陽だまりの庭~KOMFORTA~

七森香歌

陽だまりの庭~KOMFORTA~

 学校で特にいじめられているというわけではない。大学生とつきあっているようなきらきらとした最上位カーストに属しているわけではないけれど、かといって地味でなんとなく不気味でクローズとなオタクじみた集団に属しているわけではなく、当たり障りのない立ち位置でそれなりに仲の良い友人だって何人かはいる。

 それなのにあたし――柿本郁は学校へ行きたくなかった。

 まだ高校へ入学して数ヶ月。だけど、中途半端な田舎にありがちな、中途半端に気位と偏差値が高い自称進学校に入学してしまったためか、大学もその先のことも何もかもわからないというのに周囲の大人たちは一般的かつ無難なレールに沿った進路へ進むことを何かにつけて要求してくる。ほんの少し前までは高校受験の合否のことだけを考えていればよかったというのに、急に具体化した長い長いこの先の将来について強要されているのが息苦しい。。

 別にあたしは勉強自体が特段嫌いなわけでも苦手なわけでもないし、学校という居場所に適用できないほど生きることに不器用なわけでもないけれど、ただ、何だかもううんざりだった。

 人並みにちゃんと好きなことややってみたいこと、興味のあることがないわけでは決してない。けれど、それらはどれをとっても将来性や安定性、堅実性とイコールではないことを高校生になったばかりのあたしは早々に知ってしまった。夢ばかり見ていられる時間はとうに過ぎ、いつの間にかこの先の長い人生をどう生きていくか、考えなくてはいけない時期に差し掛かっていた。それをついこの前まで中学のセーラー服に身を包んでいたあたしに早急に決めろというのは、些か酷であるように思う。

 周りの同級生たちは、何てことなく涼しげな顔であっさりと進路についてやり過ごしているにもかかわらず、あたしは躓き、立ち止まってしまっていた。あたしは真面目に考えすぎで、進路なんて聞いたことのある学校名を出しておけば大人たちは納得すると仲の良い友達は言うけれど、人生を左右するかもしれない問題に対していい加減に考えることがどうしてもできなかった。そして気がつけば、半不登校状態となってしまっていた。

 どうしても学校に行きたくなくて、登校途中で引き返してしまったり、体調不良のような適当な理由をつけて授業をサボるようなこともあった。無断で学校を早退しては、家に帰ることもできずに公園のベンチでわけもわからず泣きじゃくるなんていうこともざらにあった。

 何でもない日だって、友達といても”自分だけ違う”といった疎外感を覚えて、周りからそれとなく距離を取ってしまうことだってあった。あたしは何もわからないままに、この先について周りの大人に急き立てられることが苦しくて、悲しくて、孤独だった。周りの同級生たちからあたしだけ取り残されているようで惨めだった。

 今日もまた、いつもと同じそんな日だった。田舎特有の洗練されていない野暮ったくて少し肌触さを感じる特段特徴のない――有り体に言ってしまえば何の特徴もないダサい紺のブレザーの上下に身を包み、行く当てもなく、黒のローファーと紺のハイソックスに肌寒さを感じながら、普段の通学に使っている単線の電車の高架下の狭く細い道を歩いていた。

 今日はどうやって時間を潰そう――親には学校から連絡が行ってしまって、サボりがバレてしまうことは必至なのだが、それでもどうせなら、何事もなかったふうを装って、それっぽい時間に時間に家に帰りたかった。結果的に親に怒られるのはわかってはいても、それでも家にも何だかいづらかった、

 今はスマホの時計を見るところ、午前十一時過ぎ。夕方までの残りの時間をどう使えばいいだろうか。別に行く当てがあるわけでない。行き場どころか、そもそも高架沿いに歩いていてもコンビニか民家すら見当たらない。あるのは薄曇りの空の下で約十分間隔で遊園地のおもちゃみたいな電車が走り抜けていく無機質なコンクリートの単線の高架と道の端に木々に埋もれるように顔を覗かせているかつては黄色かったのあろうイノシシ注意の錆びついた標識くらいのものである。


