ソノあじ

 妹がはじめて家に来た日のことを、私は今でも鮮明に覚えている。


 あの日の私は、一週間ぶりに母親に会えることよりも、妹という存在に会えることへの興奮のほうがずっと勝っていた。楽しみで前日はあまり眠ることが出来なくて、チャイムが鳴った時は誰よりも早く玄関に走った。

 まだ少し頬がふっくりした母親が、大事そうに赤ちゃんを抱えていた。赤ちゃんは小さくて、しわしわで、ふにゃふにゃしてなんだか赤くて、人間よりももっと弱い種類の生き物に見えた。

 母親が「桃花よ」と言った。


「ももちゃん、おねえちゃんだよ」


 私がそう言うと、桃花はどこを見ているのか分からない目で私を見つめた。

 小さな手にそっと触れると、人差し指をぎゅっと握り返してきた。

 私が守らなくちゃ。小学一年生だった私は、なまいきにもそんなことを考えていた。

 そして今年、高校二年生になった妹が、今まさに電話でとんでもことを訊いてきた。


「ねぇ、お姉ちゃん、精子の味って知っている?」


 眩暈がする。

 一瞬にして水分量がゼロになった口をぱくぱくさせながら、なにか言わなくてはと考える。落ち着こう。とりあえず落ち着こう。


「知っている?」


桃花が得意の甘えた声を出す。


「知っていると言えば、知っているような……」

「本当に? 良かった。恥ずかしくてお母さんには訊けないし、困っていたんだ。それでね……」

「ごめん、桃花! 明日早くて。この話はまた今度!」


 桃花がなにか言いかけたが、無理やり電話を切った。

 私は桃花のお願いにめっぽう弱い。しかし今回ばかりは彼女の期待に応えることはできないだろう。

 だって私は、処女なのだから。


 チェーン店の和風居酒屋は、月曜日ということもあって空いていた。昨晩妹の電話の後、ほとんど眠ることが出来なかった私は、とても飲み会で盛り上がる気分ではなかったので長テーブルの一番端に腰かけた。ジョッキ七つお待たせしましたー、店員の掛け声が頭に響く。

 桃花から、近いうちにまた電話がかかってくるだろう。気が重い。半分やけになった気持ちでジョッキビールを流し込んだ。冷たい液体が体に沁みる。


「先輩、乾杯まだですよ」

「あ、しまった」

「なにやってんですか」


 後輩の恋塚潤が人懐っこく笑った。

 中性的な顔立ちの恋塚は、男性的な威圧感がなくて話しやすい。女性が多い私の職場でも馴染んでいた。この業界では多いオネエではないかと、私は密かに思っている。

 私が働いている『プレシャス』は、ホテル内にある美容室だ。ホテルで挙式披露宴を行う花嫁や親族などのヘアメイクが主な仕事だ。

 五月のゴールデンウィークは結婚式が多く、繁忙期になる。今日は連休明けの『お疲れ様会』だった。翌日は挙式やリハーサルの予約もなく、チーフのみ出勤予定だった。

 みんなほっとした表情をしている。店長がテンションだけの挨拶をして、あちこちでグラスの当たる音がした。かんぱーい、おつかれさまー。


「おつかれさまです」


 恋塚が甘ったるそうなピンク色の液体が入った細長いグラスを、私のジョッキにこつんと当てた。恋塚は背が高くて手足がひょろひょろ長い。なんだか恋塚みたいなお酒だ。


「なに飲んでるの?」

「初恋の果実」

「……は?」


 これ、と言って恋塚がメニューを指差した。『初恋の果実』とは、どうやらカクテルの名前らしい。


「なに味?」

「桃、ですね」


 桃、と聞いてアルコールが体に回っていくのを感じた。お酒は弱い方ではないけれど、今日は嫌な酔い方をするかもしれない。

 妹と私は六歳離れている。大人になって冷静に考えてみて、年が離れていて本当に良かったと思う。もし二歳くらいしか違わなかったら、私は妹に対しての劣等感に耐えられなかったかもしれない。

 桃花は、淡いピンク色のミニ薔薇や、ふわふわのかすみ草、チューリップやガーベラ、おもいきり可愛くて華やかな花を集めて花束にしたような女の子だ。対して私は、花束にもならない地面に這いつくばって咲いている雑草のようなものだ。

 恋愛には向き、不向きがある。そのことに気付いたのはいつだっただろう。

 私は子供のころから可愛いものが好きだった。

 リボンやハートやフルーツの髪飾りを、お小遣いで買っては、眺めていた。付けることはなかった。それらが自分には、絶望的に似合わないことを知っていたから。

 あるとき家に帰ると、私のコレクションを広げて、でたらめなツインテールをした妹がいた。桃花は怒られると思ったのか、泣き出しそうな声でごめんなさい、と言った。私は衝撃を受けた。怒りではない、感動の方の衝撃。

 桃花のからまった髪を梳かして、綺麗に結びなおしてあげた。キャンディーの髪飾りは、桃花によく似合っていた。私は嬉しくなって、桃花でさまざまな髪型を試した。桃花も喜んでくれて、それがまた嬉しかった。

