それでもきっと大丈夫。

真波のの

カレナイ花

 とにかくね、彼女はとても変わった女の子なんだ。


 彼女は日本語の使い方が少しおかしいんだ。

 いつも、ご飯を食べるときに「ありがとう」と言う。そして食べ終わった後には「ごめんなさい」と言う。雨は好きだけれど、濡れるのは大嫌いで、だから雨の日は一日中部屋のなかから出なかったりする。

 雲一つない空を、何か特別なものでもあるみたいに不思議そうな顔で見上げる。新しい靴を褒めると悲しそうな顔をする。

 とにかくね、彼女はそんな女の子なんだ。

 僕は彼女の声が大好きなんだ。高くて、よく響いて、まるで楽器みたいだっていつも思う。僕の知らない遠い外国で作られた神聖な楽器。それは演奏の仕方が分からないほど大きくて、それに派手な装飾がしてあって、真ん中には細い弦がたっぷり使われているんだ。

 まぁ、あくまでも僕のイメージだけど。

 彼女は原っぱに咲く小さくて白い花がお気に入りだった。

 ああ、その前に原っぱの説明をするよ。

 自転車で十分ほど走ったところにある空き地は、僕の大切な場所なんだ。有刺鉄線がはりめぐらされたフェンスの切れ目からなかに入ると、ぽっかりと広い空間が現れる。背の低い雑草が広がったその場所を僕は原っぱと呼んでいた。

 だってフェンスの上にかけられた“公園予定地”と書かれた看板は文字が読めないくらいに錆びついていて、この看板をかけた人もきっと、ここが公園になる予定だったことなんて忘れてしまっているに違いないからね。

 僕は原っぱに寝転がって、青臭くて湿っぽい草の匂いを肺いっぱいに感じるのが好きだった。

 彼女と出会ったのも、僕が草の匂いを楽しんでいるときだった。

 空を見上げていた僕のすぐ近くで、あの楽器みたいな声が聞こえたんだ。そのときの僕は、ぼんやり目で追っていた猫の形をした雲が歪んでしまった直後で、少し残念な気分だったことを覚えている。


「つぶさないで」


 そう言った彼女は、悲しそうな目で僕を見下ろした。僕だけの原っぱに女の子がいるという驚きと、彼女が発した言葉の意味が分からずに戸惑った。


「つぶさないで」


 彼女が同じ言葉を繰り返す。


「……つぶさないで?」


 起き上がりながらようやく出した僕の声はひどく間抜けに響いて、なんだか恥ずかしくなった。


「あっ! 駄目!」


 突然叫んだ彼女が僕の両肩を掴む。長くて細い髪が頬に触れると、蜂蜜みたいな甘い良い匂いがして動けなくなった。

 優しく触れた彼女の指先から、それでも必死さが嫌というほど伝わってきて、何か取り返しのつかない大罪を犯したんじゃないかと怖くなった。 


「ハナ」


 彼女の目線の先、僕のお尻の真横に白い小さな花があった。

 ハナ――。

 花か。

 僕は彼女の言いたいことをようやく理解して、白い花をつぶさないようにゆっくりと立ち上がった。


「ごめん」


 僕が謝ると、彼女が首を振った。


「好きなの」

「えっ? すっ……好き?」


 彼女が白い花を指差す。


「あぁ、花?」

「うん。好きなの」


 そう言ってはじめて笑った彼女に、何て返事をしたのか覚えていない。彼女が言っているのは白い花のことだと分かっていたのに、そのときの僕はどうしようもないくらいにドキドキしていたんだ。

 その日から彼女の隣に座って、彼女の声を聞くことが僕の日課になった。彼女はいつも白い花に向かっておしゃべりをするんだ。

 彼女の話はどれも不思議なものばかりだった。変なことを言っている訳じゃない。特別難しい言葉を使っている訳でもない。それなのに溢れた言葉は流れて、僕の頭までは届かない。

 上手くは言えないけれど、母さんに連れて行かれた教会を思い出すんだ。母さんの膝の上で牧師さんの話を聞いているような、暖かい気分になる。僕は宗教になんて興味はないし、そのとき聞いた聖書の話もとっくに忘れてしまったのに。

 彼女の髪は、春の風に乗っていつも柔らかく揺れていた。時々ふわりと甘い香りが顔の前を通り過ぎると、彼女とはじめて会ったときのことを思い出す。

 頭のなかでは、彼女の指が両肩を離すことはない。僕が彼女を引きよせてきつく抱きしめると、世界が彼女の香りでいっぱいになる。腕のなかの彼女は、アーモンド型の大きな瞳をこれでもかってくらいに見開いて僕を見つめるんだ。