 アスファルトに散乱した枯れ葉を蹴散らしながら、学校の最寄駅から上り方面に三十分ほど歩いただろうか。あたしは仄かな花の香りを感じた気がした。普段、電車の窓から眺める分には特に気にしたことはなかったが、こんな田舎にどこか不似合いな白い花のアーチに彩られた小道が見て取れた。植物園か何かかとも思ったが、小道の奥にはちょっとした畑のようなものとログハウスのようなものが見える。こんな田舎で違法植物の栽培をしているのではないかという疑念が一瞬脳裏を掠めたが、好奇心と芳しい香りに釣られて、あたしはそちらへと歩を進めた。幸い、時間はある。

 白い花のアーチの奥のログハウスのテラスには、よく手入れされたパンジーやビオラと思しき季節の花々が咲き誇ったプランターと白木の三組ばかりのテーブルと椅子のセットが鎮座していた。

 あたしはログハウスの扉にかけられた小さな黒板状のサインプレートの文字に首を傾げた。

 『KOMFORTA』――平均点近辺をうろうろしている程度の英語の成績のあたしにはさっぱり意味のわからない言葉である。そもそもこれは英語なのだろうかすら怪しく思う。

「ああ、それはね、『コンフォルタ』って読むのよ。エスペラント語で”心地よい”という意味になるわ」

 背後から穏やかで優しげな女の人の声がした。背後を振り返ると、あたしの気づかないところで土いじりでもしていたのか、元の色が最早わからない色のツナギ姿の声色通りの印象の二十代後半くらいに見える女性がおっとりと微笑んでいる。

「は、はあ……そうなんですか」

 あたしは反射的に典型的な相槌を打った。エスペラント語というのが一体何なのかあたしにはわからなかったが、後で気が向けば調べてみたら良いだろう。彼女はあたしの機械的な反応に対して特に気分を害したふうもなく、

「このコンフォルタは私が半分趣味で経営しているカフェなの。申し遅れましたが、私はマスターをしている遠坂佐和と申します」

「えっと……その、柿本郁、です」

「そう、じゃあ、嫌じゃなければ郁ちゃんって呼んでもいいかしら? 私のことは佐和って呼んでくれていいわ。うちの店って私が気紛れで開けているせいで営業日が不定なものだから、これも縁だと思って少し休んでいかない?」

「そ、そうですか……」

 機械的に相槌を打ちながら、あたしは没個性的な紺色のスクールバッグの中の財布の中身に思いを馳せ、顔を曇らせた。次のお小遣いの日まであと五日ほどあるが、現在三百円ちょっとしか持ち合わせていない。佐和は何となくあたしの金銭的な事情を察したのか、少し思案げな顔をすると、何か良い案を思いついたかのように、

 「実は誰かに新作について客観的な意見が聞きたかったところなの。もし郁ちゃんさえ良ければ食べてみてくれない?」

 ぐううというあたしのお腹がはしたない形で代わりに返事をした。佐和はくすくすと笑いながら店の扉を開け放った。

「ようこそ、コンフォルタへ。どうかここでの時間があなたにとって心地よいものでありますように」


 所謂アンティークとでもいうのだろうか。店内を構成する調度品たちは古びてはいても、質は洗練されていて、大切に穏やかに時を重ねてきたことがそういったことに詳しくはないあたしにも何となくわかった。二人がけのテーブル席が二組、カウンター席が三席といったこじんまりとした店内からは、店主である彼女の優しさや暖かさを感じる気がした。焦って苦しむ必要はないのだと、あたしはあたしのままでここにいていいのだと受け入れられているような気がした。

 何だか少し安心してしまったあたしは、潤みかけた目をしばしばさせながら、店内を見回す。仄かに前時代感を感じるデザインの意匠の外窓から僅かに差し込む昼前の陽光のせいか、何だかこの店の中だけは心地よい陽だまりの庭であるかのようだった。年月を重ねていても、よく手入れされて飴色の光沢を放っているテーブルやカウンターに設置された控えめだけれど可憐なプリザーブドフラワーも相俟って何だかそんなふうに感じられた。カウンター席の黒い牛革のスツールは重厚感のある存在感を放ちながら、今日の客人を待っている。

「ごめんなさいね、お待たせしちゃって」

 こんな格好ではあれだから、と店内で少し待つように言われていたあたしはバックヤード(というよりはこの家の居住空間といったほうが妥当そうだ)から姿を現した佐和にそう声をかけられた。

