サイリウムを折らない


 男と誕生日の三日前に別れた。


 藤田治は私より三歳上のパティシエだった。

 平日休みの彼とは大学の授業がない日によく映画を観に行った。デートができない週は夕飯を作って治の帰りを待った。食後に治が持って帰ってきたケーキを食べて、テレビを見てセックスして眠るのが私たちの定番だった。

 三日前、治の部屋で見つけたマルボロのメンソールは、ベッド脇にあるチェストの上に置かれていた。隣にはコーヒーの空き缶があって、振ってみるとからからと音がした。

 私は煙草を吸うけれど、治は吸わない。寝室が少し煙草臭いような気もしたけれど、よく分からなかった。私は鼻炎持ちで鼻が悪い。

 どうせならバージニアとかピアニシモとか、いかにも女が吸ってます、みたいな煙草だったら良かったのにと思った。開いてみると、煙草三本ほどのスペースにピンク色の百円ライターが押し込まれていた。

 帰ってきた治に「煙草が落ちてたよ」と言うと、一瞬やべぇなという顔をした。


「あぁ、佐々木のだよ」

「あれ、佐々木さんって研修に行ってるんじゃなかったっけ?」

「だから、ほら、前に来たときに忘れたやつ」

「そっか。でもさっき吸ったら全然しけってなかったよ。昨日かおとといに開けたばっかりみたいな味がした」


 一瞬の沈黙の間に治が考えていることは分かった。

 しけた味というのが喫煙者にとって誤魔化せないほど明確なものなのかどうか、しらを切り通すか、それとも別の言い訳を考えるか、二度も言い換えたら不自然だろうか、そもそも私が浮気を疑っているのかどうかということ。


「ばか。気のせいだろ。ほら一か月くらい前に飲み会があって、終電逃して佐々木が泊まっただろ? そのときの忘れていったのが昨日出てきてさ、マチが吸うかなと思って出しておいたんだ」

「じゃあ、これはなに?」


 私はキッチンの奥から煙草の吸殻が入った空き缶を出した。責め立てる私に治はよく分からない言い訳をした。長くてくだらないそれを、私は丁寧に聞いてあげた。


「あのね、治。私は嘘が嫌いなの。ただ、本当にそれだけなの。治が認めないなら、これからゴミ箱を確認する。そうしなくちゃ私の気がおさまらないから。でもね、本当はそんなことしたくないの。ねぇ、治、お願いだからそんなことさせないで」


 長い長い沈黙の後、治は私に謝罪をした。昨晩、酔った勢いでアルバイトの女の人を連れ込んでしまったと言う。朝、急いで出勤したので煙草には気付かなかったらしい。

 治の家で煙草を吸うとき、私はいつもキッチンの換気扇の下でタオルをかぶってこっそり吸った。一本吸うごとに歯を磨いて、マウスウォッシュをした。治は仕事柄匂いに敏感だった。口に出したことはなかったけれど、煙草を止めて欲しいと思っていることくらいは私にだって分かった。浮気相手が寝室で煙草を吸ったと思うと悔しくて仕方なかった。

 私は治のことが好きだった。だから大切にしたいと思った。なんで私が治を好きだったかというと、治が私のことを好きで大切にしてくれたからだ。

 どうして治は本当のことを言ってしまったのだろう。どうして治は私のことを傷付けたのだろう。きっとその程度の好きだったんだ。一夜限りの過ちが許せない訳じゃない。私は私のことを傷付ける人間が許せない。私が大切にしていた人が私を傷付けたという事実が許せない。

 治に別れようと言った。それ以外の選択肢なんて考えられなかった。泣いて土下座をしている治を見ても、自分で驚くくらい何も感じなかった。

 テーブルの上には治が持って帰ってきたケーキの白い箱が乗っていた。二人で食べるはずだったケーキには、治は手を付けないだろうなと思った。中身は分からない。そろそろ季節の変わり目だから、新作のケーキだろう。さつまいものパイかもしれないし、ナッツのタルトかもしれないし、巨峰のムースかもしれなかった。

 鍋のなかの秋刀魚の煮付けはすでに冷めて、味が染み込んでいるころだろう。きっと味見をしたときよりも美味しくなっている。私が帰った後に一人で秋刀魚を食べる治を想像した。

