政変

 帝国宰相アベル・オイゲン・フォン・ボーデン侯爵はこれまで十二年の間皇帝の代理として帝国の統治に当たって来た。彼が特別新たな施策を示したことは無い。あくまで帝室を安寧ならしめ、大貴族のこれ以上の伸長を阻止することにその全力を注ぎ続けた。

 そのボーデン候が突如として皇帝に辞表を提出し、退任したのが十一月十日の事である。休日終わりの官僚たちが眠い身体を叩き起こして出勤しようとしたところにこのニュースは文字通り寝耳に水の事態であった。

 無論彼らに政治の舞台裏でネーリング公が暗躍し、ボーデン候の退場とエルシュタイン子爵への禅譲がスムーズに進むよう画策されていたことは知る由もない。事実として明らかになったのはボーデン候が引退し、後任にそれまで保健卿であったエルシュタイン子爵が宰相として任じられたことだけであった。子爵の宰相就任は過去に三人しか例が無い。

 エルシュタイン子爵は貴族政界でも強硬的な中央集権主義、国家主義者として知られていた。ガルト帝国大学で教鞭を執っていた頃からその名は知られており、彼が宰相に就任したことが何を意味するのか五選帝公を中心にする大貴族たちには容易に想像がついた。

 「エルシュタインが宰相だと?我らが選帝公を中心とする帝国の支配権が崩れるぞ」

 ヨッフェンベルク公は目を細めた。

 「あのネーリングが裏で手を回したのだろう。選帝公とは名ばかり、大衆に阿る痴れ者が」

 ネーリングが姑となってエルシュタイン政権を作り上げたことを想像し得ぬ者はいない。実際にその閣僚人事もヨッフェンベルク公らにとっては不快極まるものであった。

 エルシュタインと志を同じくする者や、革新派官僚が一挙に出世して閣僚や次官級高級官僚に名を連ねたのである。軍事卿マンスブルク元帥は続投となったものの、五選帝公を中心とする大貴族らの勢力は一瞬にして政界から駆逐された。

 「我ら門閥貴族をコケにしおって!許せぬ!」

 だが、彼らの持つ実力では絶対に適わぬ実戦戦力が帝国には存在した。

 エルヴィン・フォン・レーヴェンタール元帥率いる帝国前方総軍である。衆目にはネーリングやエルシュタインらの強硬手段を後ろで支えているのは前方総軍の持つ武力を除いて他には見受けられなかった。国境付近を中心に帝国辺境を守護するこの総軍の兵力、そして総司令官のこれまでの戦歴を考慮すれば彼の武力をバックにしたと思われても文句は言えまい。

 帝国における突如の政変は時を置かずして辺境の砂漠惑星ヴォルフェンまでもたらされた。

 「早すぎる…」

 「恐らく、あなたの武力を恃みにしたつもりね」

 エルヴィンはため息をついた。

 「俺は彼らに協力するとは言っていない」

 「あなたがそう思っていても、貴族たちは思わない。今やあなたはネーリング公やエルシュタイン候の権力体制の番犬と思われているはずよ。これからの帝国は彼ら革新派と選帝侯を中心とする貴族派に分かれる。そうなった時、局外中立を決め込むことはできない。それにあの監視役の事もあるし…」

 そこまで考えて辺りを憚らず俺と接触を重ね、行動に出たと言うのか。ネーリング公、やはり侮りがたし。

 エルヴィンは無論優れた軍略家であった。しかし当然ながらその視野は準軍事的な面に集約され、軍事力を用いない政略においては見劣りする点があったことは否定できない。恐らくは純粋な軍人として生きるエルヴィンにとって、陰謀や詐術を良しとしない潔癖症のような一面があったのだ、とは後に多くの学者が指摘する点である。

 とは言え今のエルヴィンに直接脅威が迫っているわけでもなく、何かが起きたわけでもない。

 「取り敢えずは後ろ指差されないようやるべき事をやりましょう」

 ディートリンデはエルヴィンが決裁した書類を纏めて退室しようとした。

 「そう言えば、その監視役は今どこに?」

 「朝から街に出たみたいよ。何と言うか、最近大分自由ね」

 クラウディア・ヴェルトミュラー少尉に課せられた任務はエルヴィンの護衛役であった。当初はその任務を忠実に果たしていたが、プライベートにまで踏み込もうとする彼女に閉口したエルヴィンが

 「いつ何時も護衛してもらう必要はない。必要な時に任じるから、そうでなければ好きに過ごしていろ」

 と命令してある種「放し飼い」にしてからは決まった任務もなくなり、自由気ままに過ごすようになったのである。これで本当に保安局エージェントなのかと疑うほどに明朗快活な少女は先日地上軍兵士の命を救ってから基地内の兵士達からの支持を獲得しており、何処で何をしようにもとやかく言う輩は存在しなかった。

 「気にかけてるの?」

 「まぁ…高度に政治的な案件だからな」

 ディートリンデは眉をひそめた。

 「あんたの口からそんな言葉出て来るなんてね。あの子確かに可愛いけど鼻の下伸ばしてんじゃないわよ」

 「おい、そういう訳じゃ…」

 銀髪の青年に一瞥もくれず、赤毛の参謀長は執務室を退去した。

 椅子に腰かけ、エルヴィンは司令官の執務場所として最低限の役割しか与えられていない殺風景な部屋を眺めた。

 「認めたくないものだな、若さゆえの過ちと言うものを」

 それっぽくうそぶいてみても、所詮エルヴィンは軍人と言う甲冑を脱げば悩める青年に過ぎなかったのである。


 前方総軍に属する四個の軍団の内、最初にその司令部を本国ガルトから移したのはこの頃その作戦行動の素早さから「騎兵提督」との異名を賜るようになったブリュンヒルデ・フォン・ハインリッヒ大将率いる第九軍団であった。

 そこに属する艦隊戦力は二個師団約三万一千隻、彼女のたっての希望で一等戦列艦を全て他の軍団の補充のために手放す代わりにより早期に二等戦列艦以下の戦力を充実させて早期に辺境へと進出してきたのである。

 「流石は騎兵提督の名に恥じぬ韋駄天ぶりだ。帝都からここヴォルフェンまで僅かに十五日とは」

 通信スクリーンの向こう側で当の騎兵提督は長い銀髪を揺らして苦笑した。

 「脱落艦をかなり出しました。この数の艦隊で迅速に作戦行動を行うには相当な訓練が必要です」

 「無論だ。いつ武力行使を要するか分からぬ以上、明日が実戦と思い練兵に励め」

 若い女提督は敬礼して通信を切り、その後彼女が担当する星区に布陣した。

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英雄たちの宇宙叙述史 アリア @Alia4879

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