i:私、僕。

眼前に浮かぶ黒い球体。名府の天体。


誰かの声に目を覚ませば、

また〈光条スターリング〉のベッドから、

真っ黒な天体の浮かぶ天井を見上げていた。


イサムが身体を起こすと、

光を吸い込むほど真っ黒な髪の女が

黒色の外套に身を包んで、

目の前の椅子に座ってこちらを向いている。


「魔女、ミダス?」


脳裏に浮かんだ言葉を女に尋ねた。

思考を阻害そがいするものはなく、

相手へのおそれもなかった。


マオにかけられた『保護』による

思考の違和感はなくなっている。


それでも〈NYS〉であった自分が、

いまもこの場にいることが不思議でならない。


「くふふ…。」


女を見て自然と言葉が漏れ出たので驚いたが、

相手は不気味な声で笑いを漏らした。


それはどこか記憶にある笑い方だった。


「私をミダスと間違えるなんてね。ふふ…。」


「ひょっとして、夜来やらい…さん?」


思い返しただけで笑いをこらえる女。


特徴的なその外見で名前はすぐに思い出せる。

夜来やらいザクロ。彼女はイサムのクラスメイトだった。


「どう? 改めて〈カルマン〉になった感想は?」


海神宮わたつみのみやさんは?」


マオに眠らされる前に、

イサムには言いたいことがあった。


白い部屋のあたりを見回しても、

隅には黒髪のウィッグに白色の服を着た

〈キュベレー〉が取り残されているだけ。


「最初の質問がそれ?

 私の記憶は見たでしょう?」


「見ましたけど、規模が大きすぎて…。」


動物園を築き上げた富豪が死後、数百年かけて

転府を複製して今の名府を作り上げた。


そんな老婆となった彼女の記憶を覗き見ても、

イサムには理解の限度を超えていた。


なにしろ目の前に座っている人物は、

イサムの記憶の中ではただの

クラスメイトに過ぎない。


「まだ寝起きで混乱しているみたいだから、

 順を追って説明しましょうか。」


海神宮わたつみのみやさんは、つまり石ですか?」


名府という容器に投げ込まれた石が、

夜来やらいザクロの記憶の海神宮わたつみのみや真央まおだ。


「ふふっ。察しがよろしい。

 まあ慌てないで。

 石、海神宮わたつみのみや真央まおを名府に投じるために、

 前準備として地味で冴えない高校生を演じたり、

 クラスメイトみんなと共謀きょうぼうしてクラスの人気者な

 ユージくんにお手紙書いたりね。」


「地味…?」


マオの発生で生じた波を、打ち消すための

逆位相としてイサムの『有事協定』が利用された。


マオという異物を馴染ませる為に、

混乱で紛らわすという単純な方法だった。


「観覧車の真下にある地下は…ひょっとして。」


「あれが受け皿ね。

 あの手の場所を作っておくと、

 私がなにかをやらかすときに

 逃げ道として色々と都合がいいからね。

 便利な地下組織ってわけ。」


「やらかす前提だったんですね。」


過去の全てが、この奇妙なクラスメイトの

手のひらで踊らされていた気分を味わい

こうべを垂れる。


「それで彼女を投じたときに、

 近くにいた八種くんにグリッチが発生した。

 やらかしには反省はしているわよ。

 彼女の出現場所を、ヒトの変化が

 大きくあらわれやすい〈3S〉じゃなくて、

 あえて学校にすべきだったかもね。

 それはそれでグリッチが大量に生じた

 かもしれないけれど。」


「あの場で〈ニース〉じゃない僕だけに発生した。

 海神宮わたつみのみやさんの予想は当たってたんですね。」


「でもグリッチの内容までは、

 詳しくはわからなかったみたい。」


「法則の理解と予測ができるって

 ものじゃないんですか。」


亜光の暴投も、3年生相手の拳も、

貴桜とのキャッチボールも見えていた。


「うーん、それはちょっとだけ違うかな。

 あくまでも予想に過ぎなかった。

 〈カルマン〉である私たちならそれは可能なの。

 高校生の私が八種くんの家で、

 〈記録媒体メモリー〉を落としたのは覚えてる?」


「〈カルマン〉なので覚えてますよ。

 そのときは落とした場所が、

 僕にはわかりませんでした。」


「でも八種くんの後ろに立ってた、

 見えないはずの彼女はわかってた。

 なぜだと思う?」


薄暗い玄関の、イサムの影で靴の中に入った

小さな〈記録媒体メモリー〉をマオは見つけ出した。


それはザクロも指摘し、

マオ自身も疑問に思っていた。


「あれは私のせいだった。

 私の視覚を彼女が理解していたから、

 落下場所を言い当てることができたの。」


「視界を共有していた?