 下唇だけぽってり厚い小さな唇も、華奢で白い体も、彼女が持つ広い世界も、全て僕のものにしてみたいと思っていた。

 僕は本当に、ただ単純に彼女のことを好きになってしまったのだけれど、でも、そんなこと言える訳がなかった。僕が彼女に何かしてしまったら、側にいられなくなるような気がした。楽しそうにおしゃべりする彼女の笑顔を奪ってしまいそうな気がして怖かったんだ。

 だけど僕が抱えている問題なんてたいしたものじゃない。それよりももっと大きな不安要素を僕は抱えていた。

 白い花は小さな体に似合わずとても丈夫で、長い間美しい姿を保っていた。けれど、どんなに丈夫な花だって、所詮は花だ。いつか枯れてしまうだろう。白い花が枯れてしまったら、彼女はきっと悲しむ。僕は彼女が悲しむ姿なんて見たくなかった。

 どうしても、見たくなかったんだ。


 最近の僕は、朝早くから原っぱに行くようにしていた。

 白い花が枯れていないか確認するためだ。

 朝、白い花が枯れていたらどうしようと不安になりながら家を出る。そして白い花が枯れていないのを確認すると、ほっとして原っぱの上で眠ってしまう。早起きは苦手なんだ。

 そしてお昼前に来た彼女に起こされるのだけれど、彼女が呼ぶ僕の名前を聞きながら目覚めるのは、とても悪くない気分なんだ。

 今日も僕は、朝早くに原っぱに着いた。白い花はまだ枯れていない。良かった。つぶしてしまわないように、少し離れたところに僕は寝そべった。

 眠気が僕の脳内を引っ張って、乱暴に夢の世界に連れて行こうとする。夢と現実の挟間は、ふわふわして気持ちが良い。

 そのまま身を預けてしまおうとした瞬間、耳に入った何か不快な音によって僕は現実に引き止められてしまった。

 視界の先がぼんやりと滲む。ごしごしと目を擦り眠気を追い出すと、見慣れた原っぱを確認した。

 そこにいたのは、大きな犬だった。茶色い毛は、逆立ったり絡まったりしていて、見るからに硬そうだった。首輪もない。きっと野良犬だ。

 犬は低い唸り声をあげながら、僕をじっと睨んでいた。僕が聞いた不快な音が、この野良犬の唸り声だったことに気付く。開いた口からは、ぬらぬらと光った朱色の歯茎が見えた。

 ふと、僕は家の前で死んでいた野良猫のことを思い出す。

 にゃんたろうは、お腹の下だけ白い、黄土色の毛をした野良猫だった。一階の僕の部屋は大きな窓が付いていて、開けると目の前に物干竿があるんだ。僕は母さんが干した洗濯物の石鹸の香りが大好きで、よく窓を開けっ放しにしていた。

 ある日、猫の鳴き声で外を見ると、二匹の野良猫が庭にいた。にゃんたろうがはじめて来たとき、母猫と一緒だったんだ。母猫はすぐに懐いたけど、にゃんたろうはちっとも僕に懐かなかった。つんと澄まして、とても感じが悪かった。やがて母猫はどこかに行ってしまって、にゃんたろうは一匹で僕の部屋に来るようになった。

 いつからにゃんたろうが僕に甘えてくるようになったのか、今ではもう覚えていない。あるとき、僕は開けた窓を閉め忘れたまま出かけてしまったことがあった。遊び疲れて帰った僕は、部屋のドアを開けて驚いた。布団の上に置いたバッグのなかで、にゃんたろうが丸まっていたんだ。にゃんたろうを名前を呼ぶと、甘えた声で返事をして「どこに行ってたの?」って顔で僕を見上げた。

 それから僕は、お気に入りだったバッグを窓の外に置いて、にゃんたろう専用の寝床にしてあげた。にゃんたろうはそのバッグのなかで死んだ。僕がにゃんたろうの死骸を見つけたとき、見て見ぬふりをしてくれていた母親が、野犬にやられたんだろうって言った。にゃんたろうの全部の足はピンと伸びて、飛び出した腸は朱色に光って、魂が抜けた体はとても硬かった――。