 先程の全身泥まみれの女性とは最早別人といってよかった。洗いざらしのオフホワイトのコットンシャツにブラックのシェフパンツを履き、その上からベージュのエプロンを纏っている。ほんのりとカールされたミルクティブラウンの髪をシニョンに纏めた彼女は琥珀色の双眸にこの店のもつ暖かさと同じ光を柔らかく浮かべていた。

 同性ながら、先程みたいな泥まみれではなく、こういうきちんとした格好さえしていれば、明らかに美人の部類だなんていうどうでもいい感想をあたしは抱く。校則という名の拘束にがっちりと縛り付けられた無個性かつ大量生産型のどこにでもいるいかにも地味な高校生女子といった感じの飾り気のないボブスタイルの黒髪に、制服の紺のブレザーの上下を折り目正しく着用したあたしはそれに対して何となく劣等感を抱く。あたしは自分を取り立てて美人だとも不細工だとも思わないけれど、彼女くらいの年齢になったとき――十年くらい経ったころに彼女のように美しい大人の女性になれている自信はない。

 そんな複雑な感情を持て余しているあたしのことを別段気にしたふうもなく、佐和は問うた。

「ねえ、郁ちゃん、何か嫌いな食べ物とかってある?」

「え」あたしはあまりに直前の思考とはかけ離れた唐突な質問に一瞬面食らう。「いえ……特にないと思いますけど……」

「オッケー。じゃあ、郁ちゃんはトマト系とバター醤油とチーズ系ならどれが好き?」

「その三択ならバター醤油ですけど、さっきから一体何の話を……あ」

 あたしのお腹の虫が再びはしたなくきゅうっと鳴いた。このところあまり食欲もなく、味がいまいちよくわからなくて、食事を取らなかったり、ゼリー系飲料で済ませてしまうことが多かった。その音を耳聡く聞きつけ、カウンターの向こう側のコンロでしめじらしききのこと厚切りベーコンを手際よく炒め始めていた佐和がくすりと笑った。店の奥に鎮座している年代物の柱時計が少し遅れて正午を告げたのが余計に恨めしい。

「ほら、そろそろお昼の時間でしょう? 使っちゃいたい食材もあったし、所謂『マスターの気まぐれパスタ』みたいな感じになっちゃうんだけど、よかったらどうかしら?」

 彼女は歌うような口調でそんなことを宣いながら、スパゲッティの麺を茹でつつ並行でパスタソースを作っている。溶けたバターの香りと少し焦げた醤油の芳香が鼻腔を擽る。

「あの……佐和さん」あたしはこういったお洒落なカフェごはんというものは千円は下らないものなのではないかという事実に思い至り、調理中の彼女の背に恐る恐る声をかける。「その……非常に言いづらいんですけど、あたし今全然お金持ってなくって……。その……こういうお洒落なカフェのごはんってお高いのでは……」

「そんなこと郁ちゃんは気にしなくていいの。そうね……賄いとかと同じだと思ってもらえればいいわ。丁度、この後、郁ちゃんには新メニューに関する大事なお手伝いをお願いしているしね。ほら……はい、できた」

 彼女はあたしにそう言うと、繊細な細工のされたカトラリーといかにもお洒落なカフェにありがちなお洒落な皿に盛り付けられたしめじと厚切りベーコンのバター醤油パスタを手渡しながら、

「ねえ、郁ちゃんって何座? 私は九月生まれだから乙女座なんだけど」

「え……魚座ですけど、それが何か……?」

 あまりに脈絡のない話題にあたしは戸惑いを覚えた。そんなあたしを他所に、佐和はどこかうきうきとした様子で、底にレモンの輪切りが沈んだダイアカットのピッチャーから、何かの模様が入ったグラスへと中の液体を注いだ。彼女はあたしの分の皿の横にグラスの一方を置きながら、

「この前、夜中にネットで十二星座のグラスセットを見つけちゃって、これは是非うちのお店で絶対欲しいって思ってつい何セットか買っちゃったのよね。夜中のネットショッピングって本当罪深いわよね……というわけで、郁ちゃんには魚座柄のグラスね」

