もんもん


「サインお願いします」


 ああ、どうしよう。

 こんな場所に来て、私はこれからどうなるのだろう。ここに名前を書いたら、もう戻れない気がする。ねぇ、でも私は戻りたいのかな。戻ったところでどうにかなるのかな。そもそも戻るって何だろう? 今までの生活を続けていくこと? そこは私が居ても良い場所なのかな。もしそうでなかったとしたら、私には戻るべき場所なんてないんじゃないかな。

 とにかく落ち着こう。落ち着け、私。

 問題は簡単なのだ。

 私が馬鹿だからいけない。あっ、でもね、数学だとか古文だとか学校で習う類の頭の良さじゃなくて、心の問題。私は心が馬鹿だ。分かっている。うん、そうそう、分かってはいるのだ。

 何が分かっているのかというと、この書類にサインしたことによって起こりうる問題と、私にとっての利点。要はその双方を天秤にかければいい訳だ。

 人生っていうのはさ、そういう選択の繰り返しだよね。何もかもが上手くいっている人なんていないのだから、何かを得る為には何かを捨てなくちゃいけないのだよ。

 そんなこと、始めにどこで耳にしたのか分らないほど言われていることだ。今手にしているものを捨ててまで手に入れる価値があるものなのか、あるいは今手にしているものを守る為には諦めなければならないものなのか、それを見極めればいいだけなのだ。

 私は今、彼氏と別れそうだ。別れたら住む家がない。住む家がないということはお金が必要だ。この仕事をしたら二時間で三十万円が手に入る。でもこの仕事をしたら彼氏に嫌われる。けれど、私は彼氏と別れるのだから、気にする必要はない。

よし、決まった。


「……スズキさん?」

「あっ、すみません。それ偽名なんで。本名は成瀬です」

「あぁ、そうなの? じゃあナルセさん、こちらにサインお願いします」


 成瀬紀子。私は契約書に本名を書いた。

 

 私なんて死んでしまえ、と思う。

 はいはい、嘘です。嘘ですよ。私はただの甘ったれだ。分かってる。そんなことは分かっているんだ。

 苦しいことは嫌だな。ただ笑って毎日を過ごしたいと思っているだけなのに、そんなことがどうしてこんなに難しいのだろう。

 昨日、同棲している彼氏のカシと喧嘩をした。悪いのはいつだって私だ。

 カシは毎朝六時に起きて会社に行く。定時で帰る日もあれば、残業をする日もあるし、付き合いで飲みに行って終電で帰る日もある。ともかく月曜日から金曜日までの週五日、カシは休まず会社に行く。

 私は働いていないので、毎日好きな時間に眠って、好きな時間に起きる。晴れた日には洗濯をして、散らかって見えない程度に掃除をして、夕飯を作る。残った時間は自由に過ごす。自由というのは、お笑いのDVDを見ながら脇毛を抜いたり、近所の野良猫に名前を付けて回ったり、私の主食であるキャベツの値段の推移をエクセルを使って表にしたりすることだ。

 喧嘩をするたびに、「何が不満なの?」と、カシは言う。まったくその通りだと思う。私は何が不満なのだろう。                                       

 今年就職したばかりのカシは、何かとストレスを持って家に帰ってくる。認めてもらえない苦しさだとか、仕事に対する責任だとか、きっと私には理解出来ないようなものが色々とあるのだろうけれど、カシはあまりそう言ったことを口には出さない。

 ただ会社で何かあった日は、変に優しいのに笑い声が乾いていたり、逆にまったくしゃべらなかったりする。ような気がする。

 私はよくカシにマッサージをする。カシの肩や腕や太ももはいつもがちがちに凝っていて、揉んでも揉んでも、なかなかほぐれてくれない。硬いしこりを何度も押していると、そのしこりがふっと消える瞬間があって、そのときに「あー」とカシは気持ち良さそうな声を出す。それが何だか嬉しい。大きなカシの身体に触れていると、それだけで少し幸せな気分になれる。

 もう終わりなのかな、と思う。

 仕方ないな、と思う。

 そんなの嫌だなって、思う。

 それでも仕方ないんだって、思う。

 そう思うのに、まるで実感が湧かない。




 カシが眠ったことを確認した後、私はこっそりとカシの携帯を持ってトイレに入った。

 携帯を持ったまま、私はしばらく便座に座っていた。見ようかどうか、迷っていたと言ってしまえば分り易いのだけれど、そうじゃなかった。ただ、何も考えずに携帯を見つめていた。携帯のメールボックスを開いた瞬間、トイレのドアがノックされた。心臓がびくりと、大きく飛び跳ねた。


