第3話

 恋人の智明ともあきは三歳年下だった。

 彼は小説家で、小説家といってもデビューすらしていなかった。毎日毎日パソコンの前に座ってああでもないこうでもないと唸りながら、一向に関係が進展しないじれじれにもほどがあるラブコメを書いていたものである。


「もうさ、とっととキスでもさせたら?」


 その言葉が良くなかったのかもしれない。


「いや、手を繋ぐだけでこんな二ページも三ページも脳内で愛の詩を連ねる三十代とか逆にどうなの?」


 これも良くなかったかもしれない。


「ちょっと待って。ヒロイン中学生なの?! 犯罪じゃん!」


 これもまぁ、もう少し言葉を選んでも良かったかもしれない。いや、三十代のおっさんと女子中学生ってどうなの? これはフィクションだから、ってその言葉そこまで万能じゃないからね?!


「何かおかしいところがないか見てほしい。あと、出来たら客観的な意見も」


 なんて言葉があったから、明子はそのまま言ったのだ。おかしいところも、客観的な意見も。


 けれどその結果が破局だった。


「君は言葉が強すぎる」


 それだけを言って、智昭はノートパソコンと、紙袋三つ分の着替えを持って出て行ったのである。


 彼がいなくなると、部屋の中から音が消えた。ああでもないこうでもないという唸り声がなくなったとか、そういうことではない。彼は執筆中によく音楽をかけていたのだ。動画サイトに上げられている作業用BGMだったが、大抵の場合落ち着いたジャズで、多少物悲しいナンバーの方が筆が乗るのだとよく言っていた。


「いや、筆じゃなくてパソコンじゃん?」


 そう茶々を入れたのも良くなかったかもしれない。そう思い、いつの間にやら運ばれていたホットコーヒーを一口啜る。


 そういえばあの時も初夏だったのだ。いまとは違い、それこそ夏のように暑い日が続いていたものである。


「明子さんはそういう色の方が似合うよ」


 明子がこのカーディガンを着る度に智昭はそう言った。

 彼女のワードローブはどちらかといえばはっきりとした原色の服が多かったから、こんな優しい色の服は珍しい。この色に引っ張られて、らしくないほどお淑やかになってしまいそうだと笑うと、彼は困ったように眉を下げるのみだったが、いまならわかる。彼は明子にそうなってほしかったのだ。


 じわりと浮かんだ涙をごまかすようにコーヒーをもう一口飲む。すん、と鼻を啜ってピスタチオのムースを食べた。香ばしいナッツの香りが口いっぱいに広がる。


 口の中が甘くなったら、コーヒーを飲む。

 口の中が苦くなったら、ムースで甘やかす。


 こうやって。

 

 強い言葉を投げるにしても、こうやってすぐに優しい言葉をかければ中和されたのかもしれない。あの時の明子は、まるで自分が彼の唯一の理解者であるかのように錯覚していたのだ。厳しいことを言えるのは自分だけなのだと、ここまでのことが言えるのはお互いに確固たる信頼関係が築けているからなのだと。


 けれど彼は去ってしまった。


 コーヒーはあと半分。

 ムースもあともう三口程度だった。


 カフェで一人座って、しみじみと思い出しては涙を滲ませるほど、明子は彼を愛していた。

 あの時どうしていたらこの現状を変えられていたんだろうかと考えてしまうほど、好きだった。


 曲がまた変わる。

 

 ああ、これは特に智明が好きだった曲だ。

 名前も知らないし、歌詞だって英語だからまったくわからない。だけど、確か、女性の黒人歌手がちょっと気だるそうに歌っていて、それがたまらなく恰好良かった。すると、智明は決まってそれに自身の鼻歌を重ねるのだが、彼はお世辞にも歌が上手とは言えず、ところどころ妙なハモリが意図せず生まれてしまい、明子を笑わせたものだ。


 歌詞はわからなかったけれど、それが失恋を歌ったものだったことは覚えている。すれ違いで、相手が去って、それをいまさら嘆いて、といったような。


 いまの私にぴったりだわ。


 曲といまの自分を重ね合わせ、明子は少し笑った。


 うん、いまの感じ、ものすごく良い。絵になってる、私。


 カフェで、窓側の席で、外はどんよりで、過去の恋愛に涙を浮かべる女。


 完璧じゃん。


 絵になりまくってるじゃん?

 これもうほぼほぼ一幅の絵じゃん?

 ちょっとドラクロワさん、アンニュイなタッチでいっちょ頼むわ!


 なんてことを顔には出さずに考える。

 脳内では完全に、気だるげにタバコをふかすブリジット・バルドーである。


 BブリジットBバルドー気分で冷めたコーヒーをまた一口飲む。窓の外は寂れた商店街なのだが、脳内ではしっかりパリに変換されている。レジ袋からネギと大根を飛び出させたオバちゃんは紙袋からバゲットをチラ見せしたパリジェンヌだし、健康サンダル履きのおっちゃんは素足に革靴のパリジャンである。


 ムースを食べ終え、甘くなった口内に最後のコーヒーを流し込んだ。


 いまの明子は完全にBブリジットBバルドーだった。タバコは紙も水も電子の類にも手を出したことがない明子ではあったが、脳内のそれをエア灰皿に押し付けて席を立った。時代にはそぐわないかもしれないが、カフェで良い女が嗜むものと言ったら、ブラックのコーヒーとタバコなのだと彼女は思い込んでいたのだ。


 そしてやはり「らっしゃっせー」風味のウェイトレスに会計をしてもらい、店を出た。


 カラン、というドアベルの音に見送られて飛び出した外の寒さは変わらなかったが、胸の真ん中辺りはまだほんのりと温かい。


 頭の中に流れているのは、さっきカフェで流れていたあの曲。

 名前も、歌詞もわからない、智昭のパソコンからよく流れていたあの曲。

 彼がいつも下手な鼻歌を重ねて、妙なハモリが生まれていたあの曲。


 いまなら私も歌える、と、明子は周りに人がいないのを確認してから恐る恐る歌い始めた。歌詞はわからないから、全て「ラ」だったが。


 彼のこと笑えないじゃん。


 そう思うほど、明子もかなり音を外してしまっていた。だけど、それは単に彼女の音感の問題だけではなかった。


 涙が溢れて止まらなかったからだ。

 ふるふると唇が震え、目からも鼻からも水が出る。


 鞄の中のティッシュとハンカチを総動員してそれらを拭き取ると、明子は一つ大きく咳払いをした。


 よし、何かスッキリした。


 心のもやもやをコーヒーと涙で洗い流し、明子はまだ晴れない空の下を歩き出した。


 私は一人でも大丈夫。


 そんなことを思い、すん、と赤い鼻を鳴らして顔を上げる。


 そんな彼女の背中を押すように、商店街の真ん中にある個人家電店の店頭にあるテレビが、いぶし銀な時代劇俳優の顔を大写しにした。


「マグロ、マグロ、マグロ! どどんとマグロが大盤振る舞いのぉっ?! マグロざぁ~んまいっ、150円っ!」


 ……お願いだから、最後まで浸らせて。


 

 この後、もう良いや、とやけを起こし、一皿150円のマグロ三昧を吸引力の変わらない某掃除機も真っ青の勢いで胃へと送り込んでいる明子と、五年ぶりに一次選考を通過したお祝いにと来店した智昭が出会うのだが、それはまた別の話。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

初夏色ブルーノート 宇部 松清 @NiKaNa_DaDa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