死に場所を探している

葎屋敷

誰のかなんて、聞かないで


 男がその女に恋をしたのは近所の公園だった。


 就職をしてから多忙を極めていた彼にとって、久しぶりの休みの日。穏やかな日の光を浴びながら、彼は家の近所を散歩していた。その途中で目にした公園は少々寂れていて、子どもなど一人も遊んでいなかった。


 しかしそれは人が一切いないということではない。誰もいないかと思われたその公園には、女一人だけいた。


 女はブランコに腰掛けていた。彼女の身体が少し揺れる度に、錆びたブランコが軋み、甲高い音を響かせる。ぼんやりとした表情でその音に耳を傾ける女の姿には、儚さがあった。



 一目惚れだった。男はその瞬間、女に恋をしたのである。



 男はぐらぐらと沸騰した水のように湧き上がる熱に身を任せ、女の下へと駆け寄った。


「あの、一目惚れです! 付き合ってください」


 そしてなんとも唐突な告白をした。


「…………」


 女は心底驚いたとばかりに目を大きく見開いた。女が驚いたその気持ちは察するにあまりある。男が女の顔を見れば、その目に映るのは色の失せた顔だ。客観的に見た己がどれだけ不審かを知り、男は焦った。


「あの、俺、不審者とかじゃないんです。本当に、あなたのことが好きになって……!」


 男は女が抱いているであろう不安を想像し、必死に弁明した。

 狼狽える男を見て、女はしばらく黙る。なにか考えている様子だった。


「あの……」


 男が沈黙に耐え切れずに声をかける。すると女はようやくその重たい口を開いた。


「……付き合ってもいいですよ」

「え、本当に!?」


 男は予期していなかった女の返答に、目を点にして驚いていた。

 男が口をパクパクと開閉させていると、女が続いて希望を口にする。


「はい。でも、お願いがひとつ」

「な、なんですか!? なんでも言ってください」


 ひとさし指を立てる女に男は食い気味に尋ねた。


「実は私、

「……え?」

「正確に言うと、自殺に向いている場所です。私と付き合うっていうことは、一緒に死に場所を探すということですよ。それでもいいですか?」


 男は女の言葉に呆気に取られながらも、思考を巡らせた。


 ――おそらくこれは女の断り文句だ。こちらが自ら身を引くように、自殺を希望しているかのように装っているのだ。



 男は女の手を掴む。女は手を引っ込めようとしたが、力でそれを防いだ。



「なら、俺も一緒に探すよ。死に場所」

「え……。正気ですか?」

「ああ。さっそくひとつ、候補を案内するよ。ついて来て」


 男はそう言うと、そのまま女の手を引いて公園を出る。女は強い抵抗は見せなかった。



 *



 男が女を連れてきた場所はバスで十分ほどの場所にある海だった。


「きれい……」


 青く、そして広く延びた海を見つめ、女は呟く。男はそれを聞いてニッと笑った。


「自殺スポットその一、海! 死体は見つからなければ、そのうち魚が食べてくれるし、誰かに迷惑かけにくいと思うんだ。それになにより、どうせ死ぬなら、こういう景色がいいところでないと」