 思い出に浸っていた僕に向かって、野良犬が激しく鳴いた。大きく開かれた口から、涎がだらしなく地面へと落ちる。

 恐い。

 激しい恐怖が僕を襲う。

 膝が震えて、声を出して叫びたくなった。逃げ出したい。ここから、一刻も早く遠ざかりたい。僕の足が出口のほうへ、じわりと向きを変える。

 そのとき、生ぬるい春風が僕らの間を通り抜けた。微かな蜂蜜の香りが鼻をくすぐる。 

 彼女が泣いている。

 そう、思った。

 今、ここに彼女はいない。分かっている。でも、そんなこと関係なかった。彼女が泣いているんだ。僕と彼女の原っぱを、僕が守らなくちゃ。僕が白い花を守るんだ。

 野良犬なんかに荒らされてたまるもんか。

 足の向きを元に戻すと、戦闘体制に入った。膝の震えも止まっている。大丈夫。

 視線を外せないまま、僕らはしばらくの間睨みあった。襲いかかってきたら殴るつもりで、拳をきつく握りしめた。自分の呼吸音がだんだん大きくなって、周囲の音が消えていく。

 時間が止まる。

 ふと、野良犬の唸り声が止んでいることに僕は気が付いた。その瞬間、野良犬の視線が僕から逸れた。そしてそのままくるりと体を回転させると、どこかに行ってしまった。

 何が起こったのか理解が出来ずに、僕はしばらくの間立ちつくした。

 ……守った?

 そうだ、守ったんだ。僕と彼女の原っぱを、僕が守ったんだ。


「やっ……た。やった。やった、やった!」


 同じ言葉を繰り返しながら、僕は飛び上って喜んだ。本当に、最高の気分だ。

 僕は原っぱの上に寝転ぶ。

 空は高くて青かった。太陽はまだ昇りたりなそうに身をよじる。彼女が来るまで、まだ時間がありそうだ。だけど僕の興奮は覚めない。とてもじゃないけど、眠れそうになかった。

 彼女が来たら、このことを話そう。彼女はきっと喜んでくれる。もしかしたら僕のことを好きになってくれるかもしれない。思わず顔がにやけて恥ずかしくなった。

 今日の空に浮かぶのは、細い雲ばかりだ。無理やり何かに例えてみようと頑張っても、何も浮かんでこない。せいぜい蛇ってところ。僕は少し残念な気持ちになる。猫なんてどこにもいない。

 ふと、僕は大切なことを忘れているのに気付いて起き上がった。辺りを見回す。

 ない。

 ない。

 ない。

 白い花は、原っぱのどこにもなかった。

 さっきまでの楽しい気分はすっかりどこかにいってしまって、野良犬と戦ったときとは別の恐怖が僕を包んだ。背中が冷たい汗で滲む。体は変な虫が入ったようにぞわぞわする。

 だって、僕は知っていたんだ。

 白い花が、勝手にどこかに行くはずがない。まして原っぱの真ん中で、ぴょこんと咲いていた白い花を僕が見逃す筈もない。可能性は一つしかないんだ。

 恐る恐る、僕はお尻を横にずらす。

 そこには、ぺちゃんこにつぶれた白い花があった。


 何度カレンダーを見て数えてみても、あの日からまだ三日しか経っていなかった。

 とても苦しくて、とても長い三日間だった。理由は何にせよ、僕が彼女の白い花を殺してしまった。罪悪感で胸が押しつぶされそうだった。

 けれど白い花がなくなっても、彼女が悲しむことはなかった。だって、彼女は大好きな白い花が、もうこの世に存在しないことをまだ知らないのだから――。

 あの日、僕は彼女を悲しませない方法を必死で考えた。そして急いで家に帰ると、画用紙とハサミとテープを取りに帰った。彼女が原っぱに来てしまうんじゃないかとはらはらして、画用紙を丸める手はもたついた。

 そう、僕はニセモノの花を作ることを思いついたんだ。出来上がったニセモノの花はひどく不格好だったけれど、遠くから見れば何とか花に見えた。

 白い花があった場所にニセモノの花を置いた直後、彼女が原っぱに入るのが見えた。本当に危ないところだった。

 僕は彼女にかけよると、こう言った。


「僕はね、今さっき白い花とおしゃべりしたんだ。そしたらね、君に伝言を頼まれたんだ。どうやら白い花は君に困っているらしいんだよ。と言っても、もちろん君のことが嫌いな訳じゃない。白い花は君のことが大好きだよ。君と同じくらいにね。けれど、君があんまり近くでしゃべるもんだから、いつも君の影に入ってしまう。白い花は影のなかにいると太陽で食事が出来ない。それに、猫の形をした雲だって探せない。それで困っているんだ。」