「は、はあ……そうですか……」

 中の液体が仄かに酸味を含んだ香りを放つグラスの柄は、地学を全く高校で履修していないあたしには何が描かれているのかよくわからなかったけれど、それでもとても素敵で洗練された一品――こういうお洒落なカフェにとても似合うものなのだということだけは何となくわかった。

 佐和は自分用に冷蔵庫と壁の僅かな隙間から折りたたみ式の使い古された黒のスツールを持ってくると、いたずらっぽく片目を閉じ、

「本当はあんまり褒められたことではないんだけど、せっかくだからご一緒してもいいかしら?」

「はあ……どうぞ」

 何となく佐和のペースに持っていかれ、毒気を抜かれたあたしは重力に逆らうことなく、こくりと頷いた。何となく、この人は親とも教師たちとも違うタイプの大人であるような気がした。

 いただきます、と皿の前で両手を合わせながら小声で呟くと、あたしはフォークを手に取り、パスタを口に運ぶ。あたしは目を見開き、手の中のフォークを取り落した。

「……味が……味が、する……?」

 ここしばらく何を食べても味の濃淡がよくわからず、油っこさだけしかわからないような状態が続いていた。味がする久々の食事はただそれだけであたしの感情を大きく揺り動かした。

 カウンターの向こう側で佐和が食事の手を止め、替えのフォークと紙ナプキンを用意するとあたしの隣に移動してきた。彼女はあたしの目元に紙ナプキンをあてがいながら、そっと頭を撫でてくれた。まだ良く知らないこの女の人の手からは砂糖とバターが混ざりあったような甘い匂いが仄かに漂っていた。

 あたしは佐和のエプロンに縋り付くように顔を埋め、何年ぶりかすらわからないけれど、声を上げて大泣きした。


「佐和さんは、何も聞かないんですね」

 再開した少しだけ冷めた昼食を終え、食器類をカウンターの向こう側のシンクで手早く洗って片付ける彼女の背に、ばつが悪い思いをしながら釈然とせずに問いかけた。洗い終わった食器を緑色のボタニカル柄の布巾で拭き上げ、棚へと戻した彼女は、カウンター越しにあたしに目線を合わせた。その琥珀の双眸はとても優しく慈しむような色をしていた。

「郁ちゃんは、私に聞いてほしいの? 郁ちゃんがきっと、今までに周囲の大人たちに数限りなく聞かれてきたようなことを」

「それ、は……」あたしは俯く。ぽたぽたと涙がこぼれ落ち、紺色のプリーツスカートに染みを作る。「でも、普通、平日のこんな時間に高校生が学校にも行かずにこんなところをうろついているなんて、絶対におかしいじゃないですか! 皆と同じように当たり障りない進路に向けて、当たり障りのない学校生活を送れなくなっているなんて絶対に変じゃないですか! あたしだけ、皆と違う……! 親にも先生にもああでもないこうでもないって、あたしの人生のはずなのに色々言われまくって、この先の進路について半分強制するようなことすら言われて……! 気がついたら、こうやって学校もなかなか行けなくなってサボりぐせがついてたし、ご飯食べてももう味なんてわかんなくなってたし……!」

「……そっか。辛かったね。郁ちゃんはちゃんと頑張っているし、これまでだってちゃんと頑張ってきたんだって私は思うわ。ただ、郁ちゃんは少し周りに比べて真面目に様々なことを捉えてしまうだけなんだと思うの。だけど、決してこれは悪いことじゃないし、大事にするべきところだと思うわ」

 感情のままに喚き散らすあたしへと、佐和は穏やかに言い聞かせるようにそう言った。

 大半の学生たちの人生を既製品の型に嵌め、敷かれたレールに沿って進んでいくことを良しとして、あわよくばその学校のネームバリューに対する貢献に寄与させているのは我々大人なのだと佐和は思う。きっと、無責任にわかったような言葉を彼女にかけるのは、更に傷を深める結果となるし、きっと郁自身も望まないだろうと思った。本人が話したいのであればそれでいいが、そうでないのであれば、そっと寄り添って、周囲なんて関係なく、ほんの少しだけ己を肯定するきっかけを作ってあげられればいい。

