、ここで偉いのは俺だ。俺がリーダーだ。今のお前は下っ端だ。お前は所詮、捜査一課から飛ばされたゴミ。大人しく俺に従っておけ。俺に口答えするな。いいな」
岡崎は俺の手を無理やり振り払い、部屋を出ようとした。俺は、岡崎の腕をつかみ、岡崎が振り向いた瞬間に、岡崎の顔面を殴った。
バチン……。
「いってぇ………」
岡崎は、そのまま床に座り込んだ。加藤と若林は茫然と立ち尽くした。
「もういい。調書は出したければ出せばいい。よく考えてみれば、どうせ、厚労省に送られて、一つのデータになるだけだ。だが、俺は調べる。調べて和夫さんの無念を晴らす。それが、自殺対策課、いや、刑事としての俺の役目だ」
俺はそう言って部屋を出た。窓の外には綺麗な夕日が輝いていた。
次の日、再び俺は藤原家を訪れた。
「すみません。自殺対策課の近藤です。もう一度お話をお聞きしたいと思い、伺いました」
俺はインターホンを押し、そう言った。しばらくすると、中から家政婦らしき人が出てきた。
「秀樹さんたち、いらっしゃいますか?」
「はい。いらっしゃいます。すぐお呼び致します」
数分後、50代くらいの男性が出てきた。
「はじめまして。私は藤原秀樹です。今朝、出張から戻ってきました」
「警視庁自殺対策課の近藤です。早速、お話お聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」
「お通やの時間までであれば結構です。どうぞ、上がってください」
秀樹はさわやかな雰囲気で言った。俺はそのまま家に上がった。そのままリビングに案内され、リビングにある茶色のソファーに腰かけた。
「では、早速始めさせていただきます。昨日、奥さまたちに話を伺ったのですが、一応ご主人にも話を伺おうと思い、伺いました」
「はぁ、そうですか……」
秀樹は間の抜けたような返事をした。
「では、まず、あなたのお父様はなぜ自殺したと思いますか?」
「さぁ、わかりませんね。『老い』が原因だと、妻からは聞いていますが」
秀樹は他人事のように言った。俺はそこに引っかかった。
「では、あなたのお父様に異変はなかったですか? 自殺する前に」
「さぁ。私は仕事が忙しかったもので、あまり父のことにかまうことができず…。もう少し、かまってあげればよかったですね……」
秀樹はしみじみとした様子を見せた。しかし、それは演技のように思えた。
「他にご質問は?」
「では、あなたはお父様のことをどのように思っていましたか?」
俺は少し力を込めて質問した。秀樹はしばらく考えた。
「そうですねぇ。父は私に様々なことを教えてくれました。父は私にとってかけがえのない存在です」
「そうですか。では、お父様とのご関係は良好だったということでしょうか?」
「ええ。もちろん」
「そうですか…」
俺は言葉を詰まらせた。
「何だか、納得されてないご様子ですね」
「いえ……、そんなことは………」
「もう、よろしいでしょうか?」
「はい。ご協力、ありがとうございました」
俺は立ち上がり、部屋を立ち去ろうとした。すると、秀樹は暗い顔をしてこう言った。
「残念なことです。私は父のことが大好きだったのに。まあ、自殺の理由が明らかになってよかったです。これで父も少しは浮かばれるでしょう。はぁ、父が私に相談してくれていれば、こんなことにならなかったのに。残念です」
「そうですか……。ご協力、感謝します」
俺はそのまま席を立ち、玄関の方へ向かった。秀樹たちは俺についてきて、玄関で俺を見送った。俺はそのまま家を出ようとした。
―やはり引っかかる
父親について語るときの秀樹も演技に思えた。この一家には和夫さんに対する愛情が感じられない。そう感じた。俺はそんなことを考えながら庭を歩いていると、掃除をしていた家政婦に呼び止められた。
「すみません。ちょっと、お話よろしいでしょうか?」
「はい。何でしょう?」
「実は……、和夫さんのことなのですが……」
家政婦は話しにくそうだった。それでも、話してくれた。
「実は、和夫さん……、虐待されていました」
「虐待……、ですか………」
俺は核心にたどり着いたと感じた。和夫さんはこれが原因で自殺したのではないか。そう思った。
「虐待は、家族全員によって行われていました。秀樹さんは仕事のストレスの発散に、久子さんは家事や荒太さんのことに対するストレス発散に、荒太さんは親とのことや学校でのことに関するストレスで暴力などを繰り返しているようでした。始まりは…、ずっと前です」
「なるほど…」
俺はひどい話だと思った。家政婦は続けた。
「しかし、一年ほど前から、暴力による虐待はなくなりました」
「なぜ、なくなったのですか?」
「和夫さんについていた、介護士の方が、虐待をやめるように言ったからです。名前は、岡本信也という人です」
