干渉縞演義―台湾研究職入境録―

天賦はかる

二〇二一年 春

0 -空の隘路-

 魔術師は飛行機を恐れていた。


 今でこそ、飛行機と言えばとうにかたの足ではない。しかし、かつて極東が空の旅に沸いた時代を憶えている者が死に絶えるほどの年月ではないはずだ。電子革命期の混乱に乗じて安飛行屋が乱立し、大陸間を半昼夜で結ぶ「雲上の魚雷」は庶民の手の届く乗り物となった。前世紀からの老舗飛行屋はと言えば、富裕層に広がる国外脱出の機運を敏感に察して長距離航路に注力することで生き残りを図った。かくて空路の時代は到来し、最盛期には極東のそこかしこに空港が建設され、日毎に千本の旅客便が行き来した。全ては過ぎし昔の光景だ。


 魔術師は、その空の時代を憶えている。


 魔術師は、人にはテンと名乗ることが多い。これは、魔術師が『機構』で修めた技能によって師より授けられた名であり、同時に魔術師自身の信仰の表明でもある。天よりわかたれた幸運の加護があるとでも思わなければ、二月とおかずに太平洋横断航路で魯高ロトコの氷嶺に通い詰めた『機構』の年月を生き残ることなど到底できなかっただろう。当然、五年の修練を終えて今回の稼ぎの口を得ることも。

 臙脂色のもたれに山高帽をあずけている。

 膝まである黒い外套を体に巻き付けている。

 髪が長い。天賦が時に魔術師と呼ばれるのは、あるいはこの出で立ちのためでもある。音に聞こえし智将・酉唐トリスタンの髪型を真似る者はこの先の任地には多いが、天賦の風貌は来歴を辿ればむしろ西海の異教の祭司に近い。春の半ばにもその沈鬱さは変わることがなく、今も二等席で目を閉じたまま微動だにしない。膝の上には茶虎の猫のぬいぐるみ、直立した猫が見上げる先は、無人の前方座席の背凭れに埋め込まれた航路図の表示だ。

 ハネタイペイ直行国際便。


「お客様」

 通路側から声がかかり、天賦はおもむろに山高帽の頭を起こす。極東航空の客室乗務員が座席の間に立っていて、恭しく一礼して口上を述べた。

「本日は御搭乗ありがとうございます。広いお席をご用意させていただきましたので、どうぞごゆっくりお寛ぎください」


 天賦は頷いて客室を見回す。実際、三等で手配した天賦は知らぬ間に二等に繰り上げられていた。これは老舗の飛行屋にはよくあったことで、離陸当日に空席ができた場合などにはこうして客の座席を格上げし、安飛行屋にはない余裕を見せようとする。しかしこのご時世においては、古き良き大盤振る舞いも空元気とどっこいだ。八つ当たりのように巨大な間隔を空けて並べ直された客、全員が丸ごと二等と特二等に収まった。


「かの国では入境が厳しいと聞き及びます。ご苦労お察しいたします」

 乗務員が神妙な顔で言う。天賦はようやく口を開いた。山高帽の下から覗く顔は半分以上が防塵布に覆われ、表情を読み取ることができない。

「防疫隔離のことか? 確かに、初動の三週間を失うのはいかにも惜しい。最大の観光先が、最大の鎖国になるとは皮肉よな」

 乗務員は天賦から見えない位置で困り顔を作りながら、

「それでも、行く理由がおありなのですね」

「何、理由があるのはあちらの側さ。極低温も高温も扱える技能者などそうはおらん。私は向こうの招きをいいことに、かの国を見聞して回るだけ。入国してしまえば病原もないのだからな。それに――」

 天賦の顔が、猫のぬいぐるみと一緒にぐるりと添乗員の方を向いた。細い目の角度が形作っているのは、紛れもなく不遜な笑みである。

「――虎穴に入らずんば……ではないか?」

 その時、客室全体に声が流れ始めた。乗務員は一礼していそいそと去り、天賦は前方に向き直る。


 ――皆様、本日は極東航空九十七便に御搭乗いただき心より御礼申し上げます。当機は間もなく離陸いたします、安全帯をお締めください。なお、離陸後間もなく機内食をお持ちいたします――