 まだ目と鼻がほんのりと赤いあたしへと向けて、ところで、と佐和は軽く手を打ち鳴らした。

「ねえ、郁ちゃん。そもそもの今日の本題なんだけど、まだお腹に余裕はある?」

「……は? いや、まあ、少しなら……」

「オッケー。じゃあ出してくるからちょっと待っていてね」

 ほら、新作の試食してくれるって言っていたでしょう、と彼女はレジ前のショーケースの死角で見えなくなっている部分からケーキを取り出した。

 見るからにサクサクとしていそうな焼き上がりのリング状のシュー生地二枚の間に、円周に沿って絞られたプラリネクリームが挟み込まれている。上段の生地の上は粉糖とアーモンドスライスで彩られている。

「えっと……これは……?」

 非常に美味しそうで可憐なケーキではあるが、あたしの乏しい知識にはこのようなお菓子はない。一体これは何なのだろうとあたしが佐和に問うと、

「これ、パリ・ブレストっていうのよ。ところで、郁ちゃんは飲み物はコーヒーと紅茶ならどちらがいいかしら?」

「特にこだわりはないですけど、その選択肢なら、どっちかというと紅茶かな、って感じですね」

「よし、じゃあ今日はロイヤルミルクティーにしちゃいましょうか」

 佐和はミルクパンに水を入れて火にかける。数分後、こぽこぽと沸騰したお湯にアッサムメレンの茶葉をティースプーンで何杯か入れると、ミルクパンに蓋をした。それから更に二分ほど待ち、彼女は一度蓋を開ける。牛乳をミルクパンに追加し、軽くかき混ぜると、彼女は再び蓋をした。

「お茶が入るまで、ほんの少しだけ待ちになってしまうから、暇潰しに私の話でもしましょうか」

「佐和さんの話ですか?」

「そう」彼女は頷いた。その優しい色の双眸はどこか少し遠い場所を見ていた。「あのね、郁ちゃん。人生なんて、皆と同じ画一的なレールを進もうとしようが、それに逆らって己の道を進もうとしようが、駄目になってしまうことなんていくらでもあるのよ。お手本通りの人生から逸れてしまうようなことなんて、どこかしこで起こっていることよ」

「佐和さんは……そうなんですか? でも、このお店は好きだからやっているんじゃないんですか? すごくこのお店を大切にされているんだなって、あたしにだって伝わってきます」

 あたしの言葉に彼女は首肯した。けれどね、と彼女は続ける。

「私は本当はホテルのレストランのパティシエになりたかったの。よくアフタヌーンティーとかをやっているようなああいうところよ。周りが普通に無難な大学に進学していく中、高校の卒業後、私はそういった道に進もうとしたけれど駄目だったの。きちんと製菓衛生師の資格だって取ったけれど、キッチンならともかくパティシエともなるととても狭き門だったの」

「そうなんですか?」

 予想を超えて辛辣な現実にあたしはげんなりとした。じゃあ、なぜあたしはそれでも皆と同じ敷かれたレールの上を歩いていくことを強要されなければならないのだろうか。あたしはあたしのしたいことをする、それでは駄目なのだろうか。それではいずれ、行き詰まってしまう運命なのだろうか。

 彼女はセットと思しき色とりどりの蝶が舞う意匠のティーポットとカップ二つにもお湯を注いで温めながら、

「それでも、私なんかは幸運な方で、母方の祖父がこの辺りの土地とこのログハウスを持っていたものだから、自力でやれるだけやってみろって譲り渡してくれたのよ。流石にカフェっぽくなるように多少のリノベーションはしたけれど、この家を祖父が大切にしていたのは知っていたから、なるべく原型を残す努力はしたけれど」

 そろそろいい頃合いね、と佐和はミルクパンの蓋を取った。続けて彼女はポットとカップのお湯をシンクに捨てる。茶漉しを介して、彼女はティーポットへと甘やかなベージュの液体を移し替え、カップと一緒にあたしの前へと置いた。カウンターの向こう側から佐和が一杯目のロイヤルミルクティーをカップへと注いでくれる。香りの高さが鼻腔を擽った。

