第10話 理想の男

 思わず手が出そうになる。あの時のような。気がつけば拳を握っていた。爪が食い込む。耐えるのに必死で。自分はきっと、過度に期待をしていただけなんだ。だからこんなにも過敏に彼の言葉に反応してしまう。これが普通なんだ。そう言い聞かせても。


 ”お前がやってることは、痴漢と同じだよ”

 "そうだ。知ったような顔で同情したり共感したりする癖に、当事者のことは何も考えない"

 ”それは当たり前に画面の中の出来事だと思い込んでるんだ”

 "そんな奴がヒーローだなんて、笑わせるよ"


 次々と湧き出す、渦巻くような憤り。やりきれ無い苦い思い。こんな一度きりのやりとりで、彼を決めつけたくはない。水樹を、一瞬でも友達と思った。このボーダーラインの内側に入れてもいいかと吟味した自分を恨みたくはなかった。そんな自分が、愚かしいとさえ思えない程の言葉だった。


 "普通じゃないなんて言葉は、差別だ”


 そう言いたい。言って、目を覚ましてやりたいのに。


 それでも怒りに身を焼かれなかったのは、あの時のメロンパンの味を思い出したこと。それに、水樹自身が悪意でそれを発していなかったことがわかったからだ。


 もう少しだけ、信じていたかったから。


「それは、少し違うんじゃないか」


 怒りで声が震えないように注意しながら。初めて意見すると彼は不思議な表情で。


「何が違うの?」


「いや、相手の立場になるってなら、その逆もあり得るわけだし。リスクも承知で、思いを伝えることを優先しただけじゃないのか」


「いや、でもそれって結果自己満足でしょ」


 何本にも縒られたロープが、一本ずつ千切れていく感覚。必死に、水樹という人格を肯定したくて、それを繋ぎ止めるのに必死なのに。彼自身から放たれる言葉が、自分の心に亀裂を増やして、やがて残ったのは最後の一本だ。


 動悸も収まってきた。自分にとって最も重要な価値観が、彼の価値観とは決して埋まらない溝があることを確信し始めていたから。


「自己満足って、告白なんてみんなそうだろ。男も女も」


「普通の男女なら、まあ普通のことだけど。今回は男が男に、だからね。常識的に考えたらさ、それが噂になって、面白おかしくからかわれること、考えたら分かるもんでしょ? そこまで考えが至らない、ってことに残念さっていうか、ゲイの人特有のものがあるなぁ、って感じたんだよね」


 ”もう、いいよ”

 

 そう思っても、彼は止まらない。


「例えば、本当に俺が告白されたとして、場所が体育館裏だとしたら、それはまずデリカシーがないな、って思うよ。だってゲイなんだから。普通とは違うんだからさ。ゲイでごめんって、そこから考えて、せめてこっそりとか、そういう気の遣い方するかなぁ」


 純粋に、ショックだった。もはや怒りは消え失せて、彼の言葉を虚しく聴き続けるだけだった。それでも彼の言葉の端々から聞こえてくる普通、に対して、自分の琴線が揺れるのが分かった。


「まあ、みんな面白おかしく何も考えないで盛り上がってるんだろうけどさ。こうやって本人たちの目線で話すのも大事だと思うんだよ。じゃないと告白された方が可哀想じゃん?」


 ”もう、いいんだって”


「そもそもあぁいう、今でいうLBGT? の人って、やっぱり被害者意識強いって思うんだよね。いや、俺が話してきての経験だよ。それだからっていける、とか思った時のワンクッションがないっていうか、まあやっぱり自己中心的、悲劇のヒロインみたいになっちゃうんだと思うんだよね」


 そうして、最後の一本が切れた音がした。


 信じる。それはもう、過去のことで。握った拳を、静かに緩めていく。


「……まあ、もういいよ」


 彼の崇高な考えを中断させた。話しすぎたと思ったのか、水樹は表情を改めて。


「真琴もそう思うでしょ」


「……いや、まあ」


「特に、ゲイとかBL無理、みたいな人なら。真琴もそういう派じゃん? 俺に近寄られて相当嫌がってたし」


 そう言って屈託もなく笑う。その無自覚さが、今では忌々しい半分、虚しい半分だった。


 別に、今更水樹一人に嫌われようが関係ない。見捨てる。お前はもうどうでもいいと言い放つこともできる。そう思ってはいたのだけれど、結局自分も弱い人間だった。


 ただ、それだけが理由ではなくて、このまま水樹を放り出したくないというのは、全てのロープが千切れてしまっても、出来ることなら。コイツには、理解して欲しかったからだ。その思いで、今は取り繕うことにした。火は消えたものの、燻っている怒りや落胆を隠していた。


「確かに……純粋な男子なら、困るかもな」


 そう言うと表情を明るくして、そうでしょ!と同調して、より激しさを増す。なんで焚きつけるようなことをしたんだとすぐに後悔したが、もう遅かった。


「そうだよね! というか純粋な男子、それだよ真琴。俺たちは純粋な男子で、女子が好き。真琴の好みはまだ聞いてないけど、例えばアイドルグループとかさ。かといって俺は男性グループも好きだ。でももちろん、それはカッコいいから憧れる、みたいな話で」


 水樹の言いたいことは分かる。それでも言葉の端々から感じる自分との違い。


 ”普通”


「いわゆる性欲っていうのかな、そういうのももちろんないしね。あー、性欲ってのはちょっと生々しいか。恋愛対象っていうの?」


「あぁ」


「でもまあ、今時の女の子はそういうのも好きだからなぁ。一応俺としては表面だけでも知っておこうって思うんだけど、ガチの話を聞いちゃうとやっぱり無理だなぁ、って」


「まあ、それが普通、だろ。それでいいじゃんか」


「うん、って。あれ、真琴何か怒ってない?」


 そんな顔をしてしまったかもしれない。だがもう限界寸前だ。触れようとしてくる水樹から急いで離れる。


 ゲイであろうとなかろうと、普通であろうと。俺は俺なりに、今のお前に近づきたくない。これ以上、掻き回されたくない。


「怒ってない。もう時間だから戻るだけだよ」


「あ、ねぇ真琴!」


 最早鬱陶しさを隠さず、ぶっきらぼうに返事をして。


「何」


「次の昼には、好きな女子のタイプ教えてよ。メロンパン用意しておくから」


 そう言って水樹は得意げな顔をして去っていく。その笑顔が今はレモンを口に含んだ時のようで、自分の口の中には不快感が滲んでいった。


 ”何が当事者だ”

 ”何が普通だ”

 "何が経験だ”


 脳内を膨大な罵声が飛び交う。それでも治らない心の靄々。最後まで殴らなかった自分を褒めてやりたい。


 水樹は典型的な、性別を自分中心に考えるタイプの人間だ。それでいて、面白半分で言葉を使うわけではない。

 自分の思い、信念に沿ってるから、まだマシだ……と思っていた。実際に話してみれば、これほどまで違うなんて思わなかった。


 ”性に無関心”


 そんな人間、もとい性に対して間違った解釈を持って、盲目的に自分だけを信じている。それは滑稽どころか、恐ろしいものに思えた。話をすれば、分かってくれるだろうか。いや、それは難しいだろう。


「負け、ね」


 自分のいつか、そう言われてしまうのか。もう、お前のことを考えて、お前の立場で想像しても、全く何も分からない。


「……メロンパンなんか、もういらないよ」


 呟いた言葉は、酷く耳障りだった。


 チャイムが鳴り響いても、あの教室に戻ると思うと憂鬱で。結局その日は適当に辺りを彷徨くことにした。



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