「ねぇ、ノリ、俺の携帯知らない?」


 私は諦めて、トイレのドアを開けた。黙って携帯を返すと、カシはひどく傷付いた顔をした。

 最低だなと思った。私は最低だ。思ったところで、もう引き返せない。


「どうして見たの?」


 ひどく落ち着いた声で、カシは私を責めた。充血したカシの目から怒りが伝わってきて、私は思わず視線を逸らした。


「どうして見たのって、聞いてるんだけど?」

「見てないよ」

「じゃあ、何でメールボックスが開いてるの? 見たんでしょ?」

「見ようとしたけど、見てない」


 見てないよ。見てはいないけれどそんなことは関係なくて見ようとした時点で同罪だよね、ごめんね、と思ってはいるのだけれど、それを口に出すことは何だか白々しいような気がして言葉に出来なかった。


「じゃあ、何で見ようとしたの?」

「……今日、ジムに行ったでしょう? 同僚の人と?」

「行ったけど? それが何?」

「前に付き合っていた人が、毎週ジムに行ってて。それが女の人だったんだ」

「……元カレと俺を重ねたの?」


 カシの目の色が変わった。


「重ねた訳じゃないけど」

「重ねてんだろ。何だよそれ……」


 カシが頭を抱えてうずくまった。伸ばした手は、振り払われた。


「どんなクソ男と付き合ってきたか知らないけどさ、一緒にしないでくれる? ねぇ、俺がどんなに職場で馬鹿にされてるか知ってる?」

「……」

「俺がしていることは馬鹿なんだってよ。就職したばっかで、十万の家賃の部屋に無職の女と住んで。別れろって、上司からも言われる。それでも俺はがんばろうって思ったよ。俺が決めたことだから。それで、それなのに、この仕打ちかよ。そんなろくでもない男と俺は一緒かよ。今まで俺がしてきたことって何だったんだよ。本当……がっかりした」

「違う。そうじゃなくて」

「何が違うの? ごめん、俺もうノリの考えてることが分からない」

「……」

「こればっかりは心が折れたわ。ちょっと考えさせて」

「……うん、分かった」

「悪いけど、もう寝る。お暇なあなたと違って、俺は明日も仕事なんで」


 言い争いの後カシは自分の部屋に籠ってしまって、起きたらもう会社に行った後だった。いつもの「行ってきます」のキスはもちろんなかった。

 カシは怒ると、声は熱を持つのに、目はどんどん冷えていく。あの目を思い出すと、悲しくて縋りたくなる気持ちと、怖くて逃げたくなる気持ちがぐちゃぐちゃに混ざって泣きたくなる。


「ナルセさーん。ナッ、ルッ、セッ、さーん」


 呼ばれていることに気付いて、私は顔を上げた。


「はい」


 あぁ、またトリップしてしまった。

 私はしゃべり下手なので、伝えたいを上手く伝えられない。だからこうやって、あとになってからああだこうだと考えてしまう。いや、逆かな。いらないことまで考えてしまうから、上手く言葉を選ぶことが出来ないのかもしれない。


「あのね、僕契約書の説明していたんだけど、聞いていました?」


 男は眉間に皺を寄せる。名前は確か本田と言っていた。こんなことをしている会社の社員のくせに、本田には威厳というものがない。ひょろひょろとしていて、触り心地が良さそうなつるりとした生地のスーツが浮いている。

 いや、意外とこういう人の方が、女の子に安心感を持たせるためには良いのかもしれない。


「すみません。まったく聞いていませんでした」

「まぁ、緊張しているだろうしね。じゃあ、これ読んでおいて」


 分厚いA4用紙の束を渡された。緊張はしていなかったけれど、とりあえず頷いておいた。


「じゃあ、撮影は二週間後になるから」

「はい」

「それまでに免許証か保険証のコピーを持って来てね。あっ、今持っていたらこっちでコピーするけど。持ってる?」

「いや、持っていないです」

「うん、じゃあ撮影前までによろしく」

「あの……それないと駄目ですか」

「そうだね。最近の子供は発育が良いからね。うっかり使ったらこっちが捕まっちゃうからさぁ。卒業アルバムとかでもいいよ。年齢さえ確認出来れば全然オッケーだから。それと銀行口座もそのときでいいから教えてね」

「えっ、あの、お金は今日貰えないんですか?」

「報酬は撮影の一週間後に口座振り込みになるから。ほら、ここに書いてあるでしょ?」


 本田は分厚い契約書をめくり、小さく書かれた文字を指差すと、無害そうな顔をして笑った。

 事務所を出ると、外はもう暗かった。

 帰りたくないなと思ったけれど、お財布には数百円しか残っていなかった。

 漫画喫茶には入れない。ファミレスでお茶くらいは出来るかな。でもファミレスで一晩、暇は潰せないだろうな。友達でも呼ぼうかな。でも友達と話すのは何だか億劫だな。そもそも平日の夜に突然呼び出して、所持金数百円の私に一晩中付き合ってくれる友達なんていたっけ?