 男は先程の女の台詞に合わせ、自殺場所としての海の利点を語る。女は男の話を聞きながら、辺りを見渡した。


「でもここ、結構人が多いですね。自殺には人気のないところを選ばないと」


 男は照れ臭そうに笑い、岸の端を指差した。


「本当だ。人気についてはなにも考えてなかったなぁ。失敗だ。仕方ないから自殺はまた今度だね。今日は浜辺でお散歩にしない? 岸の向こうまででいいからさ!」


 そう言ってずんずんと指差した方へと進む男の背中を見て、女は困ったように笑った。


「……随分とナンパがうまいのね。あなた」

「あはは。褒めてくれてありがとう」



 その日、男と女は散歩に興じた。歩きながら男がくだらない話をすると、女は少し困ったように笑う。その笑顔にまた心惹かれながら、男は女と連絡先を交換した。



 *



 それからというもの。男と女は度々死に場所を求めて一緒に出掛けた。


 人の出入りが少ない樹海に行こうと、山登りをしたり。

 飛び降り自殺の名所だという滝を見に行き、その豪勢さに目を見開いたり。

 穴場の首つり場所だという大木に生命の力強さを感じたり。



 多くの場所へ、二人は行った。その度に女は言うのだ。


 「きれい」と。


 男は世界の広さと美しさに目を輝かせる女を見て、隣で笑っていた。



 *



「さあ。今日は飛び降り自殺の名所、第五弾! 崖から見える海が絶景!」



 その日二人がやってきたのは、男の言う通り、飛び降り自殺の名所だ。二人が立っている崖は高い。踏み外せば、下にある海に飲みこまれることは必至だろう。


 自殺者が多いことを憂いてか、二人がここへ辿り着く道中には立ち入り禁止の柵が設けられていた。しかしその柵は低い上に錆びていて、穴も多い。柵としての役割を果たしているとは言い難かった。実際、二人は柵の大きな穴を潜り、簡単にこの場所へと辿り着いている。



 女は崖にぶつかる波の音を聞きながら、身体をくるくると回転させる。そして周りの様子を確認した。

 男は死に場所に案内すると言いながらも、よく女を人気のある場所に連れ出す。女は今日も同様かと考えていた。しかし今は周りに人も見えない。



「いつも、観光スポットにばかり連れていくのに、今日は人がいないのね」

「ひどいなぁ。一応、本当に自殺の名所にも連れて行ってるんだよ。一生懸命パソコンで『自殺方法』とか、『自殺場所』とか検索してるし……」

「じゃあ、ここは本当に自殺の名所なの?」

「そうだよ。ここの崖の形が特殊で、一度落ちると水流に巻き込まれて、絶対に助からないって有名らしいんだ。ほら、あそこの形!」


 そう言って男は崖の淵へと近づき、下の方を指さす。


「危ないわよ。落ちちゃうわ」

「平気だよ。俺、結構運動神経いいんだ。こんなところから落ちないよ。それにこれから、身を投げるような気持ちで挑まないといけないことがあるから」


 男は緊張した面持ちで深呼吸を繰り返す。彼の纏う雰囲気は甘く、女はじっと彼の言葉を待っている。


 互いの無言の時が流れ、ようやく男は口を開いた。


「結婚してください。やっぱり俺、君が好きなんだ。君のためなら、どこにだって行くよ。だから――」


 女が男の言葉を遮るように、己の唇に人差し指を運ぶ。女のその仕草を見て、男は息を呑んだ。



「ありがとう。そうよね。出会った日から経ったもの。そろそろかなって、私も思ってたの」


 女は目を伏せる。黙って返事を待つ男に向け、女は笑いかける。



「ねえ。目を閉じて?」

「……目を?」

「ええ。ね? お願い」


 女がこてん、と首を傾げて願えば、男は顔をわずかに染めながら目を閉じる。黒が包む視界の外で、女がこちらに近づく足音と、波の音だけが聞こえた。


 女の足音が近づくに合わせ、男の心臓がどくどくと鳴る。男が顔に集まる熱を感じていると、女の声が聞こえた。


「ありがとう。私のためにたくさん、たくさんしてくれて」

「お、おれのためでもあるから」

「これまで、どうして死に場所なんて探していたか、教えてなかったよね」


 そう。男は女が自殺場所を探している理由を知りはしない。男は女の表情が気になって、目を開けようとする。


「だめ。このまま、目を閉じながら聞いて」

「あ、ごめん」

「……うん、そう。そのまま目を瞑ったままでいてね?」


 女は男が再び目を閉じたことを確認すると、彼女は自分の過去を語り始めた。


「あのね。私、小学生の頃、いじめられていたの。いじめていたのは男の子だったわ。とっても意地悪な子で、今のその子にいじめられた時の傷を引きずってる。つまらない女だと思う?」