 そして、小窓からの景色が前方に滑り出す。緩やかな加速度がかかる。十人ほどしかいない乗客が一斉に安全帯を胴に回し、飛行装置と干渉する電波端末の電源を落とす。

「……行くか」

 天賦は小窓の外の滑走路に目をやると、一転、沈鬱な顔で居住まいを正した。てっしゅの印契を組んで拳は膝、両足は絨毯の床を踏みしめて天地の気を吸い上げ、肌は飛行機の輪郭を緩く捉える。

 飛行機が滑走路の中央で停止し、発動機の唸りが急激に高まる。離陸が始まる。爆発的な慣性力が全ての旅客を椅子にねじ込む。天賦の恐れる瞬間が来る。縞模様になる景色、哀れなほどに暴れる両翼、三基の車輪が殺しきれない激震。かつて四百人ぽっちの蛆虫に自由を錯覚させた、今はもうその大義さえなくした飛行機から、莫大な量の航空燃料が断末魔を上げながら大気に還っていく。天賦は瞑目、深い気息を機体外縁にまでめぐらせて奏上、

「――さても三鬼の姐様方、天神地神、た空を汚す我等を今一度許し給え、我と我に連なる者等をき送り届け給え。有れや天帝の加護、――“擁乱ウーラノス”――」


 祝詞が切れると同時、

 飛行機が、浮く。


 床から突き上げる振動がふっつりと途絶え、機首から尾翼へ流れる重力に客席のあらゆるものが滑り落ちようとする。泥土の湾に突き出た人工島である羽田の滑走路を離れ、飛行機は揚力を得て高度を上げていく。大きく旋回して西面、天賦の傍らの小窓に寸時、傾いた銀の翼と湾岸一帯の工場群、そして都市と山塊の交じる弓状の大地が映る。


 疫病禍の極東である。


 この日、朝のうちに羽田より離陸した国際便は六便。対して、欠航は九十一便に上る。人の交わりが汚染と同義になり、世界の八割の国家が国境を閉ざしたこの時代において、国際飛行便とは即ち病の運び屋の別名となった。どの国へ渡航するにも陰性手形と山のような書類を要求され、感染者は石を投げられ打ち捨てられる非情の光景は、僅か一年余の間に日常を塗り替えた。五十五万と八千――これは日本ニッポン国政府がようよう事態を把握した日から数えて今日までに病原に感染した者の、日本一国における人数の推計である。

 人の停滞で心なしか清浄になった空を、天賦を乗せた飛行機は往く。

 飛ぶとは人の分を超えた行いだと、天賦は『機構』の昔から思っている。これほどの燃料をいちどきに費やさねば空を飛べないのであれば、いっそ飛ばぬがよい。いずれ報いが下るだろう。それでもなお行くのだと胸を張るには、果たしていかほどの大義があればよいのか。

 天賦は猫のぬいぐるみを肘掛けに立て直し、座席下の鞄を漁る。

 大きく前屈みになり、装束と同じ真っ黒な鞄に手を突っ込む。目当ての書類はすぐに見つかった。深爪の指が引っ張り出した一枚の洋紙には、古式の字体で次のような文言が印字されている。

「正本 勞働部函 國立中道理學院受文 従事専門性及技術性工作之許可 該受聘傭外國人」。



 西暦二〇二一年、タイワン

 この南洋の小国家がその後の世界にもたらした、珍奇というにはあまりに重い運命は、あるいはこの西暦末期に端を発していたのではないかと考える物好きもいる。しかしこの時代の人類にとっては、それは半導体工業と領土危機の国、実験的な社会制度を加速させ続ける国、他国に先駆けて域内の疫病をほぼ完全に制圧し得た国でしかない。日本より千里の洋上、国土面積は十分の一にも満たない人工島に、世界の誰も作り得なかった時空震探照儀がなぜあったのか、今でも全ての経緯は明らかになっていない。

 西暦二〇二一年の春、台湾島は既に、世界の中心であった。

 しかし、この時代にそれを知る者は、智将・酉唐トリスタンを除けば――――


 魔術師・天賦くらいのものだった。

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