ゴーン・マイ・フレンド

江川太洋

ゴーン・マイ・フレンド

 さとるが物心付いた頃、既に父はいなかった。悪い病気で亡くなったと母が教えてくれた。そのせいで母は絶えず働きに出て、家に殆どいなかった。

 悟は家が嫌いだった。家は何処までも無音で空虚だった。一人でいると静か過ぎて、奥底からキーンと冷たい耳鳴りが聴こえてくるほどだった。悟は幼稚園から帰りたがらなかった。仕事を途中で抜けて迎えに来る母は、いつも時間に追われて切迫した顔で幼稚園に現われた。本当は帰りたくないと喚いて暴れたかったが、幼心に母の余裕のなさを感じて、悟は溜まった感情を爆発させることもできなかった。

 五月のある日、悟を送り届けた母が再び慌ただしく家を出て、窓から晴れ渡った空を眺めているうちに耐え切れなくなった悟は、何の当てもなく家を出た。団地の駐車場に隣接した小さな遊戯場に何気なく足を踏み入れて、そこの石のベンチに女の子が一人で座っているのを見て驚いた。生垣で囲われたこの遊戯場に人がいることは滅多になかったからだ。

 悟と同年代に見えるその女の子は、入ってきた悟を上目遣いに見上げてきた。おかっぱ頭の似合う女の子で、整った可愛い顔立ちをしていたが、同時に寂しそうだった。悟を見上げてくる目元が特に寂しそうで、自分にそっくりだと悟は思った。女の子は悟におずおずと微笑んできたが、前歯が抜けて覗いた黒い隙間が間抜けに見えた。悟は笑みを返さなかった代わりに、女の子に尋ねてみた。

「ここに住んでるの?」

 近隣の棟に住んでいる子供の顔はたいてい知っていたが、この女の子を見るのは初めてだった。女の子は頷いた。

「何してるの?」

 悟が質問を重ねると、女の子が首を振った。

「何も」

「暇?」

「うん」

 苦笑いを浮かべて頷いた女の子から、悟は自分にしっくりと馴染むような感触を受けた。毎晩着るパジャマのようだった。女の子が寂しそうで、孤独な自分をわらわなそうなのも安心感があった。恥ずかしかったが、悟は思い切って女の子に尋ねてみた。

「ねえ、そっち座っていい?」

 女の子は特に表情は変えなかったが、悟を見るその瞳に喜びの色が走るのを悟ははっきりと見た。女の子は再び頷いた。悟は少し距離を開けて女の子の隣に座り、何となくお互いに目が合うと照れ笑いを浮かべ合った。

「ねえ、名前何ていうの?」

 悟の質問に、女の子が答えた。

美鈴みすず

 話をしてすっかり打ち解けた二人は、その日は日が沈んで暗くなるまで夢中で話に興じた。翌日に幼稚園から帰ってきた悟が遊戯場に行くと、昨日と同じくベンチに座っていた美鈴が悟を見上げて、にかっと笑った。

 悟は美鈴から常に無条件に受け容れられていることを感じた。幼稚園の園児とはしょっちゅう言い合いになるのに、美鈴と何かで言い合いになったことは一度もなかった。ふと美鈴が見せる幼い仕草に胸を衝かれ、美鈴が生き別れた妹のように感じられることもあった。

 美鈴は悟の心の揺れに著しいシンクロを示した。ある夕暮れ、遊戯場のベンチに美鈴と並んで座る悟が駐車場に目を注いでいると、ふいに隣りで美鈴が吐き捨てた。

「美鈴、あの男の人、嫌い」

 悟は驚いて美鈴を振り返った。悟の目を覗き込んできた美鈴の瞳には、悟のよく知る翳りがあった。それは自分と同じ暗さをたたえた孤独と鬱屈うっくつの色だった。

 悟は駐車場を斜めに突っ切る頭の禿げた中年男を目で追いながら、死ねばいいのにとちょうど考えていたところだった。

「何で?」

 悟が尋ねると、恭子は怒りで鋭くなった瞳を悟に向けた。

「サトちんが嫌ってるから」

「そうなの? みっちゃん関係ないじゃん」

「あるよ」

「どして?」

「だって、サトちん友達だもん」

 そこまで直截的に言われることに慣れていなかった悟は言われた側なのに顔を赤らめ、俯いてぼそぼそと答えた。

「そっか。あの、ありがと」

 二人は男が悟の家のあるC棟に姿を消すのを目で追った。母が日中ではなく、夜に仕事で家を空けるようになって、その男は家に出入りを始めるようになった。男が来る日になると母は京劇役者みたいな厚化粧を施し、悟に小銭を渡して家からやんわりと追い出すのだった。