 グリッチだった僕と…? あれ?」


「それもちょっとだけ違うわね。

 実は八種くんのグリッチは、

 正しくは八種くんと彼女、

 彼女と私とで別に共有するものだったの。

 このグリッチは面白い発見だったわ。

 動物の群れが外敵から身を守る忌避きひ行動。

 感覚を共有する可能性がヒトにあらわれた。

 反省もあったけれど、この収穫は実に大きい。」


ザクロは興奮気味に早口に語る。


記録媒体メモリー〉の落ちた場所が

イサムにはわからず、

ザクロが見ていたからこそ

彼女の共有先であったマオもわかった。


器に石を投入したザクロの行動の結果。


「それは〈キュベレー〉の…海神宮わたつみのみやさんを、

 夜来やらいさんが送り込んだからですよね。」


人に似せた皮を着せ、服を着せた機械人形。

それが海神宮わたつみのみや真央まおという存在で、

彼女は第3の目サーディを持つ〈キュベレー〉だった。


ザクロが共有していても不思議ではない。

しかし彼女は首を横に振った。


「グリッチの発生は、ね。

 ただ彼女には自分を〈キュベレー〉と

 同等の存在だと私が『保護』しておいたのよ。

 実際には八種くんと同じ〈カルマン〉よ。」


海神宮わたつみのみやさんが…、

 いまの僕たちと同じ?」


「えぇ。名府に投じた彼女はまだ、

 〈カルマン〉であってはいけなかった。

 〈カルマン〉の私と彼女が同時に

 存在することは、社会を壊しかねないからね。

 〈キュベレー〉を演じてもらうことが、

 名府って器を壊さない最善の方法。

 それが、私の投じた要素の予備ね。」


ザクロが示す要素とは『状況』と『環境』、

それと石である〈キュベレー〉としてのマオ。


頭が余計に混乱する。

それでは新たに疑問が発生した。


「彼女が同じ〈カルマン〉なら…。

 夜来やらいさんの記憶にはありましたか?

 それとも海神宮わたつみのみやさんは夜来やらいさんより以前に、

 既に〈ALM〉に回収された

 〈カルマン〉だったんですか?」


〈カルマン〉は機械人形に

ヒトの記憶・意識を移したものであり、

イサムが起きるまでに辿たどったザクロの記憶には

海神宮わたつみのみや真央まおは存在しなかった。


「それはねぇ。」


ザクロはひとつ間を置き、もったいぶる。


「彼女は私の別人格だから。

 あれ? がっかりした? ふふ。」


あごを上げてこれ見よがしに笑うザクロの口元に、

口を半開きにして言葉を失った。


「叔父から暴行を受けたときに、

 私が私を守るために作っていた予備の人格。

 そのときにできた人格を〈キュベレー〉って

 偽装したのが海神宮わたつみのみや真央まお

 これで合点がてんがいった?」


黒髪の女がふふ…とまた笑う。


「彼女は八種くんの回収をためらってたけど、

 女の子に誘われて部屋に入っちゃうなんて、

 大胆な行動に出るとは思わなかったみたい。」


「それは…。」


言い訳を考えて口をつぐんだ。


「『有事協定』違反。

 これって不純異性交遊ね。

 八種くん、道を踏み外しちゃった? ふふ。」


ザクロの勝ち誇った口元が悔しくて、

両手で顔をおおいうずくまった。


〈キュベレー〉と疑っていたマオの誘いに乗り、

イサムは虚像と虚飾の世界を知った。


「彼女の存在がグリッチを生み出してた。

 本来は彼女が〈光条リング〉に戻るだけでよかった。

 それで八種くんのグリッチは発生しない。

 でも隔離の名目で連れてきちゃったのよ。」


「それならやっぱり僕は

 抹消まっしょうされるべきなんじゃ…。」


「けれども消さなかった。」


イサムにはマオがそうしなかった理由が、

最後まで理解できずにうつむいた。


ザクロは両手で〈個人端末フリップ〉の仕草をして、

イサムの顔を覗き込む。


それからその右手だけをあごに当てた。


「そして彼女は八種くんを眠らせて、

 自らを抹消まっしょうした。」


「え? 自分を? どうして?」


マオはイサムを回収し、眠らせ、彼女は消えた。


「グリッチの確認も済んだからね。

 ボトルを投げて、グリッチの発生を確認した。

 グリッチを隔離し、眠らせ、彼女はいなくなり、

 名府のグリッチは完全に消滅する。

 こうして彼女は役割を終え、目的を果たした。

 〈カルマン〉の八種くんができた。」


海神宮わたつみのみやさんに眠らされた僕が、

 夜来やらいさんに起こされたのは、

 僕が〈カルマン〉になったからですか?」


「まぁ…、それもちょっとだけ違うかもね。

 せっかく作った器の亀裂、

 隔離したグリッチを消す必要もないし。

 それに消せなかったの。起こすこともね。」


「消せなかった、んですか?