「もし、よろしければ、その人の連絡先などを教えていただけないでしょうか」
「はい。こちらが連絡先です」
「ありがとうございます」
俺は素早く連絡先をメモした。その後、家政婦は話を続けた。
「岡本さんは、二年ほど前にこの家に派遣されました。和夫さんは歩くことができず、車いす生活でした。そのため、介護が必要だったのですが、家族はだれもやりたがらず、家政婦の私に対しても、『家事が遅れるから、絶対介護をするな』と言い、介護をさせてくれませんでした。しかも、老人ホームに入れようという話もあったのですが、近くの老人ホームがどこもいっぱいで、探すのが面倒になったらしく断念しました。その後、新聞と一緒にポストに入れられていた介護士派遣の広告を見て、秀樹さんが適当に電話をかけました。それで、岡本さんが来たというわけです」
「なるほど」
俺は急いでメモをとった。
話はさらに続いた。
「一昨年の五月のある日、岡本さんは偶然、虐待の現場を目撃しました。そこで、岡本さんは一生懸命説得し、虐待をやめさせました」
「岡本さん、すごいですね」
俺は感心した。
「おそらく、岡本さんは、秀樹さんに関する何かの秘密を握っていたのでしょう。もちろん、和夫さんの虐待をやめさせるためですが」
「そうですか……」
秘密。なんだろう。俺はそう思った。
話はそこからさらに続いた。
「その後、和夫さんに対する虐待はなくなりました。暴力をふるうと、あざが残り、虐待したことが岡本さんにばれるからです。しかし、しばらくすると、今度はあざが残らない程度の暴行や、料理にほこりを入れるなどの虐待が行われました。もちろん、私も注意しましたが、解雇するなどといって脅され、聞く耳を持ってもらえませんでした。その後、岡本さんには報告をしたのですが、証拠不十分でなかったことになりました。何せ、当の本人の和夫さんが黙っていましたので」
「ひどい話ですね」
そこから、しばらく沈黙が続いた。俺は一つ引っかかっていることがあった。
「では、なぜ和夫さんは今、自殺したのでしょう? なぜ、今だったのでしょう? もちろん、たまたま今になって耐えられなくなったとも考えられますが、何か理由があるように思えるのです」
「そうですねぇ……」
家政婦は黙り込んだ。このことは家政婦にもわからないようだった。
「何か、あるはず……」
俺は考え込んだ。しかし、わからなかった。
「あっ、ありがとうございました。あとは調査しておきます」
「はい、おつかれさまです」
俺はその後、この家をあとにした。次はどこに行こうか。そう考えていると、いきなり声をかけられた。
「ひとりで捜査ですか?」
「あっ、お前……」
若林だった。
「若林、お前、何しに来た。冷やかしか? スパイか?」
「近藤さん、落ち着いてくださいよ。これ、何かわかります?」
若林は一冊のファイルをもっていた。
「藤原秀樹の不正の記録です。藤原秀樹は会社の金を横領していました」
「そうか、なんだか話が見えてきたな」
俺はじっくり内容を見た。俺はそれを見てもあまりよくわからなかったが、若林が簡単に説明をしてくれたおかげで、ある程度理解する事ができた。
「自分、あの後考えたんです。このままでいいのかって」
若林は真剣な顔で話し始めた。
「それで、しばらく自殺対策課の部屋の中を眺めていると、この仕事、やりがいないなって思いました。捜査一課のような仕事でなくても、やりがいを持ってやれたら。自殺した人に対しても寄り添った捜査ができたらって、思いました。だから来ました。近藤さんに、ついていきます!!」
「そうか、ありがとう。この資料、お手柄だ」
「そう言ってもらえると嬉しいです。頑張りましょう!」
「ああ、頑張ろう」
俺は非常に嬉しかった。
「まあ、こんなところで話していてもあれだし、喫茶店でも行くか。お前にここまでわかったことを伝えておきたい」
「そうですね」
俺たちはそのまま近くの喫茶店に行った。
「――と、いうわけだ」
俺はここまでわかったことをすべて話した。若林は熱心にメモをとっていた。
「ところで、さっきの情報、どこで手に入れた?」
「ああ、あれっすか?」
若林は一枚のメモを取り出した。
「これ、和夫さんが持っていたものなんですが、遺体を運んでいる時にポケットから落ちたみたいで、持っていたんです。それで、岡崎さんに見せたら、いらないから捨てておけって言われて…」
「ちっ、岡崎のやつ。余計なことを言いやがって。でも、お前は捨てなかった」
「はい。昔からものを捨てるのが苦手なんです。なので、部屋の整理とかでも物置とかに押し込んで、ものはほとんど捨てないです」
「そうか。おかげで助かった。それで、ここに電話したわけか」