 二人の仲がほころび始めたのは、美鈴が自分のこととなると貝になることがきっかけだった。家を尋ねてもこの団地と返すばかりで具体的に教えてくれず、同じ学区のはずなのに学校で一度も見た覚えがないのもあまりに不自然だった。さすがに小学生に進学すると、他の同級生と比べて美鈴が異質で浮いていることに悟も気付き始めるようになった。

 悟は美鈴と仲良くしていると、クラスで異端視されかねないという怯えを抱き始めた。人見知りを押して自ら働きかけた結果、俊彰としあきみつると交友を始め、クラス内に自分の陣地を築き始めた頃だった。常に悟に肯定し続けてきた美鈴と違い、時に怒りを買うことも含めて同級生たちの反応のことごとくが斬新で、絶えず認識を刷新される他者の刺激に悟は良くも悪くも翻弄された。

 日々渦中で揉まれた悟が改めて美鈴を見ると、悟の心中を敏感に察したように卑屈さを窺わせる美鈴が物足りなく、遊び飽きた玩具のように感じられてきた。すると美鈴はますます悟の顔色を窺い、眼差しには媚びと怯えの気配が滲み始めた。

 悟の足は次第に遊戯場から遠のいた。ある初夏の放課後、俊彰を自宅に招いた悟が駐車場を横切りながらふと遊戯場に目をやると、生垣の切れ目の入口に佇む美鈴と目が合った。

 美鈴は寂しげに唇をすぼめ、自分の役目が終わったのを察したかのようだった。その侘しそうな姿に打たれた悟の頭に、当時の記憶がどっと押し寄せてきた。悟は不覚にも目頭が熱くなり、俊彰に勘付かれるのが恥ずかしくて俯いた。

 それが、悟が美鈴を見た最後だった。翌日の帰宅前に遊戯場を覗いたが、無人の長椅子があるばかりだった。悟はそれを見下ろしながら、かつて自分が過ごした一つの時間が終わりを告げたことを感じた。


 悟にとってその時間は終わっても、美鈴にとってはそれこそが自らの時間だった。

 生垣で四角く囲われた遊戯場を離れた途端、世界は野蛮なほど途方もなく拡がった。世界から切り離されることを畏れた美鈴は、団地を中心にした円の範囲内で、悟に遭遇しないように陰に紛れて生きた。

 美鈴は悟も寄るコンビニ裏のポリバケツの中身を夜な夜な漁り、屋上への鉄扉が開きっ放しのB棟の給水塔に持ち帰って食べた。給水塔の土台の下で雨風を凌ぎ、晴れた夜は黄色い灯りを瞬かせる団地群を見下ろした。そこからは三階の悟の家の窓がよく見えた。母は夜の仕事で、夜は悟一人でいることが多かった。やがて禿頭の男が家に居座り出すと、暗かったリビングの窓に黄色い明かりが灯り、それがカーテンで遮られるようになった。

 悟の表情が死んでいるのを見れば、カーテンの奥で繰り広げられる状況が芳しくないことは察しが付いた。俯いて登下校する悟を屋上から見下ろす度に美鈴の胸が軋んだが、飽きて捨てられた自分が悟の前に姿を現す資格を失ったことが何よりも辛かった。

 長い間美鈴がやきもきし続けるうちに、悟の一家は夜逃げじみた素早さで越してしまった。悟の一家が消えるとすぐに、小太りの双子の男の子がいる一家が移り住んできたが、団地以外に世界を知らない美鈴は留まり続けた。そこに居続けてさえいれば、いつかは引き離された半身がまた戻ってくるという、あり得ない望みで自らをあざむくかのように。

