月暈






 ─── 次の日、あなたは現れなかった。










 二日後も、その次の日も。

 夏の擽ったく鬱陶しい匂いと、熱を引換に。



 たったひと月、幻ともいえる刹那的現象。



夏が来ればもう現れはしないなんて、

そういった決定的な伏線のようなものは一切与えなかった。


だけど、不思議と驚きもなかった。

ふわふわと、ただ瞬間的に、姿を消してしまってもおかしくはない人だ。


見え隠れ、その繰返し。





 ちょうど藍の夜闇に儚く滲み、

 グレイの薄雲に身を隠す満月のように。





 名も知らない。




花の名は訊ねても、互いのそれに言及することはなかった。

タイミングを失ったのか、興味がなかったのか、

そういった形式的なものが面倒だったのか、そんなことは分からないけど。




知らぬ方が良いにきまっている。知ることで脳内を駆け巡ってしまう、

その単語を延々とループさせるなんてごめんだ。

だから、どうせなら、何も残さないでほしい。

どうしたって、組み込まれてしまったそれ以外の欠片が抹消できない。

視覚を失った時、聴覚が異常な能力を見せるように、

ひとつデータを知らぬだけで、他が強く遺ってしまう。

脳内のデリートキーがバグを起こし、

ふとした残り香を想起してしまうのだからタチが悪い。






「…まっず」






カバンのポケットからコロンと落ちた、いつしか隣で舐めていた小さな飴玉。

どんな手段でこんなところへと忍び込んできたのか分からない。

だけどそんなことを疑問として提起する気が起きなかった。



溶けて張り付く包みに苦戦しつつ口に放り込めば、

思わず顔をしかめる結果となった。

味ぐらいは裏切ってくれよ。どういった舌ならこれを美味だなんて思えるのか。




時にあのフェンスを掴んでは、記憶を反芻する。

噤んだ言葉を後悔し、訪れた夏を憎んでしまいそうになる。

殴り蹴散らす対象となり得る形あるものなんて、この世に存在しない。

従順な車列に踵を返して、視線を意識的に固定させる。

青青とした紫陽花は、いつしか茶ばみ、それでもそこに留まった。







× × ×



去年の梅雨は長かった。


代わりに、夏前に雨を切らしたのだろう。凡そ普遍的な四季であった。

だけど蟠りが時折思考を阻む。

その度、客観を意識しつつ時間という非合理的な手段で解決されるその時を待った。


一度目にしてしまった月暈は、いつだって胸を掻き毟る。





今朝のニュースで、梅雨入りが発表された。

桜の開花宣言はあれほど祭り上げた割に、

相反して淡々と読み進められるそれは気の毒な扱いそのものだ。


昨年は異様な紅と厚塗りファンデーションの勝負だったが、

今年は異様なピンクと厚塗りファンデーションだった。

さほどの違いはないが、異様なピンクのチャンネルで妥協した。






梅雨入りしたくせに、雲ひとつない空。変なの。

子供なら多分、あおいペンキをこぼしたみたいだと表現するだろう。



予感。



昨日の雨で泥濘ぬかるんだ道をピョンピョンと跳ねつつ避ける。

たまに、失敗して、はまる。



既視感のある、碧天。

青々とした花、代わり映えのない車列、目を細めずとも堂々たる存在感を放つ高層ビル。



それから歪な水溜、踏み躙られたどこかの広告、カン、カン、と音を立てる階段。

毎日目にする景色であるから気にとめてはいなかったが、高層ビルが増えた。

私は青い夢をみるようになった。


あと六段も登れば平坦。


心做しか踏み出す足がアレグロのテンポを刻み、風に晒される鬱陶しき長髪を払う。




ひとつ瞬きをした時、予感が胸を打った。

鼓動が乱れ、血液が身体中を駆け巡るのを感じた。




 雨に擬態した、ヴァニラとウッドの甘い匂いが六月の生温い風に乗って鼻腔を擽る。


 ぼんやりとした輪郭をこの目に捕えれば、艶やかに揺れるブロンド。

 










 耳朶で夜更けの月のように光る金の環。

 眩き閃光を放つアスタリスク。

 その狡さに、耽溺なんてしない。

 潤む夏を、予め睨んでおく。

































「 ねえ、 」










                  fin.

 

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