「それで、このパリ・ブレストなんだけど、もう百三十年くらい昔になるのかしら。フランスのパリとブレストという都市を結ぶ自転車レースがきっかけとなったお菓子なのよ。シュー生地の部分は自転車のタイヤのゴム、中のクリームはタイヤのギザギザを表現したものらしいのよ。少し面白いでしょう?」

「ケーキやそのパーツに意味があるとか、ちょっとびっくりですし、面白いとは思いますけど……それを聞いちゃうと、どこからあたしはこれを食べれば……?」

 佐和は瞳を煌めかせて楽しそうにお菓子の薀蓄を披露する。それに対し、適当にフォークでザクザクと崩しながら食べようと思っていたあたしは一体どう食べたものかと思案する。自転車のゴムとタイヤ、どちらから食べるべきなのだろうか。悩むあたしに彼女は案の定の正解を告げる。悩むだけ無駄だったようだ。

「普通にフォークで思うがままに食べてくれればいいわよ。もしかしたら、食べているときに少し崩れてきちゃうかもしれないから気をつけてね。あと……因みにこのお菓子って自転車選手を応援する意味もあったらしいから、カロリーもなかなかよ」

「うっ……」

 美味しさとカロリーは比例するものね、などと宣う彼女に対し、絶賛体重が気になるお年頃のあたしは恨みがましい視線を向ける。しかし、あたしは目の前の誘惑には抗えず、フォークを手に取った。さくっとした感触をフォークを通して感じるが、下の生地まで断ち切ることができず、中のクリームが無様に飛び出してきてしまった。なかなかに上級者向けのお菓子だ。

「あらあら……これはナイフもあったほうがいいかもしれないわね」

「すみません」あたしは佐和からナイフを受け取った。今度こそ潰さないように細心の注意を払いながら、一口分を切り分け、あたしはそれを口へと運ぶ。「美味しい……!」

 あたしは口の中で広がるバターとプラリネクリームの余韻を楽しみながら、ロイヤルミルクティーのカップに口をつける。まろやかなロイヤルミルクティーの味も相俟って、あたしはつい、わあ、と声を上げてしまった。店内には佐和とあたし以外いなかったのが幸いだった。普段のあたしとは打って変わって、半ばまくしたてるかのようにテンション高く、

「美味しい! これ、美味しいですよ、佐和さん!」

「そう? そう言ってもらえて嬉しいわ」

 佐和は美しいピンクベージュの唇を綻ばせた。彼女は、あたしの食べかけのパリ・ブレストを見つめながらこう言った。

「このお菓子はフランスの自転車レースがきっかけで作られたものだって言ったわよね。だけど、私はきっとこのお菓子にはそれ以上の意味があると思っているの。車輪がなければ、自転車は決して前へは進めない。それはきっと私たち人間だって同じことだけれど、そのタイヤが何かの拍子にパンクしてしまえば、戸惑って、立ち止まって、先へ進むことができなくなってしまうことだってある。そうなってしまったときはもう一度進むために新しいタイヤを手探り状態で探してみたりするし、皆きっといつタイヤが駄目になってしまうかっていう不安に抗いながら生きているんだと思うの。私だってそうだし、きっと、郁ちゃんの周りの人たちだって同じよ」

「……皆、平気なふりをしていても、いつパンクするかわからない不安を抱えている……?」

「そうよ。大人として無責任なことを言うようだけれど、敷かれたレールにだって意味がないわけじゃない。ただ、より良い選択肢を選ぶことによって、将来の可能性を広げてほしいのよ。ねえ、郁ちゃん。将来、どんな大人になっていたい? 何か興味があることや、やってみたいことがあるの?」

「あるにはあるんですけど……笑いません?」佐和は首を横に振った。「あたし……文章を書く人になりたかったんです。小説家とか」

「とても素敵だと思うわ」

「……でも、花が開くかどうかわからない、シビアな世界だってわかってはいるんです。実際、現国の成績だって微妙だし、きっと夢は夢のままにしておいたほうがいいんです」

 ほんの少しの可能性に縋りたい気持ちがあって、あたしはそれを捨てきれないけれど、それでも用意された画一的な将来に向かってレールを進むべきなのだとはわかっていた。あたしはそのことがやりきれなくて、悲しくも思うけれど、それが現実だ。佐和はあたしの双眸をしっかりと見据える。

