アンプラトニック
眠りを妨げる朝を罰するようにして、そびえるビル群は蒼穹を睨みつけた。
それは7月1日の朝に似ていた。
1ヶ月以上経ってしまった今でも、渦巻きのように胸の奥に残る傷口を閉じられずにいる。
僕の胸には雨が注がれない。
バニラの香水を1プッシュすると、共にあの瞬間のムスクが想起された。
このバニラを、君は忘れていてくれればいい。
夢は忘れる。
なのに、梅雨の香りとこれらが絡まると、酷くセンシュアルな匂いになってしまった。
そのせいで溺れそうになった。知ってしまったらもう戻れなくなる。
だから6月が去る瞬間、
もうあの場所へは行かぬことを決意した。
溺れる前に、確固たる信念は揺らぐためにあると知っているから、
夏とともに消えてやった。そして僕もその記憶を消したかった。
だが、まるで首筋に彫り込んだタトゥーのように、
彫り込む瞬間の痛みが攻撃するのは厄介だった。
× × ×
出会いは、蒼穹。
6月のうちであの日だけが突き抜けるほどの蒼天だった。
その日、無駄に化粧の濃いアナウンサーが梅雨入りを宣言した。
ワイドショーはどのチャンネルでも、萎びた梅雨入り報告。
梅雨入り宣言がされたのに、晴れていた。未来永劫それは続くようにさえ思えた。
雲という概念を忘れてしまうほどに蒼白い空と、澄んだ風。
東京の中心を抜けていく風は、空気清浄機よりも清澄におもえた。
梅雨の風は生々しいが、洒落ている。
黒と白、イエスとノー、そういった輪郭をもたない。
常に揺蕩う平行線の中にいる。
歩道橋から身を乗り出して見下ろしているとき、
同じスピードで駆けていく車の流れがやけに可笑しかった。
下手なコメディ番組を見るよりも面白かった。
じっと見つめていると、この流れゆく車列の一部になれる気がしていた。
そうやって時間を潰していたら、右後ろの方から人の気配がした。
通り過ぎるのだろうと察して車列から視線を動かさなかった。
だけど、気配は無くならない。
階段を登ってくる音はしたのに、気配が遠のいていかない。
それを不思議に思って振り向くと、君が立っていた。
胸あたりまで伸びた艶のあるストレートヘア、細い指、雨が流れるような切れ長の瞳。
黒い瞳は朝露をまるめたようにして光った。
その無垢な瞳が甘くて、とめどなく、怖かった。
それからなんとなく朝が来れば足を運んだ。
契りはないが、自ずと目が醒め、ふらりと足がそちらへ進んだ。
やまない雨を羨むようにして、次の日もその次の日もそこへと向かった。
ビニール傘だけ手にして、水たまりをたまに踏みつけながら歩く。
横切った黒猫が睨むが、こちらは踵を返さなかった。代わりに空を見上げた。
歩道橋にはほぼ同じ時刻、君が現れた。
こちらが傘の向こうに見えるグレーを見つめている時、
君は地面に落ちる雨粒を凝視していた。
黒に染まりきった上から責め続ける透明のドロップ。
たとえば雨の行先を知っているみたいに、夏へ向かう水の粒を視線でたどっていた。
愛とか恋とか、そんな浅はかなプラトニックじゃ、透明は推し量れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます