1 -水際-
旅券と、渡航許可書と、陰性手形。
しかし、それだけの書類を揃えるために
これ以外の方法で台湾に入ることはできない。世界を寸断した疫病禍は、観光と遊学の息の根を完全に止めた。国の発展に貢献すると認められた者だけが、表向き就労者という形を取って入国することができる。
そもそもが、「入国」という語からして一筋縄ではいかぬ話なのだ。
天賦が免状を持ち込んだのはそのうちの一つ、高楼の一角に間借りする小さな事務所だ。領務係に支払う手間料に加え、手続きが進むたびに交流協会へ往復する車代が痛い。が、そんなものは後に来る飛行機代と陰性手形代、そして隔離の宿代を思えば吹けば飛ぶ額だった。
渡航が許可されるまでに一月を要した。四月も半ばを過ぎた頃であった。
かつて「美麗の島」と呼ばれた島嶼国。しかし現代におけるその第二の顔は、政府の強権と人民の自治意識との共犯関係によって域内全ての人・物・金の流れを管理下に置く、高度監視国家である。
日本からの飛行機が、亜熱帯の摩天楼街へと降りてゆく。
◆
十人ほどの旅客が、行李を曳いて空中回廊を歩いてゆく。その、集団とも呼べぬ疎らな列の中に、ひときわ暑苦しい黒装束の天賦がいる。黒い鞄を肩に掛け、黒い背嚢を背負っている。猫のぬいぐるみはその背嚢の中だ。
飛行機を降りたばかりの客たちは揃って無言。彼らが耳から口元にかけて吊るしている薄布は、呼吸によっても放出される体液の飛沫を空気中に広げないためのものだ。どこの空港でもそうであるように、廊下は広さの割に閑散としてうそ寒い。この区画は入国審査すらまだ経ていない国境地帯なのであり、即ち国防の最前線なのだ。
しかし、それも無限に続きはしない。
客たちの行く手には紺の警備服を着た保安官たちが直立不動で待ち構えていて、
「あのー、皆さあーん、台湾の電話番号お持ちですかあー? お持ちの方先へ! お持ちでない方こっちー!」
見れば、そこから先の廊下は中央の張り綱で二分され、右の通路は直進、左の通路には二人の電信商が机を並べて異邦人らを待ち構えている。
彼らは「電波札」と呼ばれる小さな部品を売りつける係で、この札を各自の通信端末に差し込んだが最後、台湾国内の回線を使えるようになる代わりに位置情報を四六時中監視され続けるという代物だ。
「はいよ。いくらにする?」
椅子に座る男が抗菌幕越しに天賦に尋ね、有効期間と値段の書かれた紙を見せる。天賦は迷わず、
「百八十日の札をくれ」
「はいよ。旅券と端末出して」
澱みなく旅券と通信端末を抗菌幕の下から滑らせる。男は天賦の端末の側面にある溝に新品の電波札を差し込み、再起動して猛然と操作し始めた。日本語の表示を読めているのか、電波機能を呼び出して回線名を入力し、元から焼き込まれていた札と併用するよう設定を変える。
ものの五分で男は端末を突き返し、
「できた。電話番号はこれ。こことここ名前書いて。四千
天賦は羽田の両替商から買い付けた台塊の紙幣を渡す。一塊はおよそ四日円に相当し、百塊以上は中央銀行の発行する紙幣で取引される。またの名を「新台元」といい、かつて大陸の統治下にあった頃、本土の内戦による貨幣価値の下落の余波を食い止めるために四万台元を一塊に切り替えたことからそう呼ぶ者もいる。
机を離れ、廊下を歩き出す。と、別の保安官がすぐに天賦を呼び止めた。
「登録した?」
「何をだ。電話番号か? そこで買ったところだが」
「こっち来て」
保安官は廊下の壁際に三台並んだ電算機の一台に向かうと、天賦の旅券をもぎ取って旅券番号から登録情報を呼び出した。羽田を発つに先立って、天賦は台湾政府衛生部に旅券と滞在先の情報を登録している。これもまた、防疫態勢下の入国者への要請。そして確実に連絡のつく台湾の電話番号を入手したことにより、登録内容を書き換える必要があるのだった。