 人目に触れないように美鈴は日々細心の注意を払ったが、それでも住人の目は避け難かった。垢じみて灰色に変色したパーカーにパンツ姿の汚れた幼児が徘徊しているのだから当然だと、我ながら美鈴は思った。美鈴が通報で駆け付けた市局員に保護された時には、悟の家に住み着いた双子の幼児も既に高校生になっていた。

 美鈴は斡旋所の個室で、眼鏡をかけた女性職員から質問を受けた。

「お名前は?」

「美鈴。です」

「名字は?」

「分かりません」

「お父さんとお母さんはどんな人? 何処にいるの?」

「……うーん」

 答えようのない質問が延々と続き、ついに美鈴は口をつぐんで俯いた。悟が自分を必要とした時に、外見と主な気質と名前くらいしか思い浮かべてくれなかったから、美鈴には答えようがなかった。

 美鈴は丘の中腹にある養護施設に移された。そこでは三歳児からニキビ面の男子高生まで、十数名の孤児が共同生活を送っていた。美鈴はそこで小林こばやし姓を名乗り始めた。小林は悟の名字だったが、悟が自分の生みの親だからその名前を継ぐのはあながち間違いではないと、美鈴は自らに言い聞かせた。

 美鈴には二階の四人部屋が宛がわれた。そこは狭くて密集度の高い劣悪な環境だったが、ポリバケツの中身を巡って野犬と争い、絶えず人目に怯えてきた今までに比べれば、軒下で暮らせて三食が出る今の境遇が過ぎた厚遇に思えるのだった。

 美鈴は四人部屋の窓辺のベッドを定位置に過ごしながら、同居人が入居しては里親に引き取られていくのを幾度も見送ってきた。入退去する孤児たちの循環の中で、美鈴だけが時間から取り残されたような幼い姿のまま、四人部屋の角の一角に留まり続けた。

 そこはやがて小林部屋と呼ばれるようになった。古参であること加えて滅多に動揺しない美鈴は、次第に牢名主の役目を担わされるようになった。絶えず新たな入居者に施設のしきたりを説き、騒ぎが起きれば仲裁に入る損な役回りだった。

 他の孤児に比べて成長の遅さが如実に人目を引き始め、美鈴は施設が寝静まった夏の深夜、窓外の闇に沈む雑木林を見下ろしながらそっと溜息をいた。散々引っ張ったが、ついにここも潮時だと諦めた。

 美鈴は隣りのベッドの春香はるかの寝顔を見下ろした。五歳の春香は寂しがり屋で、いつも美鈴の顔色を窺ってくる上目遣いの目付きが、悟にすがっていたかつての自分を想わせて、美鈴が施設で心を開いて接した数少ない一人だった。

「じゃあ、もう行くね。ばいばい」

 そう囁いた美鈴は春香の頬にそっと触れた。指先で触れたその温もりに思わず胸を衝かれた美鈴は、慌てて手を引っ込めると、猫のような身のこなしで窓から飛び降りた。音もなく着地すると雑木林に紛れ、二度とそこで目撃されることはなかった。

 美鈴の行く先を指し示すように、藍色の夜空に満月が浮かんでいた。降り注ぐ金色の光が時間を凝固させてしまったような、無人の街並みを美鈴は一人駆け抜けていった。もう悟のいない団地に戻る気はなかった。

 施設を出る数日前から美鈴は、自分を引き寄せる微かな呼びかけを胸の内に感じていた。美鈴に悟を探す当ては全くなかったが、この微かな呼びかけが胸に響き続ける限り、自分は悟を探すことを決して止めないだろうと美鈴は思った。


 溝口みぞぐちという禿頭の男が闖入してくると、母と二人で築いた平穏が一挙に崩壊し、母の悲鳴と飛び散る血痕がそれに取って変わった。散々母を殴打した溝口が家を出ると、血に塗れた母が固まった悟の居場所まで這って、泣きながら詫びるのだった。悟は表情を欠いた顔で母の謝罪を一心に受け、指先が白くなるほどきつく拳を握り締めた。

