干渉縞演義―台湾研究職入境録―
天賦はかる
二〇二一年 春
0 -空の隘路-
魔術師は飛行機を恐れていた。
今でこそ、飛行機と言えばとうに
魔術師は、その空の時代を憶えている。
魔術師は、人には
臙脂色の
膝まである黒い外套を体に巻き付けている。
髪が長い。天賦が時に魔術師と呼ばれるのは、あるいはこの出で立ちのためでもある。音に聞こえし智将・
「お客様」
通路側から声がかかり、天賦はおもむろに山高帽の頭を起こす。極東航空の客室乗務員が座席の間に立っていて、恭しく一礼して口上を述べた。
「本日は御搭乗ありがとうございます。広いお席をご用意させていただきましたので、どうぞごゆっくりお寛ぎください」
天賦は頷いて客室を見回す。実際、三等で手配した天賦は知らぬ間に二等に繰り上げられていた。これは老舗の飛行屋にはよくあったことで、離陸当日に空席ができた場合などにはこうして客の座席を格上げし、安飛行屋にはない余裕を見せようとする。しかしこのご時世においては、古き良き大盤振る舞いも空元気とどっこいだ。八つ当たりのように巨大な間隔を空けて並べ直された客、全員が丸ごと二等と特二等に収まった。
「かの国では入境が厳しいと聞き及びます。ご苦労お察しいたします」
乗務員が神妙な顔で言う。天賦はようやく口を開いた。山高帽の下から覗く顔は半分以上が防塵布に覆われ、表情を読み取ることができない。
「防疫隔離のことか? 確かに、初動の三週間を失うのはいかにも惜しい。最大の観光先が、最大の鎖国になるとは皮肉よな」
乗務員は天賦から見えない位置で困り顔を作りながら、
「それでも、行く理由がおありなのですね」
「何、理由があるのはあちらの側さ。極低温も高温も扱える技能者などそうはおらん。私は向こうの招きをいいことに、かの国を見聞して回るだけ。入国してしまえば病原もないのだからな。それに――」
天賦の顔が、猫のぬいぐるみと一緒にぐるりと添乗員の方を向いた。細い目の角度が形作っているのは、紛れもなく不遜な笑みである。
「――虎穴に入らずんば……ではないか?」
その時、客室全体に声が流れ始めた。乗務員は一礼していそいそと去り、天賦は前方に向き直る。
――皆様、本日は極東航空九十七便に御搭乗いただき心より御礼申し上げます。当機は間もなく離陸いたします、安全帯をお締めください。なお、離陸後間もなく機内食をお持ちいたします――
そして、小窓からの景色が前方に滑り出す。緩やかな加速度がかかる。十人ほどしかいない乗客が一斉に安全帯を胴に回し、飛行装置と干渉する電波端末の電源を落とす。
「……行くか」
天賦は小窓の外の滑走路に目をやると、一転、沈鬱な顔で居住まいを正した。
飛行機が滑走路の中央で停止し、発動機の唸りが急激に高まる。離陸が始まる。爆発的な慣性力が全ての旅客を椅子にねじ込む。天賦の恐れる瞬間が来る。縞模様になる景色、哀れなほどに暴れる両翼、三基の車輪が殺しきれない激震。かつて四百人ぽっちの蛆虫に自由を錯覚させた、今はもうその大義さえなくした飛行機から、莫大な量の航空燃料が断末魔を上げながら大気に還っていく。天賦は瞑目、深い気息を機体外縁にまで
「――さても三鬼の姐様方、天神地神、
祝詞が切れると同時、
飛行機が、浮く。
床から突き上げる振動がふっつりと途絶え、機首から尾翼へ流れる重力に客席のあらゆるものが滑り落ちようとする。泥土の湾に突き出た人工島である羽田の滑走路を離れ、飛行機は揚力を得て高度を上げていく。大きく旋回して西面、天賦の傍らの小窓に寸時、傾いた銀の翼と湾岸一帯の工場群、そして都市と山塊の交じる弓状の大地が映る。
疫病禍の極東である。
この日、朝のうちに羽田より離陸した国際便は六便。対して、欠航は九十一便に上る。人の交わりが汚染と同義になり、世界の八割の国家が国境を閉ざしたこの時代において、国際飛行便とは即ち病の運び屋の別名となった。どの国へ渡航するにも陰性手形と山のような書類を要求され、感染者は石を投げられ打ち捨てられる非情の光景は、僅か一年余の間に日常を塗り替えた。五十五万と八千――これは
人の停滞で心なしか清浄になった空を、天賦を乗せた飛行機は往く。
飛ぶとは人の分を超えた行いだと、天賦は『機構』の昔から思っている。これほどの燃料を
天賦は猫のぬいぐるみを肘掛けに立て直し、座席下の鞄を漁る。
大きく前屈みになり、装束と同じ真っ黒な鞄に手を突っ込む。目当ての書類はすぐに見つかった。深爪の指が引っ張り出した一枚の洋紙には、古式の字体で次のような文言が印字されている。
「正本 勞働部函 國立中道理學院受文 従事専門性及技術性工作之許可 該受聘傭外國人」。
西暦二〇二一年、
この南洋の小国家がその後の世界に
西暦二〇二一年の春、台湾島は既に、世界の中心であった。
しかし、この時代にそれを知る者は、智将・
魔術師・天賦くらいのものだった。
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