 胸が痛くなってきたので考えるのを止め、おとなしくアパートに帰ることにした。

 今日のことをカシに話したら「ノリは馬鹿だな」って笑ってくれるかな、なんて無意識に考えている自分がいて、自分の馬鹿さ加減がほとほと嫌になった。 

 アパートのドアを開けた瞬間、カシに抱きしめられた。


「昨日はごめん。言い過ぎた」


 玄関にカシが居たことと抱きしめられたことに驚いて何も言えずにいると、腕の力がさらに強くなった。


「携帯見たことなんてどうでもいいんだ。それでノリが安心するなら、いくらでも見ていいから。俺、ただ悔しかったんだ。昔の男を思い出されたことがショックで……それだけなんだ。ごめんな」


 あのとき、私は何故あんなことを言ったのだろう。

 確かに昔の彼氏はジムに行っていた。そのことは事実だけれど、自分で口に出すまで忘れていた。

 私は私を正当化することが出来る理由を探しているんじゃないのかな。私はすぐに逃げたがる。現実から向き合うことから逃げて自分はおかしいと思ったり、死にたいだとか言って傷付いたふりをして、加害者なのに被害者になりたがる。

 カシはいつだってまっすぐで眩しくて、そのことがたまに痛い。私の考えていることは、カシに伝わらない。だって、私はカシが言っていることが理解出来ない。


「うん。私もごめんね」

「愛している」


 カシは私にキスをした。

 カシと私の心はどうやったって重なり合えない。それなのに、私達は恋人同士だから、こうやって肌を重ねることが出来てしまう。その心地良さに負けて、全てが上手くいっているような錯覚をしてしまうから、私は怖いんだ。

 私達は、きっとこれからセックスをする。ねぇ、でもセックスなんて誰とでも出来てしまうのに。出来てしまうのに。

 あぁ、私は無意識にカシを追い詰めて、別れたがっていたのかもしれない。

 施設を出たいけれどお金がないと言った私に、一緒に住もうとカシは言ってくれた。広い部屋に住んでみたいと言ったら、二DKのこの部屋を借りてくれた。働きたくないと言ったら、働かなくていいよと言ってくれた。カシは何でも、私の好きなようにさせてくれた。だからとても嬉しくて、その分怖かったんだ。

 怖かったんだ。


「結局ね、ものごとっていうのはシンプルに考えるのが一番良いんだと思う」

「どうしたの、急に」


 カシは笑いながら煙草に火を付けた。手に持ったジッポで、私の煙草にも火を付けてくれた。吸い込んだ煙は、ジッポのオイルと、マルメンのメンソールと、酸っぱ苦い精子が混じった味がした。


「私毎日ぶらぶらして、無職で、だからいけないんだと思う。だからバイトするよ」

「ノリ、昨日俺が言ったこと気にしているなら……」

「ううん、そうじゃないの。私お金貯めて専門学校に行きたい」

「専門? 何の?」

「私、小説が書いてみたい。だから文章を書く勉強をするよ」

「ノリが小説?」

「何? おかしい?」

「いや、おかしくはないけど……何書くの?」

「んー、女の子がただもんもんと考える話、とか」

「何それ、楽しいの?」

「……さぁ?」

「さぁって」


 カシは声を出して笑った。


「いや、でも良いと思うよ。目標を持つことはすごく良いと思う。応援するよ。よし、俺もがんばって働かなくちゃな」


 そう言ってカシは私の頭を撫でた。

 一回セックスをして撮影するだけで三十万円になると本田は言った。時給数百円のアルバイトをして、三十万円貯めるにはどれくらいの時間がかかるのだろう。よくよく考えてみたら、数学だとか古文だとか学校で習う類の勉強も私は苦手だった。

 時給数百円でレジを打つのも悪くないなと思った。簡単に大金を手に入れてしまったら、まだこんなに有り余っている時間を持て余してしまう。知らない、好きでもない男とセックスすることが簡単なことかどうかは、一生知らなくても困らないと思った。

 私はカシの胸に顔を埋めながら、明日本田に電話をしなくちゃいけないなと思った。言うことは決まっていた。 


「ごめんなさい。やっぱりAVには出られません。私、本当は十七歳なんです」


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