 母が働いた金は自動的に溝口に吸い上げられ、一家は市営団地にも留まれないほど貧窮し、未就労者の吹き溜まりの一角に越す羽目になった。そこは昼から飲んだくれが路上でくだを撒き、絶えず誰かが何かを喚き、一つ角を曲がると剥き出しの暴力が横行する最果ての地だった。小学三年で越して来た悟は、高校二年までそこで過ごした。以降は少年院に収監され、顔色を窺う上目遣いが滲み付いた瞳も威圧的な三白眼に変じていた。

 収監中は私語も禁じられ、悟はますます殻にこもるようになった。悟は己の孤独を凝視しながら、月に二度面会に訪れる母だけをよすがに、四囲を覆う檻の中で耐え忍んだ。訪問した母はたいていマスクかサングラスで顔を覆い、未だ暴力に晒されていることが見た目にも明らかだった。

「もう逃げたら? 俺も今手を離れて、こんななんだし」

 面会の度に悟は説き伏せようとしたが、母の答えは判を押したように決まっていた。

「あの人を見抜けなかった母さんが馬鹿だったから」

 母の口調はそれが全ての理由だと言わんばかりだった。丸い通話口の開いたガラス越しに答えを聞かされて数度目に、悟は母に告げた。

「言っとくわ。俺出たら必ず、あいつ殺すから」

 母は止めてと悲鳴を上げたが、悟の決意は微塵みじんも揺るがなかった。檻の中でその考えを育むうちに、いつしかそれだけが全てを救う唯一の手段だと確信するに至ったからだった。

 居酒屋が数件集まった裏路地で、悟が金属バットで背後から溝口を殴打して殺害したのは、悟が出所して半年後の十九の夏の夜だった。

 悟は再び別の少年院に収監され、ある日看守長の口から母の自殺を知らされた。母は自宅の狭いクローゼットの中で、両足を床に着いたまま首を括って息絶えたとのことだった。悟は看守長の口からその事実を聞かされた途端、幼児のように床を転げ回って嗚咽した。溝口を母から引き剥がすことが唯一の救いだと確信していたのに、それが母を喪うことになるとは想像すらしなかった。

 母を殺した自責の念に憑かれた悟は房内で二度自殺を企て、白い拘束衣に覆われたまま精神病棟に移設された。薬漬けにされ、ぶよぶよと不透明な輪郭の時間を揺蕩たゆたううちに、ある日ふと眺めた洗面所の鏡に、溝口ほども年老いた髭面の自らの顔が映っていたことに悟は仰天した。

 悟は自分の担当である男の看護士に尋ねて、ようやく自分が十七年も不透明な時間を彷徨っていたことに気が付いた。

「いつ、ここ出れそうですか?」

 悟が尋ねると、看護士は柔和な笑みを浮かべて嫌味なほど白い歯並びを覗かせた。

「まあまあ。そう慌てずに。そう先生がご判断されるまでは、しばらく時間がかかると思いますから」

 そうですかと無難に返しながら、悟の腹は瞬時に決まった。看護士の慇懃いんぎんさはまるで信用ならなかった。その可能性はないと悟は思った。溝口を殺めると決めた時同様に、悟は脱走を即断した。

 悟の計画は場当たり的過ぎて、却って職員の盲点を衝いた。昼食後の自由時間に庭内に出た悟は、隅の植木によじ登って塀を越えると、そのまま遁走したのだった。

 淡い水色の院内着姿は、日中ではあまりに目立ち過ぎた。人気のない公園の公衆便所の個室に籠った悟は夜に個室を出ると、マンションの一階のベランダに吊るされっ放しになっていた洗濯物から適当な衣類を盗んで着替え、これで無駄に他人の目を引くことはなくなった。

 悟は夜の町を放浪しながら今後の行く末に思いを巡らせた。定職も家族も身分を示すIDもない、精神病棟を脱走した殺人犯。それが今の自分だった。職を得ようにも人と接した途端に不審視されるのは確実で、世界の陰の下で生きるしかない覚悟を悟は決めた。