「はい。この紙ね、宿に着くまで失くさないで」
「分かった」
紙を受け取り、廊下を歩き出す。すぐさま別の保安官が、
「陰性手形」
「これだ」
「検疫通知書も」
「今の紙か?」
「防疫宿の予約票は持ってる? 九日まで予約してるわね?」
「この電信だ。前衛飯店、明日から数えて十四日、電子切手で支払い済み。これでいいか」
「通ってよし」
三重の検問を経て、廊下はついに右へ折れる。その先には両側に休業したままの土産物屋が並び、疎らに開けている店にも人影はない。物売りの区画を抜けて入国審査室へ。入国審査室は広い方形の部屋の片端に十余の審査官席が並ぶだけの殺風景な区画だが、今は一つの席だけが使われている。ここにもいる保安官の誘導に従い、天賦は書類と旅券を手に審査官席の前へ進む。
「帽子と眼鏡と防塵布を取って。写真を撮ります」
眼鏡をかけた男の入国審査官はぶっきらぼうに言い、天賦は素顔を晒した。
白皙の美貌。旅券には男とある。東洋人であるが、同じ東洋人が見れば大陸系ではなく日本人であることが分かる。背中まである黒髪を流れるに任せ、虹彩矯正や記憶野増設の手術歴を示す痕跡が一切なく、代わりに右の頬に小さな切開痕がある。近頃若者に増えた
入国審査官は眼鏡の奥に驚きを隠しながら、さらに質問する。
「台湾に来るのは初めてですか?」
「そうだ」
「指紋を取ります。そこの機械に両手の人差し指を置いて」
「これでいいか」
「右手をもう一回」
「感度が悪いな。電極式か?」
「体調に問題はありませんか?」
「あると言ったら?」
「以上です。お気をつけて」
天賦は山高帽をかぶり直し、入国審査室を後にする。
決して歓迎はされていない。この時代、台湾域外は全て疫病の蔓延する地域であり、そんな世界からやってくる有象無象と対面して話す保安要員は常に危険の只中にある。飛行機に乗る前の検査などは気休めにしかならない、病原は潜伏もすれば変異もする。
故に、これから天賦を待つのは十五日間の防疫隔離だ。
病の標準的な潜伏期間とされる二週間の期間を、完全に外界との接触を断って過ごす。検疫情報の登録も、位置情報を常時発信する電波札も、全てそのためのものだ。政府の認可を受けた防疫宿の一室に幽閉され、衛生局に毎日の体調を報告しながら、部屋の前に置かれる弁当で食い繋ぐのだ。違反すれば罰金付きのこの厳しさを、異邦人にも自国民にも平等に敷く政治力こそが、国内の感染者をほとんど皆無にまで抑え込んだ。そのように言われている。
飛行機の貨物室に預けていた荷を引き取り、天賦は大扉をくぐって空港の一般区画へと歩み出た。両替商を探す暇もなく、客を防疫宿へ運ぶ運転屋が駆け寄ってくる。今度は片言の
天賦がようやく後部座席に乗り込むと、運転屋は物も言わずに車を出し、天賦の書いた紙と電子地図を見比べながら、心なしか緑の濃い台北の街中に繰り出していく。
突然、天賦の懐の通信端末が震えた。
『やあ、もう飛行機を降りた頃かな? 宿で足りないものがあれば差し入れるよ』
――要るものか。
天賦は貴音に気のない返事を打って、猫のぬいぐるみに車窓の景色を見せながら、山高帽の下で思案に耽る。
長い戦いになろう。まずは十五日。その後は、理學院の用意した宿坊で七日。終わりの見えている蟄居は苦ではない。天賦の心にあるのはその先に横たわる、彼の来訪を待つ美麗なる新天地の町々のことだ。
待っていよ、と天賦は思う。
貴音から言い渡された、天賦が台湾の研究者として活動する年限は、最短の任期で三年である。
干渉縞演義―台湾研究職入境録― 天賦はかる @temp_hakaru
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