そこに書かれていたのは電話番号だった。
「ここに電話をしたところ、電話番号は弁護士のものだったようです。その弁護士に詳しい話を聞いたところ、全て教えてくれました。弁護士には本来、守秘義務があるそうなんですが、秀樹が横領の話を否定していたため、弁護を断っていたようです。幸いでした」
「なるほど……」
俺はしばらく資料を眺めた。そして、資料を閉じ、若林を見た。
「じゃあ、帰るか」
俺は伝票を持って立ち上がった。
「もう、終わりですか?」
「ああ。明日の午後2時に藤原家に行く」
「そ、そうですか」
若林は納得していない様子だった。それでも、俺たちは、喫茶店を後にし、藤原家へ向かった。
次の日、俺たちは予定通りに藤原家に行った。
「すみません。一つ、お話があります」
「なんでしょう?」
俺がインターホンを押すと、秀樹が出てきた。秀樹は私服姿だった。俺は秀樹に意地悪な質問をした。
「あれっ、葬儀はなかったのでしょうか? 昨日、あなたはお通やがあるとおっしゃていたので、昨日は無理かと思って今日にしたんですが」
「でも、今日葬儀があるとは思わなかったのでしょうか?」
秀樹が訊ねた。
「はい。うっかりしてました。もしかしたら、葬儀かもしれないと、こちらに着いてから思いました。しかし、葬儀はなかったようですね」
「いえ。葬儀は終わりました。いわゆる、『直葬』というものです。これは、火葬だけの葬儀で、親戚や、父の友人なども呼びません。最近増えているんですよ。これは父の希望でのことです」
「そうですか」
俺は黙った。
「でも、おかしいですね。『直葬』をするのに、お通やをするなんて」
若林が言った。
「いいえ。お通やだけ行う直葬もありますよ」
「そうですか。変な質問をしてすみませんでした」
俺は謝った。
「で、本題に入りましょう。何か、話があるんですよね?」
「はい。では、単刀直入に言います。あなたの横領の事実が出てきました」
「横領? 何のことでしょう?」
秀樹はとぼけた様子だった。
「これを見てください」
俺は資料を秀樹に見せた。秀樹は資料に目を近づけ、じっくり見た。
「そう…みたいですね」
秀樹はあっさり認めた。
「でも、これは、あなたたちの仕事ではないですよね」
「はい。そうですよ」
「なら、やめてもらっていいですか。あなたたちは自殺係。自殺の防止と自殺理由の解明が仕事のはず。ですよね?」
「はい」
「なら、おそらく、逮捕権はないはず。そもそも立場自体がよくない。そうですよね?」
「はい」
秀樹は俺たちの置かれている状況を見抜いていた。秀樹は続けた。
「ならば、私を逮捕できないはず。もちろん、横領を担当している人に情報提供をすればいいが、そんなことをするより、おいしい話がありますよ」
秀樹は、早口で話した。
「おいしいはなしというのは何でしょう?」
俺は一応訊ねた。
「実は、私には警察官の友人がいまして。その友人は、人事面でかなり影響力があるのです。悪くないでしょう。多くは語りません。後はあなたがたが解釈して、行動してください」
「わかりました。横領に関しては、勝手にしてください。もっとも、明らかになるのは時間の問題だと思いますが」
俺は、ため息をついた。
「我々の使命は、あなたの横領の事実を追求することではなく、自殺の理由を追求し、和夫さんの無念を晴らすことです。そのために、我々は、和夫さんの思いに寄り添って行動します」
「そうですか。では、今の話は何だったのでしょうか?」
「今の話は、自殺に関係ある話です。自殺理由にもなり得る。もし、和夫さんが、今の件を明らかにされないために、あなたに自殺をさせられたのであれば、あなたは自殺ほう助に当たります。正直に話してください」
「なるほど……」
秀樹は黙り込んだ。秀樹は涼しい顔をしていた。
「では、他の方にもお話を伺ってもよいでしょうか」
若林が言った。
「妻と子どもは関係ありませんよ」
「いいえ。家族全員に話を聞く必要があります。いや、話す必要があります。家族全員で和夫さんのことに向き合ってもらわないと。これが我々の仕事です」
「そうですか。失礼ですが、無駄な仕事ですね。税金の無駄遣いじゃないですか? まあ、いいでしょう。これがあなた方の仕事であれば仕方がない。妻と子を呼びます。とりあえず、中に入ってください」
「どうも」
俺たちは中に入った。俺たちはリビングに通された。しばらくすると、久子と荒太が現れた。
「では、始めます」
俺は話を始めた。
「まず、あなた方と和夫さんは、あまり仲がよろしくなかったようですね」
「いいえ。仲はよかったですよ」
久子が言った。
「いいえ、仲は良くなかった。複数の証言を得ています」
若林が言った。
「まあ、複数の証言と言っても、たった二人ですが。とにかく、虐待があったということを伺いました」