 悟は幹線道路沿いにある駐車場付きのコンビニを見渡せる生垣の陰に身を潜め、乗り付けた車のエンジンを付けっ放しでコンビニに入る客を待ち続けた。

 藍色に沈んでいた東の空が曙光で黄色みを帯び始めた頃、地味な銀色の乗用車をアイドリングさせたまま、三十代らしき男が小走りにコンビニに入っていった。男の姿が閉じた自動ドアの奥に消えた瞬間、悟は躊躇ちゅうちょせずに車まで全力疾走すると、運転席に身体を滑り込ませた。アクセルを踏み込んで幹線道路に飛び出しながらバックミラーで背後を窺うと、男が店から出てくることもなく、悟はハンドルを握りながら大きく溜息を衝いた。

 俺はコンビニに付きまとう影になると悟は決めた。捕まらないように、常に車で移動し続ける。食事を盗み、小銭を強奪し、車も適宜乗り換えるつもりだった。それで食い繋ぎながら、その先は臨機応変に対応するつもりだった。

 悟がAMのラジオを付けると朝の星占いをやっていた。占い師が悟の星座の牡牛座について、ラッキースポットはコンビニと告げたので、思わず悟は声を上げて笑った。

 夜は高架下やグラウンドの路側帯などの都市の隙間に停めた車中で眠り、起きている間は店内の監視カメラの死角を狙って食品を盗んで食い繋いだ。

 強盗には細心の注意を払った。悟は遵守じゅんしゅする三つのポイントを定めた。一つは深夜に行うこと。もう一つが店員を脅す時間を二分以内に制限すること。それで駄目なら諦めて遁走する。最後が車の駐車位置だった。悟はよほど好条件でない限り、コンビニの駐車場に車を停めるのを避けた。車や人の往来が頻繁な場所だと、乗車してもスピードを出して逃走できなくなるからだった。

 コンビニの傍にあって人気がなく、乗車して即座にスピードを出せる道がある場所に狙いを定めて悟は何度か強盗を決行し、各所の監視カメラに痕跡を残しながらも監視網を逃れ続けた。道は何処までも果てしなく続き、車を走らせる悟は強盗できるコンビニを物色する為に生きているようなものだった。

 信州の田畑のど真ん中にぽつんと建つローソンで思わぬ大金を撒き上げた悟は、夜になってそこから二つまたいだ県一帯で栄えた繁華街に車を乗り付け、たまにはビジネスホテルで一泊しようと思った。

 コインパーキングを探して車で一帯を流すうちに、狭い道の両側に飲食店や風俗店が蝟集いしゅうし、ネオンの電子的な色彩が氾濫した、おそらく一帯で最も栄えた通りに差しかかった。

 繁華街は升目状に十字路が続き、横切る度に左右から無防備な酔漢が飛び出してくるので、悟は慎重にハンドルを繰った。一階にゲームセンターが入った雑居ビルと、赤提灯の個人居酒屋の間の狭い十字路を抜けようとすると、人影がいきなり左から飛び出してきたので悟は急ブレーキを踏んだ。飛び出してきた通行人も車に驚いたらしく、停車した車の前方でぴたりと足を止めた。かずに済んだ安堵の溜息を洩らしながら、フロントガラス越しに通行人を見やった悟の瞼が大きく見開かれた。

 青と赤に明滅するゲームセンターの電飾光に照らされて悟を見返す、中学生程度らしきその少女を見た瞬間、悟は思わず声に出して呟いていた。

「おーおー、嘘だろ?」

 見た瞬間に一発で誰か分かった。悟に真っ直ぐ注がれたその眼差しに宿る暗い翳りは当時と殆ど変わらず、却って吸い込まれるような複雑な色合いが滲み出ていた。風になびく黒髪を掻き上げたその少女は、間違いなく美鈴だった。悟が美鈴を認識するのとほぼ同時に、悟を認識した美鈴が驚愕の表情を浮かべ、やがてそれが笑みに変わっていった。美鈴は悟を指差すと甲高い声で叫んだ。

「えー何でえ? ほんとにい?」

 悟は運転席のパワーウィンドウを下げると窓から首を突き出して言った。

「おーおー、そんなとこで何してんの?」

「ええーっ、それこっちの台詞だから。サトちんこそ何でここにいるのよ?」

 急に背後でクラクションが鳴った。弾かれたように悟が背後を振り返ると、酒屋のトラックの運転席から顔を出した中年男が罵声を発しながら、さっさとどけろと腕を振っていた。悟は慌てて窓から首を突き出して美鈴に叫んだ。

