孤児院

山口 実徳

プレゼント

 窮屈そうに建ち並ぶ灰色の摩天楼は、音も呼吸も体温もなく生気を失い、空を覆い尽くす厚く黒い雲に、今にも溶けてしまいそうである。

 その一角にはビビッドな赤い屋根と眩しい白壁が街の疲弊に染まって色褪せてしまった孤児院が、草の一本も生えぬ空き地に取り囲まれて、虫食い穴が空いたようにぽつんと建っていた。

 行儀よく磨り減ったアスファルトと薄汚い建屋の間。隔世の象徴たる荒涼とした庭を、身体に合わぬ下等な服を被った子供たちが、ケラケラと笑いながら訳もわからず駆け回っている。

 シリンダーによる重厚な十二連奏が門の前にやって来ると、子供たちは立ち止まり歓声は消え、羊のように孤児院へと帰っていった。

 黒塗りのリムジンから黒尽くめの若い男がアタッシュケースを手に降りて、続けてソフト帽を深く被った男が紙袋を抱えて降り、無人の庭をじっと見つめていた。

 孤児院の扉が開くと、女がひとり走ってきた。まだ若い、ハイスクールを出たばかりに見える。

 門を挟んで男たちと対峙した。

 小柄で華奢な小娘は、帽子の影にぼうっと浮かぶ冷たく深いうろのような白い眼を、奥歯を食いしばって睨みつけていた。

 女を見下ろした格好のまま、ソフト帽が紙袋を差し出すと、黒い地面が一瞬にして色とりどりに染まり、感情なく伸ばされた腕だけが空に留まった。

「ハロウィンは、とっくに終わったわよ!」

 辺り一面に散らばったクッキーやキャンディーやチョコレートを見るまでもなく、黒尽くめが門扉越しに女の腕を掴む。

「このアマ!」

 しかし伸ばしていた腕で制するよう指示されたので、黒尽くめは物足りなさそうに手を離した。

 ソフト帽の眼球がアタッシュケースの方に動くと、詰め込まれた札束の力強い音が静寂の谷間に轟いた。黒尽くめが札束ひとつを無造作に掴み、林檎のような女の頬をピタピタと叩いた。

「こんなボロ孤児院に、こんだけの価値なんか無いんだよ。ボスのお情けに感謝しな」

 女の目には憎悪が溢れ、叩かれた頬には力が込められ柔らかさを失った。

「幾らであろうと売らないわ、何度来たって同じよ」

 黒尽くめが「ほう」と感心した様子で女の顎に触れようとすると、ソフト帽の冷え切った眼差しが向けられた。その視線が身体の芯まで突き刺さると、一瞬にして顔は蒼白くなり全身が萎縮し、震えが止まらなくなっていた。

 ソフト帽がきびすを返すと、黒尽くめが急いでリムジンのドアを開けた。散らばった菓子には目もくれず乗り込み、黒尽くめも菓子を踏みつけたことに気づかぬほど慌てて乗り込んだ。

 12連奏は重低音のリズムを上げて、孤児院から走り去っていった。

 再び音がなくなると、孤児院の扉が開いて老婆が女の元にヨタヨタと駆け寄った。

「エレン、怪我はないかい?」

 大丈夫よ、と笑ってみせると子供たちが駆け出して、エレンと呼ばれた女を取り囲んで歓声を上げた。

「みんな、大丈夫だから。みんなの、私たちの家は守ったからね」

 たくさんの無邪気な笑顔に囲まれて、エレンは聖母のような笑顔を見せていた。


 高く厚く物々しい塀の先にそびえ立つ門が重々しく軋みながら開くと、リムジンはその奥へと吸い込まれた。刈り揃えられた庭木を横目にS字カーブを走り抜け、白亜の邸宅に横付けされると、玄関脇に立っていたタキシードの男がドアを開けた。ソフト帽が降り、青い顔で震える黒尽くめがアタッシュケースを大事そうに抱えて続いた。

 開かれた玄関扉の前でソフト帽が立ち止まると


 ドン!


 その場でタキシードが崩れ落ち、車寄せに赤いものがじわじわと広がっていった。

 玄関ホールの若い衆にソフト帽と拳銃を手渡し、ひとり奥へと入っていった。

 腰から下の力が抜けてしまった黒尽くめは、歯をガチガチと鳴らしながら身体中から液体という液体を垂れ流し、車寄せの床を濡らしていた。

 誰もいない自室の椅子に深く座り、長い溜息を音もなく吐くと、ノックする男があった。腹心の部下である。

「ボス、奴の始末が済みました」

 当然だ、という眼をしているだけでピクリとも動かない。むしろ、部屋いっぱいの威圧感に押し潰されそうになる。

「シマ荒らしには気を付けろ」

 男は硬い顔のまま深々と頭を下げた。

 このボスだ。下手を打ったら、たとえ側近でも容赦なく始末する。

「あの孤児院は…」

 ボスは微動だにしない。現状維持、という事だ。

 周りを買ったのは、ウチだ。買い占めてビルを建てるつもりのようだが、孤児院の若い女が頑として応じないのだ。今まで、あらゆる手段で金も土地も権力も我が物にしてきたが、あの孤児院だけは金になびかず力に怯えず、また手荒な真似が許されておらず苦戦している。