秀樹たちは、真顔で聞いていた。
「まあ、それは私たちのことをよく思っていない人のデマ情報でしょう。例えば、家政婦が証言者だとすれば、家政婦はここでの労働に多少不満があったみたいなので、それが理由でそのような証言をしたのでしょう」
秀樹が言った。俺は、とりあえず話を進めることにした。
「とりあえず、話を進めます。とにかく、最後まで話を聞いてください。その虐待はしばらくして、和夫さんの介護士の岡本さんによって止められました。岡本さんは何かしらの秘密を握っていたようで、それによって、虐待は一時期なくなりました」
秀樹たちは、また、真顔だった。俺はさらに続けた。
「しかし、まあ、その後も虐待は行われていました。それも、かなり悪質な。まあ、今は置いておきましょう。で、不正の話に移ります。あなたは会社の金を横領していた。あなたの部屋の金庫の中に、その証拠が入っていました」
「ほう」
秀樹は俺を馬鹿にするような顔で見てきた。
「岡本さんに、秀樹さんの部下の方が不正の話をしたのです。それに関しては、確認を取ってあります」
「面白いはなしだなぁ」
荒太が言った。俺は話を続けた。
「その後、岡本さんは和夫さんの虐待をやめることを要求しました。」
「想像力、すごいね」
荒太が言った。今度は若林が話し始めた。
「その時、そのことは秘密ということになりました。つまり、和夫さんには内緒ということです。そのまましばらくは大丈夫でした。しかし、ある時、秀樹さんの横領のことが和夫さんに知られてしまいます」
秀樹たちは、少し下を向いた。再び俺が話した。
「秀樹さん、あなたは数字を覚えるのが苦手だそうですね」
「まあ、そうですね」
「そして、岡本さんのことを信用していなかった。そのため、金庫の番号を変えていたはず。毎週毎週。ちなみに、そこに関しては家政婦さんに確認をとってあります」
「それで?」
秀樹が言った。
「つまり、あなたは金庫の番号をメモしていたはずです。しかし、それは部屋の、他の人が見れないような場所に置いていた。だが、ある日、あなたはそのメモをうっかりポケットの中に入れていた。まあ、トイレにでも行くときにポケットに入れていたのでしょう。その時、あなたはポケットの中のメモを落とし、和夫さんに見られてしまったのです」
「それで?」
秀樹が言った。
「和夫さんは、秀樹さんに自首を勧めた。しかし、秀樹さんは自首を断った。それどころか、和夫さんを脅すようになった。毎日、『殺す』とメールを送り、毎日夜になると、寝ている和夫さんの横に、包丁を置いていました」
「怖い話ねぇ」
久子が言った。若林が続けた。
「メールを送ったのも、寝ている間に包丁を置いたのも、全て、家政婦にばれないようにするためです。逆に言うと、和夫さんがこのことを他の人には言わないという自信があったということです」
「なるほど」
秀樹が言った。再び俺が続けた。
「そして、和夫さんは、本当に殺されると思い、怖がりました。しかし、和夫さんが本当にこわかったのは、自分が殺されることよりも、実の息子が殺人犯になる事でした。なので、自ら死を選んだんです。自分が死ねば、秀樹さんが殺人犯にならずに済み、自分の死をきっかけに、自首してくれるかもしれない。そう思って死んだんです」
俺は、怒りを抑えて話した。秀樹たちは、真顔で聞いていた。
「話はそれで終わりですか?」
秀樹が言った。
「話はこれで終わりです」
「今の話、証拠があるんですか?」
秀樹が言った。
「証拠は和夫さんの部屋にあります」
「ほう」
「若林、例のものをとってきてくれ」
「わかりました」
若林は二階の和夫さんの部屋に行き、証拠を持ってきた。
「それは」
「カメラですね。家政婦さんが設置したものです。家政婦さんは、仕事上の待遇に不満があった。そのため、あら捜しをしていたわけですよね。つまり、あら捜しをするためにこのカメラを設置した」
若林は、カメラをスマホにつなぎ、映像を映し出した。
「見てください。秀樹さんが包丁を置いている様子が映っています。しかも、音声も入っています。横領……がどうだとか。もう、認めますね」
「ええ。認めます」
秀樹は静かに息を吸った。
「でも、自殺ほう助ということではないですよね? まあ、横領の罪は免れられませんが」
秀樹が落ち着いた態度で言った。秀樹はさらに続け、久子と荒太も口をはさんだ。
「なんだか、馬鹿げた話ですね。私の父は勝手に息子が殺人を行うと思って死んだわけですよね? 殺す気なんてなかったのに。まあ、死ぬのがちょっと早くなっただけですが。それで、こうやって息子に迷惑をかけて。一体、何がしたかったんでしょうね」