 起こす?」


ザクロにはイサムを消せもせず、起こせもしない。

矛盾したことを彼女はまた言った。


目の前にいるザクロを見て、

目覚めたイサムは小首を傾ける。


「彼女は八種くんを『保護』したの。

 彼女の役割はグリッチの隔離だからね。

 そのグリッチを完全に隔離してくれた。

 だから私にも消せなかったし起こせなかった。

 ちゃっかりしてるわね。

 まったく誰に似たのやら…。」


海神宮わたつみのみや真央まおの主人格がぼやく。


「変じゃないですか。

 なんで僕は起こせたんですか?

 それで、海神宮わたつみのみやさんは?

 …もういないんですか。」


「自分で自分を消しちゃったからねぇ。」


ザクロは顔を部屋の隅に背けて感慨にふける。


眠らせたイサムを『保護』した状態で

マオは自己消滅を果たした。


イサムはマオが真実を告げたことで、

彼女が消え去ることを薄々と察していた。


自分がヒトではないことを。

イサムの過去を探っていたことを。


イサムは気が動転するばかりで、

ヤケになって恥ずかしい態度をとった。


海神宮わたつみのみやさんが僕を『保護』したのは、

 僕を消させない為だったんですね…。』


彼女と共に過ごした時間は、

意図的だったのかもしれないが

色々なことが起き、半ば巻き込まれた。


「僕は最後まで彼女になにも言えなかった。」


悔やみきれずに上着のすそを力強く握る。


「それなら言えばいいんじゃない?」


「でももう海神宮わたつみのみやさんはいないんですよ?」


「予備はあったから、

 すぐに復元できたんだけどね。ふふ。」


「は?」


部屋に響くほど大きな声が出た。


「だって八種くんが起きるには、

 彼女がほどこした『保護』を、

 彼女自身に解除させる必要があったもの。」


「予備って…。」


「ずっとあそこにいるでしょ。」


ほうけた顔をするイサムに、

ザクロが部屋の隅を指し示す。


それはマオがのこした〈キュベレー〉。


彼女に常に付き従うように動いた

機械人形が、ザクロの言った予備だった。


予備から復元されたマオはどこにいるのか。


イサムはさらなる疑問に疑惑を抱いた。


ザクロの笑い方といい、彼女はずっとおかしい。

以前ならばもっと不気味な笑い方をしていた。

それは『誰か』が演じている違和感。


イサムは目の前の役者に気づいて目を見開いた。


海神宮わたつみのみやさん…?」


目の前に座っていた真っ黒な髪のザクロは、

目を覆い隠していたその髪を真ん中で分けて、

目を開けば髪は燃えるような赤色に変わった。


「おはよう、八種くん。」


イサムの知っている人格のマオは

嘘はつかないが、正直者ではない。

メリットよりも好奇心が優先される。


イサムは目をしばたたき彼女を見た。


人の記憶・意識を移した〈カルマン〉は、

イサム以前にはザクロしか存在しない。


ザクロの入ったひとつの器、〈カルマン〉。


名府で〈キュベレー〉を演じていたマオは、

回収したイサムを『保護』して眠らせた。


器のない彼女は自己消滅以外に選択はなかった。


役目を終えたマオの自己消滅によって、

〈カルマン〉本体の本来の人格である

ザクロが目覚める。


『保護』によって眠らされたイサムを、

ザクロは消すことも起こすこともできなかった。


マオが『保護』した新たな〈カルマン〉を

目覚めさせるには、ザクロはマオの人格を

予備である〈キュベレー〉から復元させ、

記憶と意識を融合させなければならなかった。


ザクロは本来あったふたつの人格を、

〈カルマン〉というひとつの器に収めた。


マオは自らの人格を残す為に、自己消滅を選んだ。


「お、はようございます…

 海神宮わたつみのみやさん…?」


聞き慣れたマオの声とその言葉に、

あふれ出る感情を抑えて

イサムは眉間に深くシワを寄せた。


マオは髪を後頭部で束ねて縛り上げた。

赤土色の瞳で、いつもの顔がそこにあった。


「ちょっとだけ違うわね。

 私に起こされたと思ってるようだけど、

 正しくは八種くん自身が自分で起きたのよ。

 私はあくまで『保護』を解除しただけ。」


よどみゆく日々の、うつろな夢を思い出す。

あれは彼女のいない日常だった。


イサムはそれを知って口元が緩む。


「そうだよ。僕は、君に会いに来たんだ。」


真っ直ぐ見つめるイサムから、

マオは顔を背けて微笑む。


マオの手を引き、イサムは

彼女の身体を手繰り寄せた。


マオはベッドに片膝を乗せ、

イサムの顔に鼻を近づける。


――彼は愚かな選択をした。


「やっぱり八種くんは、変なのよ。」


不器用に笑いかけるマオに、イサムは笑う。

せきを破った水のように笑いがこぼれた。


――彼女は僕を変だと言った。



(了)

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