 手をこまねいているうち、シマを荒らすファミリーが現れて孤児院を狙ってきた。今日、撃たれた男はそのスパイだ。

 シマを争っているうち、滑稽なことに我らファミリーは孤児院の護衛をする格好になってしまった。

 ボスが立ち上がりソフト帽を再び被ったので、側近が車の手配をした。


 リムジンの後席は、ボスひとりだった。

 真っ直ぐな道をひたすら走らせ、町から離れ、建物はついに無くなり、荒野の中を進んでいくと一軒の廃墟が見えてきた。

 屋根や壁は抜け落ち、窓硝子は真っ白に曇り、扉には穴が空いている。崩れた看板で、かつてはキャバレーだった事が何とかわかる。

 扉を開けると、真っ暗な店内に差し込む月明かりが真紅のドレスを浮かび上がらせていた。埃が積もったカウンターに酒瓶を並べた女がグラスを握ってうなだれている。脂まみれの髪は振り乱したまま静止させたようである。

 腐った床が音を立てると、女が気怠そうに身体を捻り、虚ろな眼をしてふらふらと揺れていた。

「お偉い様が、こんな店に何の御用?」

 ボスは床が抜けないよう慎重に歩き、女の隣に腰掛けた。

「もう店じゃない」

 女は焦点の合わぬ眼でほくそ笑むと、手垢のついたグラスいっぱいに酒を注いで、枯れた色気を振りまいた。

「あんたにそのつもりが無くっても、あたしは何時いつだって商売するわ。餓鬼の時分から、これしか知らないんだから」

 力なく腕を絡めると、痩せこけてだらしなく垂れ下がった身体が触れた。ボスが軽く払いのけると女はムッとして、酒を注いで溢れさせた。こんな事を何度もしているのだろう、カウンターのそこかしこに塵を巻き込んだシミがある。

「そんな酒はやめろ」

 グラスを煽ると緩んだ口角から首筋、そして肋骨が透けた胸元へ酒が伝い、ドレスがまだら模様に染まっていった。

 干したグラスを力なく叩きつけると、女は鼻で笑った。

「あんた、あたしたちに何させた? 使うだけ使って…あたしたちはボロ雑巾よ? 挙げ句、店の娘に手を出して」

 ボスの口先に、目頭に力が入った。

「寂しさにつけ込まれて薬漬けにされて…忘れたとは言わさないわ」

 正気になったように荒げる声に、ボスはピクリと眉を動かした。

「薬漬けに…?」

 女は首元に腕を絡ませ、崩れた身体を押し付けた。

「女は愛されないと生きていけないの…だから、ねぇ…」

 耳元で囁かれた酒の臭いで、我に返ったように立ち上がった。女は椅子から滑り落ち、床の上でしなをつくった。

「…ねぇ…私を買って…」

 月明かり差す店内に紙幣が舞う中、来た道を歩き扉を蹴破って出ていった。

「お前は俺の聖女だ。せいぜい長生きしろ」

 月光に照らされた無数の金には目もくれず、女は買って買ってと泣き叫ぶのだった。


 孤児院を取り囲む空き地に重機が入った。

 子供たちは不安そうに見つめ、老婆は怯えた様子で祈りを捧げ、エレンはただの脅しだから大丈夫よ、と困ったように慈愛の微笑を浮かべていた。

「ああ…エレン…」

「ここはみんなの家で、私が育った家です。勝手な真似はさせません、必ず守ります」

 目の前の力強い眼差しは、老婆に更なる不安を与えることしかできなかった。

「エレン、危ない事はしないでおくれ。もうこれ以上、恐ろしい事が起きて欲しくないのよ」

「お義母さん、大丈夫です。周りだけ工事したって、何の意味もないわ」

 それは孤児院に無茶はしないという根拠のない自信であり、マフィアの恐ろしさを知る老婆には通用しなかった。

「エレン、私はもう田舎に移ろうと思うの」

 工事の強行で気弱になった老婆の言葉に、エレンは困った顔をして激しく動揺した。

「そんな…」

「あのお金があれば、新しい土地も建物も買えるわ。そうでしょう? エレン」

 泣きつくような老婆の懇願にエレンは堪らず部屋を出て、ベッドと小さな机しか入らない窮屈な自室に籠もり、引出しの奥底から古い手紙を取り出して、そっと開いた。


エレン


いつか迎えに来る。


待っていてくれ。


父より


 孤児院を出て、全寮制のハイスクールに入り、卒業したら孤児院に戻り住み込みで働くと決めていた。養母は高齢なので助かると言ってくれた。

 父の手紙を素直に受け入れていいものか、子供の頃から悩み続けているが、エレンがここに固執しているのは父の手紙があるからであった。

 虚ろな眼でぼんやりと窓を眺めると、あのリムジンが眼に入った。ハッとして立ち上がり、手紙を引出しに仕舞ってから自室を飛び出していった。

 いつものように門扉の前で止まったリムジンに、いつものように駆け寄った。重厚なドアの音に続いて降りてきたボスは、孤児院の周囲で蠢く重機を見渡してから、エレンを見下ろした。