 恋愛には向き、不向きがある。

 恋愛に向くのは、キャンディーの髪飾りが似合う、桃花のような女の子なのだ。


「だからね、私はもう諦めてるの。恋とかね、男とかね、セックスとかね。だから精子の味とか言われてもね、困っちゃうわけ。でもね、お姉ちゃん処女なんて言えないでしょ、あこがれのさ、お姉ちゃんが処女なんて、処女なんて……」


 あれ、私はなにを言っているのだろう。


「それで、妹さんはなんで精子の味なんて知りたいの?」


 あれ、おかしいな。恋塚の口調が馴れ馴れしいな。


「わかんない。びっくりして電話切っちゃったから」

「ばかだなぁ」


 やっぱり、おかしい。そうか、これは夢なんだ。なんだ、夢ならなにを言ってもいいよね。


「ねぇ、恋塚、精子の味おしえてよ」


 あぁ、本当におしえてくれたらいいのにな。なんだか眠いな。ベッドは柔らかいし、もう眠ってもいいかな。あれ、私寝ているのに、眠るっておかしいな。今日はおかしいことだらけだな。


「小岩さんって、かわいいね」


 遠のく意識の片隅で、恋塚の声がした気がした。





 コーヒーの香ばしい香りがしたので、酔った勢いで実家に帰ったのだと思った。

 母は毎朝、コーヒーメーカーいっぱいにコーヒーを作る。母の作るやたらと苦いコーヒーは、母と父しか飲まない。

 いつも飲みきれずに半分以上捨ててしまうのは悪い癖だ。今日は休日だし、ゆっくり寝ていよう。意識を夢に戻そうとすると、聞きなれた後輩の声がした。


「小岩さん、朝ご飯食べますか?」


 反射的に飛び起きると、タオル生地のバスローブから片乳がぼろんとこぼれた。

 やってしまった、やってしまった、やってしまった!

 パニックになりながら乳をバスローブに押し込める。記憶の糸を引っ張り出そうとする。一次会では恋塚が隣だった。それは覚えている。二次会、行ったような気がする。三次会……だめだ、思い出せない。


「ねぇ、やったの? 私たちやった?」


 自分で聞いても泣き出しそうな声だった。


「精子の味、妹さんに教えてあげてくださいね」


 恋塚がにっこりとほほ笑む。


「ああああああ!」


 私は頭を抱えてうずくまった。なんてという失態。しかも……。


「よりによって恋塚なんかと! 初体験がこんな女みたいなやつなんて! ああああ!」

「おいこら、心の声漏れてんぞ」

「どうしよう、もうお嫁にいけない……」

「はいはい、そしたらもらってあげますから。とりあえず朝ご飯でも食べましょう」


 恋塚が「休憩いただきました」だとか「新郎様、ヘアセット終わりました」みたいないつものトーンでありえないことを言ったので、少し落ち着くことができた。

 もし真剣な顔で謝られたら、恥ずかしさに耐えきれずに今すぐに部屋を飛び出していたかもしれない。恋塚が冗談にしてくれたのだから、私の初体験は笑い話にしてしまえばいい。

 よくよく見渡してみると、ここは恋塚の部屋ではないようだった。部屋の広さに対して大きすぎるベッドと、二人掛けの黒いソファー、その前には二人分朝食が乗った円形のテーブル、家具はそれしかない。壁紙は水色のストライプで、ベッドの前にはこれまた大きなテレビが掛けられていた。


「ねぇ、ここってもしかして……」

「ラブホテルですよ」


 やっぱり。

 でも、思ったよりさっぱりしていて綺麗だな。


「ラブホテルって、もっとピンク色でベッドが回ったりするのかと思った」

「いつの時代の話ですか。なんか小岩さんて、イメージと違いますよね。もっとしっかりしている人かと思ってました」

「恋塚も違ったよ。なんかいじわるだよね」

「そうですか?」

「でも、逆に話しやすいよ。しっかりしていると思われると、しっかりしなくちゃって思うから。私、全然そんなことないのに」


 ふふっと含み笑いをして、恋塚がソファーに腰掛けた。


「お隣どうぞ」


 私はバスローブの紐をきつく縛りなおしながら、恋塚の左隣に腰掛けた。トレーには、小ぶりのクロワッサンとロールパン、ソーセージ、トマトとキャベツのサラダ、ブルーベリージャムがかかったヨーグルト、コーンスープ、コーヒーが乗っていた。「いただきます」と言って手を合わせる。ソファーで隣り合って食べることに違和感があってフォークを持つ手が緊張したけれど、ふわふわの卵を崩しているうちにすぐに慣れた。


「美味しいね」

「ここのモーニングは人気ですよ。洋食は早めに予約しないと売り切れます。和食も美味しいですけどね」 


 なるほど、ここは恋塚の行きつけのラブホテルのようだ。ラブホテルも行きつけと言うのだろうか。


「私、恋塚はホモかと思っていたよ」

「あぁ、よく言われます」

「やっぱり」

「まぁ、男もいけますけど」

「えっ!」

「まぁ、冗談ですけど」


 どこまでも余裕の恋塚に、私はなんだか腹が立ってきた。

 美味しい食事に罪はないので、その後は黙って食べることに専念した。クロワッサンはさくさくといい音がする。甘いバターの香りが苦すぎないコーヒーとよく合った。私は完食して「ごちそうさま」と言って手を合わせた。