「そうね。自殺した遺体なんて見たくなかったのに。見たくないもの見ちゃった。それで、さぞかしもっと生きていけない理由があったのではないかと思えば、こんな理由だなんて。ねぇ」
「ほんとだよな。こういうのをマヌケっていうんだよね。それより、横領ばれちゃったけど、どうする?」
「まあ、仕方がない。あの馬鹿親父のせいだ。腹が立ってきた。死んで正解だが、こんな余計なものを残していくなんて。ほんとにムカつく親父だ」
秀樹は椅子に座って天井を見上げた。秀樹は少し苦笑いしながら目に手を当てていた。俺はとうとう怒りを抑えられなくなった。
「おい!さっきから聞いていれば、勝手なことばかり言いやがって!」
俺は秀樹の胸ぐらをつかんだ。
「和夫さんは、お前らが殺したんだ。自殺じゃない。結果的にお前らが殺したんだ。自分勝手なことばっかりして、和夫さんを心身ともに痛めつけて。それで、最後は反省もなく、自分のことか。お前ら、それでも人間か? 人の心を持っているのか? 心が痛まないのか?」
秀樹はまだ涼しい顔をしていた。俺は、秀樹を壁にぶつけた。
「いてて。やってくれたな。このことは、家の問題だ。あんたには関係ない!」
秀樹は壁にもたれかかって座り込んだ。そこに久子と荒太が駆け寄った。
「このやろう!」
俺は3人まとめて殴ろうとした。すると、若林が俺を抑えた。
「俺たちに関係ありますよ。俺たちの本当の仕事は、自殺の調書をまとめることじゃなく、自殺した人の無念を晴らすことですからね」
若林は静かに言った。
「ふん、税金の無駄遣いだ。とっとと失せろ」
秀樹が吐き捨てるように言った。俺はため息をついた。
「もういい。お前らには一生わからないだろうな。お前らを殺人犯にしたくないという和夫さんの気持ち。命を捨ててまでお前らを守ろうとしたのに、お前らは全くその気持ちを理解せず、それどころか、そんな和夫さんの行動、いや、和夫さんの存在自体を侮辱した。俺にとって、馬鹿でムカつくのはお前らの方だ。本当は自首しろと言おうと思ったが、やめた。若林、とりあえず、横領の担当の部署に連絡してくれ」
「わかりました」
若林は横領の事実を警察に連絡した。しばらくすると、担当の刑事が到着し、秀樹を逮捕した。秀樹はこちらを睨みつけ、連行された。
俺たちは、警視庁に戻る前に、岡本さんのもとを訪ねた。岡本さんは、介護事務所のデスクでパソコンを見ていた。
「はじめまして、警視庁自殺対策課の近藤です」
「同じく若林です」
「ど、どうも……」
岡本さんは、少し動揺していた。
「少し外でお話よろしいでしょうか?」
俺は岡本さんを外へ連れ出した。外は少し寒かった。介護事務所の前には公園があった。俺たちはそこで話をすることにした。
「あのー、和夫さんの件ですよね?」
「はい、そうです」
「警察の方が来たということは、和夫さんの自殺に事件性があったということでしょうか?」
岡本さんは、心配そうに尋ねた。俺は空を見上げた。
「我々は、自殺専門の部署の人間です。我々の仕事は、自殺を防止することと自殺理由を突き止めることでして、今回、和夫さんの死後、現場に行き、和夫さんの自殺理由を捜査しました」
「なるほど……」
岡本さんは遠くに目をやった。
「で、和夫さんの自殺理由はなんでした? やはり、あいつらの虐待ですか?」
岡本さんは俺に詰め寄るようにして訊ねた。
「結論から言うと、和夫さんは息子の秀樹さんに殺人を犯させないために自殺しました」
若林が言った。
「とりあえず、あそこのベンチでゆっくり説明します」
俺は、岡本さんをベンチに誘導した。俺と若林は、岡本さんに和夫さんの自殺の経緯を説明した。岡本さんは何度も怒りをこらえるようにして聞いていた。
「――以上です」
俺は一通り話を終えた。岡本さんは、息を吸い、下を向いてため息をついた。
「そして、このようなノートが見つかりました。これは、和夫さんの部屋の机の引き出しにあったものです」
俺は、カバンから一冊のノートを取り出した。このノートは、秀樹が横領の罪で逮捕された後見つけたものだ。
「このノートは、日記ですね。和夫さんの、あなたに対する思いがかかれています。ずいぶん、深い仲だったんですね」
若林がしみじみと言った。岡本さんはノートを食い入るようにして読み始めた。その後、しばらくして、岡本さんは目の前の一本の木を眺めながら語り始めた。
「和夫さんは、僕の人生を変えてくれた人なんです。この写真を見てください」
岡本さんは一枚の写真を取り出した。その写真は、和夫さんの部屋で撮った、岡本さんと和夫さんのツーショットだった。和夫さんは車いすに座り、岡本さんは車いすの隣で少ししゃがんでいた。二人とも、自然な笑顔だった。
「この写真、僕が和夫さんの担当になって十か月経った時のものです。自然な笑顔でしょ?