「機械なんか入れて、どういうつもり!? 私たちが、こんな脅しに屈すると思っているの!?」

 美しく揃った歯を覗かせて睨みつけるエレンを冷たく見つめると、近くで作業する重機のところへ向かい、作業員と言葉を交わして、何も言わずにリムジンに乗り込んで立ち去っていった。


 リムジンを先頭にした黒い車列が、町外れに建つ看板ひとつない雑居ビルを取り囲むように止まった。

 ボスが降り立つと、周りの車から一斉に男たちが降りて、ドアを破り窓を砕いて次々とビルへ飛び込んだ。間髪入れず断続的な破裂音が鳴り響き、残った窓硝子に赤い飛沫が貼り付くと、銃声は奥へ上へと進んでいった。

 機関銃を持った側近の男がボスにリボルバーを手渡すと、ふたりは開け放たれた玄関から入り、至るところに転がる男たちには目もくれず、弾痕だらけの階段を上がっていった。

 最上階の奥の部屋。

 数々の豪華な調度品と、無数の銃口に囲まれた男が革張りの椅子に腰掛けて、余裕の表情で両手を挙げていた。

「これはこれは、トップのお出ましとは恐れ入ります」

 男の口角が上がると、銃口の向こうからおびただしい罵声が放たれた。

「他人の土地を耕すとは親切な事をしてくれる。手間が省けた、恩に着る」

「私は、しがない薬屋でさぁ。畑仕事なんざやる気はございません」

「野郎!!」

 側近が怒りに任せて機銃を向けると、ボスは男の眉間を撃ち抜いた。

 いやらしい笑顔は一瞬で消し飛び、砕け散った頭の破片と、首から湧き出る鮮血で、部屋一面が真っ赤に染まった。

 ボスは若衆にリボルバーを手渡すと、ひとりで階段を降りていった。


 街灯が降りしきる雪を照らしていた。

 慎重に走るリムジンが孤児院の前に音を立てぬよう止まると、ボスが紙袋を抱えて降りてきた。

 12連奏は雪が吸い込んでしまい、音がない。

 孤児院の窓から光るものが覗いた。あれはきっと、星のオーナメントだ。

 窓に映る影で、子供たちが並び、端で大人がひとり立っている事がわかる。テーブルを囲んで歌を歌っているのだろう、と想像できた。

 門扉の前で白い吐息を宵闇に溶かし、ひとり立ち尽くしていた。

 紙袋をチラッと覗いて両手で抱えると、ホームレスがおぼつかない足取りで近付いてきた。


 ドン!


 ドン!


 ドン!


 紙袋は砕け散り、たくさんの菓子と玩具が辺り一面にばら撒かれた。

 弾丸に貫かれるのは焼けた鉄棒をねじ込まれるのに似ていると言うが、本当の事だったのか。

 膝の力が抜け、その場に崩れ落ち突っ伏した。

 リムジンの運転手が飛び出したがホームレスと相撃ちになり、ふたりとも吹っ飛ばされて動かなくなった。

 じわじわと流れる血潮を地面が飲み込んでいく様を見つめた。

 聞こえるのは賛美歌ではなく、重く低く油臭く吐き出された12連奏だけだった。

 朦朧とする意識、消えゆく灯火を振り絞り、散らばった菓子や玩具の中を這いずって、一通の手紙を掴み取った。


エレン


ずっと待たせて申し訳ない。


また約束を守れなくて、すまない。


やはり君に合わせる顔などない。


せめてものプレゼントを用意した。


好きなように生きて欲しい。


父より


 手紙を破れる限り破って、銃で撃ち抜いて粉々にした。

 摩天楼に囲まれた窮屈で真っ黒な空からは、眩しいくらい真っ白な雪がとめどなく降ってくる。

 しんしんと降り積もる雪に少しずつ覆われて、身体は外からも内からも冷え切っていく。

 眼が霞み、呼吸も浅くなると、どこからか歌が聞こえてきたような気がして、笑わずにはいられなくなった。


 摩天楼の隙間からわずかに差し込む陽光が孤児院を照らすと、子供たちが庭に駆け出して歓声を上げた。

 思い思いの遊びを始めたところで、エレンも庭に出て子供たちを、そして庭の周りを眺めて微笑んだ。

 孤児院の周りには、色とりどりの花が所狭しと咲き誇っていた。

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孤児院 山口 実徳 @minoriymgc

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