 彼女のアーモンド型の瞳が揺れた。


「だから、少し離れておしゃべりして欲しいんだって。大丈夫。離れていても、白い花とはおしゃべり出来るからね」


 分かった、と言って彼女が笑った。その笑顔が無邪気すぎて、僕は上手に笑えなかった。

 あの日から、彼女は原っぱの隅でおしゃべりするようになった。まだ、ニセモノの花には気付いていない。しかしそれも時間の問題だ。大好きな白い花がニセモノだと知ったら、彼女はもう原っぱには来ないだろう。そして僕のことを嫌いになるに違いない。きっと、もう隣にいることさえ出来なくなる。

 僕は苦しかった。


 一週間経っても、彼女がニセモノの花に気付く様子はなかった。昨日も原っぱの隅で、彼女はニセモノの花に向って楽しそうにおしゃべりをしていた。

 僕はこのまま、彼女がニセモノの花に気付くことはないんじゃないかと思いはじめていた。そして、彼女がニセモノの花に気付かないうちに、白い花への興味がなくなれば良いと思っていた。

 目の前から白い花がなくなってみると、まるで彼女が僕に向っておしゃべりしているように感じられた。それは何よりも嬉しいことだった。

 僕は、白い花が枯れることを恐れていた頃の自分を思い返す。僕は何を恐れていたんだろう? 

 何も恐いことなんてなかったんだ。白い花がいなくなって彼女が悲しんだなら、僕が慰めてあげればいいんだ。そうすれば、彼女を僕だけのものすることが出来る。それはきっと、遠い未来の話じゃない。白い花が枯れたと嘘を付いて、ニセモノの花を片づければいい。とても簡単な話だ。

 今日は朝から雨が降っていて、僕は退屈していた。彼女は雨が降っている日は外に出ない。だから原っぱにも来ない。

 僕は画用紙に絵を描いていた。空と、原っぱと、彼女を色鉛筆で重ねていく。鉛筆は使わない。あの線が残ると、僕はがっかりするんだ。無心になって画用紙を埋めていく。白い花を彼女の隣に描こうと思っていたのに、真剣になり過ぎてスペースを空けるのを忘れてしまった。白い花が咲いていない原っぱはつるんとしていて、なんだか少し寂しくなった。

 完成した絵を持ち上げようとした瞬間、テーブルの端に置いていたグラスを僕は倒してしまった。画用紙がオレンジジュース色に染まって、滲む。

 そうだ。こんな簡単なことにどうして僕は気づかなかったのだろう。

ニセモノの花は紙でできている。雨に濡れたら壊れてしまう。

 僕は原っぱへと向かった。


 原っぱの真ん中に、ピンク色をした小さな傘が咲いていた。僕はそれが彼女のものだということにすぐに気が付いた。

 どうして? 今日は雨なのに。

 どうして? 彼女が原っぱの真ん中に来ることはない筈はなのに。

 僕は一歩一歩、ゆっくりと彼女に近づく。忘れていた胸の痛みが、その何倍にもなって僕に返ってきた。上手く、呼吸が、出来ない。

 ピンク色の傘は微かに揺れていた。後ろに立った僕には、それが彼女が泣いているせいだと確かに分かった。

 彼女が振り返る。

 小さな手のなかには、ぐしゃぐしゃに潰れたニセモノの花の残骸が握られていた。強く、強く握られていた。

 何か言わなくちゃ。彼女にあやまらなくちゃ。

 気持ちばかりが焦って言葉にならない。

 彼女の顔を見ることが出来ない。


「……った」


 彼女が何か言った。思わず顔を上げて聞き返す。


「しょうちゃんが作ったお花が死んじゃった」


 ぼろぼろと涙を落しながら彼女が言った。

 僕は全てを理解する。彼女は知っていたんだ。

 彼女が大好きだった白い花が、もうこの世にはないことも。僕の嘘も。彼女は全部知っていたんだ。

 知っていて、毎日原っぱに来ておしゃべりしていたんだ。僕の隣で、あの歌うような声でおしゃべりしていたんだ――。


 次の日、僕は彼女にプレゼントをした。

 新しく作ったニセモノの花だ。それは相変わらず不格好だったけれど、前のよりは少しはマシに出来たと思う。

 彼女の家のインターホンを鳴らし彼女の名前を告げると、感じの良い女の人が、ちょっと待ってねと言った。

 驚いた顔で出てきた彼女に、僕はニセモノの花を手渡した。


「この花はね、太陽のご飯も、猫の形をした雲も必要ないんだ。だから、君の部屋に置いて欲しい。だって、この花は……き、君のことが大好きだから」


 彼女は、とても丁寧な手つきでニセモノの花を受け取った。そして今まで僕が見たどんな彼女よりも、愛おしくなる表情をした。


「私も大好き」  



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