「……そんなこと思わないよ。つらい思いをしたんだね。俺は、君をそんな目に遭わせた奴が許せそうにない」


 唇を噛む男の姿を見ながら、女は笑う。


「そう? そりゃ私はもちろん、あの時私をいじめた奴が許せない。だけど、あなたが許せないのは嘘だよ」

「嘘なんかじゃ――」


 女の否定に、男は思わず彼女との約束を破り、目を開けた。男は女に必死に自分の想いを伝えようとする。



 しかし、それは叶わない。



 なぜなら、男は女にその身体を押され、空に身を投げ出されたからである。



「え」



 男は咄嗟に崖の端を掴む。宙にぶらぶらりと身体が揺れ、足が空気を蹴る。

 藻掻くことすら許されぬ状況で、男はようやく自分が殺されかけているのだと悟った。



「な、なんで――」



 男は己を殺そうとしている女に疑問をなげる。なぜ彼女は自分を殺そうとしているのか、皆目見当がつかなかったのだ。



 女はじっと男を見下ろしている。その目は町中のゴミを見る目のように、淡々としている。しかしその目に映る淡い感情には、隠しきれない嫌悪が混ざっていた。



「言ったでしょう? 『死に場所を探している』って。ええ、探していたの。の死に場所を」

「え、な、なん、なんで、そんな」

「だって、私ずっとあなたのこと憎んでいるから。あなたに出遭ってから随分と時間が経ったわ。そりゃそうよね。小学生の頃からだもの」

「え――」

「本当に残酷な人。自分がいじめた奴の顔も名前も覚えていないなんて。私がどれだけ心臓を凍らせながら、突然現れたあなたを知らないふりしたか、知りもしないで」



 女はそう言い捨てると、命懸けで崖の端を掴む男の手を踏んだ。


「やめ、やめてくれ! お、俺はいじめなんて――っ」

「ああ、いじめていた自覚すらないの。そう、別にいいけど。あなたがその調子だからこそ、私はあなたの死を自殺に見せかけられる」



 男の言葉は女の心に届かず。女はじりじりと力をなくしていく男の手を見ていた。



「私のためにたくさん調べてくれたのでしょう? 死ぬための場所を。あなたが死んだあと、あなたのパソコンを調べた警察はなんて思うのでしょうね。私が一度も訪れたことのない、あなたの家にあるパソコンの残った検索履歴を」

「へっ、いや、いやだ」

「まあ、あなたの自殺がバレなきゃ、警察の捜査も入らないけど。バレても、『振った男が目の前で死んで、自分のせいと揶揄されるのが怖くて黙っていた。』って言い訳するもの。海でボロボロになったあなたを見て、私が落としたと気がつく人がいるかしら?」

「ふざけ、ふざけるなぁぁああああああああああ」



 男の絶叫に、女はその手から足をどかせる。そして数歩後ろへ下がった。



「さようなら。あなたの響くその大声が、大嫌いだった」



 男の手に限界が訪れ、その身体が水面に向かい落ちていく。その身体が水と空気の境界を破った音は波にさらわれ、女の耳には届かなかった。



 *



「おい。地味女!」


 びしゃりと、少女の体に水がかけられる。己の伸びた前髪に水が滴るのを見て、少女は唇を噛んだ。


「お前の父ちゃんと母ちゃん。殺されたんだってな」

「…………」

「お前が犯人なんじゃねぇの!?」



 少年は心底悪いと言わんばかりに、眉をひそめた。少女はずっと黙っていて、少年の言葉にもなにも反応しない。

 二人の睨み合いが続く中、彼らのいる廊下の角から、教師が現れた。


「こら! なにしてるんだ!」

「げ! 先生! 違う、俺は殺人犯に尋問してたんだ!」

「なにが尋問だ! お前、なんて心ないことを――」


 少年は教師の横をすり抜けていく。教師は逃がした少年を捕まえることよりも、少女の心のケアを優先した。


「大丈夫か? あいつにはよく言っておくから――」

「先生。私、あいつの大きな声が嫌い」

「……気持ちはよくわかるよ。ご両親が亡くなって間もないのに、あんなこと言われたら、そりゃ気持ちがへこむ」

「……先生。私、今日は早退したいです」

「ああ。そうしなさい」



 教師に早退の旨を伝え、少女はランドセルを背負って帰路につく。



 少女は少年が嫌いだった。少年の、あの大きな声が嫌いだった。




 少女の両親が死んだと、噂で聞いただけのくせに。嫌に鋭い勘だけで少女が犯人だと叫ぶ。




 を声高に叫ぶ、あの少年が嫌いだ。




 *



 かつて男と再会したブランコに、ひらりと風にのってきた桜の花びらが乗る。女は一人呟いた。



「きれいね」



 女はこっそりと笑みを浮かべ、踵を返す。



 彼女がその公園に足を運ぶことは二度となかった。

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死に場所を探している 葎屋敷 @Muguraya

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