静寂





電線から見下ろす鳥、握りつぶした紙パックのジュース、萎れた風船の欠片。

どうやったって止まらない欠伸は雑念を吸い込むブラックホールみたいで、

秒針の軌跡に目を回した、そんな朝だった。



眩い閃光に降伏し、瞳を薄らと開ければまたひとつ、

こぼれた欠伸に溢れる水分が目尻を伝う。








 六月の風は生々しい。


柔く仄かな暖も、清澄な凉をも奪われる。湿るシャツ。張り付く前髪。

水無月と表現するのはあまりに滑稽ではないか。




浅い水溜まりを慎重に避けて歩く。

私を駆け巡る全ての神経を研ぎ澄まして、純白を汚さぬように。



昨日の雨天の影響で歩道が濡れているのはわかっていた。



しかし、明日からまた、しとしと、降りしきることは安易に予想出来る。

ゆるやかなモデラートを保ち、この文壇にファーを纏った新しいサンダルをおろすのは今、この瞬間しか有り得ない。



異様な紅を唇に差したアナウンサーが、先程淡々とツユイリを宣言していた。

今年は長くなると言う。

溜息をひとつこぼし、チャンネルを回したけど結局同じような宣言。

異様な紅か、厚塗りファンデーションかの違いだった。




カン、カン、とアルミが心地よく鳴く、歩道橋の階段をテンポよく登る。

夜に聞けば、不気味な材料としかなり得ないのに。

この先には気に入りの眺めがあるのだ。自称、特等席。




数キロ先に建ち並ぶ高層マンションが、眠りを妨げた雲を裁いた。

まだ夜明けの匂いが残るこんな休日の朝、ここへ来る者はいない。

だけど、それは時に覆される。







× × ×




少し上がった息を整えると、薄らと現れた影に思わず身構えた。



歩道橋のフェンスに手をかけ、

隙間から一定のスピードを規則正しく流れる車列をじっと見つめる、青年。


なんにも面白いことなんてないだろうに、じいっと景色をみている。






清澄な風を司るかのような、美。羽のようなブロンドヘア。二十代前半、だろうか。

若年ではあるが、あらゆる事象を見送ってきたかの如く醸す、神秘を纏っている。




 思わず見蕩みとれた。



時が止まるみたい、なんてそんなヤワな表現、自分がすると思ってなかった。


湿る風も、空を裂くツバメも、山手線も、コンビニの自動ドアも、

信号機までもう何もかも稼働してなかった。


呼吸は鼻からするのか、口からするのか、

カナヅチが水へ飛び込んだ時のような滑稽な悩みまで脳内を逡巡した。


瞬きというものは意識せずとも自動的に行われるよう体は仕組まれているはずなのに、

本能がそれを遮断したのか乾ききったコンタクトはピント調整機能を放棄している。

こんな経験は今までになかった。



輪郭と首のラインが美しく、耳朶には小さなフープが装飾されている。

ゴールドが光に反射して、星を描く。

視線が独りでにその姿を追い、離れようとしない。




その様子に気がついたのだろうか、ゆっくりとこちらに首を捻り、

不思議そうに眉をしかめた。



ゆらぎひとつない、滑らかな肌。斜め下へと穏やかに伸びた長いまつげ。


透けた薄茶の瞳は、まるで、ブラウンのスモーキー・クウォーツ。


水分をよく含み、瞳孔とのグラデーションが叙情的。

角度を変えれば透明感のある黒にも、あるいはカーキにも見えた。

並行の二重幅は瞳を伏せれば広く余裕を見せる。申し分ない、堪らぬ美形。







「あれ、なんていうの」







形の良い唇がうすく開く。

旧友だとカミングアウトされても違和感のないほど、ごく自然に。

初めて聴いたその声は、ゆっくりと体内を駆け巡り浸透していくのがわかった。

思考力を奪われる。水中に放り込まれたみたいに。

高めだとか低めだとか、そういったシンプルな表現ができない。

共鳴し、柔くかすれ、憂いを含む、泡沫。




呆気に取られるこちらを気にすることも無く、じっと応えを待っているようだった。