 悪くないなと思った。


 私は恋愛が上手くないのかもしれないと思う。上手い恋愛がどういうものなのか分からないけれど、私はきっと恋愛が上手くない。

 私は今日二十一歳になった。

 治は私の七番目の彼氏で、今までで一番長く付き合った人だった。一年というのは、私の人生の二十一分の一の長さで、もし七十まで生きたとしたら七十分の一の長さだ。そう考えるとあまり長くないような気もする。けれど私の初恋は十三歳のときだったから、私が恋をしてきた八年を基準に考えた方がいいのかもしれない。そう考えると八分の一。お店で売られているケーキはワンホールを八等分したものだから、それと同じ。

 治はケーキを作ることが好きで、だから私も料理を覚えたいと思った。それなのにもう包丁を握る気にもなれない。

 治の前の彼氏はカメラが好きで、だから私もデジタルの一眼レフを買った。その前の男は小説が好きだったから、私もたくさん本を読んだ。ギター、編み物、パチンコ、テニス。今も続けているものは何もない。恋愛をしていないとき、私は何をしたらいいのか分らなくなる。

 きっとこんなことを考えるのは恋人がいないからだ。早く恋人をつくらなくちゃ。

 誰でもいい訳じゃないけれど、治でなくちゃいけない理由なんてない。

 昨日、誕生日の予定を埋めるために思いつくかぎりの男の子に連絡を取った。ほとんどがすでに予定があって、唯一空いていたのが、大学で同じサークルに所属している有田誠だった。

 有田君は友人と行く予定だったライブに友人が来られなくなったので一緒に行かないかと私を誘ってくれた。サークル内でも地味な印象の彼とは、飲み会で数度話したことがある程度の関係ではっきりとした顔も思い出せなかった。けれど、誕生日に一人で過ごすよりはずっといい。

 時計を見ると午後三時になったところだった。そろそろ用意をしないと待ち合わせの時間に合わなくなる。これがショートケーキ一つ分の恋になったりするのだろうか、なんて考えながらコテを髪にあてた。


 新宿駅の丸ノ内線改札前に来た有田君を見て、そう言えばこういう顔をした男の子だったなと思いだした。それでも目を閉じてしまえばすぐに忘れてしまいそうなほど印象の薄い地味な顔だった。

 有田君はノンウォッシュのジーンズにワインレッドのべロアジャケットを着ていた。彼なりに着飾ってきたつもりなのだろうけれど、流行遅れのジャケットがひどくださかった。靴がノンブランドのスニーカーというのも痛い。


「ごめんね。待った?」

「ううん。今来たところだよ。ライブなんてほとんど行ったことないからドキドキしちゃう」

「ライブ自体は結構ノリが良い感じだから。曲調も速めが多いし。サイリウムは用意してきたよ。あるのとないのじゃ、会場との一体感が全然違うんだ。ペンライトも持ってないよね? 会場で買ってあげるよ」


 サイリウムとは何だろうと思いながら、とりあえず「ありがとう」と言った。


「電車に乗ろうか。話はまた後で」


 電車内はさほど込み合っていなかった。二人で並んで座る。


「今日のライブの人なんだけど……」

「星野ルル?」

「うん。ごめんなさい。実はその人知らなくて。どんな曲歌ってる? ドラマとかCMで使われてたりする?」

「一番有名なのは『ノンストップサンデー』って曲かな。『ノンストップ少女』の主題歌に使われてるよ。『ノンストップ少女』では主人公の南川有紀役もやってる」

「あっ、女優さんなの?」

「何言ってるの。声優さんだよ。『ノンストップ少女』知らない? 去年映画化もされた今一番人気のあるアニメだよ」

「……声優?」

「ルルたんは声優としてのキャリアはかなり長いんだ。デビューは三代目プニキュアだしね。『サルガムラン』のミリア役や『絶対天使』のモモ役が有名だね。でも俺は女性歌手としてのルルたんが好きなんだ。もちろん声優としても尊敬してるけど、純粋に曲が良い。ルルたんのライブでは、オタ芸を禁止してるんだ。ちゃんと歌を聞いて欲しいって意味でね。声優のライブとしてはかなり珍しいことだよ。まぁ、軽いPPPHくらいはあるけどさ、それはまた別っていうか、あれがないとライブが盛り上がらないしね」


 何をしゃべっているのかまったく分からなかった。

 愛想笑いは得意なつもりだったけれど、それすらできなないまま新宿御苑前に着いた。会場まで歩く途中、頭にバンダナを巻いた男の人やアニメのTシャツを着た男の人たちとすれ違った。目的地が私たちと同じ厚生年金会館だと気付くころには、家に帰りたい気持ちでいっぱいになった。