「とりあえず乗って。中で話そう」

 悟の呼びかけに美鈴は躊躇なく従い、助手席に滑り込んできた。悟は運転しながら助手席の美鈴に何度も目を走らせて、混乱する頭を鎮めようとした。考えが纏まらないまま勝手に言葉が口を衝いて出た。

「あのさ、お前さ――」

「ん? 何でそんな齢取ってないんだ? でしょ?」

 美鈴が先回りしたのに驚いて、悟は反射的に頷いた。

「それが何でか、自分でも分かんないんだよね。多分、私の存在が必要とされなくなったから、そこで時間が殆ど止まっちゃったんだと思うよね」

「何ですって? 何言ってんのかさっぱりなんですけど」

 悟が漏らすと美鈴は軽く溜息を衝いて、率直な口調で答えた。

「あのさ、団地にいた頃から、はっきり言って、私って明らかに存在がおかしいって思ってたでしょ?」

 悟が頷くと、美鈴はあっさりと現実離れした答えを返してきた。

「それもそのはずだよ。だって、私はサトちんに創られたものだもん。私はサトちんの寂しい気持ちでできてるの」

「なに? 俺の?」

 悟は反射的に尋ねながらも、何故か美鈴が真実を告げていることを直感した。

「ね、信じる?」

 悟が横目で美鈴を見ると視線が合った。その瞳を覆う暗い色彩は、まるで鏡に映る自身の瞳を覗き込むかのようだった。悟が頷くと美鈴が微笑んだ。

「お前、いや、みっちゃんは何の為に創られたの?」

「サトちんに必要とされる為に」

「俺に?」

 悟が訊くと、頷いた美鈴が言った。

「私ね、ずっとずっとずうっとね、サトちん探してたんだ」

 その言葉が悟の胸を静かに満たしていった。何かを考える前に、悟は自然と口を開いていた。

「あのさ、俺な、お母さん死んじゃってさ」

「そうなの」

「うん。なんでさ、俺はもう誰からも必要とされなくなっちゃったのよ。みっちゃん以外にはさ」

「うん」

「だからさ、俺に言えた義理じゃないんだけども。もう捨てないって誓うから」

「だから?」

「いてくれない? 一緒に」

 思い切って悟が伝えると、悟を凝視した美鈴が唇を噛み締めて、無言で頷いた。

「ありがとう」

 悟が言うと、美鈴が被りを振った。

「ううん。私こそ、やっと家に帰った気分だから」

「家か?」

「うん。家」

「家なー、今日どうする?」

「え、泊めてくれないの?」

「家ないんだよ。この車しか持ってないし、しかもこれ、盗んだやつだから」

 悟が言うと美鈴が笑い声を上げた。

「ええっ、お金もないの?」

「いつもはね。今はある。強盗したから」

 美鈴は手を叩いて笑い声を上げた。

「えーほんとー? すっごーい!」

「うん。今日はどっか泊まろう」

「何処に?」

「そんな訳で、俺犯罪者だから、身分証明が必要なまともなホテルには泊まれないけど、それでもいい?」

 悟が尋ねると、美鈴はあっさり頷いた。

「一緒にいれるんなら、何だっていいよ」

 悟が選んだのは郊外の幹線道路沿いに建つ、白亜の城のような外観のラブホテルだった。受付は手元の隙間を除いて灰色の仕切りに覆われ、利用客の状況に立ち入らない店側の姿勢を示していたが、悟のような髭面の中年男と少女の美鈴の組み合わせはさすがに不信感を抱かれたらしく、仕切りの向こうから悟を誰何すいかする中年らしき女性の声が聞こえてきた。

「失礼ですけど、そちらのお子さんとは、一体どういった間柄で?」

「いや、あの、これは私の娘でして」

 仕切りに顔を寄せて必死に弁明する悟の姿に、美鈴は後ろ手を組んだ姿勢で可笑しそうな笑い声を上げた。


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