疑問を初めて持ち、純粋を握りしめた無垢な少年のように。


 階段の下、花壇に取り残された、青。


土壌の具合で色が変わるだとかそんなのを耳にしたことがある。

毎年、この時期になると咲く、その花の名称を他人行儀に答える。

しかしそれでも、へー、という相槌だけが返ってくる始末。

どうでもいい街頭企画で話題にしたって、それを知らない人など、見つける方が難しい。


稀有すぎる。






「…紫陽花、知らないんですか?」

「んー、知ってる」






先程の答えを怪訝に思って、伺うように訊ねれば当然のようにそう答えた。

ならなぜ聞いたのだと、すかさず初対面に切り込むのもそれはそれで正解とは思えない。

しかしさすがに正当な返事が見つからず、適当な相槌を打つほかなかった。


人格が掴めない。






「よく来るの?」

「…へ?」

「ここ」

「ああ、はい」





躊躇う兆しもなく続けられた言葉に、咄嗟の間の抜けた返事。

慌ただしい感情を飼い慣らしながら、取り敢えずの会話を持たせた。


一体なんなのだ、この人は。


だけど、肝心の相手は全く気にもとめぬ様子でポケットを漁りながら、

おなかすいちゃったな、と呑気につぶやきつつ、やっと飴玉を取り出した。

その程度で腹は満たされるのか。


それから、そんなことより、まんまるなそれは不気味な濁色で思わず二度見した。

そのうえ、だいぶ持ち歩いたのか表面が溶けている。





「美味しいんですか?」

「んー?」

「それ、なんかすごい色だし、」

「美味いよ、…あ、いる?」





手のひらに一粒乗せたそれを、閃いたようにこちらに向けるから丁重にお断りした。

いや、だって、どう考えたって疑わしい。


断りを入れる私に一切疑念を持つことも無く、

美味しいのになァ、と呟きながら態とらしく口内でそれを転がしてみせるだけだった。

他人がやれば煩わしくて仕方のない行動だろうが、

目の前の相手はひとつひとつの行動が美しい。


流した瞳、悠々とした所作。


仮に石ころを適当に蹴って遊んでいたとしても、

横断歩道の白いとこだけ歩く遊びを披露していたとしても、

この人は恐らく、それさえ絵になる。フィルムに収める中のひとつになりうる。






「どこから来たんですか?」

「未来」

「…え?」






ミライ。視線をあちらこちらへと泳がせ、言葉を必死で噛み砕いた。

明らかに動揺する私に紅く染る舌をチロりと出し、なわけねえだろ、と可笑しそうに吹き出す。


馬鹿を具現化したセリフだと、そう即座に分かるはずなのに、客観視する余裕さえなかった。


当然の様にそれをコロッと信じてしまいそうなのは恐らく、

彼のすべてがそう思わせるからだろう。

人間離れした容姿、だけではない。常にピントの合わぬ世界にいる気がする。









─── ああ、そうだ。今を生きてない。






 タイムスリップを題材としたドラマや映画なんかを、大抵信じない。

ファンタジー物語だとしてもそんな都合の良い世界線、

存在し得ないと思うタイプの人間だ。


 未来を変えるってことは、過去が変わってしまうってことだなんて、

そういった当然の原理を、何をそう分かりきったことを、

信じられない事象かのように取り上げているのかと反吐が出る。

…とまあ、そんな人間が、今、未来からやってきたとジョークを披露する男に対し、

疑いを忘れ戸惑いを見せてしまったのだ。


彼にはそれだけ、所在無い感覚論が成立した。





 必然だと言われても疑念を拭えぬ、

 空想のような出会いであった。

 貴方が現れた晴天を皮切りに、

 翌日からは、来る日も来る日も、雨。


 そしてルーティンと化す、朝。






×


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