 荷物チェックを受け会場に入ると、グッズ売り場に向かった。二人で列の最後尾に並ぶ。スタッフ以外、女の子の姿が見当たらない。男の汗でできているだろう熱気を身体に入れたくなくて、極力呼吸をしないよう心がけた。


「ペンライト以外になにか欲しいものある? 誕生日プレゼントに買ってあげるよ」


 売られているものを確認する。パンフレット、ポスター、Tシャツ、タオル、ストラップ、ピンバッチ、リストバンド……どれも欲しくない。


「じゃあ、パンフレットで」


 どうせ捨てるのなら、捨てやすいもののほうがいい。 


「分かった。俺もパンフレット買おうかな」


 有田君は赤、白、青のペンライト三本と、パンフレットを二冊購入した。


「お会計一万千六百円です」


 値段に驚き販売額を確認してみると、ペンライトが一本千二百円、パンフレットが一冊四千円だった。渡されたパンフレットは卒業アルバムのようにずっしり重かった。めくってみると、内容の九割が写真だった。ちっとも嬉しくなかったけれど、どうやらこれが今年の誕生日プレゼントらしいのでお礼を言った。「どういたしまして」と笑った有田君の笑顔が無邪気すぎて怖かった。

 席に着くと有田君がジャケットを脱ぎTシャツ姿になった。


「これ前のライブのときに買ったTシャツなんだ。あっ、そうだ。サイリウム渡しておくね」


 リュックの中から半透明の棒を出し、私にくれた。棒の中には液体が入っているようだった。


「折ると光るから、ペンライトみたいに振って使うんだ」


 三色のペンライトとサイリウム、手の中には四本の棒があった。


「基本的なこと聞いてもいい? これってこんなに必要なものなの?」

「曲によって振るペンライトの色が違うんだ。周りを見て合わせれば大丈夫だよ。サイリウムは……好きな曲が流れたり、衣装チェンジしたりしてテンションがあがったときに振るんだ。『好きだ』って気持ちを表現するっていうか……まぁ、そんな感じ。ペンライトよりも強く光るから、ここぞっていうときに使ってね」


 会場の照明が落ちると、観客が一斉に立ちあがった。ワンテンポ遅れて私も席を立つ。


「ここからはおしゃべりなしで。ライブに集中しよう」


 音楽が流れ始めると、打ち合わせをしたかのように観客がみな青いペンライトを高く上げた。

 前の席のハッピを着た男の人が「ルルたーん、ルルたーん」と叫んでいる。着ているハッピの背中には「RURU LOVE」と書かれていた。

 ターコイズブルーのミニスカドレスを着た女の子がステージに登場すると、全身に揺れを感じるほどの歓声があがった。ハッピ男の「ルルたーん」も激しさを増す。

 私も青いペンライトをつけてみた。色だけではなく振り付けも決まっているようで、会場のペンライトは前後左右にくるくると動く。周りに合わせて振ってみると、旗揚げゲームのようで楽しかった。これならいい暇つぶしになるかもしれない。ペンライトの動きを目で追うとステージが見られなくなるけれど、そんなことはどうでも良かった。

 二曲目の『純白日和』という曲で白のペンライトに持ち替えながら、私は食べそこなったケーキのことを思い出していた。どうして私は治がケーキを捨てたと思ったのだろう。冷静になって考えてみると、治が捨てたのはケーキではなく秋刀魚の煮付けのほうのような気がしてきた。


「綺麗だなぁ」


 隣を見てみると、有田君がうっとりした目をしながら白いペンライトを振っていた。有田君の視線の先を目で追う。会場が白いライトで染まっていた。意思を持った生き物のように、光の粒がゆっくりと左右に揺れている。確かに綺麗だなぁと思った。もっとも、有田君の「綺麗だなぁ」はルルたんに向けられたものかもしれないけれど。

 テーブルに置かれた白い箱が記憶の中で光っているように感じるのは、あの日治が持ち帰ったケーキが何だったのか、もう確認することが出来ないからだ。

 白い箱に入っていたのは、抹茶のティラミスかもしれないし、カボチャのプリンかもしれないし、和栗のロールケーキかもしれなかった。そういえば治がケーキを作るところを、私は一度も見たことがなかった。一度くらい、見せてもらえば良かったな。

 そんなことを考えてしまうのは、ルルたんの声が甘ったるくてケーキみたいだからだ。

 有田君はいつ、サイリウムを折るのだろう?

 私が今日、サイリウムを折ることはないのだろうな。

 私の人生に、いつかサイリウムを折る日はくるのかな。

 ライブははじまったばかりだ。私にはまだ、一時間十五分、考え事をする時間が残っていた。

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