 そういえばこの部屋には時計も窓もない。今、何時なのだろう。


「小岩さん、かなり酔っていましたけど、二日酔い大丈夫ですか」


 恋塚はそう言ってから空っぽのお皿を見て、まぁ今さらですけど、と付け足した。


「うん、体が大きいからかな、酔っても次の日は影響ないんだよね」


 時間を確認するために、テーブルの端に置かれたリモコンを手に取って、電源を入れた。直後、甲高い女性の声が部屋に響いた。


「あーん、もうだめぇーいくぅーー」


 仰向けに寝た男に人にまたがった細い女性が、揺れていた。腰を振るという表現では優しすぎる。それはもう上半身だけトランポリンに乗っているかのように、上下にゆっさゆっさと激しく揺れていた。重たそうなおっぱいもゆっさゆっさと揺れる。

 私は慌ててテレビを消した。


「なにこれ! 普通のテレビじゃない!」

「まぁ、ラブホテルですからね」

「びっくりした!」

「まぁ、普通のテレビも見られますよ」

「びっくりしたよ! びっくりした!」

「……ちょっと、いい加減にしてもらえませんかね」


 そう言って、恋塚がキスをした。

 突然のできごとに私の頭は完全にフリーズ状態だった。思考が停止しているうちに、座っていたはずの私の体はいつのまにかソファーに横になっていた。

 恋塚の熱い舌が入ってくる。口のなかが恋塚でいっぱいになる。はだけたバスローブのなかにするりと手が入ってきて、胸を揉む。

 一連の動作があまりにも自然だったので、それはとても自然なことに思えた。

 長い長いキスの後、恋塚がまっすぐ私を見て「いい?」と言った。優しいけれど、拒否することはゆるさない、そんな瞳だった。

 恋塚が男に見えた。

 私が頷くと、恋塚がお姫様抱っこをした。


「重いよ」

「大丈夫、鍛えてるから」


 そういえば、頬に当たる腕はとても固い。恋塚はそのまま私をベッドに運んでくれた。





「私たち、昨日はエッチしてなかったんだね」


 閉じていたものを開くということは、想像していた以上に大変な作業だった。ゆっくりと、私たちはひとつになった。


「小岩さんは、納得が早すぎるんです。大事なことはきちんと確認してください」

「そうかな」

「言っておきますけど、俺小岩さんのこと好きですからね」

「え! いつから?」

「ずっと前からですよ! それなのに酔っ払って精子の味が知りたいだとか、ラブホテルにいるのにホモだと思っていただとか、AV見て可愛い反応するし、本当に処女だったし……なに考えてるんですか? 俺のことどう思ってるんですか?」


 声を荒らげた恋塚を見るのは初めてのことだった。

 考えたこともなかった。私は恋塚のことをどう思っているのだろう……。


「まぁ、別にいいですけどね」


 そう言うと、いつもの飄々とした恋塚に戻ってしまった。なぜか少し残念な気分になっている自分が不思議だった。

 そのとき、聞きなれたメロディーが鳴った。床に転がったバッグから携帯電話を取り出す。


「もしもし、お姉ちゃん」


 桃花だった。


「この間の漫画の話だけど……」

「えっ? 漫画って?」

「もぅ、昨日電話したでしょ。『セイシノアジ』ってタイトルの漫画。学校で流行っているから読んでみたかったんだけど、買うのが恥ずかしいからお姉ちゃんに頼もうかなって思っていたの。でも今日友達が貸してくれたから、もう大丈夫!」

「へ? …………あ、ああ、そうなんだ。良かったね」

「ちょっとエッチなラブコメで面白いよー」

「わ、私も読んでみようかな」

「うん! ねぇねぇ、お姉ちゃん今度いつ帰るの?」

「あぁ、繁忙期も終わったし、今度の休みに帰るよ」

「本当? やったぁ」

「うん。じゃあ、また連絡する」

「はーい、ばいばーい」


 電話を切って茫然としていると、いつの間にか恋塚が隣に座っていた。


「妹さんですか?」

「……漫画だった」

「は?」

「『セイシノアジ』ってタイトルの漫画。買うのが恥ずかしいから私に頼みたかったんだって」

「漫画?」

「そう、漫画」


 同時に、私たちは噴き出した。「漫画かよ」「ばかだ」と言って、笑い合った。しばらく大笑いしたあと、「ちょっと落ち着こう」と言いながら恋塚が太ももに手を乗せた。細くて長い綺麗な手は、少し湿っていてじんわりと熱かった。忘れていた痛みが、太ももの奥でじんじんとぶり返した。

 キスするかもしれないと思った瞬間、唇が触れた。

 そういえば、私はまだ精子の味を知らない。


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