「……最近の子って、そうやって現実を見てしまうのね。私たち大人がそんな社会を作ってしまったのがいけないのだけれど……それでも、この車輪のように、私は郁ちゃんに進んでいってほしい。間違うことも戸惑うこともたくさんあるし、時にはパンクして立ち止まってしまうことだってあるかもしれないけれど、それだって構わない。郁ちゃんは郁ちゃんのペースでいいの。今日、ここでこんな話をしたことは忘れてしまっても構わないけれど、それでも、いつだって前を向いて車輪のように進み続けることだけはどうか、忘れないでいて」

 佐和は微笑んだ。そして、言葉を続ける。

「きっと、郁ちゃんは大丈夫。私はそう思っている。だけど、どうしても辛くなってしまったときや、どうしたらいいかわからなくなってしまったときは、いくらでもここへいらっしゃい。ここは『コンフォルタ』。あなたにとって居心地のいいとまり木でありたいの」

「あの……ありがとうございます。あたし、もうこんな時間だけど、これから一度学校に行ってみようと思います。話、聞いてくれてありがとうございました。お菓子もお茶も美味しかったです」

 あたしは心からの感謝の気持ちを込めて、深々と佐和へと頭を下げた。この暖かく穏やかな空間と店主のおかげか、ほんの少し、心が軽くなった気がした。

「いえいえ、どういたしまして。新作もお口にあったようで嬉しいわ。あ、因みにだけれど客観的に何か意見ってあるかしら?」

 柔らかい微笑みを浮かべながらそう問うた佐和に、あくまでド素人であるあたしの一意見ですけど、と前置きをした上で、

「何か季節のフルーツが生地の間とか上とかにあったら、より華やかで可愛い感じになるような……もう少しでクリスマスですし、それを踏まえたアレンジをしてみても面白いかもしれないですよね」

「なるほどね。面白い意見が聞けて嬉しいわ。ありがとう」

「さて」あたしは店の奥の柱時計を見やる。午後四時前を指していた。いつの間にか外が暗くなり始めていた。「何かもうこんな時間ですけど、行ってきますね。多分怒られるでしょうけど、親も呼んで、あたしの今の気持ちをはっきりと伝えます。あたしにはあたしが目指したいものがあるんだって――それからのことは、その後に考えます。まずは今は前に進まないと――車輪のように」

 昼前に暗い顔をして来店したときに比べ、あたしの顔色が明るくなっていることに佐和は安堵したように、

「それじゃあ、あまり遅くなってもこの辺りは危ないし、そろそろ行く?」

「そうですね……ありがとうございました。本当にごちそうさまでした」

 あたしは再び佐和へ頭を下げると、踵を返した。

「あ、そうそう」あたしを呼び止めると、佐和はベージュのエプロンのポケットから芳香を放つ小さな袋を取り出し、手渡した。「お守り代わりに持っていって。うちで作ったローズマリーのポプリなんだけれど、花言葉は『あなたは私を蘇らせる』『静かな力強さ』だから。これから先に進んでいかなければばらない郁ちゃんにぴったりだと思うわ」

「そうですか」あたしはもらったポプリをブレザーの内ポケットへしまった。「ありがとうございます。あと――行ってきます、佐和さん」

「ええ、行ってらっしゃい、郁ちゃん。何かあればいつでもいらっしゃい。私は――コンフォルタはいつだってあなたにとって居心地のいい場所として、あなたのことを待っているわ」

 店を出て、暮れ泥む空の下で、来たときとは逆方向に白薔薇のアーチを抜けていく、まだ少し頼りない背中へ、佐和は彼女のこれからを強く願った。


 私は――コンフォルタは誰かにとって居心地のよい場所でいられているのだろうか。佐和もまた、予定通りでもなければ、望んだ通りの人生を送っているわけではない。それでも、決して嫌じゃない日々を送りながら、誰かにとって心地よい空間の扉を少し疲れてしまった人々のために開いておきたかった。


 今日、この店を訪れたあの子――郁がまた、この店『コンフォルタ』を訪れることがあるとするなら、そのときの彼女が笑顔でいてくれることは佐和は祈っている。

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