けど、最初はこんな顔は出来なかった。お時間いいですか?」
「はい。大丈夫です」
「わかりました」
岡本さんは少し息を吸い、息を吐いた。
「二年前、和夫さんの担当になりました。当時の自分は就活に苦しみ、いろいろな企業にエントリーし、最終的に介護職についたような感じでした。しかも、両親が交通事故で亡くなり、気持ちが少しふさぎ込んだような感じでした。そのため、介護に対するやる気がなく、雑に仕事をしていました。例えば、介護を受ける高齢者を少し投げるようにベッドに寝かしたり、ぶっきらぼうに会話をしたり…。そんな時、和夫さんに出会いました」
岡本さんは空を見上げた。この後、岡本さんは終始真剣に話をしていた。
岡本さんの話は次の通りだった。
岡本さんは、二年前のある日、和夫さんの担当になった。
「はじめまして。藤原和夫さんの担当をさせていただきます、岡本信也と申します」
「あぁ、よろしく…」
和夫さんは、はじめ、素っ気ない態度だった。なんか、愛想ないな。まあ、俺にとっては所詮金儲けの道具…。岡本さんはそう考えていた。そんな中、介護を始めた。岡本さんは和夫さんを放り投げるようにしてベッドに寝かしたり、和夫さんの頭を押し付けて風呂に入れたりした。和夫さんの方は少し心を開いたのか、少しずつ岡本さんに話しかけるようになった。しかし、岡本さんは愛想のない態度をとり、帰り際には毎回和夫さんのことを睨みつけた。
そんなある日だった。風呂の時間になり、岡本さんはいつも通り和夫さんを風呂に入れようとしていた。岡本さんは和夫さんの服を脱がした。すると、和夫さんの体にたくさんのあざがあることに気が付いた。そこで、岡本さんは引っかかった。
「もしかして、家族から虐待とか受けていますか?」
岡本さんは和夫さんに、ストレートに尋ねた。もし虐待の事実があれば、何らかの問題になるかもしれない。岡本さんはそう思った。
「虐待は…、受けてない……」
和夫さんはそう答えた。認めろよ。そのあざ、どう考えてもおかしいって。岡本さんはそう思った。
「正直に答えないと、あなたのためになりませんよ」
岡本さんは脅すように言った。しかし、和夫さんは頑なに否定し、ついに怒り出した。
「虐待など受けていないと、言ってるじゃないか!もう、今日は帰れ!」
「ああ。帰る」
岡本さんは怒り、家を出た。しかし、忘れ物をしたことに気が付き、岡本さんは藤原家に戻った。岡本さんはチャイムを押し、ぼんやりと空を眺めていた。すると、庭から怒鳴り声と叫び声が聞こえてきた。
「ちっ、目障りなじじい。早く死んでくれねぇかなぁ。俺は頑張って働いているのに、優雅な老後おくりやがって」
「ほんとにねぇ」
「全くだよ」
岡本さんは垣根の間から庭の様子を見た。秀樹と久子、荒太の3人が和夫さんを蹴りつけていた。そうか、あのじじい、やっぱり虐待を受けていたのか。岡本さんはそう思った。しかし、岡本さんは和夫さんのことを可哀そうだとは思わなかった。あのじじい、正直なことを言わなかった。しかも、なんだか気に食わない。もっとやられちまえ。岡本さんはそう思いながら見ていた。だが、しばらく見ていると、和夫さんは息を荒げ、涙を流し始めた。岡本さんはその様子を見て、次第に和夫さんのことが可哀そうになった。しばらくすると和夫さんへの虐待は終わり、和夫さんはその場にひざまずいた。岡本さんはすぐに和夫さんのもとに駆け付けた。
「おい、大丈夫か!」
「なに……、問題ない。よ、よくある、こと……だ」
「いや、問題だ!俺がなんとかします!あまりにも、ひどい」
この時、岡本さんは怒っていた。岡本さんは和夫さんのことをあまりよく思っていなかったが、この様子を見てあまりにもひどいと思った。次の日、岡本さんは休みだったが、藤原家に行き、例の場所で和夫さんへの虐待が始まるのを待った。和夫さんへの虐待が始まると、岡本さんはその様子の動画を撮影した。その後、それを警察に持っていこうとしたが、和夫さんが止めた。岡本さんは無論反対し、警察に持っていこうとしたが、和夫さんが全力で止めた。そのため、岡本さんは秀樹たちと交渉して虐待をやめさせると言い、和夫さんを納得させた。
次の日、岡本さんはいつものように藤原家に入ろうとすると、見知らぬ男に声をかけられた。
「すみません。藤原秀樹さんのご家族の方でしょうか?」
「いえ。違いますが」
「じゃあ、いいです……。すみません」
「そうですか……」
岡本さんは困惑あいた。男はビクビクした様子だった。
「ちなみに、あなたはここの家とはどのような関係でしょうか?」
「こちらの家の、藤原和夫さんの介護士です。もし、伝言があれば聞きますよ」
「えっ……。あっ、いや。けど、二度と来る勇気はないし」
男はそう言って、岡本さんにある資料を渡した。
「藤原さんは、いや、藤原秀樹は不正をしています。私は、水田と言いますが、水田が不正の事実を知っているとお伝えください。あと、不正はやめた方がいいと…。私、怖いんです。だから、私、会社辞めました。藤原さんのことは、好きではないですが、正直心配しています。あと、私がこのことを他の人には話さない、ということもお伝えください」
「わ、わかりました」
岡本さんは正直、戸惑っていた。
「ごめんなさい。藤原さんに、面と向かって言う勇気がなくて……。では、失礼します」
水田という男は、そう言って立ち去った。岡本さんはその後、水田という男が言っていたことを伝え、さらにそれをネタに和夫さんへの虐待をやめさせた。
それからは、岡本さんは心を入れ替え、和夫さんを大切にするようになった。そのような岡本さんを見て、和夫さんも心を開き、最後には必ず、「ありがとう」というようになった。それだけでなく、しばらくすると、岡本さんは和夫さんに色々なことを相談するようになった。また、和夫さんは岡本さんのことを「信也」と呼ぶようになった。さらに、岡本さんは休みの日も和夫さんに会いに来るようになった。
ある時、和夫さんは元気がなさそうだった。岡本さんはその様子に気が付いた。
「和夫さん、元気なさそうだね。もしかして、また虐待を受けているとか?」
「いや、そんなことはない」
「そうか。もしまた虐待されたら言ってくれよ」
「わかった……」
和夫さんは少し下を向き、しばらくして顔を起こした。
「なあ、信也。信也ははじめ、わしのことをよく思っていなかったと思うんだ。だけど、あの虐待の後、ここまでよくしてくれるようになった。とてもうれしい」
「うん」
「だけど、なぜなんだ? 他の介護士にここまでしてくれる人はいないと思う」
岡本さんはしばらく窓の外を眺め、答えた。
「和夫さん。確かに俺はあなたのことをよく思っていませんでした。金を稼ぐために、いやいや仕事をしていました。しかし、和夫さんが虐待されているのを発見し、変わりました。実は俺、高校時代、いじめられてた。屋上でぼこぼこにされ、教室に戻ってもみんな笑ってるだけ。先生も見て見ぬ振り。だけど、その後いじめが明るみに出て、無事解決しました。その時、校長先生からこう言われた。『いじめや虐待にあうのは真に心の優しい者だ。こんな理不尽なことはない』と。だから、この仕事を真剣にするようになった。和夫さんは真に心の優しい人だと思ったから。だから和夫さんのことを大切にするようになった。そういうことです」
和夫さんは目をパチパチさせていた。
「もちろん、校長先生の言うことが絶対正しいとは言い切れない。けど、和夫さんに対し、『和夫さんは心の優しい人かもしれない』と思って接した。その結果、和夫さんが本当に心の優しい人だと分かった。だから和夫さんのことを大切にするようになりました」
「そうか…」
和夫さんはついにこらえきれなくなり、涙を流した。
「じゃあ、今日は帰ります。また明日。ゆっくり寝て、明日は元気な顔をしてね」
「ああ、ありがとう…」
岡本さんは、そのまま足早に家を出ていった。
岡本さんが和夫さんの担当になってから1年半ほど経った頃、岡本さんには恋人がいた。岡本さんの恋人は、葵という名前であり、大学時代に出会った女性だった。葵さんはとても心優しく、岡本さんが困っている時には支えになり、間違ったことをしたときには叱り、良いことがあった時には一緒に喜んでくれるような人だった。岡本さんは葵さんのことを大学時代に好きになっていた。しかし、葵さんには彼氏ができ、岡本さんはあきらめた。だが、岡本さんは葵さんと友達としての関係が続いていた。そして、その後葵さんは彼氏と別れ、岡本さんと付き合うようになり、婚約に至った。岡本さんは、休日にも和夫さんに会いに行っていたが、休日は葵さんに会うようになり、和夫さんに会いに行く日が減っていた。しばらくすると岡本さんは和夫さんに葵さんのことを報告した。
「和夫さん、実は俺、婚約を約束している女性がいるんだ」
「お、それはおめでたい。相手は、どんな人なんだ?」
「すっごくいい人!優しくてしっかりしてる。本当に思いやりのある人!」
「そうか……」
和夫さんは窓の外を眺めた。
「信也に婚約者ができたのか。嬉しいことだなぁ。両親をなくしたが、これで家族ができる。幸せになってくれよ」
「うん」
岡本さんは明るく返事をした。
「介護、やめるのか?」
「いや、やめない。このまま続けるよ」
「収入は大丈夫か?それで奥さんを養えるのか?」
「大丈夫。共働きだし。もちろん、働くのは彼女の意思」
「そうか」
和夫さんは安心した様子だった。
「あ、そうだ。相手の女性は何というお名前なんだ?」
「北川葵さん」
「葵さんか。いい名前だ」
和夫さんは泣きそうな様子だった。
「一度、会ってみたいな。まあ、わしみたいな老いぼれが会っても迷惑だろうけどな。ハハハ」
「いや、そんなことないよ。葵に和夫さんの話をしたら、葵、和夫さんに会ってみたいって言ってた。今度の日曜日、会ってくれないかな?」
「いいけど…、なんだか、緊張するなぁ」
和夫さんはとても嬉しそうな様子だった。そんな和夫さんの様子を見た岡本さんも嬉しいと感じた。
次の日曜日、和夫さんは葵さんと会った。葵さんたちは、和夫さんの家の近くの公園で待ち合わせ、近くのカフェで話をした。この時、和夫さんは終始嬉しそうだった。その後、和夫さんは岡本さんとともに家に帰った。和夫さんを家に送るとき、岡本さんは和夫さんにこう言った。
「和夫さん、俺たちの結婚式に出て、代表の挨拶をしてほしい。お願いします!」
「え、わしが?」
「うん。和夫さん以外に考えられない。ぜひともお願いしたい!」
「そうか…」
和夫さんは少し迷っている様子だった。
「わしがスピーチをすると、上手くいかないかもしれないぞ」
「それでもいいよ。俺は和夫さんがスピーチをしてくれる結婚式に出たいんだ」
和夫さんは少し考え込んだ。
「わかった。そこまで言ってくれるのであれば、ぜひとも引き受けさせてもらうよ」
「ありがとう」
岡本さんは和夫さんの手を握って感謝した。
ここまでが、岡本さんの話だ。岡本さんはここまで話し終えると、ベンチの背もたれにもたれかかり、空を見上げた。
「和夫さんは、人生を変えてくれた人です。結婚式に出てほしかった。もっともっと話したかった。非常に残念です。残念という言葉では言い表せないほど、残念です。悔しくてたまらない…」
岡本さんは下を向いた。
「変なこと言いますけど、俺が和夫さんの息子だったら。そうだったら、和夫さんは死なずに済んだ」
「それは、もしかしたら、和夫さんも思っていたことかもしれません」
俺は静かに言った。
「どういうことですか?」
岡本さんは不思議そうに尋ねた。
「実は、和夫さんのノートに、そのようなことがかかれていたんです」
若林が言った。
「ここを見てください」
俺はノートを開いた。そこにはこのように書かれていた。
6月15日
信也が両親の話をしてくれた。信也は両親と就活のことでもめていたという。信也は両親に強く当たったりし、ひどい言葉を浴びせたりしたという。しかし、そのことを謝ることなく、両親は事故で無くなってしまった。信也はそのことを強く後悔していた。
人間、時に八つ当たりをすることもある。喧嘩もする。しかし、信也の話を聞いた限り、信也は両親を大切にしていた。それなのに、自分のやったことを後悔している。全体的にみれば、些細なことなのに。よい息子だと思う。自分の息子も公であってくれたら。
8月9日
秀樹は息子だと思えない。悲しいことだ。しかし、信也はいいやつだ。こっちのほうが息子のようだ。信也は休日にも会いに来てくれる。嬉しい。信也は唯一の生きがいかもしれない。
10月3日
最近、休日に信也が来なくなった。もしかしたら、恋人がいるのかもしれない。それでも、照れくさくて言ってこないのかもしれない。そうだと良い。そう思っていると、本当にそうだった。父親のように嬉しい。
10月7日
葵さんに会った。葵さんは喜んでくれていた。うれしい。葵さんは、信也にぴったりの相手だと思う。
岡本さんは涙を流した。
「そうか…、和夫さんには父親の席に座ってもらうことにすればよかった。和夫さん、少しがっかりしてたかもな…」
岡本さんは再び下を向いた。そんな岡本さんに俺は、「続きを読んでください」と言った。岡本さんは続きを読み始めた。
その後、信也から代表スピーチを頼まれた。まさか自分が結婚式に呼ばれるとは思ってなかった。しかも、それだけでなく、代表スピーチを頼まれた。嬉しい。これほどうれしいことはない。
10月11日
上手く書けない。スピーチの文を上手く書けない。何を言えばいいか、わからない。しかも、字が汚い。もう、手の力が衰えている。しかも、どうも力がこもってしまう。だから、余計に汚くなってしまう。自信がなくなってきた。
10月13日
何とか最初の文章は思いついた。しかし、もう無理だ。だが、頑張らなければ。
日記はその後も続けられていた。岡本さんは静かに日記を閉じ、空を見上げた。
「来週、結婚式なんです。けど、こんな時なので…」
「しっかり結婚して、和夫さんを喜ばしてあげてください」
俺はそう言い、和夫さんの日記渡し、若林とともに公園を去った。その時、雲に隠れていた太陽が顔を出し、少し暖かくなった。
自殺係 @nobel333333
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